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新たな日々

2・Chapter 21

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     エルディー
――――――――――――――
 夜闇の中を瞬く二つの光が交差する。
黄色の光は次第に灰色へと変わり、白色の光が衝突し重なる。
周りの人間が指を動かす程の一瞬の時間の中で、絶えず止まる事無く突き進む。
地面を滑りジャニスの脚を狙って蹴りをぶつけようとするが、難なく回避されてしまう。
拳を振るうと一直線にジャニスの体にクリーンヒットする。
「うォッ」
後へと下がったジャニスの姿を見て攻め込むと、奴の脚が俺の腹部へと直撃。
痛みを感じるままその脚を掴み、スピードのままに地面へと放り投げる。
地面に倒れこみながら直ぐに体制を立て直すジャニスを追い、次の渾身の一撃を蹴りによって叩き込む。
「グッ いいぞ。そのまま解放するんだエルディー君!!」
「人の命を容易く奪うオマエを俺は許さない!!」
二人の拳がフルスイングで叩き込まれ衝突した時、衝撃波が発生する程のスピードがでていた。
辺りに激しいソニックブームが巻き起こり突風が生まれる。
再び時間の流れが通常へと戻った時、俺とジャニスは互いに押されて距離が離れた。
だが、俺と違って奴はまだまだ疲れ知らずの様に立っている。
「ジャニス。オマエがあの時いた科学者だとしたら、父さんはどこにやった!?」
「君の父親かぁ。彼はとても優秀な科学者だったよ。ただ頑固すぎるのが良くなかったがね」
「どこにやったんだ!!」
「別の時代で殺しておいたよ。邪魔になったからね」
「クソヤロォォォォォォ」
連続する二人の攻撃の打ち合いの中、飛び上がりながら踵落としをジャニスの肩にぶつける。
重い攻撃にジャニスは体制が低くなりながらも、そのままアッパーで俺に攻撃を撃ち返した。
後へと下がる俺に、ニヤリと微笑む。
「それでも力の解放はしないか。何を思い留まっている?」
奴はそう言いながら辺りを見渡す。
次の瞬間にセリアは火炎を巻き起こしジャニスへ放射するが、右腕を火炎の方へ向けて超高速右回転で風を巻き起こした。
その風で火炎が掻き消されて、真っ直ぐと俺の方へと駆けだした。
俺が反応して力を使った時には遅かった。
腹部へと鋭いパンチを捻じ込まれて回し蹴りに飛ばされる。
「ッッ……」
視界の中が地面へと変わって、自分が倒れこんだ事を理解する。
ゆっくりと立ち上がると、郷間が駆けだしてジャニスへと攻撃をしかけたのが見えた。
その速さに追いつく程の瞬発力とパワー。
だが、それは地面を蹴ってからの一瞬だけだ。
ジャニスの速さは郷間の一撃一撃を回避して攻撃を叩き込んでいく。
俺が駆けだしてジャニスへと高速の一撃を叩き込もうとした時、ジャニスは俺の攻撃を流れるような身のこなしで回避した。
その一瞬のタイミングで郷間のストレートをモロに直撃。
だが、その攻撃を受けながらもその場で立ち止まっていた。
左頬にあてられた拳をガントレッドで叩き払いのける。
「コンビネーションは必要無いだろう。エルディー君のが完全に力を解放できないのなら、まだ最後の手段が……」
ジャニスが一瞬で消えたかと思うと、次の瞬間俺達の前へ戻ってくる。
美鈴の死体を抱えているアイツに、俺の中の何かが切れかけた。
「亜空間には多次元宇宙のあらゆるエネルギーが密集するという説が会ってね。これは良い実験だろう。ほうらっ」
小ワームホールはまだ完全に人が歩き通れるサイズではなかったが、放り投げられた美鈴の体は白い渦の中へと入り込んでいく。
俺が駆けだそうとしたのを郷間が腕を掴んで止める。
「やめろエルディー。諦めろ」
渦の中へと入り込んだ先は、青や赤、黄色など多彩な粒子が発光しながら移動している。
そんな中へ入り込んだ美鈴はどこか彼方へと消えていく。
ジャニスはニヤニヤとした表情を浮かべて、異常の無いワームホールを見ながら頷く。
