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第2章 身の程知らず
5.バッドエンド
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「とりあえず難関突破か」
桔平が揶揄して紫己に声をかける。
「先送りしただけだろ」
対して紫己は至って冷静に訂正した。
「あの、岡田さん……愛結さんは大丈夫ですか」
ためらいがちに訊ねると、桔平は心外だといった面持ちで朱実を見下ろした。
「おれは愛結の相手をしていたほうがいい?」
「そうじゃないんです!」
朱実はとっさに否定した。
「あ、いえ……」
自分が必要以上に勢いこんでいたと気づいて、朱実は打ち消そうとした。
「はは。それが朱実ちゃんの本心として取っておくよ。好きって云われなくてもね」
静華の持論を持ちだして、桔平は紫己たちが聞いているにもかかわらずからかう。
朱実は自分が赤くなっているのか蒼くなっているのかわからない。
「困らせるつもりじゃないよ。飲み物を持ってくる。愛結と同じのでいい? あれ、ミントとライムのフレーバーでけっこう美味しいよ」
「それ、お願いします」
つい今し方の会話が紛れればいいと思いながら、朱実はすぐさまうなずいた。
「美奈ちゃんは?」
「同じので」
「オーケー。ちょっと待ってて」
桔平は独りで部屋の端にあるカウンターのほうに向かった。
美奈が紫己を覗きこむようにして見上げた。
「高階さんが避ける人ってどんな人だろうって思ってたんだけど、まさか川合先生だなんて思ってもなかった」
「避けてない」
紫己は苦笑いしながら美奈の言葉を訂正した。
「じゃあ……野放しって本当に野放しにされてるってことですか」
美奈はいくらかがっかりした様子で問いかけた。
「いずれ戻るかって? なんとも云えないな」
真剣すぎず、冗談めかすこともなく、紫己は曖昧に濁した。
その答えからすると、最初から避けていたわけではなく、それなりの過程があったうえで別れたがっているように受けとれる。
端正な顔から答えが得られるわけでもないのに見つめていると、ふいに紫己の目が朱実を捕らえた。慌てふためくも、すぐには目を逸らすことがかなわない。
それを知ってか知らずか、紫己はふっとした笑みを漏らして、自ら視線を逸らした。
パーティははじめのうちは桔平と紫己たちといて壁の花になることなくすんでいたが、やがて紫己が仕事関係の人に声をかけられ、次には桔平も引っ張りだされてしまった。残された者同士、美奈としばらくいたが、共通の話題がなく美奈は愛結のところに行くといって、結果、朱実は独りになった。
このクリスマスパーティはリブネクストの一役員の主催で、日にちは前後することもあるらしいが毎年の行事だという。若手たちが仕事上の交流を深める場としても役に立っているようで、紫己も付き合いがどうこう云っていた。
確かに紫己たちにとっては有意義だろうが、朱実にとっては、その点、なんの利にもならない。
しばらくだれかを待っている振りをして独りでいたが、手持ち無沙汰でどうしようもない。帰るにも黙ってそうするには失礼だ。
朱実はため息をついた。とりあえず、会場を出て少しでも澄んだ空気が吸いたい。
パウダールームのほかに休憩できるようなところはないかと探した。見つからないままうろうろしていると、奥の非常階段の入り口辺りで声がしていることに気づいた。
なんだろう、云い争っているように聞こえ、無意識で朱実は耳をすまし、足音を立てないようにして近づいた。
『……のこと、いつまでお遊びする気?』
『おれが飽きるまでだ』
『今日のパーティはともかく、このまえみたいに仲間内のパーティに連れてくるなんていままでなかった!』
その男女二つの声は、間違いなく桔平と愛結だった。しかも、話題になってるのは朱実のことだ。
盗み聞きをしてもろくなことにはならない。よくそう聞くが、こと自分に関するのなら聞くなというほうが無理だ。それに、交わされる言葉のなかにあるキーワードは穏やかじゃなかった。
『云っただろ、彼女はふたりきりじゃ乗ってこなかった』
『だったら、そこでやめればいいんじゃないの?』
『なんで? 明らかに脈ありだったんだ。手懐けるのもおもしろいじゃないか』
『わたしがいるのに、どうしてほかの女が必要なのか、全然わかんないんだけど』
