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第6話 runaway love
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聞き飽きたコマーシャルソングが店内スピーカーから延々と流れるなか、実那都はスーパーの制服から私服へと着替えをすませてロッカールームを出た。
“お疲れさまでした”という言葉も“おさきに失礼します”という言葉も、すっかり身について、従業員とすれ違うたびにそれらを繰り返しながら外に出ると、実那都は立ち止まってひと息ついた。
春になって暖かくはなったけれど、四月に入ったばかりだ、夜になると羽織るものが一枚は必要になる。実那都は左腕にかけていたデニムのジャケットを羽織った。斜め掛けをした胸もとのボディバッグから自転車の鍵を取りだしたとき。
「実那都」
ちょっと遠くから航の声がして、ぱっと振り向いた。
その背後の照明のもと、航の顔は逆光になって見えないけれど、近寄ってくる歩き方とさっきの声は航だとはっきりわかる。約束もしていなかったし、連絡もなかったから驚きつつ実那都は首をかしげた。
「航。どこか遊びに行ったの? その帰り?」
「いんや。会いにきた。春休みなのに実那都はバイトばっかりだからさ」
嫌みでも苛ついているわけでもなく、航は本音で不満を漏らしただけにすぎない。それは、隠し事をしないという、航の誠実さの表れだ。
「でも、昨日も会ってるよ。豆乳のドーナツ買いにきてた」
スーパーのなかの総菜屋で売っている豆乳のドーナツは、そう甘いわけでもないのに航はお気に入りらしい。
この総菜屋で実那都がアルバイトを始めたのは半年前、高二の夏休みだ。バイトの終わりに航と待ち合わせをして、何気なくドーナツだからと実那都が買っていって一緒に食べたとき以来、嵌まったという。
昨日も、実那都が働いている時間にやってきて買っていった。そういうとき、航は無遠慮に売り場から実那都の名を呼ぶ。窓で仕切っただけの奥の作業場は売り場からも見え、はっきり聞こえるくらい大きな声を出すから、実那都だけではなく周りにも筒抜けで、最初の頃は呆れるやらおもしろがられるやら、実那都のほうが恥ずかしかった。航が客という立場のせいか、咎められなかったのは不幸中の幸いだろう。いまや名物扱いだ。
航は正面に来て立ち止まると、くいっと自己主張をするように顎をしゃくる。
「昨日は会ったうちに入らねぇ」
「でも、おとといの夜は祐真くんのサインを家に持ってきてくれて、ちゃんと話してる」
ああ云えばこう云う、そんなことを繰り返しているうちに航はひどく顔をしかめ、その表情のまま顔をぐっと実那都に近づけた。
「おとといはおととい、昨日は昨日、今日は今日だ」
「わかってる。せっかく会えてなんでもいいから航とお喋りしたがってるだけ」
実那都が云うと、航は一気に破顔した。すると、ふたりの顔は間近にあるはずも距離があったのだと気づかされる。顔を傾けた航は素早く実那都のくちびるに口づけて、上体を起こした。止める間もないのは、やはり距離が近すぎるせいだ。
「見られる!」
「この程度のキスでだれが咎めるっつうんだよ。挨拶がわりにしかなんねぇ」
照れてばつが悪い、とそんな段階は超えて、どきどきするのは変わらないけれどいまみたいな不意打ちのキスには慣れた。それを航は序の口みたいに云う。じゃあ、挨拶がわりじゃないキスはどんな感じだろう。
航がそこからさきに進む素振りはなくて、だから実那都は単に一緒にいられるうれしさと安堵感いっぱいでいるけれど、いまの言葉は俄にさきのことをほのめかして聞こえた。航にその意図はなかったとしても、その意思がないわけではないから。
「だとしても、博多みたいにあちこちから集まる場所と、こういう知った人と会ってもおかしくない場所じゃ違う。引き返せなくなりそう」
「どこに引き返すんだよ」