「まったく変化がみられない。つまらないな」
「ジャニスゥゥゥゥゥゥ!!」
全身を移動するエネルギーがファストパワーとリンクして無限の力を得ているのにもかかわらず、飛び出した超高速も無意味だ。
ジャニスの一撃の攻撃の方がその一歩先を行っている。
水平蹴りを頬に受けてから跳ね飛ばされると、体制を立て直すよりも速く俺の後ろに回り込まれ拳を叩き込まれた。
押された途端に振り返ろうとしたが、更に後から首を掴まれ前のめりに引っ張られる。
「君のサポートをしたり、助言をしたり。短い期間だったが私も楽しかった。だが、私の人生はコッチではないのでね」
俺の体が押された時、ジャニスが超高速で移動していくのが分かった。
その風を体で受けて顔を振り上げて辺りを確認する。
左右からの通りすがりのラリアットを連続で喰らわせられ怯んでしまう。
まだ、あの速さに到達できない。
どうしてアイツは俺の力を上げようと必死になっているんだ。
疑似的なファストパワーなら、どこか隙があってもおかしくないのに。
オリジナルの俺よりも、ジャニスの方が力をより知っているのかもしれない。
「遊びの時間もそろそろ終わりにしよう」
ワームホールの手前で、ジャニスが高速状態から元の時間へと戻る。
さっきまでと状況が違うのは見て直ぐに分かった。
ジャニスの目の前には、俺の母さんが立たされていた。
セリアが一度振り返って確認し、それが幻影でも偽物でもないのは確実だ。
さっきまで母さんのいた場所には誰もいない。
ライティエナがやっとで動きだして立ち上がる。
「エルディー、ライティエナ。ごめんね……私は貴方達に本当の幸せをあげてあげられ……ッッ」
あの時と、ディーンの時と同じ様に背中から一撃で胸を貫く。
一瞬でその命の炎が潰し消された。
動こうとしたライティエナも既に力不足で、地面に膝をついて見ている事しかできない。
「残念だが余興はもういらないのだよ」
炎と稲妻が落ちた。
ジャニスの予期しなかった出来事に、笑っている表情が歪む。
倒れこんだ母さんは、そのまま動かず辺りに血を広げていく。
全ての時間が止まった様に感じた。自分の体から絶えずエネルギーが溢れ出ている。
白い粒子が体から出ながら、電流が迸る。
駆けだした途端に、残像を残す光と共に炎が地面に後をつけていく。
一撃の拳を振りかざすがジャニスは超高速で、どうにか拳を横へ回避する。
だが、速さは互角だった。
炎を巻き起こしながら連続する攻撃は、ここにいる全員は真面に目で捉える事はできないだろう。
通過する0.1秒の世界で二人はワームホールの周りに灰色と白の残像を残す。
「来た。ついに来たか!!」
怒りを通り越して、自身の闘争心のみが身体を動かしていた。
一撃がクリーンヒットすると、ジャニスのガントレッドに更にヒビができる。
エネルギーが周囲に放出する度に、ワームホールは大きくなり向こう側へのゲートが正しく機能しはじめた。
頭を掴まれ引っ張られるが、振り回されて地面に叩き付けられる前に両足で着地。
両手でジャニスの腹部を強引に押しこむ。
強い衝撃を受けて後へと下がったジャニスに、一歩目と同時に目の前へと移動した。
加速したパンチを叩き込もうとしたが、速さはあくまで互角だ。
その拳に拳が重なる。
「ウラァ!!」
ジャニスの気合いの入った声の後、俺は脇腹を蹴られた。
廃倉庫の壁角に激突して粉砕。
俺の体は既に悲鳴をあげているようだった。
痛んで痛んで、それでも感情が俺を動かす。
「私の計画通りだ。凄い成長だったよエルディー君。その力なら、君一人で街をクリーンにできるだろうね。フハハッ」
この土地の中を粒子の光が回転している様に移動している。
全員がそれを見ていた。
ジャニスの目論見に気が付いたセリアが、真っ先に一つ目の機械へと炎を浴びせた。
青色の炎が物質を高温にしている。
ジャニスは振り返り、直ぐに駆け出そうとした。
「ジャニス!! オマエは俺のこの手で!!」
叫びながら駆け込んだ。
もう一度拳をジャニスへと叩き込もうとした時、自身の体に力が上手く入らない事に気が付く。
「邪魔ッ」
