眠りの魔女の思い人

夕崎 錫

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「ねえ、妖精さん。今日はとても月がきれいね」

 うっそうたる樹海の中心に白亜の城がそびえたつ。少女がここへと連れてこられたのは、二週間前のことだった。供を付けずに散歩をしていたのが最後の記憶で、気づけばこの寝台に寝かされていた。

「こんな日は愛しい人と愛を語らいたいものだわ。そう思わない?」
 開いたばかりの目をこすり、上体を起こす。バルコニーの手すりに一人の少女が腰かけていた。波打ち流れる長い金糸の髪に、リラの花と同じ色をした幼気な眼差し。どれをとっても満点というほどの美しい少女――いや、魔女だった。
「はい、そうですね」
「相変わらずつれないわね」
 魔女は私の素っ気ない返事に口を尖らせると、とんと音をたてて手すりから跳び下りた。そのままこちらへ歩み寄る。その一つ一つの動作はどれも優美なものだった。
「そんなことを言っていると、うっかり永遠の眠りにつかせてしまいそうだわ」
 思わず息をのんだ私を、赤くも見えるその目が見下ろす。魔女はその力を使う時、瞳の色が変わるのだ。一般の魔法を使う者はこうならない。目が赤くなるのは、悪魔の力を使う者だけだ。元々赤い者もいるにはいるが、それはごく稀な例であり、魔女とは一切関係ない。
「ふふふ、冗談よ。私は優しいから、許してあげる」
 魔女は笑ってくるりと回った。高い声と時折見せる無邪気な表情、仕草が彼女をいっそう幼く見せた。しかし、本質は先程の赤い目。かすかに怒りの見て取れるあの目だ。
「ありがとうございます」
「妖精さんは大事な人だもの、当然じゃない」
「左様ですか」
 頭を下げる私に、魔女が手を伸ばす。何をされるのかと恐れるが、身を固くしては逆に魔女の機嫌を損ねることになりかねない。平静を装って目をつむると、冷たい手が私の髪を撫でた。
「ふふ、そうよ。妖精さんがいなくては、私は幸せになれないもの」
「なるほど」
 魔女はうっとりとするような顔で私の髪を梳いていく。寝起きで梳かしておらず引っ掛かりのある髪を、魔女は愛しい人にそうするように見つめた。
「やっと手に入るのよ。私、すっごく嬉しいわ」
 後頭部の癖のある毛をいじっていた手が、名残惜し気にそっと放れる。

「だからね、妖精さん。逃げ出そうなんて思わないでね」

 すべて見透かされたようで、息が詰まりそうだった。
「思っていませんよ。逃げても、熊にでも食い殺されて終わりです」
 できうる限りの苦しげな表情を張り付け、魔女を見つめる。まさか、こんな顔をする女が森に逃げ込むとは思いもしないだろうから。
「そうね。こんなに細い腕では、簡単に負けてしまうでしょうね」
 魔女はにっこりして私の腕に触れた。その両の手は肩を滑り、首を通って私の頬を包んだ。

「妖精さんはずっとここにいたらいいのよ。私が全部、ちゃんとしてあげるから」

 狂気を孕んだ赤い瞳から、どうしても目をそらせなかった。目をくらませてすべてを奪い取るような、脳みその中をすっかり作り変えてしまうような。そんな圧を感じる。
 もともと喋りの得意ではない私に飽きたのだろうか。魔女はあっさりと部屋を離れていった。去り際に外鍵の回る音がした。


  *  *  *


 かつ、とドアを叩く音がした。
 どれくらい時間が経っただろうか。この城に昼はない。常に星と闇とが空を覆っている。登っては沈む月だけが日付を知る唯一の手段である。太陽は登らなかった。そんな中で、私も魔女も規則正しい生活とは無縁の時間を過ごしていた。
 鍵の回される音がしてドアが開かれる。
「お食事をお持ちしました」
 入ってきたのは、お仕着せに身を包んだ長身の女性だった。このお仕着せは十中八九魔女の趣味だろう。彼女と同じ、フリルとピンタックに溢れたデザインだ。赤毛を編み込んでひとまとめにしているのも彼女の好みらしい。
 その顔には感情がかけらも感じられない。自動人形のようだった。
「ありがとう、マルティナ」
 返事はない。彼女は淡々と魔女の命令をこなすだけだ。そういうを施したと魔女が得意げに話していた。
 彼女は以前、私の世話をしてくれていた女性だ。下級貴族の出身だった。確かに生身の人間だったはずだ。魔女の力は人をも意のままにできるということだろうか。それならば、自分の身もかなり危険であることになる。

 並べられた食事を前にため息を漏らす。
 魔女がどこからかくすねてきたらしい食材を、マルティナのように連れてこられた料理人が調理したものなのだが、魔女の味覚に合わせて作られているそれは非常に濃い味付けだった。自然の味というものがほぼ消えている。何を食べているのかわからなくなった。料理の種類も魔女の好きな食べ物ばかりで、毎日ほとんど同じような献立だった。
 腕のいい料理人の美味なお料理をいただいていた私にとって、辛い状況だった。けれど、文句を言おうものなら魔女に殺されてしまうかもしれない。ぐっとこらえて、スプーンを手にした。

 涙目になりながらも完食すると、すぐに水を飲みほした。席を立つと、控えていたマルティナが食器を片付けてくれる。その退室を見届けてから、寝台に身体を横たえた。

「お父様、私もうだめかもしれません……」

 幽閉生活はまだいい。しかし、食生活の質の低下には耐えられそうになかった。
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