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終章 紫の朱を奪う~愛は止まらない~
1.感傷
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抱いてはいけないモノをこの躰から消し去れない。
愛してはいけないモノをこの心底から取り除けない。
無視すればいいものを、衝動を抑制できなかった時点で、手遅れでみっともない。
せめて全身に毒をちりばめ、跳ね除ける。
レガーロに連絡を取ったあと、紫己はすぐさま仕事を切りあげて家に帰った。
キッチンにはお気に入りのミトンがあり、リビングには座り心地がいいと云っていたクッションがあり、パウダールームにはメイクセット、そしてクローゼットには“とっておき”の服がバーにぶらさがっている。一見して何も変わったところはない。
かわりをしていた店員が戻ったからレガーロをやめただけだ。また仕事を探しに出かけているだけだ。
朝、出かけるときの映像をチェックしても、特別な荷物は持っていなかった。
そんな辻褄を合わせて、紫己は煽られるような切迫感をなだめた。だが、落ち着くまでには至らず、心底はざわついている。
携帯電話の使われていないというメッセージは、なんの余地もなく紫己を拒絶した。
移動する間に連絡を取った派遣会社も、朱実はやめたとだけ云い、それ以上はわからないと先回りして追及を避けられた。法律が遵守されてさえいれば、簡単に人の痕跡は消えてしまう。
東京を引きあげて祖母の家に帰ったのか。いや、そんなわかりやすい場所にいるのなら、携帯電話を解約する必要はない。
紫己はリビングに戻ってがらんどうの部屋を見渡した。立ち尽くした紫己は、四日前、同じように朱実が突っ立っていたことを思いだす。
一緒に帰ることがほぼ日常化していた日々のなか、いつの間にか紫己は朱実の存在に縛られていたのかもしれない。反動で、朱実は気づいていないが、一緒に帰れない日はCB10に帰ったことを確認させるという、ある種、病的な強迫観念に囚われていた。紫己の真意を曝露して、関係が変わった時点でそれはエスカレートした。
部屋のなかは、CB10によっていつでも覗けるようにしている。が、実際にそうすることはない。覗くとしても、CB10が朱実の帰宅を知らせたときだけだ。紫己はただ、朱実の存在をつかんでいることで気がすむ。
足錠で繋ぐこともその延長線上にある。紫己がつらく当たる以上、朱実はいつ逃げてもおかしくはなかったからだ。
七夕の日のことも監視下にあれば、ここで立ち尽くしていた朱実も覗けた。静華から脅されたのはその日に違いなく。
おれは何を怖れている?
向き合えない答えを自らに問いかけた。
紫己は頭を振ってよけいな思考を払う。
このまましばらく――せめて日付が変わるまで、帰ってくることを信じて待つか。
いや、埒が明かない。どうせ何も手につかないだろうことはわかっている。
見つからなくても、自分で手を尽くさなければ、結局は何も受け入れることはできない。
ようやく動きだし、紫己は着替えをすませてから車のキーを持って家を出た。
*
まんじりともできない夜を越す。
着の身着のままで静岡にやってきてホテルに泊まり、夜が明けるか否かのうちにチェックアウトして、目的地に向かった。
三十分くらい車を走らせると、空はずいぶんと白んできた。畑がちらほらと見えて、奥の山間は茶畑が広がるのだろう、のどかな光景が視界を占める。そうして、目的地に着いた。
だれの土地かもわからない、自動販売機だけがぽつんとある空き地に車を止め、紫己はエンジンを切った。まだ暑いというほどではないが、青くなっていく空が気温の上昇を予想させた。
何をやっているんだ。紫己は自分で自分に疑問を投げかけた。疑問というよりは悪あがきをしているだけかもしれない。
そして六時をすぎた頃、朱実の祖母が家から出てきた。夏場、昼間は暑すぎるから気温が上がるまえに野菜の収穫をする。そう朱実から聞いていたとおり、祖母は早朝から籠を持って家のまえの畑に入っていった。
紫己は、腰をかがめて収穫する姿を見守った。作業は祖母一人だけでだれの手伝いもない。朱実がここにいるのなら、すぐさま祖母を手伝うだろう。
獲れた野菜はまた紫己の家に送られてくるのだろうか。そんなことを思い、紫己は自嘲した。
朱実はやはりいないとわかっても、ここでもまた紫己は動けなかった。手立てを失う。それとも、紫己があきらめた頃、それを見計らったように朱実は祖母に顔を見せに現れるのだろうか。
最初から出会ってはいけなかった。それがさだめであり、呪縛だとしたら。
