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第8話 Love Call

6.

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 航たちを見送って、持ち場に戻ろうと身をひるがえすと実那都は轟木と目が合う。
 ついさっきの、“よしよし”に近い航のおなじみのしぐさは実那都の気分を軽くするけれど、大学生ともなるとさすがに子供っぽく見られそうだ。何か云いたそうにしている轟木に向かい、実那都はごまかすように肩を少しすくめた。

「なんか実那都ちゃん、愛されてるって感じだよね。だれも……っていうか、僕が入る余地はやっぱりなさそうだ」
 途中で云い直した轟木の言葉はちょっと遠回しな告白とも受けとれて、実那都はびっくりする。けれど、言葉の綾だったり、ただの冷やかしだったりにすぎず、真に受けるほど自意識過剰ではない。それに、別の見方もできる。
「もしかして……轟木さんてカノジョはいなくてもカレシがいたりするんですか?」
 実那都の返しをすぐには理解できなかったらしく、轟木はちょっとの間、ぽかんとしていた。実那都が云い当てたのか、突拍子もない質問だったのか、やがて轟木は吹きだした。

「悪いけど、藍岬くんは全然、僕のタイプじゃないよ」
 実那都がほのめかしたことを、轟木は冗談ぽく否定した。ストレートではない切り返しは機転が利く証拠だ。
「タイプで云えば、きっと航の好みが変わってるんです」
「ってことは、おれも嗜好が変わってるからカノジョができないのかもね」
 轟木は実那都の揚げ足を取るようにして軽口を叩いた。
 実那都には航がいる。轟木はそう知っているのだから、やっぱり本気に捉えたらずうずうしい。実那都は悪乗りした冗談だと笑ってすませ、ちょうどやってきた客の対応に当たった。

 好みというのは、自分で云っておきながら言い得て妙だと思う。なんの取り柄もない――とそう云ったら航が気に入らないだろうから、少し譲って、“特別な”取り柄もない実那都のどこがそんなに好きなのか、航に訊ねるのは酷だ。航の何かしらにぴたりと触れる。そんな好みに実那都が嵌まったということだ。
 強引に付き合うことになった実那都の感覚はそれとはたぶん違っている。
 いまからだ――と最初の日の言葉が、実那都の琴線に触れた。例えば、ガチョウの雛が最初に見たものを親と認識するような感覚で、実那都にとって航は絶対的な存在になっている。少しまえに思ったとおり、もしかしたら加純にとっても。


 バイトを終えて裏口から出ると、メッセージをもらっていたとおり、航がすぐそこで実那都を待っていた。
「お疲れ」
「うん。加純のこと、ありがと」
「いんや。いろいろ聞きだすのにちょうどいいからよ」
 航の口から思いもしない言葉が返ってきて、実那都はびっくりしながら首をかしげた。
「聞きだすって、なんのこと?」
 航は答えるまえに実那都の手を取る。空はすっかり暗くなって少し熱気は和らいでいるがまだまだ暑い。実那都は繋いだ手をわずかに引かれて航と歩き始めた。

「実那都は家族と付き合うのが苦手だろ。そうなったきっかけも聞いてるし、気持ちも想像くらいならできる。まったく消息を絶つほど絶縁してるわけでもねぇし、それは実那都のやさしさだっておれは思ってる。おれにできるのは、実那都のかわりに状況を知っておくくらいしかねぇ。なんかあったときに、最善の判断ができるようにさ」

 苦手というのは、実那都の両親に対する距離感をうまく表している。そういう機知に富んでいたり、航が自ら云うところの多感さだったり、航が決して無神経じゃないのは知っているし、そのうえで常に航が実那都のことを考えてくれているのは知っているけれど。
「わたしのやさしさって、航はいいほうに考えすぎだと思う」
 人から悪く思われたくないというのは普通にある感覚でも、航の中で実那都が美化されるのは違う気がする。
 一年半前、両親と――特に母親と噛み合わなくなった発端を航に話したとき、航は実那都の拗ねた気持ちを醜くないと云った。はじめてだれかに話して、それが航で、嫌われなかったことに実那都は安心して、うだうだしたこだわりは消えている。そんな助けは必要だったと思うけれど。

