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第3章 恋は刹那の嵐のようで
8.
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冷たくないか、と勇に訊ねたけれど、環和は冷たい以上に鼓動が凍てつくような感覚に陥った。水にくるまれた恐怖が、もがくという危機に晒されたときの動物的な反応さえ封じて、息苦しさだけを鮮明にする。川に閉じこめられて漂流しながら、底なしにどんどん水中の奥深くへと引きずり込まれているような気がした。
環和。
それは遠のいていく意識が切望した空耳なのか。
再び環和は何かに捕らえられた。今度は奥底に引きずり込むものではなく、逆に浮上していくような感覚だった。
「環和!」
耳の傍で鼓膜が破れそうなほどの怒鳴り声がした。びくっとしながら環和は意識を呼び覚まし、喘ぐように呼吸を再開した。それは背中から捕らえた腕にも伝わったのか、逆らうな、とさっきとは打って変わってなだめるような声が続いた。
水の中という環和を無力にする場所で逆らう気力などない。口を開いて喘げば水が押し寄せ、やはり息苦しかった。自分がどんな状況にあるか目にするのも怖く、目を閉じて身を任せた大きな躰はほとんど身動きすることなく、環和を伴って浮き沈みを繰り返す。
どれくらい流されたのか、速かった流れが遅く感じ始めて間もなく、環和を抱いていた躰がばねのように動き始めた。そうして、不意打ちで背中にあった支えがなくなった。本能的にばたばたと手足を動かした直後。
「逆らうなと云っただろうが!」
投げやりで怒りまくったような乱暴な云い方だった。それは環和を抱きあげた腕にも表れていて、痛いほど躰を縛った。
川の中から連れだされ、歩くたびに跳ねる水の音もやみ、環和はやがて河原の石ころの上におろされた。
「大丈夫か」
すぐ横で跪いた響生は、環和の頬に手を当てて問う。
まっすぐ環和の瞳を射貫く眼差しにははじめて見る深刻さがあり、あるいは何かを思いつめている。
響生の手を温かく感じるのは環和が冷えきっているせいか。ふるえているのは環和か響生の手か、頬を撫でるしぐさは温度を確かめるようでもあった。それから響生の手は頬にかかる髪を後ろに払った。
「……サイテーな気分」
鼻や口から入りこんだ川水が喉をふさいでいるかのようにすぐには答えられず、ようやく口を開いて云った言葉はふざけて聞こえたかもしれない。響生は殺意を抱く敵と対面したかのように環和を睨めつけた。
怒ったかと思うとやさしい。気遣ってくれるかと思えば怒る。環和が受けたショック以上に響生は情緒不安定に見えた。
「泳げないくせに、濡れるのが嫌いなくせに、いったい何やってたんだっ」
吐き捨てるように云い、そうして響生は自分が殺意にやられたようにひどく顔を歪めた。
「響生、ごめ……」
「クソっ」
環和が謝りかけたのをさえぎり、罵ったとたん響生の様子は一変した。
見てわかるほど、響生の全身がガタガタとふるえだす。うずくまるようにして転がった石の上に手をつき、つかんだ石を握り潰すように拳をつくる。
「響生!」
この濡れそぼった状態から脱したいという不快感を忘れるくらい、環和は驚いて呼びかけた。
「響生、どこかケガしてるの!?」
悲鳴じみて問いながら、環和は響生を覗きこんだ。その目は強く閉じられ、痛みを堪えているようだ。
「だ……いじょ……ぅぶだ」
言葉は歯を喰い縛ったすき間から発するようで、とても大丈夫とは思えなかった。
「大丈夫、ってでも……!」
「待って、くれ……」
何を待つのか、環和は怖くなって、痛むかもしれないと思いながらも響生の丸まった背中に覆いかぶさるように抱きしめた。
環和の躰にも及ぶほど響生はふるえている。いくら五月の快晴に恵まれても、川の水は冷たかった。けれど、このふるえは寒さからくるものではないと直感した。