振り払うジャニスの攻撃が俺の額に激突し、ジャニスの目の前には郷間が現れた。
郷間の圧倒的なパワーがジャニスを殴り飛ばす。
ワームホールの手前まで滑ったジャニス。
奴の足に押された母さんの体が、空気を吸収していくワームホールの中へと滑り吸い込まれて消えていく。
後へと振り返るジャニスは微笑んでいた。
「もうオマエ達に用は無い」
稲妻が巻き起こっている渦の中へとジャニスが駆けだそうとした時だった。
郷間が自分の体を使って、ジャニスの体を捕まえた。
両腕を脇から絡ませるようにして、後は力が無くなるまで一気に熱を放っている様子だった。
熱のエネルギーを消費して郷間は怪力で取り押さえる。
それを見つめていると、セリアが機械の一つを完全に破壊。
爆発が起こった音が耳に入り、取り押さえられながらも両足で走っている脚を更に速める。
セリアのしている事が理解できたのか、東条が銃を片手に別の装置を探しに駆けて行った。
郷間は只管に両足で地面にへばりつく。
「貴様等ァァァァァァ」
銃声が複数回聞こえると、機械がショートしたのか爆発音が聞こえた。
それと同時に辺りの粒子の動きが変わる。
ワームホールに広がっている風景が一変した途端、大きい渦は吸引力を増す。
ジャニスは郷間に頭突きをして振りほどこうとした。
方向を変えて逃げようとした奴の姿を郷間は逃がさなかった。
俺の体はボロボロで、もはや走る事すらできない。
「郷間……」
「今までよくやってたなエルディー。こういう事をずっとやってたんだろ。オマエはスゲーよ」
コッチを向いている郷間はジャニスを再び捕まえているが、吸い込まれていく間、ジャニスは脱出しようともがいていた。
あの渦の先は美鈴が投げ込まれた不安定な空間に繋がっているのだろうか。
渦が風を起こす程に吸引力が増していくのを感じて、俺はセリア達の方へと視線を向けた。
「早く離れろ!」
俺の言葉を聞いたセリアと日向が倒れているアズサを引きずって移動させていく中、ライティエナの姿は既に無かった。
鞘草は既にディーンの体を持ち上げてから離れていく。
そんな中、渦の威力はどんどん強くなっていき、壊れた壁や周囲にある石や砂までかき集めては向こう側へと吸う。
「あの中は亜空間に繋がっているのだぞ。キサマ死ぬ気か!?」
「アンタみたいなのを生かしてはおけねーだろ……セリアッ 炎を頼むぜ!!」
その言葉に従ってセリアは大量の炎を郷間の方へと向けて放つ。
距離は離れているが、ワームホールの方へと炎は吸い込まれて郷間へと到達した。
両足を全力で動かして吸い込まれる事を拒んでいるが、炎を二人が受けながら郷間は後へと引っ張り進もうとする。
もうすぐ後ろはワームホールだった。
それでも吸い込まれない様にと、郷間の力に抗いながら走り続けるジャニス。
郷間の体もジャニスの力に引っ張られて一歩前へと出てしまうが、そこでとどまってワームホールの方へと下がる。
「この世界にはエルディーみたいなのが必要だろ。だから俺が先にヒーローになってやる。最初に会ったあの日の戦いも楽しかったぜ」
「やめろ、郷間……」
「俺は、ヒートコンバージョンだ!! けっこう気に入ってんだよな。この二つ名……じゃ、先に美鈴に会ってくる」
炎を大量に吸い込んだ郷間のパワーはもはやファスターの出せる力を上回っていた。
大量の熱エネルギーを消費して蒸気の様な煙を出しながら、郷間はジャニスを持ち上げて後へと下がっていく。
後は吸引力に身を任せて、ジャニスごと渦の中へと消えていくのだった。
表情をゆがめているジャニスの顔が記憶に刻み込まれた。
ワームホールは不安定のままゆっくりと閉じていく。
白い粒子を全て吸い終えて、辺りに広がるエネルギーが無くなる。
そのまま完全に渦は消えてしまった。
死んだ仲間も、母さんも、生きていたはずの仲間も跡形も無く消えた。
結局俺は、この力で何も無しえなかった。
膝から崩れる様に座り込んで、後の事はよくは憶えていない。
ただ、この戦いは幕を閉じたんだ。

◆◆◆◆◆◆◆

     セリア
―――――――――――――――