『いまになってなんだ。それを承知でくっついてきてるんだろ』
『だから! いままでと違うから不安になるの! わからない?』
『愛結、おれはおまえのところに必ず帰る。そうやってきただろ』
『でも……』
『うるさい』
その云い方は荒々しいものではなかったが、壁にぶつかるような音がして、愛結の小さな悲鳴も漏れてくる。
沈黙のあと、呻き声と、そして吸着したような音がした。
『本命はいつだっておまえだけだって云ってるだろ。たまには遊ばせてくれ。そうやって、おまえが一番だって再確認してる』
『ほんとに?』
『ああ。あの子が住んでるとこ、どんなとこだと思う?』
『もしかして、うちよりすごいの?』
桔平の可笑しそうな笑い声が短く届いた。
『正反対の意味でそうだな。後をつけてみたら、昭和もずっとまえに建ったようなぼろっちいアパートだった。まかり間違っても本気にはならない。おれにふさわしいのは、愛結みたいな苦労を知らないお嬢さんだ。そうだろ? あの子に夢見させたところで、感謝されても罰が当たることはないさ』
朱実は信じられない気持ちでそれらを聞いていた。
桔平と愛結の会話なら、『あの子』はイコール朱実だ。
罰が当たることはない。確かに桔平にとってはそうだ。罰が当たるのは朱実だ。身の丈に合っていないとわかっていながら、見てはいけない夢を見た。
朱実はあとずさる。足音を立てないように――そんな理性は働いていたけれど、周囲のことまでは気がまわらなかった。
背中からだれかにぶつかる。明らかに人の躰だ。昂った感情がその衝撃に触発された。
悲鳴が迸(ほとばし)る寸前、背後からまわってきた手のひらが朱実の口をふさいだ。
「おれだ、紫己だ」
耳もとにくちびるがつけられたかと思うと、口をふさいだ手の持ち主はそんなことを囁いた。吐息が耳から体内へと浸透して、驚怖という感覚のなかに、すべてゆだねてしまいそうな心もとないふるえが加わった。
躰が脱力して脚が頼りなく揺らぐ。いつにない感覚に悲鳴は消化され、手のひらが離れていっても喘ぐような呼吸音しか出なかった。
『パパにいつ云ってくれるの?』
桔平と愛結の会話はまだ続いている。
『おれはまだ、いまのスタンスを変える気はない』
『だから、それでもいいの。本気にならないならかまわない。ちゃんと戻ってきてくれるって保証をくれてもいいでしょ?』
『それが結婚か?』
可笑しそうに含み笑った声が聞こえる。
『パパは喜んでくれると思う』
『ていうか、おれの母親を奪っといて、おれと愛結の結婚に反対できるわけないだろう』
『だから! いいでしょ?』
『ああ』
それに応えて、うれしい、と云いかけた愛結のはしゃいだ言葉は途中でぷつんと切れた。かわりに呻き声が聞こえる。何をしているのかは想像するにたやすい。
誑かされているのに本気だと信じて疑うこともなく、簡単に落ちた自分はまるきりばかで恥ずかしい。けれど、恥ずかしいという感情さえ、朱実には身の程知らずのことかもしれない。
そうして再び立ち去ろうとしたとき、朱実は背中が温かいことに気づいた。びくともしないような硬さとはそぐわず、その躰には温かみがあり、いつの間にか一体化したように密着していた。
離れようとしたその刹那、それを助けるように背中を押された。強くではなかったのに朱実の意思と外からの作用は一致して勢い余り、ブレーキはきかなかった。カーペットを敷いた廊下から階段室に飛びだしたとたん、ヒールの音が目立つ。
目の隅でキスシーンを捉え、ほぼ同時に弾かれたように離れるふたりがいた。
消え入りたいというのはこういうときのためにある言葉だ。きまり悪いことこの上なく、朱実は首をすくめた。
「朱実……ちゃん?」
「……ご、ごめんなさい」
理不尽なことをされたのは朱実のほうなのに、なぜここでも謝ってしまうのか、不自然であり愚かだと自分でも思う。
ないと思っていたプライドが頭をもたげる。これ以上惨めになることはない、とそう感じるほど朱実は心底が締めつけられて喘ぐ。
そんな朱実とは裏腹に、吹きだすような笑い声が限られたエリアのなかで必要以上に反響した。
「なんだか、不憫、ていう言葉が似合う人ね、朱実さんて」
「愛結」
たしなめた桔平のひと言は、一時間まえだったらかばってもらったように感じただろうが、いまやなんにもならない。
「朱実ちゃん、どうしたんだ。迷った? 帰る?」
