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第1話 路地裏で
しおりを挟む「おい、待て、コラ!!!」
待てと言われ待つ奴があるか。
呼吸の度に、肺と肋骨が尋常じゃなく痛む。吸い込む空気で気管が乾燥し、ヒリつき、呼吸が最早ただの苦痛となっている。踏み込む足も地面につく度にビリビリとした痛みが走って挫けそうになる。
なんて言うか、そう、限界だ。ギリギリの崖っぷち。心臓も今までにないくらいに鼓動が速い。
どれだけ走ったんだろう。早く諦めて………っ!
「あ……………っ!」
左の足首に電気が走った。次の瞬間、身体は宙を浮き、そのまま全身が地面に叩きつけられた。
「…………ぅ、くっ……」
逃げなきゃ。走らなきゃ。でないと、私は自由に…………。
どれだけ念じても左足に力が入らない。再び立ち上がろうとした時だ。
「やっと……観念、したか………」
ゼェゼェ、と肩で息をしながら男がすでに背後に迫っていた。男は大きな咳をすると、壁に手をつき、壁を支えに近づいて来た。
「てめえ、奴隷の分際でよく逃げてくれたな? お? てめえは物なんだよ、人じゃねえんだ。物が人に逆らってんじゃねえ、ぞ!」
「ぅぐっ…………!」
腹部に重たい衝撃が走る。同時にゴスッと鈍い音が聞こえる。強制的に肺の中の空気が全て排出され、呼吸が一瞬できなくなる。
「カ、ハッ…………」
殺される………っ! 襲い来る死の恐怖が思考を奪い去る。
「嫌っ! やめて! イヤッ!!!」
「五月蝿え! こんな裏路地にだれも来るわけねえだろこのダボが!」
バチン、頬を平手で打たれる。
じんわりと血の味が口の中に広がる。
「……………」
「ったく、ギャーギャー喚くんじゃねえよ。初めからそうやって大人しくしてりゃあ、痛い目見ずに済んだんだ」
酒臭い男の息が遠ざかる。
「おら、立てよ」
首輪に付けられた鎖を引かれる。最早なす術はない。
私は一生をこの男の所有物として過ごさなければならないのか。
言われるがまま立ち上がろうとする。が、挫いた左足に力が入らず地面に座り込んでしまった。
「てめぇ……ご主人様の言うことが聞けねえってのか?」
そんなつもりは…………、声に出したかった言葉は出ないで虚しく息が漏れるだけだった。
再び恐怖が心を支配する。条件反射的に身体を丸くうずくまった。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい…………」
かえってそれが男の癪に触ったのか、
「謝るんなら初めからするんじゃねえよ!」
横腹に蹴りが入る。鉛のような重たい痛みが蹴られるたびに蓄積していく。それは同時に精神を恐怖で埋め尽くす。最早、抵抗する気などさらさらないというのに男は怒りに我を忘れたかのように怒声とともに蹴り続けた。
「初めから変なことしないで奴隷らしくしてりゃいいんだよ! いつまで人間気取ってんだっての! ったく、契約の時なんで拘束具外したんだあの野郎は……」
契約の儀式のために邪魔だとか言っていたが、逃げられるリスクを考えると多少の不自由など気にする必要があったのか。
隷属の儀式など、奴隷の血と所有者の血を専用の契約者に付着させるだけのものではないか。あの商人はもしかしたらこれを狙っていたのでは……。男の怒りはエスカレートしていく。
だれか助けてよ………。こんな酷いことなんで私がされなきゃなんないの?
ねえ、誰か!
言葉ににならない声が心の中で木霊する。なぜ自分だけこんな目に遭わねばならないのか。
恐怖を通り越した心理はこの世への恨みで満ちていた。
「はいはい、女の子への乱暴はストップだよ、おじさん」
突然に割って入ってきたのは完璧なほどに場違いな能天気な若い男性の声。
「なんだてめえは?」
蹴りの応酬が止まる。男は能天気な声の方に注意が向いたようだ。
声の主の姿が気になって私も恐る恐る顔を上げた。
「なんだ、てめえはって? 俺の名前は………まあ、いいか。端的に言えば通りすがりの一般市民って奴ですね」
逆光になっていてシルエットしかわからないが、ひょろりとしていて手足が長かった。声や体格からして自分よりも少し歳上程度だろう。
「んなの…」
「どうでもいいって? ああ、どうでもいいよね。そう、この場における焦点となるべきポイントはそこの彼女だ」
「これか? これは俺の奴隷だが?」
「ふーん、そう。ところで、あなたの話を聞いたところによると正式な契約はまだらしいんだけど、その辺はさ、どうなのよ」
「てめっ…! いつから聞いてやがった!」
「あ、本当みたいね」
「チッ………」
男は明らかに動揺していた。そこにさらに青年は畳み掛ける。
「正式な契約を交わしていないってことはもしかしたら、その子は買われたのではなく、あなたによって奴隷商から盗まれた、という解釈もできる」
いや、そんなことはあり得ない。奴隷商は商人の中でも特別なほど『売り物』に対する管理を徹底している。栄養管理から調教まであらゆる点においてそれはある意味、商人の鑑と言えるだろう。そこまでして奴隷をきちんと管理したがる商人から『売り物』を盗るなんてことは到底不可能に近い。
仮に盗ることができたとしてもすぐに捕まってしまい、その場合その盗んだ商品の倍額支払うかもしくは死ぬの二択を選ばされる。
「てめえ…………」
男の声に怒りとともに殺意が混じる。
「いや、待てよ…」
がすぐに男は冷静さを取り戻す。
「ここでお前を殺してしまえば何の問題も無いじゃねえか!」
男はユラユラと立ち上がるとポケットから何かを取り出した。
「え、ちょい待ち。待って待って、それって……」
ナイフだ。キラリと僅かな月明かりを反射する刃はよく研がれていることを表している。
さすがの青年も慌てている。
「死ねやオラァ!!!」
男が一気に駆け出した。
青年の抵抗する暇はなく、彼は男の突進をそのまま受け止め、互いに交錯したまま動かなくなった。
「いや、本当刃物は危ないって」
能天気な声とは裏腹に青年の鋭い膝蹴りが男の顔を入った。
ドサリ、声を発することなく男はそのまま倒れ伏した。
気を失ったらしい。
「いやあ、危なかった。口封じに殺すって物騒すぎでしょ」
完全にナイフが刺さったはずの青年は全くの無傷かのように変わりない様子だった。
「さて、お嬢さん。大丈夫? しばらくはあのおじさんも起きてはこないだろうからさ、今のうちに逃げちゃおっか」
青年になされるがまま、抵抗する体力も気力もない私は背負われてしまった。
「よっ、と。うわ…君少し軽すぎるよ」
歩き出した青年の背で私は意識を失った。
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