 あれから一ヶ月。季節は秋へと変わろうとしている時期へ突入しようとしていた。
アビリティー犯罪は少なくなったものの、今も力を使って悪に手を染める人間がいる。
収容所からまた脱獄者がでたりもしたらしいけど、ファスタードゥルゴーイとの戦いの日以降からは普通な日々が続いていた。
ただ、家に帰れば美鈴の姿が無く、不登校だった土筆が学校へ通いはじめたのが違う点だった。
ステイ先の功鳥家ハウスに帰宅したけど、今の時間は誰もいない。
アズマの母の多加穂さんは、私の通う霧坂学園の理事長をやっていて、今日も夜頃に帰宅するんだろう。
アズマの弟の土筆はというと、今まで通りサッカー部で練習中。
自分の部屋へと入ると、凄く寂しさを感じた。
「はぁ……ただいま美鈴」
美鈴の遺体はジャニスが亜空間に投げ込まれ、私の持っている彼女の形見は、写真と彼女の使っていたノートPC。
それに開発していた各種の機材だった。
どれもアズマの部屋に置いているのだけど、美鈴と私の写っている写真は自分の部屋に飾っていた。
「さてと、来夢に連絡とらないと」
取り出したスマートフォンの画面にグループラインを開く。
超能力研究会。
その名前の通り私の所属している部活。
文字を打ちこんでから送信した。
【今日の活動はする?】
私の送ったメッセージに対して、来夢が真っ先に既読になり返事が返ってくる。
【家出たよ。今日もパトロールでしょ】
あの日を境に、私達の部活も活発になっていた。
学内では異能力を扱う人達が集まり入部して、今では少しだけ人数が増えた。
国家絡みで動いていたらしい霧坂学園は、アビリティーを五徳市の霧坂学園へと集中させている。
その過程で、魔夜もつい最近転校してきたばかりだった。
「この街を護らないとね。美鈴」
写真の美鈴へ向かって、人差し指でつんつんと触れる。
私はいつも通りの日常の中で、街から犯罪者を減らそうと秘密の部活動をしている毎日。
でも一人だけは違った。
あの日に色々なモノを失くしてしまったあの男。
エルディーだけは……
「そうだ。アズマのお見舞いにも行かないと」
もう一度グループへと連絡しようとスマートフォンに触れる。
そこには既に、部長の野坂さんが【霧坂ベーカリーで待ち合わせね】などと送られてきていた。
朱里はスタンプのキャラでOKマーク。
魔夜が【わかった。】と一言入れている中に、私が打ち込む。
【私、御見舞いに病院へ行くから少し遅れるかも】
そう打ちこんでから送信した。
たぶん。まだエルディーは家に籠っているのかもしれない。
校舎内ですら全然見ない彼は、今何を思って何を感じているのかは分からない。
分からないけど、問題なのは自分でそれを振り切れるかどうかなんだ。
私は、会えなくなった美鈴の分もその意思を引き継ぎたかった。
凄く悲しくて寂しい事だけど、私は止まりたくなかった。
止まってしまったら、本当に悲しさに溺れてしまう様な気がして……
だから美鈴のしようとしていた事を私が引き継ぐ。
アズマの為に異能力者も普通の人も平和に過ごせるような街を保つんだ。

◆◆◆◆◆◆◆

     エルディー
――――――――――――――
 家の中は薄暗く、夕日の光をカーテンで遮りベッドの上に座っていた。
何もかもが止まった様な感覚のまま、あの日から何も変わっていない。
ただ只管に、何もしたいとは思えなかった。
「はぁ……」
家中のカーテンを閉めて、自分の部屋のスタンドライトの光が俺を照らしている。
俺は、何をしたかったんだっただろうか。
宿敵との対決を終えてから、俺はずっと立ち止まっていた。
まるであの日から進歩が無ければ、今までやってきていた活動すらしていない。
南東の空に広がる異空間への渦は未だに残っていて、アビリティー達はファスタードゥルゴーイの脅威がなくなり、俺が活動をしなくなった事で頻繁に事件を起こしている。
強盗に窃盗、暴力とテレビをつければアビリティーについての特番ばかりだ。
昔の俺なら違っていたかもしれない。
直ぐに駆け出して、被害者を減らしたい一心で誰かの力になっていただろう。