紫己は目をつむって焦燥感を閉めだし、また目を開けた。
すると視線を感じて、次には人影に気づいた。Tシャツにジョギングパンツという中年の男が通りかかる。怪訝そうな面持ちで紫己の車を見やった。不審者と疑われているかもしれない。紫己と目が合ったとたん、そそくさと男性は去っていった。
いま警察沙汰になるわけにはいかない。カムフラージュするため、紫己は車を降りると自動販売機に向かった。
ペットボトルのお茶を選び、お釣りを取ってから何気なく水戸家を見ると、祖母はこっちを見ていた。紫己に気づかれたとわかると、そっぽを向くように目が逸れる。表情まではわからないが、見知った人間なら顔を特定できる距離だ。ふたりともがその顔を判別できたかというと、ろくに知りもしない間柄で、つまり不可能だ。
紫己はペットボトルのふたを開け、一口飲んだ。ふたを閉めると、車のドアを開ける。
「あの……」
気づくと朱実の祖母は道路の向こう側に出てきていた。
「朱実がお世話になっている高階さん? わたしは朱実の祖母の喜美子だよ」
朱実が同棲についてどんなことを聞かせているのかはさっぱりだが、紫己は逃げるよりも話したほうが得策だと判断した。疑問もある。道路を横切って祖母のまえに立った。
「おはようございます。高階です。ですが、お世話はしてませんよ。こちらがお世話になっています」
「本当に?」
祖母は目を丸くした。それは単純な驚きではなく、もっと大げさなものに見えた。
「はい。会ったのははじめてですが、よくわかられましたね」
「高階さん……本当は、波布川紫己さん。朱実にはわからなくても、わたしがわからないはずはない」
見抜かれていた。紫己が驚く番だった。
「アパートが変わったって、朱実から野菜の送り先を教えられたときにそうじゃないかと思ったんだよ。……もしそうだとして、相容れないふたりだから心配でね。成人式のとき、帰らせて様子を見たら、悲惨な生活をしているふうじゃない。ありがとう、紫己さん、あの子を許してくれて。過去のことは本人がやったことではなくても、いつまでも付き纏う。朱実は、わたしがいなくなったら居場所がなくなる。……紫己さんが受け入れてくれるほど心強いことはないからね」
すべてをいいほうに捉え、喜美子は微笑んだ。
「母は……ずっと、おかしかったんです。精神的に病んでいたんだと思います」
紫己は、まどかにさえ云っていないことを口走った。喜美子は否定して首を振る。
「あの場では、だれもがそうだった。だけどね、殺したことの云い訳にはならないんだよ」
喜美子は首を振りつつ嘆かわしい様でため息をついた。
紫己はあえて応えなかった。許すというのは違うし、嘘の言葉で安堵など与えたくなかった。
「お墓で月命日に何度か見かけたんだよ。……声はかけられなかったけどね」
喜美子の言葉を受け、いつしかのワンシーンが紫己の脳裡に甦る。
祖母のあとをとぼとぼと歩く朱実は、完全に笑顔をなくしていた。陽気に笑う場所ではないが、それとは違う。笑顔だけではない、いろんな感情をなくして見えた。ほかに注意を払うこともなく、だからすれ違っても紫己に気づかない。
レガーロではじめて見たとき、朱実のくちびるはかすかでも笑みを取り戻していた。それが紫己の気に障ったのだ。
「孝雄さんに似てきたね。事件のずっとまえ、孝雄さんが云ってたことがあるんだよ。紫己さんと朱実もいつか自分たちのように惹かれあうことがあるかもしれない、って。それが恋愛か、兄妹としてなのかはわからないけど、と云ったんだ。それは予感じゃなくて、孝雄さんの希望だったんだろうけど、いまこうやって朱実と紫己さんは一緒にいる」
喜美子は静かに笑み、「だけど紫己さん、今日はなぜここに?」と、朱実を連れてきていないことを不審に思うのは当然だろう、額のしわが深くなり、不安そうに紫己を見つめる。
「父に会わなかったら娘さんはいまとは違う人生だったかもしれない。だから、確かめたかったんです。おばあさんにとって、波布川紫己はどんなふうに見えるのか。ありがとうございました」
紫己の言葉から何を理解したのか、喜美子は二度うなずくようなしぐさをした。
「今度来るときはふたりで。そう期待して待ってるよ」
「今度来るときは、そうですね」
紫己はつぶやくように同調しながら――
今度来るときがあったら。
内心で云いかえ、一礼をすると車に引き返した。
*
静岡から帰ると、仕事はそのまま休んで家に戻った。
家はこれほど静かで広かったか。
たった半年で朱実の存在があたりまえになっていた。
CB10がいればそれで存在感も喋り不足も間に合っていたはずが。
どうやって探す?
