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第一話
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第1話 マスコット
嶋津春子が大学四年生だった頃、就職活動は地獄だった。
エントリーシートを百枚以上書き、説明会に通い詰め、面接で何度も落とされた。同期の女子学生たちは皆、同じような紺のスーツを着て、同じような髪型をして、同じような笑顔を浮かべていた。就職活動用の金太郎飴。春子もその一人だった。
「一般職でも構いません」
そう言って頭を下げ続けた。しかし企業は正社員の採用を絞り、派遣やアルバイトで人件費を削減していた。バブル崩壊から十年が経っても、景気は回復しなかった。
「公務員はどう?」
就職課の職員がパンフレットを差し出した。地方公務員の警察官採用試験。倍率は民間企業に比べて低く、女性の採用も積極的に行っているという。
「女性ならではの きめ細やかな対応が期待されています」
パンフレットにはそう書かれていた。制服姿の婦人警官が、子供と笑顔で話している写真が載っていた。
春子の父親は、バブル崩壊後のリストラで精神を病んでいた。もう四年も家にいる。母親がパートで家計を支えていたが、それだけでは厳しい。春子が就職して家計を助けなければならなかった。
警察学校の六か月間は、春子にとって新鮮だった。規則正しい生活、体力づくり、法律の勉強。建前ばかりの正義論にはうんざりしたが、同期の女性警察官たちとは良い関係を築けた。
「私たちが警察を変えるのよ」
そう言って意気込んでいた同期もいた。春子はそこまで高い志はなかったが、少なくとも安定した職に就けたことに安堵していた。
卒業時、春子は保田署管内の木沢交番に配属された。
「女性らしい柔らかな対応を期待しています」
署長はそう言った。つまり、お茶汲みと愛想笑いが主な仕事だということだった。
木沢交番は築三十年の古い建物で、設備も古く、来訪者といえば道を尋ねる観光客か、井戸端会議の延長で愚痴をこぼしに来る近所のおばさんたちだけだった。
指導係の佐藤巡査長は四十代前半の男性で、警察官歴二十年のベテランだった。しかし、向上心は感じられない。
「春子ちゃんは華があるからね。交番にいてもらった方がいい」
佐藤はいつもそう言って春子を交番に残し、自分は外回りに出て行く。「地域の情報収集」と称してパチンコ屋に入り浸っているのを、春子は知っていた。領収書をもらってきて交通費として処理しているのも知っていた。
一年間、春子の主な仕事は電話番と来客対応、それに書類整理だった。地域の事件や事故の報告書を清書し、ファイリングする。たまに迷子の子供の面倒を見ることもあったが、それくらいだった。
婦人警官として期待された「女性ならではの細やかな対応」も、実際は「女性なので大した仕事は任せられない」という意味だった。ドメスティックバイオレンスの相談があっても、春子に回ってくることはない。「経験不足だから」という理由で、必ず男性の先輩が対応した。
春子は自分がマスコットでしかないことを理解していた。制服を着た人形。交番を華やかにするための装飾品。それでも給料は月十八万円出る。実家暮らしだから生活に困ることもない。このまま定年まで何事もなく過ごせれば、それで構わないと思っていた。
結婚の話も出ていた。母親が紹介してくれた地元の銀行員の男性。二十八歳で安定した職についている。春子は二十四歳。適齢期だった。
「警察官の奥さんなら安心だって、向こうも言ってるのよ」
母親は嬉しそうだった。春子も悪い話ではないと思っていた。恋愛結婚への憧れはあったが、それより安定した生活の方が現実的だった。
その平穏な日常が崩れたのは、四月の午後だった。
一人の女性が交番にやってきたのは午後三時頃だった。近所の八百屋を営む五十代の女性で、地域の情報通として知られている。地域の誰が最近元気がないか、どの家庭に問題があるかを把握している、いわば非公式の民生委員のような存在だった。
「山田さんのことで相談があるんです」
山田というのは、この地区に住む七十三歳の独居老人だった。年金暮らしで、近所づきあいもほとんどない。妻は十年前に亡くなり、子供はいない。