桔平はキスシーンを見られていないと思っているのか、見られてもごまかせると思っているのか、あるいは愛結のようにほかの女性がいても朱実が許容すると思っているのか、いずれにしろどれもすべてが朱実を見下げた結果の判断だ。
自分に価値がないのはわかっている。わかっているはずがそう自分に云い聞かせなければならない。
すぐには返事ができなくて、間を空け、やっと朱実はうなずいた。
「送っていくよ」
「桔平」
「桔平、おまえは愛結ちゃんがいるだろ。送っていく役目が必要なら、おれのほうが丸くおさまる」
愛結は咎めた声音で桔平を呼び、その続きをさえぎるように紫己の声が割りこんだ。
現れた紫己を見て桔平の目が狭まる。お節介だといわんばかりに睨みつけているようにも見える。
「何してるんだ」
「抜けだしてひと息つきたかったってところだ。出てきたら朱実さんが見えた」
のらりくらりとした云い方で、それだけで充分だろう、そんな意思が紫己の声に見えた。
桔平は紫己から朱実へと目を転じた。
「聞いてた?」
朱実は答えず、かすかに首を横に振ってはっきりはさせなかった。
それでも桔平は正確な答えを見いだしたのかもしれない。不機嫌そうだった雰囲気が緩む。それから後ろめたさも見せずに可笑しそうに表情を変え、そして、短くだったが声さえ出して笑った。
「楽しかったのに残念だな。もう少しだったのに」
桔平にとっては退屈しのぎのゲームでしかなかった。
「桔平が手こずったのってはじめてだから、朱実さんはそうがっかりすることもないと思うけど。初失恋おめでとう、桔平」
「まったくおめでたくないな。愛結、おまえのせいだろ」
桔平はわざとらしく愛結を睨みつける。朱実の気持ちはおかまいなしのやりとりだ。
「こういうのを、いい薬っていうんじゃない? それに、怒るより、朱実さんに謝るべきなんじゃないの?」
「わたしは……いいんです。帰ります。さよなら」
朱実はうなずく程度に頭を下げると身をひるがえした。正面に紫己がいて、一瞬、立ち止まる。桔平たちにしたように軽く頭を下げて紫己の脇を通り抜けた。
「なんか云いたそうだな」
「べつに。おれが口出すことじゃない」
背後でなされた会話の合間に、ふっとした吐息が時間差で二つ聞こえた。ただのため息というよりは笑みに近いのだろう。だから朱実の耳にまで届いてきた。
桔平が揶揄して紫己に声をかける。
「先送りしただけだろ」
対して紫己は至って冷静に訂正した。
「あの、岡田さん……愛結さんは大丈夫ですか」
ためらいがちに訊ねると、桔平は心外だといった面持ちで朱実を見下ろした。
「おれは愛結の相手をしていたほうがいい?」
「そうじゃないんです!」
朱実はとっさに否定した。
「あ、いえ……」
自分が必要以上に勢いこんでいたと気づいて、朱実は打ち消そうとした。
「はは。それが朱実ちゃんの本心として取っておくよ。好きって云われなくてもね」
静華の持論を持ちだして、桔平は紫己たちが聞いているにもかかわらずからかう。
朱実は自分が赤くなっているのか蒼くなっているのかわからない。
「困らせるつもりじゃないよ。飲み物を持ってくる。愛結と同じのでいい? あれ、ミントとライムのフレーバーでけっこう美味しいよ」
「それ、お願いします」
つい今し方の会話が紛れればいいと思いながら、朱実はすぐさまうなずいた。
「美奈ちゃんは?」
「同じので」
「オーケー。ちょっと待ってて」
桔平は独りで部屋の端にあるカウンターのほうに向かった。
美奈が紫己を覗きこむようにして見上げた。
「高階さんが避ける人ってどんな人だろうって思ってたんだけど、まさか川合先生だなんて思ってもなかった」
「避けてない」
紫己は苦笑いしながら美奈の言葉を訂正した。
「じゃあ……野放しって本当に野放しにされてるってことですか」
美奈はいくらかがっかりした様子で問いかけた。
「いずれ戻るかって? なんとも云えないな」
真剣すぎず、冗談めかすこともなく、紫己は曖昧に濁した。
その答えからすると、最初から避けていたわけではなく、それなりの過程があったうえで別れたがっているように受けとれる。
端正な顔から答えが得られるわけでもないのに見つめていると、ふいに紫己の目が朱実を捕らえた。慌てふためくも、すぐには目を逸らすことがかなわない。
それを知ってか知らずか、紫己はふっとした笑みを漏らして、自ら視線を逸らした。