探し当てたところで、どうするんだ?
そんな葛藤がうるさく付き纏っている。
「CB10」
呼ぶと、転がるようにリビングに現れた。
『こんにちは』
「出入りはないか」
『ありません』
許可しなければ無駄話は一切なく、端的な応答しか返らない。素っ気ないひと言返事に苛立ったのは、CB10のせいか。
朱実のように話すということができれば、CB10もテンテンに進化する。
「テンテン」
気まぐれで、あるいは感傷のもと、呼んでみたとたん。
『だれにも云ってはだめ。紫己にも秘密。内緒の話は解除。お喋りしてもいいよ』
「テンテン、何を云ってる」
『紫己』
問い返したとたん、CB10から聞こえたのは朱実の声だった。
『わたしは不幸せじゃない。紫己といるだけで幸せだから。出ていくのは裏切ったんじゃなくて、紫己のために不幸になりたい、そう思っただけ。紫己、話さなくちゃいけないこと、ずっと云えなかったけど聞いてほしいの。そうしたら、少しはわたしも紫己の役に立てるかもしれない』
ためらうような沈黙が流れる。そして。
『事件のこと、紫己のお母さんは……』
朱実は紫己が動揺していてもおかまいなしで語りだした。
愛してはいけないモノをこの心底から取り除けない。
無視すればいいものを、衝動を抑制できなかった時点で、手遅れでみっともない。
せめて全身に毒をちりばめ、跳ね除ける。
レガーロに連絡を取ったあと、紫己はすぐさま仕事を切りあげて家に帰った。
キッチンにはお気に入りのミトンがあり、リビングには座り心地がいいと云っていたクッションがあり、パウダールームにはメイクセット、そしてクローゼットには“とっておき”の服がバーにぶらさがっている。一見して何も変わったところはない。
かわりをしていた店員が戻ったからレガーロをやめただけだ。また仕事を探しに出かけているだけだ。
朝、出かけるときの映像をチェックしても、特別な荷物は持っていなかった。
そんな辻褄を合わせて、紫己は煽られるような切迫感をなだめた。だが、落ち着くまでには至らず、心底はざわついている。
携帯電話の使われていないというメッセージは、なんの余地もなく紫己を拒絶した。
移動する間に連絡を取った派遣会社も、朱実はやめたとだけ云い、それ以上はわからないと先回りして追及を避けられた。法律が遵守されてさえいれば、簡単に人の痕跡は消えてしまう。
東京を引きあげて祖母の家に帰ったのか。いや、そんなわかりやすい場所にいるのなら、携帯電話を解約する必要はない。
紫己はリビングに戻ってがらんどうの部屋を見渡した。立ち尽くした紫己は、四日前、同じように朱実が突っ立っていたことを思いだす。
一緒に帰ることがほぼ日常化していた日々のなか、いつの間にか紫己は朱実の存在に縛られていたのかもしれない。反動で、朱実は気づいていないが、一緒に帰れない日はCB10に帰ったことを確認させるという、ある種、病的な強迫観念に囚われていた。紫己の真意を曝露して、関係が変わった時点でそれはエスカレートした。
部屋のなかは、CB10によっていつでも覗けるようにしている。が、実際にそうすることはない。覗くとしても、CB10が朱実の帰宅を知らせたときだけだ。紫己はただ、朱実の存在をつかんでいることで気がすむ。
足錠で繋ぐこともその延長線上にある。紫己がつらく当たる以上、朱実はいつ逃げてもおかしくはなかったからだ。
七夕の日のことも監視下にあれば、ここで立ち尽くしていた朱実も覗けた。静華から脅されたのはその日に違いなく。
おれは何を怖れている?