「最近、様子がおかしくて。夜中に大声を出したり、ゴミを散らかしたりしてるんです。認知症が進んでるんじゃないかって、近所の奥さんたちがみんな心配してるんです」
田中さんは困った表情を浮かべていた。
「具体的にはどのような?」
佐藤巡査長が応対した。
「夜中の二時頃に、大声で誰かと話してるような声が聞こえるんです。でも誰もいないはずなんです。それから、ゴミ出しの日じゃないのにゴミを出したり、出し方もめちゃくちゃで。アパートの階段に新聞紙を散らかしたりもしてます」
「なるほど。分かりました、様子を見に行きます」
佐藤巡査長は立ち上がろうとしたが、ふと時計を見て眉をひそめた。
「あ、しまった。四時から署で会議があるんだった。課長から釘を刺されてるんで、遅刻はできない」
彼は困った顔をして春子を見た。
「春子ちゃん、悪いけど代わりに行ってもらえる?ただの様子見だから、大丈夫だよ。何かあったら無線で交番に連絡して」
春子は一瞬躊躇した。これまで一人で民家を訪問したことはなかった。しかし、佐藤巡査長の頼みを断るわけにもいかない。それに、高齢者の様子見程度なら問題ないだろう。
「はい、分かりました」
春子は制帽をかぶり、無線機とメモ帳をポーチに入れて交番を出た。
山田の住むアパートは、交番から徒歩五分ほどの場所にあった。建築から四十年は経っている木造二階建てで、外壁は剥がれ、階段はきしんでいた。一階の角部屋。表札には「山田」とだけ書かれている。
春子は玄関のドアをノックした。
「山田さん、木沢交番の嶋津です。お元気ですか?」
しばらく音がしなかった。中にいないのかと思った時、足音が聞こえドアが少し開いた。
隙間から覗いた山田の目と春子の目が合った瞬間、春子は嫌な予感を覚えた。その目は、認知症特有のぼんやりとした目ではなく、異様に鋭く、そして何かを企んでいるような光を宿していた。
「ああ、婦警さんか。珍しいな、こんな若い女の子が来るなんて」
ドアが完全に開いた。山田は薄汚れた作業着を着て、無精ひげを生やしていたが、体格は意外にしっかりしていた。そして、その目は春子の制服をじっと見つめていた。
「近所の方が心配されていたので、様子を見に来ました。お体の調子はいかがですか?」
「心配?。誰が心配してるって?」
山田の声には敵意が含まれていた。
「お話をお聞きしたいのですが、少しお時間をいただけますか?」
「ああ、構わないよ。中に入ってくれ。立ち話も何だしな」
山田は春子を部屋の中に招き入れた。部屋は六畳一間で、想像以上に荒れていた。洗濯物や古新聞が散乱し、食べ物の腐った匂いがした。しかし、散らかり方に規則性があることに春子は気づいた。認知症による混乱ではなく、意図的に散らかしているように見えた。
山田は春子を部屋の奥の座布団に案内し、自分は出入り口近くに座った。完全に退路を塞がれた形になった。
「近所の方が、夜中に大声を出されていると心配されているのですが」
春子は手帳を取り出しながら言った。山田は春子の制服姿をじっと見つめている。その視線が、春子の胸元から濃紺のスカートへと移動しているのが分かった。
「大声?。そんなことはない。近所の連中が勝手に騒いでるだけだ」
山田の声が大きくなった。そして、にやりと笑った。
「でも、婦警さんが来てくれて嬉しいよ。特に、君みたいな若くて可愛い子がね」
春子の胸に嫌な予感が広がった。この老人は、最初から何かを企んでいたのだ。
「それでは、特に問題はないということですね。念のため、何か困ったことがあれば交番にご連絡ください」
春子は立ち上がろうとしたが、山田も立ち上がった。
「まあ、そんなに急がないでくれよ。久しぶりに若い女の子と話せるんだ。もう少しいてくれないか」
「申し訳ありませんが、他にも回らなければならない場所があるので」
「そうか。でも、その前に一つお願いがあるんだ」
山田は春子に近づいてきた。部屋は狭く、逃げ場がない。
「その制服、よく似合ってるじゃないか。ちょっと触らせてもらえないかな」
「やめてください」
春子の声が震えた。
「まあまあ、そんなに警戒するなよ。ちょっと触るだけだ。誰も見てないし、誰にも言わない」
山田の手が春子の肩に伸びた。春子は咄嗟に警察学校で習った護身術を思い出したが、相手は高齢者だった。力を使えば怪我をさせてしまうかもしれない。そして、そうなったら自分が問題にされるかもしれない。
「やめてください。これは公務執行妨害になります」