パーティははじめのうちは桔平と紫己たちといて壁の花になることなくすんでいたが、やがて紫己が仕事関係の人に声をかけられ、次には桔平も引っ張りだされてしまった。残された者同士、美奈としばらくいたが、共通の話題がなく美奈は愛結のところに行くといって、結果、朱実は独りになった。
このクリスマスパーティはリブネクストの一役員の主催で、日にちは前後することもあるらしいが毎年の行事だという。若手たちが仕事上の交流を深める場としても役に立っているようで、紫己も付き合いがどうこう云っていた。
確かに紫己たちにとっては有意義だろうが、朱実にとっては、その点、なんの利にもならない。
しばらくだれかを待っている振りをして独りでいたが、手持ち無沙汰でどうしようもない。帰るにも黙ってそうするには失礼だ。
朱実はため息をついた。とりあえず、会場を出て少しでも澄んだ空気が吸いたい。
パウダールームのほかに休憩できるようなところはないかと探した。見つからないままうろうろしていると、奥の非常階段の入り口辺りで声がしていることに気づいた。
なんだろう、云い争っているように聞こえ、無意識で朱実は耳をすまし、足音を立てないようにして近づいた。
『……のこと、いつまでお遊びする気?』
『おれが飽きるまでだ』
『今日のパーティはともかく、このまえみたいに仲間内のパーティに連れてくるなんていままでなかった!』
その男女二つの声は、間違いなく桔平と愛結だった。しかも、話題になってるのは朱実のことだ。
盗み聞きをしてもろくなことにはならない。よくそう聞くが、こと自分に関するのなら聞くなというほうが無理だ。それに、交わされる言葉のなかにあるキーワードは穏やかじゃなかった。
『云っただろ、彼女はふたりきりじゃ乗ってこなかった』
『だったら、そこでやめればいいんじゃないの?』
『なんで? 明らかに脈ありだったんだ。手懐けるのもおもしろいじゃないか』
『わたしがいるのに、どうしてほかの女が必要なのか、全然わかんないんだけど』
『いまになってなんだ。それを承知でくっついてきてるんだろ』
『だから! いままでと違うから不安になるの! わからない?』
『愛結、おれはおまえのところに必ず帰る。そうやってきただろ』
『でも……』
『うるさい』
その云い方は荒々しいものではなかったが、壁にぶつかるような音がして、愛結の小さな悲鳴も漏れてくる。
沈黙のあと、呻き声と、そして吸着したような音がした。
『本命はいつだっておまえだけだって云ってるだろ。たまには遊ばせてくれ。そうやって、おまえが一番だって再確認してる』
『ほんとに?』
『ああ。あの子が住んでるとこ、どんなとこだと思う?』
『もしかして、うちよりすごいの?』
桔平の可笑しそうな笑い声が短く届いた。
『正反対の意味でそうだな。後をつけてみたら、昭和もずっとまえに建ったようなぼろっちいアパートだった。まかり間違っても本気にはならない。おれにふさわしいのは、愛結みたいな苦労を知らないお嬢さんだ。そうだろ? あの子に夢見させたところで、感謝されても罰が当たることはないさ』
朱実は信じられない気持ちでそれらを聞いていた。
桔平と愛結の会話なら、『あの子』はイコール朱実だ。
罰が当たることはない。確かに桔平にとってはそうだ。罰が当たるのは朱実だ。身の丈に合っていないとわかっていながら、見てはいけない夢を見た。
朱実はあとずさる。足音を立てないように――そんな理性は働いていたけれど、周囲のことまでは気がまわらなかった。
背中からだれかにぶつかる。明らかに人の躰だ。昂った感情がその衝撃に触発された。
悲鳴が迸(ほとばし)る寸前、背後からまわってきた手のひらが朱実の口をふさいだ。
「おれだ、紫己だ」
耳もとにくちびるがつけられたかと思うと、口をふさいだ手の持ち主はそんなことを囁いた。吐息が耳から体内へと浸透して、驚怖という感覚のなかに、すべてゆだねてしまいそうな心もとないふるえが加わった。
躰が脱力して脚が頼りなく揺らぐ。いつにない感覚に悲鳴は消化され、手のひらが離れていっても喘ぐような呼吸音しか出なかった。
『パパにいつ云ってくれるの?』
桔平と愛結の会話はまだ続いている。
『おれはまだ、いまのスタンスを変える気はない』
『だから、それでもいいの。本気にならないならかまわない。ちゃんと戻ってきてくれるって保証をくれてもいいでしょ?』
『それが結婚か?』
可笑しそうに含み笑った声が聞こえる。
