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ダンジョン攻略5
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宵闇の洞窟を、男性の肩を借りながら辛は歩く。
いつ何処から襲われるかわからないため、なるべく足音を立てずにと意識しているものの、他人行儀に振る舞う折れた方の足は、ずりずりと粗めのヤスリをかけているのような音を止めようとしない。使えないならいっその事切り落としてしまえば音は止むが、今度は匂いに誘われてモンスターが寄ってくる始末。
故に多少の物音は仕方がないと割り切りながら前へ進むことを優先する。何かに追われ歩き始めた逃避行は想定以上に芳しくなく、1歩1歩噛み締めるように足を前に出して周囲の音に注意することを繰り返していては当然のことだった。
緊張からか、辛の額には玉の汗が浮いている。それもそのはず、この状況では最弱のモンスターに遭遇しただけで、その数を問わず致命的になりうる。時折分かれ道があるだけの隘路には身を隠すような場所はなく、じっとしているのもそれはそれで落ち着かなく、ただ祈りながら進む他なかった。
……限界かな。
体力もそうだが、なにより精神的疲労が大きい。常時警戒できるように人間の精神は出来ていないのだ。その証拠に肩を貸してくれている新人の顔にも疲労が色濃く出ていた。
そして、足が止まる。
「また分かれ道……ですね」
目の前に広がる2択の道を眺め、新人の子が言う。どちらかが正解でどちらかが不正解、いやどちらも不正解なのかもしれない。耳をすませてみても、四方からざわめきのような環境音が大きくなっているせいでもはや判別も難しくさせていた。
もう留まれない。進んでいるという虚勢が剥がれ落ちれば恐慌に陥る。あるかどうかもわからない希望の光を求めて、されど気負いすぎるなと、
「こういう時、どっち選べばいいと思う?」
その口調はわざとらしい軽さを見せる。
「さぁ。でもだいたい片方は地獄と相場が決まっているような気がします」
「安心して。両方だめだったこともあるから」
「そりゃ安心ですね。下手に悩まなくて済むんですから」
乗るか、乗らないとやっていけないのか。
同じく軽く返す新人に辛は力無く微笑む。世話になっている立場で申し訳なく感じながらも、もう先がないことを予見していた。
なにか1つ、たった1つでいい。例えば上に向かう階段が見つかるなど、この状況を好転させるようなちいさなきっかけがあれば自分も彼もまだ夢を見られる。そんな期待を胸に目を凝らした時だった。
……あっ。
それに気付き、辛は跳ぶように新人の男を右に押し込む。目が、闇に浮かぶ2つの眼光が網膜に突き刺さったような、本当にそうだったかも確かめる余裕もなく、
「な――むぐっ!?」
「静かに」
突然の行動に目を丸くして驚愕の顔をする男性の口を手で塞ぎ、その耳元に鋭く囁く。抱き合うように密着するとフルスロットルで暴れる心臓の鼓動が男性にも伝わり、生唾を飲む喉の動きが辛の目にも見えていた。
「……行くよ」
男性はこくりと頷く。
足早に、二人三脚で前へ行く。後ろを気にする余裕はとうになくなり、一刻も早くこの場を駆け抜けることのみに集中していた。
だからだろうか、目の前を塞ぐように立つ大きな腹に気付いた時には天井スレスレにある頭から覗く1つ目が2人の姿をしっかりと捉えていた。
「ガアアアァァァ!」
咆哮が洞窟の壁を伝い走り抜ける。
……まずっ!