「てか、悪いほうに考えらんねぇ。病気だな」
 航の言葉に実那都は笑った。反論はできない。なぜなら。
「わたしもそうかも」
「でないと、割に合わねぇ」
「ぷっ。もっと云えば、加純とふたりきりにしても疑わないくらい航を信じてる。嫌だけど」
 実那都が本心を隠さず付け加えた言葉に、今度は航が吹きだすように笑う。
「加純ちゃんて、福岡にいるときはかまわれすぎだったせいか、モデルって仕事はやってても子供っぽい素直さがあるなって単純に感じてた。いまもそう見えるけど……」
 航は中途半端なところで言葉を切ると肩をすくめ、少し待ってみてもそのさきを云わない。実那都は半歩だけ先に行って航を覗きこんだ。

「加純は変わった?」
「ここで独り暮しを楽しんでるくらい、東京になじんでることは確かだ。実那都とは違う逞しさがあるよな」
「……わたしも逞しい?」
「一年半前、おれがいるのに、独りでがんばろうってしてただろうが」
「逞しくないよ。すごく不安はあったから」
「それでもがんばろうってのは、根性あるってことだ」

 航には実那都がどんなふうに見えているのだろう、とたまに考える。どちらかというと、実那都は頼りなくて、だから航は守ろうとするのだと思っていた。一緒にいたいという気持ちとは関係なく、いつか自分が重荷になりそうな不安は消えない。けれど、逞しいとか根性があるだとか、航がそう実那都を捉えているのだったら、実那都をかまうのは航の我欲で、それに実那都が甘えるということは本望になるのだろうか。

「わたしより航のほうが断然、逞しいよ。だから、わたしはラクになれてる」
「そうでなくちゃ、実那都をさらってきたおれは、口ばっかりで信用できないテキトーな人間てことになる」
 そう云ったあと、ふん、と何やら不遜な様で鼻を鳴らして航は立ち止まり、身をかがめて実那都にぐっと顔を近づけてきた。
「おれが“逞しい”のはそんだけじゃねぇけど」
 実那都はいつもの癖で反射的に顔を引きながら、思わせぶりな言葉の意味を考えた。外灯の照明が航の顔を陰らせていて、そこに車が通ればライトが顔を横切る。その様子は、意地悪っぽくからかった声音と相まって悪魔っぽい。それでぴんと来た。

「……なんだか……ヘンなこと云ってる?」
「ヘンなことじゃねぇ」
「こんな人がいるところで云うのはヘンだから!」
「つまり、おれの云ったことが通じてるってことは、それを認めてるってことだ。まあ……」
 と、航は話が続くと見せかけて実那都を油断させ、人通りがあるにもかかわらず顔をさらに寄せるとかすめるようなキスをした。
「続きは帰ってからだ」
「……ずっとスタジオで練習してたのに、まだ体力が有り余ってる? 航より寝転がってるわたしのほうがダウンするって……」

 航が笑いだして、実那都はいったん口を噤んだ。外で公然と話す話題ではない。さっき航を咎めた実那都が話を振っている。自分で自分に呆れつつ、人目を気にして、航、とたしなめるとようやく笑い声は止まる。が、航はニヤついたままだ。
「禁欲生活が長かったからな。それに、疲れてるときこそ振りきりたい。実那都は、食後ならぬ、一日の終わりに食べるデザートだ」
「デザートならドーナツ買ってるから!」
 実那都は悲鳴じみて抵抗を試みたけれど、航は薄らと気味悪く笑った。

 航の食欲と体力は比例していて、帰ったあとダブルでデザートを満喫したのはもとより。実那都にしろ、一方的にダウンさせられるのではなくて、肌を合わせるのは満腹感に似た心地よさがある。さながら、一日の終わりに与えられるご褒美だ。
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