水流の音にどこかしらで鳴く鳥の声、木々が風に葉を揺らす音、そんな静寂のなか、身動ぎもせず響生にしがみついていると、確かな体温も感じとれてきた。伴ってふるえも落ち着いていった。
「ここだ!」
そんな叫び声が聞こえたとき、響生のふるえはずいぶんとおさまっていた。ただ、微動だにしない。背中は呼吸で上下し、鼓動も頬を通して感じるから生きているのは間違いなくて、環和の怖れや不安は心配に変わっていた。
「環和、もういい」
響生は深く息をついた。その声も落ち着いている。
環和は背中に寄せていた顔を上げて響生から離れた。
「先生!」
「環和ちゃん!」
「安西さん!」
響生とはちゃんと話す間もなく、順不同で、なお且ついろんな声が飛んできた。
見ると友樹や恵、勇、そして京香のほかにもスタッフが何人か駆け寄ってくる。
周囲を見る余裕がなかったが、流されたすえ助かった場所は、壁みたいにそびえた岩場に囲まれている。友樹たちは川を下りながら、探しまわったのだろう。
「よかった! 大丈夫ですか!?」
傍に来た友樹は身をかがめ、環和と響生をかわるがわる見ながら、泣きそうなほど顔をくしゃくしゃにして問いかけた。
「大丈夫だ。訓練は受けてる」
環和がうなずく傍らで、さっき環和に云ったときとは打って変わって普段どおりの声で響生は答えた。
「安西さん、もう心配したんだから!」
恵もさすがに冷静さをなくし、なじるように訴えた。
「おれのせいです」
「違うわ、わたしのせいよ! ごめんなさい、環和ちゃん、安西さん」
勇に次いで京香が息を切らしながら、環和たちの前に座りこんで謝った。メイクをした顔が涙でボロボロだ。
「いいんだ、京香さん。泳げないってわかっていながらあんなところにいた環和が悪い」
響生は全部の責任を環和に押しつけた。そうして立ちあがると――
「環和、足手まといにならないようにもうおれから離れるな」
不機嫌さ丸出しで冷ややかに環和を扱き下ろし、それとは正反対に環和を抱きあげた響生の腕は抱擁するように躰を包みこんだ。
「響生、歩けると……」
「煩い。おれに負担かけたくないならつかまってろ」
人目が気になるのは環和だけだろうか。響生は裸足のうえ、足場の悪さをものともせず、友樹を呼んで道案内をさせた。
環和。
それは遠のいていく意識が切望した空耳なのか。
再び環和は何かに捕らえられた。今度は奥底に引きずり込むものではなく、逆に浮上していくような感覚だった。
「環和!」
耳の傍で鼓膜が破れそうなほどの怒鳴り声がした。びくっとしながら環和は意識を呼び覚まし、喘ぐように呼吸を再開した。それは背中から捕らえた腕にも伝わったのか、逆らうな、とさっきとは打って変わってなだめるような声が続いた。
水の中という環和を無力にする場所で逆らう気力などない。口を開いて喘げば水が押し寄せ、やはり息苦しかった。自分がどんな状況にあるか目にするのも怖く、目を閉じて身を任せた大きな躰はほとんど身動きすることなく、環和を伴って浮き沈みを繰り返す。
どれくらい流されたのか、速かった流れが遅く感じ始めて間もなく、環和を抱いていた躰がばねのように動き始めた。そうして、不意打ちで背中にあった支えがなくなった。本能的にばたばたと手足を動かした直後。
「逆らうなと云っただろうが!」
投げやりで怒りまくったような乱暴な云い方だった。それは環和を抱きあげた腕にも表れていて、痛いほど躰を縛った。
川の中から連れだされ、歩くたびに跳ねる水の音もやみ、環和はやがて河原の石ころの上におろされた。
「大丈夫か」
すぐ横で跪いた響生は、環和の頬に手を当てて問う。
まっすぐ環和の瞳を射貫く眼差しにははじめて見る深刻さがあり、あるいは何かを思いつめている。
響生の手を温かく感じるのは環和が冷えきっているせいか。ふるえているのは環和か響生の手か、頬を撫でるしぐさは温度を確かめるようでもあった。それから響生の手は頬にかかる髪を後ろに払った。
「……サイテーな気分」
