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第46話 夕凪3-2

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「わぁ……」

 目の前に広がる屋敷を見て夕凪は声をあげる。
 高い木の塀に囲まれた屋敷は端まで見えず、それよりも高い木々が覗いている。葉はやたらと伸びている訳ではなく丁寧に切りそろえられていて、内部の様子を想像させた。
 ……でっか。
 まるで旅行で行った庭園のそれだと、見上げながら夕凪は思う。これを個人で所有しているとなると下世話ながら毎年いくらかかっているのかが気になってしまう。
 話には聞いていたがこれ程とは思わなかった。冗談ではなく本当にいい所のお坊っちゃんだったことに、左近が急に遠い人に見えていた。
 その彼は門の前で仁王立ちをしていた。胸の高さまであげた手は虚空をさまよい、幾度と深く呼吸をしても行動には移せないでいた。
 夕凪は待っていた。口を出すことははばかられ、左近の決断だけに注視していた。
 そして五分以上が経過した時、左近は夕凪を見て、

「ごめんね、だらしなくて」

 夕凪は答えずにただ首を横に振る。
 こういう時一紗なら先にインターホンを押しただろう。そんないちばん参考にならない人物を除けば、例えば陽菜なら待ったはずだと信じていた。
 左近はよし、と呟いた。次に上げた手は詰まることなくインターホンを押していた。
 
『はーい』

 少しの間隔を空けて、電子を通した肉声が鳴る。少しだけ身震いする左近に、夕凪はその小さな手を握っていた。
 ガラっと引き戸が引かれて一人の男性がそこから身体を出す。横に大きな門があるのに少し身を屈ませなければ出入り出来ないような小さな扉から出てきた彼は、左近を見つけると目を輝かせていた。

「あ、兄さん」

「やぁ……久しぶり」

 明るく振る舞う男性に、左近はぎこちなく返事をする。
 ……もう。
 気の利いたこと一つも言えない左近に夕凪は内心でため息をついていた。繋いだ手から汗が吹き出ていて気持ちが悪い。
 表情に出さずとも、その心の内が手に取るようにわかる。次の言葉を選んでいる左近に、先に男性が口を開いていた。

「そうだね、久しぶり……相変わらず小さいね、成長しなかったんだ」

「最後に会ったときはもう二十歳超えてただろ。そこから成長なんてしないっての」

「そりゃそうか。で、そっちの子は?」

 そういうと男性は夕凪に視線を向ける。
 背の高い人だと、その姿をみて夕凪は思っていた。決して威圧的ではなく温和な顔は左近にそっくりでもある。
 身長以外はそっくりな二人を見比べて、ぼおっとしていた夕凪に左近が肩を抱きよせていた。
 ほとんど身長が変わらないせいか顔が近い。親子というよりかは友人かカップルのようにしか見えない。

「色々あって俺の子」

 ……そうだっけ?
 左近が紹介した言葉に腑に落ちないところを抱えながらも、夕凪は腰を曲げて頭を下げる。

「よろしくお願いします。夕凪って言います」

 年齢に比べて聡明な態度に男性はただ笑っていた。

「夕凪ちゃんか。僕は右京。左近お兄さんの弟ってそのまんまだね。でも結婚してたんだ、式出たかったなぁ」

 右京と名乗った男性はすぐに夕凪から視線を外して左近へと向ける。
 今日の主役は左近だ。夕凪はハンバーグに添えてあるただのパセリでしかない。それに不満を持つわけもなく、気持ちだけ一歩離れて様子を伺っていた。
 主役は慣れてきたのか、無駄に張っていた肩を降ろして、

「式は挙げてないけどな」

 顔の前で手を振っていた。
 えー、と分かりやすく感情を表に出す右京に、夕凪も同じことを考えていた。
 生まれる前の話だから聞いた事はなかった。左近がしていないと言うならば他の二組もしてはいないだろう。男性はどうか知らないが一生に一度の晴れ舞台なのだから甲斐性を見せて欲しかった。
 ……お母さんは違うかもだけど。
 不意に浮かんだ母親の顔はただ一言、面倒と切り捨てていた。

「もったいないなぁ……と、こんなところで立ち話もあれだし中入ってよ」

 右京はそう言い残してくぐり門へと戻って姿を消す。

「……なんか、はるとパパみたいな人だね」

「あれよりは頭はいいけどね」

 しみじみと言う左近に、夕凪は苦笑を浮かべて言及を避けていた。
 右京の後を追うように潜り戸を抜ける。
 ……さむっ。
 肌で感じたのは刺すような冷気だった。三月も終わりの方だというのに門から先は真冬と勘違いするほど寒い。急激な温度変化に夕凪は身体を抱いていた。