あの日から、俺はファストパワーが使えなくなっていた。
「何をどうすればいいんだろう」
誰も居ないのに独り言を呟き、虚ろな目で自分の手を見つめる。
ただ分かるのは、俺は誰にも必要とされていないという事だった。
力が無い俺は戦う事もできず、その気力すら無い。
何も起こらない家の中で、食べては寝ての繰り返しだ。
あのワームホールの事を色々と調べ、研究資料を見たところ詳細が分かったが、今となってはなんの意味も無い。
ディメンションスロープという、多次元を移動する為の通路。
変化が激しく、目的の場所へと行くには相当な特殊エネルギーとコントロールが必要だったらしい。
それを作動させる為に、ファスタードゥルゴーイは俺のオリジナルのファストパワーを使わせたかったんだ。
唐突にスイフトが姿を現す。
肉体ではないホログラムの様な身体で、俺の方へと歩いてきた。
「今更何の用だよスイフト」
『貴方は時間を護ったのよ。その流れに沿うには、貴方に接触しないのが最善だった』
「美鈴が殺されたのにか?」
『それも時間の流れによるもの。ソレに逆らう事は許されない。 その調子だと、もう力は使えないみたいね』
俺の方を見てから彼女は言ってくる。
まるで退屈そうにしながら、彼女は俺の事を上から見下ろしていた。
『力自体はリンクしているのだけど、使えない様に作用させているのは貴方。本当ならもう少し役にたってもらおうと思っていたのだけど……』
「他に行くんだな」
『そうね。さよならエルディー』
そう言いながら背を向けたスイフトは、急に消えていく。
だけど、去り際の彼女の目は俺を睨んでいるようだった。
彼女の次の行動なんて、俺が理解できるはずもなく、でも確かに何かを感じた気がした。
久々に誰かと話したのに、全然楽しくもなく、余計に胸の中が苦しく引き締まる。
そして、気力はやはり向上することはなかった。

◆◆◆◆◆◆◆

 白い天井に模様がある。
ここは何処だろうかと考えていても、やっぱり分からない。
俺は誰だったのだろうか、それすらも分からない。
ただ、俺は男で、布をかぶって眠っていたんだ。瞼を開けたその景色は白ばかりで、ゆっくりと体を起こすと点滴の管が自分の腕に繋がっている。
強引にそれを引っこ抜いてから、辺りを見渡した。
白い壁に白いカーテン。そして白い天井と窓からは日の光が黄色く俺を照らしている。
「……?」
さっきまでいなかった部屋の端に一人の女性が立っていた。
制服姿の彼女が、突然白いドレス姿へと変わると歩み寄ってきた。
「やっと、目が覚めたのね」
「俺は……」
ずっと長い夢を見ていた様な気がするのに、全然憶えていない。
何一つ憶えていない。眠る前の記憶も憶えてはいなかった。
分かるのは文字と言葉。
それに、常識的な知識ばかりだ。コップがコップであるのが分かる様に、そういう事は分かるらしい。
彼女はカルテを手に取って、俺の方へと見せてきた。
「功鳥 梓馬。俺の名前は、アズマ?」
「そうよ。貴方にはしないといけない事がある。重要な事が、ね」
カルテを手に取ってからジッと見ていると、そこに居たはずの女性の姿は消えていた。
俺はベッドから足を下ろして、ふらつく足取りで着替えを手にした。
まるで用意されていたかのように置かれていた服は、俺が切るのにピッタリだ。
ワイシャツに黒いズボンにベルト。
窓から吹き込んでくる風は、少し涼しさがあり、日差しはほんのり温かい。
俺は置かれていた肩に羽織る布を着て、マントの様に下へと裾を伸ばす。
銀色の鉱石の入っている小さなカプセルのネックレスを首にかけて、俺はその場を後にした。
俺にはやらなければいけない事が、有る気がするんだ。
その為には、記憶が必要だ。
病室から出ていき、廊下を歩き進んでいく。
まずは、この街を知る必要がある。
夕日の光に包まれている街の中へと、アズマは出ていった。
これが新たな戦いへと向かう一歩だとも分からずに、記憶を失くしたアズマはただ歩き進んでいく。
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