突き飛ばし、反動で自分も離れる。その間を巨木のような足が通り過ぎ、風が巻き上がった砂と共に残滓として残る。
油断していた、前方への不注意が招いた事態だ。両壁に押し付けられた2人は、男性は急ぎ立ち上がり右腰に帯いていた長剣を構え、辛は踏ん張りきれずに尻餅をつくしかなかった。
巨体の1つ目、サイクロプスと呼ばれるモンスターは攻撃が当たらなかったことを疑問にも思わず再度吼える。2足で立ち、浅い緑色の肌に丸く太った身体、幸いなことに他の個体に比べ1回りも身体は小さく、両手はわきわきと指が動くのみで武器は持っていない。
中層の代表的なモンスターであり、大きくタフでノロマというこれまた代表的な特徴を兼ね備えているため、中層の登竜門的立ち位置でもあり、落ち着いて対処出来れば新人でも十分勝ち目がある相手なので、
「相手はそんなに強くないよ。落ち着いて、攻撃を見切った後切り付ければ勝てるから」
「わ、わかりました」
引けば挟み撃ちも有り得る状況では倒す他なく、辛は地面をまさぐりながら男性に指示を飛ばす。
3メートル近いモンスターを前に、突き出した切っ先は心を写したように細かく震えている。それでもこの時のために3ヶ月以上みっちり訓練した成果が、足に踏ん張りを効かせていた。
剣戟を交える時が近づく。サイクロプスが間合いを詰めに1本踏み出した時、男性は剣を上下に振っていた。
誘い技だ。猫じゃらしのように、しかし鋭い銀光を放つ剣先に相手は間合い測りきれず手を出してしまう。単純ながら確かな効果と実績を持つ技に、サイクロプスも例を漏れず拳を振り下ろしていた。
十分に距離を詰められず放った拳撃は、1歩引くだけで簡単に避けられてしまう。同時に辛は横から無防備な顔面目掛けて拾ったこぶし大の石を投げつけると、そのおおきな眼球に当たり、跳ね返るが、
「ッ――ガアアァ!」
1拍置いてサイクロプスは悲痛な叫び声のような怒声を轟かせる。
それが明確な隙だと気付いた時には、サイクロプスの肌に深い切り傷が刻まれていた。男性の渾身の一振りは左肩から心臓に向かって長い線を描き、
――足りない!
「引けっ!」
強い命令口調は聞き届くことなく、あと1歩届かなかった剣を身体に残し、振り払われた腕の直撃を受けて吹き飛ばされていた。
「かはっ……」
肺から大きく息を吐き出して苦悶の表情を浮かべる男性。しかし吐血はなく、四肢が変に曲がっている様子はない。戦闘は続行できる身体である、が、
「大丈夫っ!? 早く立ちなさい!」
辛が追撃に備えるよう檄を飛ばすと、男性はおぼつかない足取りながらもふらふらと立ち上がる。サイクロプスも盛大に血を噴き出すほどの致命傷に近い傷を受けて激昂しているが、傷の深さに思い通りの行動が出来ず、両手を杖代わりにしてよつん這いになり、しかしそのぬめっとした目だけは男性をしつこくにらみつけていた。
絶好のチャンスだった。相手は息も絶え絶え、このままなら出血死も狙える状況で対する男性は、痛みはあれどせいぜい打ち身程度で行動に支障がない。武器は手元にないが、今刺さっている剣をより深く握り直すだけで決着がつくのだ。
希望が見えた。しかしそう考えていたのは辛だけで、
「はっ――はっ――」
男性は俯きながら荒く呼吸を繰り返す。過呼吸になるほどの吐息は顔を赤くさせ、辛の声も今の状況も届いておらず、ただ下ばかりに注視していた。彼が今どういう心境なのか、窺い知ることは出来ずとも決して良いものであるようには見えず、
「落ち着け、もう一息だよ」
強く励ますが、
「……やだ」
「なに? どうした?」
「もう嫌だあぁ! 無理いぃっ! ああぁぁぁ――」
絶叫。そして痛む身体を引きずりながら、彼は背中を向け、元来た道を戻っていく。
……あぁ。
「……そう、だよなぁ」
逃げた。当然だった。お荷物を抱えて、尚且つそれが命令するだけでなんの役にも立たないのであれば、見捨ててしまいたくなるのも無理はない。むしろ武器も捨てて逃げたことに、判断が遅いと叱咤したくなるほどだ。
なら自分にできることはなにか。先輩として、人として、そして自分らしく。
辛は折れた足を地面に突き立てて立ち上がる。標的を見失ったサイクロプスの1つ目が、新たな贄を求めて彼女へ向く。
一息。鋭く吐き出した息の後に呼吸はなく、左手は前に、右手は中腰に溜めて、
「かかってきな。捨てられても、私はまだ生きてるんだ」
眼光は刃となって、神経を尖らせる。
1つ目の怪物はにんまりと笑ったような、大きく裂けた口を広げ、刺さった剣を気にした様子もなく辛の前に立つ。見上げるほど大きな相手は影を作り、覆い隠すように両手を広げ、