「変わらないなぁ」

 辺りを見回す左近が呟く。木々に囲われた庭園は静寂に包まれて何かが息を潜めているようだ。耳を打つのは木の葉を揺らす風の音、川のせせらぎ、鳥の鳴き声。道に出れば直ぐに人通りの多い市街に出るというのに、まるで別世界に来たようだった。
 あえて少ない語彙で言うならば、

「旅館みたいだね」

 夕凪は感想を口にする。古い木造の長屋を上手く形容する言葉がそれしか思い浮かばなかった。

「旅館かぁ。たしかにそうかもね」

 左近は目の前の家屋を見上げて言う。すぐに視線を前に戻すと、右京の大きな背中を追いかけていた。
 その後をつけながら左近にだけ聞こえるように小声で夕凪は尋ねる。

「そういえば、口調昔に戻ってるけど平気なの?」

「あ、おぉ。気付かなかった。緊張してんのかなぁ」

 話に聞いた、左近の若い話し方に違和感を覚えていた。四十も近い年齢でそれは無いだろうと思う。

「違和感あるからどっちかにしたら?」

「海みたいなこと言わないでよ、もう」

 軽い文句を言う左近に、夕凪は顔をつんと背けていた。
 靴を脱いで縁側を進む。木の板は柔らかく足裏を押し返し、綺麗に磨かれたそこをすこし蒸れた足で歩くことが少し恥ずかしく思えていた。

「お兄さん、こっち」

 先を行く右京が立ち止まり手招きをする。
 二人が近寄ると、障子が開かれていて中を覗き見ることが出来た。
 まず目に入ったのは畳に敷かれた布団だった。そこから人の下半身の形に盛り上がり、上体を起こした女性の姿が目に入る。
 お年寄と呼ぶには若く、初老と呼ぶには歳を重ねている。特に目を引くのが綺麗に脱色された短い白髪《はくはつ》で、毛先には少し色を入れて遊んでいるようだ。
 その女性は気だるそうに目を細めていた。開ききらない目に片手を置いて、重い頭を支えている。
 病気と判断するには早合点だと、夕凪は思う。肌の血色は良く、やつれてもいない。どちらかと言えば、晴人の朝によく見る姿のようだった。

「ん、どうしたのよ……」

 艶やかな潤いのある声が響く。耳に心地よい音の持ち主は顔を上げると漏れる光の方へと眼を向けていた。
 目が合う。次の瞬間には隣りへと移っていく。そして、

「っ、左近……」

「母さん……」

 目を大きく見開いたかと思えば、潤み、奥に光を溜めていた。
 しかしそれもつかの間、すぐさま姿勢をただし女性は正座をする。ぴんと伸びた背筋に、打って変わって虎のように力の入った目つきが左近を捉えていた。
 行き過ぎる感情を封じたその顔つきを見て、夕凪は不思議と怖いとは思わなかった。それどころかどこか見覚えがあるような気がして首を傾げる。
 ……何処かであったっけ。
 そう思って、ないなと首を振る。
 ここは家からも学校からも遠い。生活圏は被らないし、一目見たらなかなか忘れられない風貌をしている。勘当されていた左近が連れてくるわけもないと、頭をいくら捻っても答えが出てこない。
 夕凪がなんでだろうと思っていると女性は軽く笑みを浮かべて、

「よく戻ってきましたね」

「すみませんでした」

 開口一番、左近は頭を下げる。
 それに女性は左右に首を振る。

「いいのよ、気にしないで。若いうちは一度くらい家を出た方が知見が広がるものだから」

 女性はそういうと身体の力を抜いていた。
 うっすらと額に汗を浮かべて、こめかみを押さえている。一瞬にして雰囲気が脆くなったようで、左近は一歩踏み出していた。

「母さん、何処か身体が?」

 心配する問いかけに、女性は手を突き出して遮る。そして右京から水の入ったコップを受け取ると、一気に飲み干して一息ついた。

「兄さん、違うよ。昨日出版パーティーがあって朝まで飲んでたから二日酔いなんだ」

「出版……?」

「あっ、あー!」

 突然声を上げた夕凪にどうしたと左近は振り返る。
 ……思い出した!
 それは海がファンの小説の作者の顔だった。時折特集などでテレビに出ることもあり、日中にテレビを見る夕凪の目にも何度か映っていた。
 普段夜勤で昼間もテレビをあまり見ない左近が知らないのも仕方がないことだった。作者名も金剛《こんごう》 茶子《さこ》と本名では無いし、そもそも十数年前とだいぶ姿が変わっていた。
 一人、状況がまだ理解しきれていない左近に、右京が説明をする。

「お兄さんは知らないだろうけどあの後色々あってね。今じゃ茶道家としてよりも時代小説家としての方が有名になっちゃったんだよ」

「いえい」

 そういって彼女は両手でピースをしていた。
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