「公務執行妨害?」
山田が笑った。その笑い方は、認知症の老人のものではなく、確信犯のものだった。
「誰が信じるんだ?。俺みたいな年寄りが、婦警さんに何かしたなんて」
春子の背筋に冷たいものが走った。この老人は、最初から計画していたのだ。認知症のふりをして近所の人の同情を買い、警察官を一人で呼び寄せる。そして、若い婦人警官が来ることを期待していたのだ。
「いい制服だな。その濃紺の制服を着た婦警さんと話すのが、俺の夢だったんだ」
山田の手がスカートに向かった瞬間、春子は全身の力を込めて突き飛ばした。
「ナメないで!」
山田はよろめいて壁にぶつかった。その隙に春子はドアに駆け寄り、外に飛び出した。
階段を駆け下りながら、春子は涙が止まらなかった。震える手で無線機を取り出そうとしたが、うまく操作できない。そもそも、何と報告すればいいのか分からなかった。
交番に戻ったとき、三年先輩の男性警官の相沢巡査がいて、書類を作成していた。
「お疲れ様。春ちゃん。山田さん、どうだった?」
相沢巡査の何気ない質問が、春子の胸に重くのしかかった。
春子は一瞬、本当のことを言おうかと思った。しかし、相沢巡査の顔を見て諦めた。この人は信じてくれるだろうか。それとも、春子の落ち度を指摘するだろうか。「警察官なのに、なぜもっと注意深く対応しなかったのか」「唆るような仕草をしたのではないか」と。
「特に問題ありませんでした。少し散らかってはいましたが、健康状態に問題はないようです」
嘘をついた瞬間、春子は自分が何かを失ったような気がした。
「そうか。じゃあ田中さんには、様子を見守ってもらうって伝えておくよ」
相沢巡査は再び書類に向かった。
その夜、春子は眠れなかった。制服は権威の象徴ではなく、標的を示す記号でしかなかった。そして自分は、その記号を身につけることを選んだのだ。
明日もまた、この制服を着て交番に行かなければならない。山田のような男が他にもいるかもしれない。そして、その度に一人で対処しなければならない。
春子の長い夜が始まった。そして、これは始まりに過ぎないことを、春子はまだ知らなかった。
(第1話 完)
この小説は架空の国の架空の物語です。
嶋津春子が大学四年生だった頃、就職活動は地獄だった。
エントリーシートを百枚以上書き、説明会に通い詰め、面接で何度も落とされた。同期の女子学生たちは皆、同じような紺のスーツを着て、同じような髪型をして、同じような笑顔を浮かべていた。就職活動用の金太郎飴。春子もその一人だった。
「一般職でも構いません」
そう言って頭を下げ続けた。しかし企業は正社員の採用を絞り、派遣やアルバイトで人件費を削減していた。バブル崩壊から十年が経っても、景気は回復しなかった。
「公務員はどう?」
就職課の職員がパンフレットを差し出した。地方公務員の警察官採用試験。倍率は民間企業に比べて低く、女性の採用も積極的に行っているという。
「女性ならではの きめ細やかな対応が期待されています」
パンフレットにはそう書かれていた。制服姿の婦人警官が、子供と笑顔で話している写真が載っていた。
春子の父親は、バブル崩壊後のリストラで精神を病んでいた。もう四年も家にいる。母親がパートで家計を支えていたが、それだけでは厳しい。春子が就職して家計を助けなければならなかった。
警察学校の六か月間は、春子にとって新鮮だった。規則正しい生活、体力づくり、法律の勉強。建前ばかりの正義論にはうんざりしたが、同期の女性警察官たちとは良い関係を築けた。
「私たちが警察を変えるのよ」
そう言って意気込んでいた同期もいた。春子はそこまで高い志はなかったが、少なくとも安定した職に就けたことに安堵していた。
卒業時、春子は保田署管内の木沢交番に配属された。
「女性らしい柔らかな対応を期待しています」
署長はそう言った。つまり、お茶汲みと愛想笑いが主な仕事だということだった。
木沢交番は築三十年の古い建物で、設備も古く、来訪者といえば道を尋ねる観光客か、井戸端会議の延長で愚痴をこぼしに来る近所のおばさんたちだけだった。
指導係の佐藤巡査長は四十代前半の男性で、警察官歴二十年のベテランだった。しかし、向上心は感じられない。
「春子ちゃんは華があるからね。交番にいてもらった方がいい」