ガツンッ。
金属同士がぶつかったような、大気を震わす轟音と共に2人の拳が重なっていた。
……ははっ。
女の身体は非力だ。もっと背があれば、体重があれば、筋力があれば。正面から受け止めることもできず、重ねた拳はそのまま押し込まれて身体を浮かす。
「ぐっ――」
勢いそのままに地面に落ち、2転3転、ようやく止まった時にはぼろ屑のように伏せる辛の姿があった。肩に激しい痛みが走るが、骨は突き出しておらず、またどこも折れていない。もちろん、心も。
サイクロプスはそのまま近づいてくる。ドスン、ドスンと、足音を立て。辛は寝そべりながら揺れる地面を頬で感じ、動けと身体に命ずるも首から下は接続を忘れたようにピクリとも反応しない。
このままでは……。目だけを痛いほど見開いている辛は突然身体が軽くなるのを感じていた。浮いている、そうだ、投げだされた足を持たれ、逆さ吊りにさせられて――。
ガツン、ガツン。
硬い地面に顔からぶつかっていく。癇癪を起した子供のように、地面に何度も叩きつけられ、額やら唇が切れて血をまき散らす。
……遊ばれてるなぁ。
鎮痛剤の影響もあって、痛みはとうに感じない。ただひとつひとつ壊されていく様子をやけに冷静な目で見つめていた。
遠くなく、死ぬ。もうなす術もない。幸いなことにモンスターは人を殺すか食べるかしかしないため、女の尊厳だけは守れるということだった。いつだったか、別の新人の子がそんなことを言っていたのを思い出す。彼もまた、ダンジョンで行方不明になっていたっけ。
もう何度目か、逆さ吊りのまま、薄く開いた目で見つめる先には深淵を覗く穴があった。生臭い湿り気を帯びた吐息が顔にかかり、
……あぁ、食べられるのか。
抵抗しようにも完膚なきまでに痛めつけられた身体は指1本すら動かすことが出来ず、
「待った!」
踊り食いのように、口に入った頭は噛み砕かれる寸前で外に放り出されていた。
……何が?
状況が良く飲み込めないまま、抱きしめるように迎えていたのは何度もぶつけられた地面で、落下し巻き上げた砂煙の先にはそびえ立つサイクロプスと、
「……舞、ちゃん?」
その頭の上に立つ小さな少女の姿があった。
「辛さん! 無事!?」
無事なもんか。身体は役に立たず、仲間には見捨てられ、それでも、
「……だい、じょうぶ」
絞り出した声は掠れて頼りなくとも、表情には笑みが浮かんでいた。
助けが来た。その事実だけで辛の心に、荒んだやけっぱちの火以外に、明るい灯火が宿る。期待していなかった訳ではないが救助は無理だろうと半ば考えてだけに、喜びに身が震えていた。
それよりも今はすることがある。
「……剣、を」
肺を絞り、捻り出した空気で声帯を震わす。虫の息とはいえまだサイクロプス、敵は生きている。刺さった剣を、鈍く光る死神の鎌を押し込めば……あれ?
視界の中にはあったはずのものが消えていた。おかしい、いつの間に。困る、困るのだ、あれがないとまた誰かが傷ついてしまう。嫌だ、もう何も出来ない自分も、誰かに見捨てられるのも、ここまで来てそんな結末は嫌だ。
もし、考えたくもないが、もしも剣がないなら、舞を逃がさなければ。なけなしの力を振り絞り起き上がろうとする辛に、
「辛さん、安心して」
絹布のように柔らかな言葉が降り注ぐ。
あっ……。
剣が、そこにあった。銀の刀身が怪物の口から生え、その命を終わらせていた。
よかった、と辛は身体を投げ出す。気負い、脳内の興奮が冷めると一気に痛みが襲い掛かり、今はそれが気持ちよく感じて、
「助けに来てくれて、ありがとう」
「ごめん、こっちも迷子だからまだ助かってない」
えぇ……。
いつ何処から襲われるかわからないため、なるべく足音を立てずにと意識しているものの、他人行儀に振る舞う折れた方の足は、ずりずりと粗めのヤスリをかけているのような音を止めようとしない。使えないならいっその事切り落としてしまえば音は止むが、今度は匂いに誘われてモンスターが寄ってくる始末。
故に多少の物音は仕方がないと割り切りながら前へ進むことを優先する。何かに追われ歩き始めた逃避行は想定以上に芳しくなく、1歩1歩噛み締めるように足を前に出して周囲の音に注意することを繰り返していては当然のことだった。
緊張からか、辛の額には玉の汗が浮いている。それもそのはず、この状況では最弱のモンスターに遭遇しただけで、その数を問わず致命的になりうる。時折分かれ道があるだけの隘路には身を隠すような場所はなく、じっとしているのもそれはそれで落ち着かなく、ただ祈りながら進む他なかった。
