画家と天使の溺愛生活

秋草

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出逢いの章

天使に出逢った

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 それは現か幻か。七色の光が美しく輝く、妖精の国のごとき世界。一度引き込まれれば、二度と帰って来られそうにない。
 そう思わせるもの――それが、彼の世界。




「真静ー!」
 昼下がりの昇降口。いざ帰らんと下駄箱の扉に手をかけたところで、真静(ましず)は聞き慣れた声に呼ばれ、廊下の方に目をやった。
 ドタドタとけたたましい足音を立てて下駄箱の前に現れたのは、真静の部活仲間であり幼馴染みの女子だ。
 灯崎彩愛(ひざきあやめ)。高校一年生ながら、ココア色の長髪に両耳ピアスと派手な見た目で、部活の功績がなければお咎めを受けること間違いない。
 彩愛は真静の腕に飛び付き、非難たっぷりの眼差しを友人に向けた。
「帰るなんてひっどーい。今日はあたしの絵を見てくれるんじゃなかったの?」
 真静は約束を言われて思い出したが、とても真実を言える状況ではない。そこで、軽く頭を働かせて凌ぐことにした。
「ええ、そのつもりだったのだけど、来週には美術展でしょう? そのときに運搬を手伝いに行くから、来週まで楽しみにしていようかと思って」
「えっ、手伝ってくれるの? やった!」
 じゃあ、来週絶対に来てね!
 そう言ってバタバタと走り去った彩愛を見送り、真静は今度こそ靴を手にした。
 急がなくては。閉館まで時間がない。


 制服のまま都心のデパートに駆け込んだ真静は、最上階の展示場で瞳を宝石の如く輝かせ佇んでいた。
 今日、彩愛との約束を忘れてしまっていたのは、実はこのためである。
 新進気鋭の若手画家、暮坂颯人(くれさかはやと)の特別小展示会。今日開催であることが先日発表され、真静ははしゃぎすぎて彩愛との約束をすっかり失念した。
「颯人さんの展示会だもの。彩愛も許してくれるわ、きっと」
 彩愛は真静が、彼に様付けをするほどの無類の暮坂オタクだとよく承知している。毎年真静の誕生日やクリスマスに、暮坂作品のグッズをくれるほどだ。
 一つ一つの作品をじっくり観ていた真静だったが、ふと一枚の絵の前で足を止めた。
 七色の光が美しく入り乱れる海中の幻想。彼らしい作品だ。しかし、真静の心は素直に惹き付けられなかった。何かが引っ掛かる。
 はて、としばらく足を止めていると、いつの間にか隣に人がいた。
「何か気になる?」
 唐突に話し掛けられ、真静は相手の顔を見上げた。
 整った顔立ちに、少しくせのある焦げ茶色の髪。背も真静より頭一つほど高く、爽やかな微笑みとあいまって大人っぽい印象を受ける。明るいグレーのスーツを着ているため、どこぞの若社長に思えた。
 青年は真静の前にある絵を一瞥し、真静を見つめた。
「この絵をそんなに気に入ったの?」
「い、いいえ。そうではありません。ただ何となく……」
 言いかけて口をつぐんだ真静に、青年は視線で先を促した。
 少し困惑した真静だったが、最終的には青年の粘りに負けてぼそりと述べた。
「ただ何となく、違和感があるので……」
「違和感?」
 聞き返した青年の目が、心なしか嬉しそうに輝く。
「どんな違和感?」
「それは、その……」
 言いたくないが、彼の視線から逃げ切れる気はしない。
 真静は観念し、絵に目を移した。
「……この絵、惹かれないんです。颯人さんの絵はいつも扉が開かれていて、向こうの世界を覗かせてくれます。そしていつのまにか扉の内側に引き込まれている……それが、颯人さんの絵。でも、これは扉の向こうが見えない気がするんです」
 思ったままを言いきった後で、真静は後悔した。
 颯人様の絵にケチを付けるだなんて、私ったら何様のつもりかしら。
 その場に留まるのも気が引けて、真静は「私はこれで」と立ち去ろうとした。が、満足げな青年に腕を掴まれ、去るに去れなくなってしまう。
「まだ観ていない絵、あるでしょ? いいの?」
「そっそれは、そうですが」
 気まずすぎていられない。
 真静の反応に、青年は少しだけ眉を下げ、すぐに表情を明るくした。
「それじゃ、俺は用事があるから失礼するよ」
「えっ、あ……」
 真静の言葉を待たずして立ち去った彼は、真静の胸の内を察したのだろう。
 彼の好意に申し訳なさを覚えるものの、結局絵の魅力には勝てず、真静は観賞を続行した。


 それからどれくらい経っただろう。その日の最高作を前に時間を忘れていた真静は、肩を叩かれて現実に引き戻された。
 後ろにいたのは、先程の青年だ。いつの間にか他の客がいなくなっている。というより、この会場外にも人の気配があまりない。
「随分長くいたんだね」
「長く……」
 青年に言われて腕に目を落とし、徐々に目を丸くする。
 二十時十分。
 もう閉店時間を十分過ぎているではないか。
「あ、す、すみません! すぐ帰ります!」
「もう表は閉まってると思うけど。多分関係者専用口しか開いていないよ」
 つまり、一人では帰れない。
 デパートの店員に頼む他なしか、と思ったところで、青年が真静の顔を覗き込んだ。
「俺と出る?」
「えっ、よろしいのですか?」
 有り難い申し出に真静が目を丸くすれば、彼は上機嫌に頷いた。真静と帰りたがっていたかのような反応だ。
 そのタイミングで警備員に声をかけられ、二人は慌てて会場を出た。