佐藤はいつもそう言って春子を交番に残し、自分は外回りに出て行く。「地域の情報収集」と称してパチンコ屋に入り浸っているのを、春子は知っていた。領収書をもらってきて交通費として処理しているのも知っていた。
一年間、春子の主な仕事は電話番と来客対応、それに書類整理だった。地域の事件や事故の報告書を清書し、ファイリングする。たまに迷子の子供の面倒を見ることもあったが、それくらいだった。
婦人警官として期待された「女性ならではの細やかな対応」も、実際は「女性なので大した仕事は任せられない」という意味だった。ドメスティックバイオレンスの相談があっても、春子に回ってくることはない。「経験不足だから」という理由で、必ず男性の先輩が対応した。
春子は自分がマスコットでしかないことを理解していた。制服を着た人形。交番を華やかにするための装飾品。それでも給料は月十八万円出る。実家暮らしだから生活に困ることもない。このまま定年まで何事もなく過ごせれば、それで構わないと思っていた。
結婚の話も出ていた。母親が紹介してくれた地元の銀行員の男性。二十八歳で安定した職についている。春子は二十四歳。適齢期だった。
「警察官の奥さんなら安心だって、向こうも言ってるのよ」
母親は嬉しそうだった。春子も悪い話ではないと思っていた。恋愛結婚への憧れはあったが、それより安定した生活の方が現実的だった。
その平穏な日常が崩れたのは、四月の午後だった。
一人の女性が交番にやってきたのは午後三時頃だった。近所の八百屋を営む五十代の女性で、地域の情報通として知られている。地域の誰が最近元気がないか、どの家庭に問題があるかを把握している、いわば非公式の民生委員のような存在だった。
「山田さんのことで相談があるんです」
山田というのは、この地区に住む七十三歳の独居老人だった。年金暮らしで、近所づきあいもほとんどない。妻は十年前に亡くなり、子供はいない。
「最近、様子がおかしくて。夜中に大声を出したり、ゴミを散らかしたりしてるんです。認知症が進んでるんじゃないかって、近所の奥さんたちがみんな心配してるんです」
田中さんは困った表情を浮かべていた。
「具体的にはどのような?」
佐藤巡査長が応対した。
「夜中の二時頃に、大声で誰かと話してるような声が聞こえるんです。でも誰もいないはずなんです。それから、ゴミ出しの日じゃないのにゴミを出したり、出し方もめちゃくちゃで。アパートの階段に新聞紙を散らかしたりもしてます」
「なるほど。分かりました、様子を見に行きます」
佐藤巡査長は立ち上がろうとしたが、ふと時計を見て眉をひそめた。
「あ、しまった。四時から署で会議があるんだった。課長から釘を刺されてるんで、遅刻はできない」
彼は困った顔をして春子を見た。
「春子ちゃん、悪いけど代わりに行ってもらえる?ただの様子見だから、大丈夫だよ。何かあったら無線で交番に連絡して」
春子は一瞬躊躇した。これまで一人で民家を訪問したことはなかった。しかし、佐藤巡査長の頼みを断るわけにもいかない。それに、高齢者の様子見程度なら問題ないだろう。
「はい、分かりました」
春子は制帽をかぶり、無線機とメモ帳をポーチに入れて交番を出た。
山田の住むアパートは、交番から徒歩五分ほどの場所にあった。建築から四十年は経っている木造二階建てで、外壁は剥がれ、階段はきしんでいた。一階の角部屋。表札には「山田」とだけ書かれている。
春子は玄関のドアをノックした。
「山田さん、木沢交番の嶋津です。お元気ですか?」
しばらく音がしなかった。中にいないのかと思った時、足音が聞こえドアが少し開いた。
隙間から覗いた山田の目と春子の目が合った瞬間、春子は嫌な予感を覚えた。その目は、認知症特有のぼんやりとした目ではなく、異様に鋭く、そして何かを企んでいるような光を宿していた。
「ああ、婦警さんか。珍しいな、こんな若い女の子が来るなんて」
ドアが完全に開いた。山田は薄汚れた作業着を着て、無精ひげを生やしていたが、体格は意外にしっかりしていた。そして、その目は春子の制服をじっと見つめていた。
「近所の方が心配されていたので、様子を見に来ました。お体の調子はいかがですか?」
「心配?。誰が心配してるって?」
山田の声には敵意が含まれていた。
「お話をお聞きしたいのですが、少しお時間をいただけますか?」
「ああ、構わないよ。中に入ってくれ。立ち話も何だしな」