「……って訊かれても困るけど……航のお母さんに知られたら、航の家に行けなくなりそう」
「てか、人の噂で聞かなくてもとっくにわかってるだろ」
「……わかってるって……」
「好きなら普通のことだろ。実那都、母さんがわかってるからってこのくらいで大騒ぎするんじゃねぇぞ」
航がいろんな気持ちを明け透けにするのはうらやましい。見習おうと思っても、そう簡単にできることではない。自信という裏付けが必要だ。
「大騒ぎしない自信ないけど……逃げないようにする」
じろりとした目で見られた実那都はやむなく付け加えた。
航はにやりとくちびるを歪める。してやったりという表情ではないし、おもしろがってもいない。その証拠に、航はからかうこともなく黙している。ごまかすように笑って見せたのかもしれなかった。
「送ってく」
「うん」
もう八時をすぎているけれど、それを理由に送られるのを遠慮しても航が聞かないことはわかりきっている。実那都は素直にうなずいて、自転車置き場に向かった。
アルバイトは博多に出てもかまわなかったけれど、交通費を考えると地元のほうがお金を貯めるという面では有利だった。それに、自由になる時間が減っても、航がこんなふうに気軽に来られるぶん、さみしさは紛れている。
ただ、こんな時間も長くは続かない。高校生でいられるタイムリミットがもう一年を切って迫っていた。
「実那都、進路だけどさ……」
自転車を押して並んで歩きながら云った航の口ぶりはためらいがちだ。
いつかは――いままでもたまに話すことはあったけれど、踏みこんで話したことはなく、だからいつかはちゃんと聞かなければならないと思っていた。実那都のことではなく、航の進路だ。実那都は働くと宣言しているし、就職活動は夏近くにならないと、いま問われても答えようがない。
一方で、航が大学進学することは知っていても、どこにするのかまでは訊ねたことがない。訊ねることでふたりが離れることがはっきりしてしまうのを避けたかった。
そんな実感はずっとあとまわしでいい。わかっていることだから。
そんな心境を知ってか知らずか、航は三年生の一学期が始まってもいないのに切りだした。
聞き飽きたコマーシャルソングが店内スピーカーから延々と流れるなか、実那都はスーパーの制服から私服へと着替えをすませてロッカールームを出た。
“お疲れさまでした”という言葉も“おさきに失礼します”という言葉も、すっかり身について、従業員とすれ違うたびにそれらを繰り返しながら外に出ると、実那都は立ち止まってひと息ついた。
春になって暖かくはなったけれど、四月に入ったばかりだ、夜になると羽織るものが一枚は必要になる。実那都は左腕にかけていたデニムのジャケットを羽織った。斜め掛けをした胸もとのボディバッグから自転車の鍵を取りだしたとき。
「実那都」
ちょっと遠くから航の声がして、ぱっと振り向いた。
その背後の照明のもと、航の顔は逆光になって見えないけれど、近寄ってくる歩き方とさっきの声は航だとはっきりわかる。約束もしていなかったし、連絡もなかったから驚きつつ実那都は首をかしげた。
「航。どこか遊びに行ったの? その帰り?」
「いんや。会いにきた。春休みなのに実那都はバイトばっかりだからさ」
嫌みでも苛ついているわけでもなく、航は本音で不満を漏らしただけにすぎない。それは、隠し事をしないという、航の誠実さの表れだ。
「でも、昨日も会ってるよ。豆乳のドーナツ買いにきてた」
スーパーのなかの総菜屋で売っている豆乳のドーナツは、そう甘いわけでもないのに航はお気に入りらしい。
この総菜屋で実那都がアルバイトを始めたのは半年前、高二の夏休みだ。バイトの終わりに航と待ち合わせをして、何気なくドーナツだからと実那都が買っていって一緒に食べたとき以来、嵌まったという。