……限界かな。
体力もそうだが、なにより精神的疲労が大きい。常時警戒できるように人間の精神は出来ていないのだ。その証拠に肩を貸してくれている新人の顔にも疲労が色濃く出ていた。
そして、足が止まる。
「また分かれ道……ですね」
目の前に広がる2択の道を眺め、新人の子が言う。どちらかが正解でどちらかが不正解、いやどちらも不正解なのかもしれない。耳をすませてみても、四方からざわめきのような環境音が大きくなっているせいでもはや判別も難しくさせていた。
もう留まれない。進んでいるという虚勢が剥がれ落ちれば恐慌に陥る。あるかどうかもわからない希望の光を求めて、されど気負いすぎるなと、
「こういう時、どっち選べばいいと思う?」
その口調はわざとらしい軽さを見せる。
「さぁ。でもだいたい片方は地獄と相場が決まっているような気がします」
「安心して。両方だめだったこともあるから」
「そりゃ安心ですね。下手に悩まなくて済むんですから」
乗るか、乗らないとやっていけないのか。
同じく軽く返す新人に辛は力無く微笑む。世話になっている立場で申し訳なく感じながらも、もう先がないことを予見していた。
なにか1つ、たった1つでいい。例えば上に向かう階段が見つかるなど、この状況を好転させるようなちいさなきっかけがあれば自分も彼もまだ夢を見られる。そんな期待を胸に目を凝らした時だった。
……あっ。
それに気付き、辛は跳ぶように新人の男を右に押し込む。目が、闇に浮かぶ2つの眼光が網膜に突き刺さったような、本当にそうだったかも確かめる余裕もなく、
「な――むぐっ!?」
「静かに」
突然の行動に目を丸くして驚愕の顔をする男性の口を手で塞ぎ、その耳元に鋭く囁く。抱き合うように密着するとフルスロットルで暴れる心臓の鼓動が男性にも伝わり、生唾を飲む喉の動きが辛の目にも見えていた。
「……行くよ」
男性はこくりと頷く。
足早に、二人三脚で前へ行く。後ろを気にする余裕はとうになくなり、一刻も早くこの場を駆け抜けることのみに集中していた。
だからだろうか、目の前を塞ぐように立つ大きな腹に気付いた時には天井スレスレにある頭から覗く1つ目が2人の姿をしっかりと捉えていた。
「ガアアアァァァ!」
咆哮が洞窟の壁を伝い走り抜ける。
……まずっ!
突き飛ばし、反動で自分も離れる。その間を巨木のような足が通り過ぎ、風が巻き上がった砂と共に残滓として残る。
油断していた、前方への不注意が招いた事態だ。両壁に押し付けられた2人は、男性は急ぎ立ち上がり右腰に帯いていた長剣を構え、辛は踏ん張りきれずに尻餅をつくしかなかった。
巨体の1つ目、サイクロプスと呼ばれるモンスターは攻撃が当たらなかったことを疑問にも思わず再度吼える。2足で立ち、浅い緑色の肌に丸く太った身体、幸いなことに他の個体に比べ1回りも身体は小さく、両手はわきわきと指が動くのみで武器は持っていない。
中層の代表的なモンスターであり、大きくタフでノロマというこれまた代表的な特徴を兼ね備えているため、中層の登竜門的立ち位置でもあり、落ち着いて対処出来れば新人でも十分勝ち目がある相手なので、
「相手はそんなに強くないよ。落ち着いて、攻撃を見切った後切り付ければ勝てるから」
「わ、わかりました」
引けば挟み撃ちも有り得る状況では倒す他なく、辛は地面をまさぐりながら男性に指示を飛ばす。
3メートル近いモンスターを前に、突き出した切っ先は心を写したように細かく震えている。それでもこの時のために3ヶ月以上みっちり訓練した成果が、足に踏ん張りを効かせていた。
剣戟を交える時が近づく。サイクロプスが間合いを詰めに1本踏み出した時、男性は剣を上下に振っていた。
誘い技だ。猫じゃらしのように、しかし鋭い銀光を放つ剣先に相手は間合い測りきれず手を出してしまう。単純ながら確かな効果と実績を持つ技に、サイクロプスも例を漏れず拳を振り下ろしていた。
十分に距離を詰められず放った拳撃は、1歩引くだけで簡単に避けられてしまう。同時に辛は横から無防備な顔面目掛けて拾ったこぶし大の石を投げつけると、そのおおきな眼球に当たり、跳ね返るが、
「ッ――ガアアァ!」
1拍置いてサイクロプスは悲痛な叫び声のような怒声を轟かせる。
それが明確な隙だと気付いた時には、サイクロプスの肌に深い切り傷が刻まれていた。男性の渾身の一振りは左肩から心臓に向かって長い線を描き、
――足りない!
