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第2話 お風呂は気持ちがいい

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 服についた水滴をまき散らすことも厭わず、来た道を走るように戻っていく。ドアノブがドライアイスのように冷たくてもかまわず捻り、飛び出していた。
 ばたんと後ろでドアが閉まる音がする。天から落ちる涙は大号泣で、わめき声が屋根や地面のいたるところから響き渡っていた。
 和はしばらくの間棒立ちしていたが、そのうち膝から崩れ落ちるように地面に尻をつけていた。背中にはドアの硬さを感じながら行く手を拒む雨のカーテンを見つめていた。
 ……何しに来たんだっけ?
 自問は今になって始まったことではなかったが相変わらず明確な答えを持ってきてはくれなかった。
 おかしい、変だ、異常を感じる。世界があらゆる方向に回転しているかのようだった。
 気持ちが悪い。呼吸を忘れていたから。
 体が震える。体温が奪われ、冷え切っているせいだ。
 考えることを止めようとしても、ベッドの上で裸体で横たわる彼女の姿が思い出されて頭から離れずにいた。
 苦悶の表情を浮かべていた和はかちかちとなる耳障りな音を聞いていた。それが自身の歯が震えによって引き起こされていると気付くまでしばらくの時間を要していた。
 止まらない。止められない。寒い、寒い――

「――寒いなあ」

 不意に思いが言葉となって口から産み落とされていた。身体が、心が冷え切って耐えられる気がしない。
 ……お風呂。
 何しに来たのか。シャワーを借りるためだったはずだ。あと雨宿り。なのになぜまだこんな寒い思いをしているのか理解に苦しむ。
 身体が危機的状況に陥っているせいで和は深く思考することを止めていた。踵を返してドアを開くと、部屋の中からいがみ合う男女の声が響いていた。
 うるさいなと思いながら和は進む。再度目隠しから顔をのぞかせるとぞっとしたような表情の男女と目が合った。
 部屋の中は明るく、二人とも下着姿になっていた。女性、赤城 海は和の顔を見て狼狽しながら、

「あ、あの……違くて――」

「ごめん。お風呂借りるね」

 遮るように和は言う。
 なんでもないことのように、普段通りのテンションで声が出ていた。
 きょとんと口を半開きにする海を置いて、和は顔を引っ込める。
 濡れて重くなった鎧のような衣服を脱ぎ捨て、廊下に投げ捨てた。。
 生まれたままの姿は、煩わしさが欠片もなく、心まで無防備にしていた。
 ユニットバスだから、空の湯船に踏み入れるとカーテンを閉めて蛇口をひねる。
 冷たい水が次第に痛いほど熱い湯に代わっていく。それを頭から浴びながら和は滴る水の行方を凝視していた。

 どれだけ時間が経ったのか。
 寒さでこわばった手足に血が通い始め、しびれるような感覚を脳に叩き込む。
 長く息を吸い、長く息を吐く。幾度となく繰り返した後、和は蛇口をひねってお湯を止めていた。
 バスタオルを手に取り身体に残った水分をぬぐう。そして、
 ……あー、服がないや。
 着ていた服は廊下に放置され、替えの服は持っていない。海だけなら気にしないという選択もあったがもう一人、同性の人物がいるとなると気恥ずかしく思えてしまう。
 ……?
 いや、そうでもないかもと思い直して和は腰にタオルを巻いた姿で浴室から出ていた。
 足元に転がる衣服を邪魔に思いながら足で端に寄せる。
 行儀が悪い行動に少しの後ろめたさを感じながら和は彼女、海のいる部屋に向かっていた。
 目隠しから覗く部屋には足が一対見えていた。そのことを考える間もなく幾分か軽くなった足取りで部屋に入った和は、着替えを終えてきちんとした身なりでベッドに腰かけている彼女の姿を目で捉えていた。
 いたはずのもう一人の姿はない。隠れているのかと一瞬疑ったがもう見つかっているのにそんなことをするはずもないかと、
 
「……帰らせたんだ」

 必然的にたどり着いた答えを口にしていた。
 顔を見せられないのか、うつむいている海はその発言により一層深く頭を下げる。
 返ってくる言葉はない。斬首台を前にした死刑囚のごとく鬱屈した雰囲気を纏う彼女を目に収めながら、和は部屋の隅にある椅子に腰かける。
 風呂は偉大だ。あれほど濁っていた思考が澄み渡る空のようにはっきりと明るくなっている。そんなことを和は考えていた。

「……ごめんなさい」

 場違いの上機嫌でいたところ、突然の謝罪に和は目を丸くしていた。
 謝る理由を探して、
 ……ああ、不貞のことか。
 半分他人事のように首を動かしていた。
 見た事実は正しく認識していた。それに対して怒りや悲しみといった感情が湧いてこない。
 シャワーで汚れと一緒に流れて行ってしまった、そう表現したほうが正しく思えるほど、すっきりとした心境だった。

「ごめんなさい」

 先ほどよりもはっきりとした声色だ。このまま黙っていたら土下座でもしそうなほど焦燥した目を海はしていた。
 かわいくないなあ。
 人が謝っている姿を見て、和はそんなことを考えていた。普段のはじけるような笑顔がチャームポイントなのに今は見る影もない。
 痛々しいとすら思える態度に、少しの申し訳なさとわずらわしさを感じる。
 たかだか他の男と同衾していた程度のことで魅力を削ぎ、いたたまれない空間にいることが耐えられなかった。
 和はふとスマホを探して周囲を見渡していた。そして、すぐにバッグこと廊下に置いてきたこと、持ってきても電源が切れていることを思い出して頭の中から除外する。
 この場をどうにかする方法を探していた。そのためのツールは手元にないことに不安を感じつつ、

「ねえ、どうしたい?」

 自分だったら言われたくないことを口にしていた。
 聞いて、肩を一瞬跳ねさせる海を見ていた。途端に罪悪感が湧いてきて、取り繕うように言葉を重ねる。

「楽しかった?」

 ……あ、これも駄目だな。
 そう思ったときには既に遅かった。
 さめざめと、という形容詞が似合うほど声を押し殺して粒ガラスのような涙を流す海がいた。
 困ったな……
 変に気を使いすぎていることに気づき、和は口を曲げる。
 考えが曖昧なのがいけないことは理解していた。だから少しでもいい、時間が必要だった。
 そのために、自分の成功体験を口にする。

「とりあえず、シャワー浴びてきたら? 落ち着くよ」

 海は小さく頷いて、隠れるように部屋を出ていった。
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