山田は春子を部屋の中に招き入れた。部屋は六畳一間で、想像以上に荒れていた。洗濯物や古新聞が散乱し、食べ物の腐った匂いがした。しかし、散らかり方に規則性があることに春子は気づいた。認知症による混乱ではなく、意図的に散らかしているように見えた。
山田は春子を部屋の奥の座布団に案内し、自分は出入り口近くに座った。完全に退路を塞がれた形になった。
「近所の方が、夜中に大声を出されていると心配されているのですが」
春子は手帳を取り出しながら言った。山田は春子の制服姿をじっと見つめている。その視線が、春子の胸元から濃紺のスカートへと移動しているのが分かった。
「大声?。そんなことはない。近所の連中が勝手に騒いでるだけだ」
山田の声が大きくなった。そして、にやりと笑った。
「でも、婦警さんが来てくれて嬉しいよ。特に、君みたいな若くて可愛い子がね」
春子の胸に嫌な予感が広がった。この老人は、最初から何かを企んでいたのだ。
「それでは、特に問題はないということですね。念のため、何か困ったことがあれば交番にご連絡ください」
春子は立ち上がろうとしたが、山田も立ち上がった。
「まあ、そんなに急がないでくれよ。久しぶりに若い女の子と話せるんだ。もう少しいてくれないか」
「申し訳ありませんが、他にも回らなければならない場所があるので」
「そうか。でも、その前に一つお願いがあるんだ」
山田は春子に近づいてきた。部屋は狭く、逃げ場がない。
「その制服、よく似合ってるじゃないか。ちょっと触らせてもらえないかな」
「やめてください」
春子の声が震えた。
「まあまあ、そんなに警戒するなよ。ちょっと触るだけだ。誰も見てないし、誰にも言わない」
山田の手が春子の肩に伸びた。春子は咄嗟に警察学校で習った護身術を思い出したが、相手は高齢者だった。力を使えば怪我をさせてしまうかもしれない。そして、そうなったら自分が問題にされるかもしれない。
「やめてください。これは公務執行妨害になります」
「公務執行妨害?」
山田が笑った。その笑い方は、認知症の老人のものではなく、確信犯のものだった。
「誰が信じるんだ?。俺みたいな年寄りが、婦警さんに何かしたなんて」
春子の背筋に冷たいものが走った。この老人は、最初から計画していたのだ。認知症のふりをして近所の人の同情を買い、警察官を一人で呼び寄せる。そして、若い婦人警官が来ることを期待していたのだ。
「いい制服だな。その濃紺の制服を着た婦警さんと話すのが、俺の夢だったんだ」
山田の手がスカートに向かった瞬間、春子は全身の力を込めて突き飛ばした。
「ナメないで!」
山田はよろめいて壁にぶつかった。その隙に春子はドアに駆け寄り、外に飛び出した。
階段を駆け下りながら、春子は涙が止まらなかった。震える手で無線機を取り出そうとしたが、うまく操作できない。そもそも、何と報告すればいいのか分からなかった。
交番に戻ったとき、三年先輩の男性警官の相沢巡査がいて、書類を作成していた。
「お疲れ様。春ちゃん。山田さん、どうだった?」
相沢巡査の何気ない質問が、春子の胸に重くのしかかった。
春子は一瞬、本当のことを言おうかと思った。しかし、相沢巡査の顔を見て諦めた。この人は信じてくれるだろうか。それとも、春子の落ち度を指摘するだろうか。「警察官なのに、なぜもっと注意深く対応しなかったのか」「唆るような仕草をしたのではないか」と。
「特に問題ありませんでした。少し散らかってはいましたが、健康状態に問題はないようです」
嘘をついた瞬間、春子は自分が何かを失ったような気がした。
「そうか。じゃあ田中さんには、様子を見守ってもらうって伝えておくよ」
相沢巡査は再び書類に向かった。
その夜、春子は眠れなかった。制服は権威の象徴ではなく、標的を示す記号でしかなかった。そして自分は、その記号を身につけることを選んだのだ。
明日もまた、この制服を着て交番に行かなければならない。山田のような男が他にもいるかもしれない。そして、その度に一人で対処しなければならない。
春子の長い夜が始まった。そして、これは始まりに過ぎないことを、春子はまだ知らなかった。
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この小説は架空の国の架空の物語です。
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