「引けっ!」
強い命令口調は聞き届くことなく、あと1歩届かなかった剣を身体に残し、振り払われた腕の直撃を受けて吹き飛ばされていた。
「かはっ……」
肺から大きく息を吐き出して苦悶の表情を浮かべる男性。しかし吐血はなく、四肢が変に曲がっている様子はない。戦闘は続行できる身体である、が、
「大丈夫っ!? 早く立ちなさい!」
辛が追撃に備えるよう檄を飛ばすと、男性はおぼつかない足取りながらもふらふらと立ち上がる。サイクロプスも盛大に血を噴き出すほどの致命傷に近い傷を受けて激昂しているが、傷の深さに思い通りの行動が出来ず、両手を杖代わりにしてよつん這いになり、しかしそのぬめっとした目だけは男性をしつこくにらみつけていた。
絶好のチャンスだった。相手は息も絶え絶え、このままなら出血死も狙える状況で対する男性は、痛みはあれどせいぜい打ち身程度で行動に支障がない。武器は手元にないが、今刺さっている剣をより深く握り直すだけで決着がつくのだ。
希望が見えた。しかしそう考えていたのは辛だけで、
「はっ――はっ――」
男性は俯きながら荒く呼吸を繰り返す。過呼吸になるほどの吐息は顔を赤くさせ、辛の声も今の状況も届いておらず、ただ下ばかりに注視していた。彼が今どういう心境なのか、窺い知ることは出来ずとも決して良いものであるようには見えず、
「落ち着け、もう一息だよ」
強く励ますが、
「……やだ」
「なに? どうした?」
「もう嫌だあぁ! 無理いぃっ! ああぁぁぁ――」
絶叫。そして痛む身体を引きずりながら、彼は背中を向け、元来た道を戻っていく。
……あぁ。
「……そう、だよなぁ」
逃げた。当然だった。お荷物を抱えて、尚且つそれが命令するだけでなんの役にも立たないのであれば、見捨ててしまいたくなるのも無理はない。むしろ武器も捨てて逃げたことに、判断が遅いと叱咤したくなるほどだ。
なら自分にできることはなにか。先輩として、人として、そして自分らしく。
辛は折れた足を地面に突き立てて立ち上がる。標的を見失ったサイクロプスの1つ目が、新たな贄を求めて彼女へ向く。
一息。鋭く吐き出した息の後に呼吸はなく、左手は前に、右手は中腰に溜めて、
「かかってきな。捨てられても、私はまだ生きてるんだ」
眼光は刃となって、神経を尖らせる。
1つ目の怪物はにんまりと笑ったような、大きく裂けた口を広げ、刺さった剣を気にした様子もなく辛の前に立つ。見上げるほど大きな相手は影を作り、覆い隠すように両手を広げ、
ガツンッ。
金属同士がぶつかったような、大気を震わす轟音と共に2人の拳が重なっていた。
……ははっ。
女の身体は非力だ。もっと背があれば、体重があれば、筋力があれば。正面から受け止めることもできず、重ねた拳はそのまま押し込まれて身体を浮かす。
「ぐっ――」
勢いそのままに地面に落ち、2転3転、ようやく止まった時にはぼろ屑のように伏せる辛の姿があった。肩に激しい痛みが走るが、骨は突き出しておらず、またどこも折れていない。もちろん、心も。
サイクロプスはそのまま近づいてくる。ドスン、ドスンと、足音を立て。辛は寝そべりながら揺れる地面を頬で感じ、動けと身体に命ずるも首から下は接続を忘れたようにピクリとも反応しない。
このままでは……。目だけを痛いほど見開いている辛は突然身体が軽くなるのを感じていた。浮いている、そうだ、投げだされた足を持たれ、逆さ吊りにさせられて――。
ガツン、ガツン。
硬い地面に顔からぶつかっていく。癇癪を起した子供のように、地面に何度も叩きつけられ、額やら唇が切れて血をまき散らす。
……遊ばれてるなぁ。
鎮痛剤の影響もあって、痛みはとうに感じない。ただひとつひとつ壊されていく様子をやけに冷静な目で見つめていた。