「それじゃあ、気を付けて帰ってね」
 真静を外に連れ出した青年はその場で真静を見送った。
 真静は深々と礼をしてから踵を返し、スタスタと駅まで歩みを進めた。駅とデパートが近くて助かったと思いながら、ふと気になって振り返る。
 専用口には既に彼の姿はない。
 真静と大して年齢が変わらぬようにも見える青年だったが、あの専用口を使えたということはここの関係者だ。
 実はかなり歳上なのかも。
 そう思うと納得できて、彼女は再び駅を目指した。


 彼女を見送り微かな鼻唄と共にデパート内に戻ると、暮坂颯人の展示会場で若い男が顔を真っ青にしてうろうろしていた。
 いかにも生真面目な雰囲気の、細面の若者。きっちり整えた黒髪に無地の黒スーツという出で立ちは、どう見ても就活中の大学生だ。おかげで、実年齢より高めに見られがちの青年の方がマネージャーだと思われることが多い。
「赤浜さん」
 青年の呼び掛けに若者が飛び上がり、鬼の形相で振り向いた。
「どこに行っていたんだ、颯人! このあと打ち合わせがあるって話してあったよな?」
「そんな話もあったかもね」
 悪びれた様子もなく言ってのける青年に、胸ぐらを掴まんとする勢いで歩み寄った若者だったが、結局は頭を抱えて嘆くに留まった。
「こんな男がかの注目画家とは、マネージャーながら泣けてくる……」
 嘆くマネージャーを優しく見守る青年。今をときめく新進気鋭の画家、暮坂颯人とは、何を隠そう彼のことだ。あらゆる画材を使いこなし、観る者を自分の世界に引き込む天才である。
「お前が紳士で真面目な人格者とは、世もよく言ったものだよなあ」
 一度も世間に姿を晒したことのない彼には、実に理想的な噂が多い。
 女子を一目で虜にする貴公子。貧しい中で才能を磨いている努力家。誰もが崇め奉る人格者……。
「顔についての噂以外は何一つ合っていないじゃないか。お前が人格者だというなら俺だってなあ」
 文句を連ねる赤浜を爽やかな笑みと共にスルーし、画家は一枚の絵に歩み寄った。
 先程別れた彼女が、立ち止まって見ていた絵だ。
 彼に無視された赤浜は仏頂面で隣に立ち、呆れたように口を開いた。
「これか。お前は、こんなのを飾ってどうしたかったんだ?」
「こんなのなんて言わないであげてよ。俺が頼んで描いてもらったんだから」
「なぜ頼んだ? 兄さんの絵をお客様に見せたかったわけではないだろう?」
「もちろん違うよ」
 きっぱりと否定してから、言葉を選ぶためか、青年は一呼吸置いた。
「兄さんは俺の一番のファンだから、俺の絵をよく知ってる。だからこそ、こんなに俺の絵にそっくりなものを描けるのだと思う」
 彼の兄は、昔から模写が巧かった。今回の絵は、そんな兄の才能を見込んだ彼がデッサンのみを提供して兄に描かせたものだ。
「デッサンしか俺が関わっていないものを、そうと見破れる人はいるのかな、っていう試みだった。……俺の目から見ても良い出来だったから、まさか違和感を覚えられる人がいるとは思わなかったけどね」
 そう思っていたが、展示会初日にして彼女は現れた。

 歪みの一切ない黒檀の髪に、白く透き通った肌。そして、宝石のような輝きを放つ琥珀色の瞳は、暮坂颯人の絵を順々に見つめていった。
 青年が彼女の美しさに心奪われそうになったところで、彼女の目に戸惑いの色が浮かんだ。
 彼女の視線の先にあったのは、暮坂颯人作ではない絵だ。
 彼は半ば無意識に彼女に近づき、声をかけた――。

「本当に気がつく子がいて、驚いた」
 愉しげに顔を綻ばせる彼に、マネージャーは合点がいった顔で頷いた。
「デパートの閉店後までここにいたのは、その子か。さっき警備員さんに怪訝な顔で訊かれたよ。『関係者らしい青年に、高校生らしき女の子には存分に絵を見せてやってくれと言われたが、少女と青年が何者か知っているか』とな。ったく、部外者をこんな時間まで残すなど、何を考えているんだ」
 もうやるなよ。そう釘を刺した赤浜は、スマホが鳴動しているのに気がついて離れていった。大方、このあとの会議に関する連絡だろう。
 声のトーンを変えて電話に応じるマネージャーをそれとなく見送り、彼は別の絵の前に立った。
 あの少女が最後に観ていた、今回の目玉作品だ。
 イギリス庭園風の空間に、何匹もの蝶が飛んでいる絵。それはただの風景画だが、恰も妖精が飛び交っているかのような神秘性がある。彼の腰上から頭ほどの大きさのこの絵を描き上げた際、兄は感動に涙ぐんでいた。もっとも、そこそこのものを描いたときには、いつもそうなる兄だが。
 あの少女は、この絵の前に三十分以上はいたらしい。彼女にそこまで気に入ってもらえたなら、それなりの時間をかけた甲斐があったというものだ。
「……また、会えるといいな」
 次出会うことがあれば、そのときには正体を明かそうか。彼女は暮坂颯人のファンだろうから、さぞ驚くに違いない。
 彼女の反応を想像するだけで胸が躍り、彼は目を細めた。
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