『パパは喜んでくれると思う』
『ていうか、おれの母親を奪っといて、おれと愛結の結婚に反対できるわけないだろう』
『だから! いいでしょ?』
『ああ』
それに応えて、うれしい、と云いかけた愛結のはしゃいだ言葉は途中でぷつんと切れた。かわりに呻き声が聞こえる。何をしているのかは想像するにたやすい。
誑かされているのに本気だと信じて疑うこともなく、簡単に落ちた自分はまるきりばかで恥ずかしい。けれど、恥ずかしいという感情さえ、朱実には身の程知らずのことかもしれない。
そうして再び立ち去ろうとしたとき、朱実は背中が温かいことに気づいた。びくともしないような硬さとはそぐわず、その躰には温かみがあり、いつの間にか一体化したように密着していた。
離れようとしたその刹那、それを助けるように背中を押された。強くではなかったのに朱実の意思と外からの作用は一致して勢い余り、ブレーキはきかなかった。カーペットを敷いた廊下から階段室に飛びだしたとたん、ヒールの音が目立つ。
目の隅でキスシーンを捉え、ほぼ同時に弾かれたように離れるふたりがいた。
消え入りたいというのはこういうときのためにある言葉だ。きまり悪いことこの上なく、朱実は首をすくめた。
「朱実……ちゃん?」
「……ご、ごめんなさい」
理不尽なことをされたのは朱実のほうなのに、なぜここでも謝ってしまうのか、不自然であり愚かだと自分でも思う。
ないと思っていたプライドが頭をもたげる。これ以上惨めになることはない、とそう感じるほど朱実は心底が締めつけられて喘ぐ。
そんな朱実とは裏腹に、吹きだすような笑い声が限られたエリアのなかで必要以上に反響した。
「なんだか、不憫、ていう言葉が似合う人ね、朱実さんて」
「愛結」
たしなめた桔平のひと言は、一時間まえだったらかばってもらったように感じただろうが、いまやなんにもならない。
「朱実ちゃん、どうしたんだ。迷った? 帰る?」
桔平はキスシーンを見られていないと思っているのか、見られてもごまかせると思っているのか、あるいは愛結のようにほかの女性がいても朱実が許容すると思っているのか、いずれにしろどれもすべてが朱実を見下げた結果の判断だ。
自分に価値がないのはわかっている。わかっているはずがそう自分に云い聞かせなければならない。
すぐには返事ができなくて、間を空け、やっと朱実はうなずいた。
「送っていくよ」
「桔平」
「桔平、おまえは愛結ちゃんがいるだろ。送っていく役目が必要なら、おれのほうが丸くおさまる」
愛結は咎めた声音で桔平を呼び、その続きをさえぎるように紫己の声が割りこんだ。
現れた紫己を見て桔平の目が狭まる。お節介だといわんばかりに睨みつけているようにも見える。
「何してるんだ」
「抜けだしてひと息つきたかったってところだ。出てきたら朱実さんが見えた」
のらりくらりとした云い方で、それだけで充分だろう、そんな意思が紫己の声に見えた。
桔平は紫己から朱実へと目を転じた。
「聞いてた?」
朱実は答えず、かすかに首を横に振ってはっきりはさせなかった。
それでも桔平は正確な答えを見いだしたのかもしれない。不機嫌そうだった雰囲気が緩む。それから後ろめたさも見せずに可笑しそうに表情を変え、そして、短くだったが声さえ出して笑った。
「楽しかったのに残念だな。もう少しだったのに」
桔平にとっては退屈しのぎのゲームでしかなかった。
「桔平が手こずったのってはじめてだから、朱実さんはそうがっかりすることもないと思うけど。初失恋おめでとう、桔平」
「まったくおめでたくないな。愛結、おまえのせいだろ」
桔平はわざとらしく愛結を睨みつける。朱実の気持ちはおかまいなしのやりとりだ。
「こういうのを、いい薬っていうんじゃない? それに、怒るより、朱実さんに謝るべきなんじゃないの?」
「わたしは……いいんです。帰ります。さよなら」
朱実はうなずく程度に頭を下げると身をひるがえした。正面に紫己がいて、一瞬、立ち止まる。桔平たちにしたように軽く頭を下げて紫己の脇を通り抜けた。
「なんか云いたそうだな」
「べつに。おれが口出すことじゃない」
背後でなされた会話の合間に、ふっとした吐息が時間差で二つ聞こえた。ただのため息というよりは笑みに近いのだろう。だから朱実の耳にまで届いてきた。
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