鼻や口から入りこんだ川水が喉をふさいでいるかのようにすぐには答えられず、ようやく口を開いて云った言葉はふざけて聞こえたかもしれない。響生は殺意を抱く敵と対面したかのように環和を睨めつけた。
怒ったかと思うとやさしい。気遣ってくれるかと思えば怒る。環和が受けたショック以上に響生は情緒不安定に見えた。
「泳げないくせに、濡れるのが嫌いなくせに、いったい何やってたんだっ」
吐き捨てるように云い、そうして響生は自分が殺意にやられたようにひどく顔を歪めた。
「響生、ごめ……」
「クソっ」
環和が謝りかけたのをさえぎり、罵ったとたん響生の様子は一変した。
見てわかるほど、響生の全身がガタガタとふるえだす。うずくまるようにして転がった石の上に手をつき、つかんだ石を握り潰すように拳をつくる。
「響生!」
この濡れそぼった状態から脱したいという不快感を忘れるくらい、環和は驚いて呼びかけた。
「響生、どこかケガしてるの!?」
悲鳴じみて問いながら、環和は響生を覗きこんだ。その目は強く閉じられ、痛みを堪えているようだ。
「だ……いじょ……ぅぶだ」
言葉は歯を喰い縛ったすき間から発するようで、とても大丈夫とは思えなかった。
「大丈夫、ってでも……!」
「待って、くれ……」
何を待つのか、環和は怖くなって、痛むかもしれないと思いながらも響生の丸まった背中に覆いかぶさるように抱きしめた。
環和の躰にも及ぶほど響生はふるえている。いくら五月の快晴に恵まれても、川の水は冷たかった。けれど、このふるえは寒さからくるものではないと直感した。
水流の音にどこかしらで鳴く鳥の声、木々が風に葉を揺らす音、そんな静寂のなか、身動ぎもせず響生にしがみついていると、確かな体温も感じとれてきた。伴ってふるえも落ち着いていった。
「ここだ!」
そんな叫び声が聞こえたとき、響生のふるえはずいぶんとおさまっていた。ただ、微動だにしない。背中は呼吸で上下し、鼓動も頬を通して感じるから生きているのは間違いなくて、環和の怖れや不安は心配に変わっていた。
「環和、もういい」
響生は深く息をついた。その声も落ち着いている。
環和は背中に寄せていた顔を上げて響生から離れた。
「先生!」
「環和ちゃん!」
「安西さん!」
響生とはちゃんと話す間もなく、順不同で、なお且ついろんな声が飛んできた。
見ると友樹や恵、勇、そして京香のほかにもスタッフが何人か駆け寄ってくる。
周囲を見る余裕がなかったが、流されたすえ助かった場所は、壁みたいにそびえた岩場に囲まれている。友樹たちは川を下りながら、探しまわったのだろう。
「よかった! 大丈夫ですか!?」
傍に来た友樹は身をかがめ、環和と響生をかわるがわる見ながら、泣きそうなほど顔をくしゃくしゃにして問いかけた。
「大丈夫だ。訓練は受けてる」
環和がうなずく傍らで、さっき環和に云ったときとは打って変わって普段どおりの声で響生は答えた。
「安西さん、もう心配したんだから!」
恵もさすがに冷静さをなくし、なじるように訴えた。
「おれのせいです」
「違うわ、わたしのせいよ! ごめんなさい、環和ちゃん、安西さん」
勇に次いで京香が息を切らしながら、環和たちの前に座りこんで謝った。メイクをした顔が涙でボロボロだ。
「いいんだ、京香さん。泳げないってわかっていながらあんなところにいた環和が悪い」
響生は全部の責任を環和に押しつけた。そうして立ちあがると――
「環和、足手まといにならないようにもうおれから離れるな」
不機嫌さ丸出しで冷ややかに環和を扱き下ろし、それとは正反対に環和を抱きあげた響生の腕は抱擁するように躰を包みこんだ。
「響生、歩けると……」
「煩い。おれに負担かけたくないならつかまってろ」
人目が気になるのは環和だけだろうか。響生は裸足のうえ、足場の悪さをものともせず、友樹を呼んで道案内をさせた。
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