向き合えない答えを自らに問いかけた。
紫己は頭を振ってよけいな思考を払う。
このまましばらく――せめて日付が変わるまで、帰ってくることを信じて待つか。
いや、埒が明かない。どうせ何も手につかないだろうことはわかっている。
見つからなくても、自分で手を尽くさなければ、結局は何も受け入れることはできない。
ようやく動きだし、紫己は着替えをすませてから車のキーを持って家を出た。
*
まんじりともできない夜を越す。
着の身着のままで静岡にやってきてホテルに泊まり、夜が明けるか否かのうちにチェックアウトして、目的地に向かった。
三十分くらい車を走らせると、空はずいぶんと白んできた。畑がちらほらと見えて、奥の山間は茶畑が広がるのだろう、のどかな光景が視界を占める。そうして、目的地に着いた。
だれの土地かもわからない、自動販売機だけがぽつんとある空き地に車を止め、紫己はエンジンを切った。まだ暑いというほどではないが、青くなっていく空が気温の上昇を予想させた。
何をやっているんだ。紫己は自分で自分に疑問を投げかけた。疑問というよりは悪あがきをしているだけかもしれない。
そして六時をすぎた頃、朱実の祖母が家から出てきた。夏場、昼間は暑すぎるから気温が上がるまえに野菜の収穫をする。そう朱実から聞いていたとおり、祖母は早朝から籠を持って家のまえの畑に入っていった。
紫己は、腰をかがめて収穫する姿を見守った。作業は祖母一人だけでだれの手伝いもない。朱実がここにいるのなら、すぐさま祖母を手伝うだろう。
獲れた野菜はまた紫己の家に送られてくるのだろうか。そんなことを思い、紫己は自嘲した。
朱実はやはりいないとわかっても、ここでもまた紫己は動けなかった。手立てを失う。それとも、紫己があきらめた頃、それを見計らったように朱実は祖母に顔を見せに現れるのだろうか。
最初から出会ってはいけなかった。それがさだめであり、呪縛だとしたら。
紫己は目をつむって焦燥感を閉めだし、また目を開けた。
すると視線を感じて、次には人影に気づいた。Tシャツにジョギングパンツという中年の男が通りかかる。怪訝そうな面持ちで紫己の車を見やった。不審者と疑われているかもしれない。紫己と目が合ったとたん、そそくさと男性は去っていった。
いま警察沙汰になるわけにはいかない。カムフラージュするため、紫己は車を降りると自動販売機に向かった。
ペットボトルのお茶を選び、お釣りを取ってから何気なく水戸家を見ると、祖母はこっちを見ていた。紫己に気づかれたとわかると、そっぽを向くように目が逸れる。表情まではわからないが、見知った人間なら顔を特定できる距離だ。ふたりともがその顔を判別できたかというと、ろくに知りもしない間柄で、つまり不可能だ。
紫己はペットボトルのふたを開け、一口飲んだ。ふたを閉めると、車のドアを開ける。
「あの……」
気づくと朱実の祖母は道路の向こう側に出てきていた。
「朱実がお世話になっている高階さん? わたしは朱実の祖母の喜美子だよ」
朱実が同棲についてどんなことを聞かせているのかはさっぱりだが、紫己は逃げるよりも話したほうが得策だと判断した。疑問もある。道路を横切って祖母のまえに立った。
「おはようございます。高階です。ですが、お世話はしてませんよ。こちらがお世話になっています」
「本当に?」
祖母は目を丸くした。それは単純な驚きではなく、もっと大げさなものに見えた。
「はい。会ったのははじめてですが、よくわかられましたね」
「高階さん……本当は、波布川紫己さん。朱実にはわからなくても、わたしがわからないはずはない」
見抜かれていた。紫己が驚く番だった。