遠くなく、死ぬ。もうなす術もない。幸いなことにモンスターは人を殺すか食べるかしかしないため、女の尊厳だけは守れるということだった。いつだったか、別の新人の子がそんなことを言っていたのを思い出す。彼もまた、ダンジョンで行方不明になっていたっけ。
もう何度目か、逆さ吊りのまま、薄く開いた目で見つめる先には深淵を覗く穴があった。生臭い湿り気を帯びた吐息が顔にかかり、
……あぁ、食べられるのか。
抵抗しようにも完膚なきまでに痛めつけられた身体は指1本すら動かすことが出来ず、
「待った!」
踊り食いのように、口に入った頭は噛み砕かれる寸前で外に放り出されていた。
……何が?
状況が良く飲み込めないまま、抱きしめるように迎えていたのは何度もぶつけられた地面で、落下し巻き上げた砂煙の先にはそびえ立つサイクロプスと、
「……舞、ちゃん?」
その頭の上に立つ小さな少女の姿があった。
「辛さん! 無事!?」
無事なもんか。身体は役に立たず、仲間には見捨てられ、それでも、
「……だい、じょうぶ」
絞り出した声は掠れて頼りなくとも、表情には笑みが浮かんでいた。
助けが来た。その事実だけで辛の心に、荒んだやけっぱちの火以外に、明るい灯火が宿る。期待していなかった訳ではないが救助は無理だろうと半ば考えてだけに、喜びに身が震えていた。
それよりも今はすることがある。
「……剣、を」
肺を絞り、捻り出した空気で声帯を震わす。虫の息とはいえまだサイクロプス、敵は生きている。刺さった剣を、鈍く光る死神の鎌を押し込めば……あれ?
視界の中にはあったはずのものが消えていた。おかしい、いつの間に。困る、困るのだ、あれがないとまた誰かが傷ついてしまう。嫌だ、もう何も出来ない自分も、誰かに見捨てられるのも、ここまで来てそんな結末は嫌だ。
もし、考えたくもないが、もしも剣がないなら、舞を逃がさなければ。なけなしの力を振り絞り起き上がろうとする辛に、
「辛さん、安心して」
絹布のように柔らかな言葉が降り注ぐ。
あっ……。
剣が、そこにあった。銀の刀身が怪物の口から生え、その命を終わらせていた。
よかった、と辛は身体を投げ出す。気負い、脳内の興奮が冷めると一気に痛みが襲い掛かり、今はそれが気持ちよく感じて、
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えぇ……。
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わずかな安寧を求めて暮らしている……はずだった。
彼のそばには、かつて命を懸けて彼を支えた、最強の少女たち。
それぞれの立場で戦い、支え、尽くしてきた――ただ、すべてはラルのために。
今では彼の屋敷に集い、仕え、そして溺愛している。
「ラルさまさえいれば、わたくしは他に何もいりませんわ!」
「ラル様…私だけを見ていてください。誰よりも、ずっとずっと……」
「ねぇラル君、その人の名前……まだ覚えてるの?」
「ラル、そんなに気にしなくていいよ!ミアがいるから大丈夫だよねっ!」
命がけの戦場より、ヒロインたちの“甘くて圧が強い愛情”のほうが数倍キケン!?
順番待ちの寝床争奪戦、過去の恋の追及、圧バトル修羅場――
ラルの平穏な日常は、最強で一途な彼女たちに包囲されて崩壊寸前。
これは――
【過去の傷を背負い静かに生きようとする男】と
【彼を神のように慕う最強少女たち】が織りなす、
“甘くて逃げ場のない生活”の物語。
――戦場よりも生き延びるのが難しいのは、愛されすぎる日常だった。
※表紙のキャラはエリスのイメージ画です。
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