昨日も、実那都が働いている時間にやってきて買っていった。そういうとき、航は無遠慮に売り場から実那都の名を呼ぶ。窓で仕切っただけの奥の作業場は売り場からも見え、はっきり聞こえるくらい大きな声を出すから、実那都だけではなく周りにも筒抜けで、最初の頃は呆れるやらおもしろがられるやら、実那都のほうが恥ずかしかった。航が客という立場のせいか、咎められなかったのは不幸中の幸いだろう。いまや名物扱いだ。
航は正面に来て立ち止まると、くいっと自己主張をするように顎をしゃくる。
「昨日は会ったうちに入らねぇ」
「でも、おとといの夜は祐真くんのサインを家に持ってきてくれて、ちゃんと話してる」
ああ云えばこう云う、そんなことを繰り返しているうちに航はひどく顔をしかめ、その表情のまま顔をぐっと実那都に近づけた。
「おとといはおととい、昨日は昨日、今日は今日だ」
「わかってる。せっかく会えてなんでもいいから航とお喋りしたがってるだけ」
実那都が云うと、航は一気に破顔した。すると、ふたりの顔は間近にあるはずも距離があったのだと気づかされる。顔を傾けた航は素早く実那都のくちびるに口づけて、上体を起こした。止める間もないのは、やはり距離が近すぎるせいだ。
「見られる!」
「この程度のキスでだれが咎めるっつうんだよ。挨拶がわりにしかなんねぇ」
照れてばつが悪い、とそんな段階は超えて、どきどきするのは変わらないけれどいまみたいな不意打ちのキスには慣れた。それを航は序の口みたいに云う。じゃあ、挨拶がわりじゃないキスはどんな感じだろう。
航がそこからさきに進む素振りはなくて、だから実那都は単に一緒にいられるうれしさと安堵感いっぱいでいるけれど、いまの言葉は俄にさきのことをほのめかして聞こえた。航にその意図はなかったとしても、その意思がないわけではないから。
「だとしても、博多みたいにあちこちから集まる場所と、こういう知った人と会ってもおかしくない場所じゃ違う。引き返せなくなりそう」
「どこに引き返すんだよ」
「……って訊かれても困るけど……航のお母さんに知られたら、航の家に行けなくなりそう」
「てか、人の噂で聞かなくてもとっくにわかってるだろ」
「……わかってるって……」
「好きなら普通のことだろ。実那都、母さんがわかってるからってこのくらいで大騒ぎするんじゃねぇぞ」
航がいろんな気持ちを明け透けにするのはうらやましい。見習おうと思っても、そう簡単にできることではない。自信という裏付けが必要だ。
「大騒ぎしない自信ないけど……逃げないようにする」
じろりとした目で見られた実那都はやむなく付け加えた。
航はにやりとくちびるを歪める。してやったりという表情ではないし、おもしろがってもいない。その証拠に、航はからかうこともなく黙している。ごまかすように笑って見せたのかもしれなかった。
「送ってく」
「うん」
もう八時をすぎているけれど、それを理由に送られるのを遠慮しても航が聞かないことはわかりきっている。実那都は素直にうなずいて、自転車置き場に向かった。
アルバイトは博多に出てもかまわなかったけれど、交通費を考えると地元のほうがお金を貯めるという面では有利だった。それに、自由になる時間が減っても、航がこんなふうに気軽に来られるぶん、さみしさは紛れている。
ただ、こんな時間も長くは続かない。高校生でいられるタイムリミットがもう一年を切って迫っていた。
「実那都、進路だけどさ……」
自転車を押して並んで歩きながら云った航の口ぶりはためらいがちだ。
いつかは――いままでもたまに話すことはあったけれど、踏みこんで話したことはなく、だからいつかはちゃんと聞かなければならないと思っていた。実那都のことではなく、航の進路だ。実那都は働くと宣言しているし、就職活動は夏近くにならないと、いま問われても答えようがない。
一方で、航が大学進学することは知っていても、どこにするのかまでは訊ねたことがない。訊ねることでふたりが離れることがはっきりしてしまうのを避けたかった。
そんな実感はずっとあとまわしでいい。わかっていることだから。
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