「アパートが変わったって、朱実から野菜の送り先を教えられたときにそうじゃないかと思ったんだよ。……もしそうだとして、相容れないふたりだから心配でね。成人式のとき、帰らせて様子を見たら、悲惨な生活をしているふうじゃない。ありがとう、紫己さん、あの子を許してくれて。過去のことは本人がやったことではなくても、いつまでも付き纏う。朱実は、わたしがいなくなったら居場所がなくなる。……紫己さんが受け入れてくれるほど心強いことはないからね」
すべてをいいほうに捉え、喜美子は微笑んだ。
「母は……ずっと、おかしかったんです。精神的に病んでいたんだと思います」
紫己は、まどかにさえ云っていないことを口走った。喜美子は否定して首を振る。
「あの場では、だれもがそうだった。だけどね、殺したことの云い訳にはならないんだよ」
喜美子は首を振りつつ嘆かわしい様でため息をついた。
紫己はあえて応えなかった。許すというのは違うし、嘘の言葉で安堵など与えたくなかった。
「お墓で月命日に何度か見かけたんだよ。……声はかけられなかったけどね」
喜美子の言葉を受け、いつしかのワンシーンが紫己の脳裡に甦る。
祖母のあとをとぼとぼと歩く朱実は、完全に笑顔をなくしていた。陽気に笑う場所ではないが、それとは違う。笑顔だけではない、いろんな感情をなくして見えた。ほかに注意を払うこともなく、だからすれ違っても紫己に気づかない。
レガーロではじめて見たとき、朱実のくちびるはかすかでも笑みを取り戻していた。それが紫己の気に障ったのだ。
「孝雄さんに似てきたね。事件のずっとまえ、孝雄さんが云ってたことがあるんだよ。紫己さんと朱実もいつか自分たちのように惹かれあうことがあるかもしれない、って。それが恋愛か、兄妹としてなのかはわからないけど、と云ったんだ。それは予感じゃなくて、孝雄さんの希望だったんだろうけど、いまこうやって朱実と紫己さんは一緒にいる」
喜美子は静かに笑み、「だけど紫己さん、今日はなぜここに?」と、朱実を連れてきていないことを不審に思うのは当然だろう、額のしわが深くなり、不安そうに紫己を見つめる。
「父に会わなかったら娘さんはいまとは違う人生だったかもしれない。だから、確かめたかったんです。おばあさんにとって、波布川紫己はどんなふうに見えるのか。ありがとうございました」
紫己の言葉から何を理解したのか、喜美子は二度うなずくようなしぐさをした。
「今度来るときはふたりで。そう期待して待ってるよ」
「今度来るときは、そうですね」
紫己はつぶやくように同調しながら――
今度来るときがあったら。
内心で云いかえ、一礼をすると車に引き返した。
*
静岡から帰ると、仕事はそのまま休んで家に戻った。
家はこれほど静かで広かったか。
たった半年で朱実の存在があたりまえになっていた。
CB10がいればそれで存在感も喋り不足も間に合っていたはずが。
どうやって探す?
探し当てたところで、どうするんだ?
そんな葛藤がうるさく付き纏っている。
「CB10」
呼ぶと、転がるようにリビングに現れた。
『こんにちは』
「出入りはないか」
『ありません』
許可しなければ無駄話は一切なく、端的な応答しか返らない。素っ気ないひと言返事に苛立ったのは、CB10のせいか。
朱実のように話すということができれば、CB10もテンテンに進化する。
「テンテン」
気まぐれで、あるいは感傷のもと、呼んでみたとたん。
『だれにも云ってはだめ。紫己にも秘密。内緒の話は解除。お喋りしてもいいよ』
「テンテン、何を云ってる」
『紫己』
問い返したとたん、CB10から聞こえたのは朱実の声だった。
『わたしは不幸せじゃない。紫己といるだけで幸せだから。出ていくのは裏切ったんじゃなくて、紫己のために不幸になりたい、そう思っただけ。紫己、話さなくちゃいけないこと、ずっと云えなかったけど聞いてほしいの。そうしたら、少しはわたしも紫己の役に立てるかもしれない』
ためらうような沈黙が流れる。そして。
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