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根本恭子
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いつまでもいつまでも、おびただしい数のクリームコロッケが眼前を移動していく。コンベアのスピードは納期が迫るといつもよりも明らかに速度を増していることがある。一袋八個入りのパックがラッピングマシンで包装され、金属探知機のセンサーをくぐってから段ボール箱に12パック包装される。機械の上には達成数が電光表示板にカウントされるが、隣に一日の達成予定数が表示してあり、終業時間が近づいても両数に差がついたままだとノルマ達成のためライン全体のスピードがアップする。目標数に達していないことはラインについている誰もが知ってはいるが、作業する側からすればコンベアのスピードに合わせて両手を動かすよりほかにしようがないので、あと何十ケースこなさなければならない、などとはだれも考えてはいない。
コンベアのスピードが上がっても、ラインの主役たるマシンそのもののスピードは一定なので、機械の手前でトレー同士が渋滞し、たちまち包装紙が絡んでしまい、黄色いサイレンがけたたましく鳴り響く。バラバラッとニ三人がマシンに集まり、運ばれてくるトレーをコンベアから手当たり次第に取り除ける。
「ういーっ!」
奇声を上げて飛び出してきた根元がマシンに向かうのを視界の隅にとらえたほのかは、反射的にラインの先端へ向かおうとした。身をひるがえした途端、背後から根本の肘鉄が突き出してきてほのかの腰上を激しく打った。
「オラッ、トロトロしてんじゃねーっ」
根本の恫喝が背後でしたが,こうしたときにこちらがうろたえたり、何か言い返したりすれば幾倍もの罵声が跳ね返ってくる。今そんなこと話してる場合じゃないでしょ、そう逆に押さえつけてくるのが彼女のいつものやり口なのだ。ほのかは熱い痛みに耐えながら、ほかの仲間同様、死に物狂いでコンベアから製品を取り除けていった。台車に積み上げ、解凍しないうちに冷凍室に運び入れる。作業に追われながら、叩かれた腰より腹底に悔しさが猛然と湧き上がってきた。
「うーん、ちょっと、届かなかったかあ」
夜勤の交代人員の人たちが仕事始めのラジオ体操をしているわきで、日中の達成数を見た部長はほのかたちを前にため息をついた。数字の不足分はそのまま夜勤の作業員たちに受け継がれる。労働時間は決まっているので残業はない。すまないとは思うものの、自分たちも四六時中を精一杯にこなしているので誰もがさばさばとした顔をしていた。床に這わせていた視線を、きっと根元に向けたほのかは思わず彼女の面立ちにくぎ付けになった。目尻に涙を浮かべている。それが明らかに、自分たちの班がノルマを達成できなかったことの悔しさからであるのが、目の当たりにして直感で理解できるのだ。すると自分にだけ異様につらく当たる、そう考えていた根本の仕打ちが、単なる新人いじめとは違ったものに思えてくるのだ。(この人ってもしかしたら仕事の鬼?)それでも先ほど腰を突かれた悔しさは消えなかった。十数人で働いている、こんなラインの仕事にそこまで思い入れるなんて、バッカみたい――目に涙を浮かべている彼女を見ると、逆にせいせいした気分にすらなる。今日の反省点を班長が部長に報告するのを聞きつつ、正直なところほのかはそう思っていた。
「はい、じゃ、お疲れさん」
白い電磁帽とマスクの間から覗かれる部長の目はいつもにこやかに微笑している、太い道間声とおおらかな気性は皆に好かれていた。渡り廊下の階段を上がって帰途に就く工員たちを見送って、根本は「あたし、これだけでもやっていっちゃう」、そういってラッピングマシンの前に散乱した包装紙のくずをゴミ箱に片付け始めた。
「ネモちゃん、いいのよ夜勤の人に任せておけば」
渡り廊下の上から、ほのかの前にいた大柄なブラジル人女性が大声で根本に声をかけると、「いいの、いいの本人がやりたいんだから」。班長が振り返って彼女の恰幅のある肩をたたいた。
「あの、もしかしてコレですか?」
好奇心にかられたほのかが、手のひらの上でこぶしを回せて見せて、ごますりのポーズをするとブラジル人が上体をゆすって吹きだした。眼下で仲良く肩を並べている部長と根本の二人を見ていた班長は、「それとも違うと思うけど」そう呟いて先に行ってしまった。
「根本さん、どう最近の調子は?」無駄になった資材を惜しむように、しわくちゃになった包装用フィルムをカッターで切り刻みながら、部長は根本恭子にさりげなく訊ねた。
「なんとか、やっています」
「うん。お昼ごはんはみんなと一緒に食べてんの?」
「はい」
「うん。とにかくねえ、自分に負けちゃだめだと思うんだ。まあ、なかなかむつかしいけどねえ」
「はいっ」
「まあ、そう堅苦しくとらないで。何かあったら俺でも班長でも、いつでも相談に乗るからね?。何しろ君のこと知っているのは、ここじゃ俺と班長しかいないはずだから」
「もう一人います」
「うん?」
「今日、第一の木曜日なんで」
「あっ、高見沢先生、いらしてるんだ」
「まだあたしの時間にならないんで。もうしばらくここにいさせてください。医務室に入るとこ、ほかの人に見られたくないんで」
蚊の鳴くような声でそう言うと、恭子はふっと目を細めて包装用のフィルムに静かにカッターの刃を当てて縦に引いた。
日勤のほとんどの工員たちが帰った後、恭子はロッカー室で着替えてから一階の医務室の扉をノックして緊張した面持ちで中の様子をうかがった。待合室のソファには三人の女性が順番を待っていた。三人ともが、同時に恭子の顔をちらと見た。自分を知っている者はいないようだった。職場では電磁帽とマスクで顔の大半は隠れているので、私服に着替え髪をおろしてしまえばどこの部署の何班の人間であるのかは、二百名近くが働いている構内では知られる由もない。頭のてっぺんから履いている靴まで同一規格の没個性的なユニフォームに、どれだけ救われた思いをしたか、医務室に来るたび恭子はいつも再認識する。受付の事務員に黙って予約票を差し出すと、事務員も心得ているので、微笑んで何も言わずにソファのほうを指し示した。
「14番の方」
やがて予約票の番号を呼ばれ、防音のためか扉のふちにゴムのついた重い引き戸を開けると、中でピンクのブラウスを腕まくりした女医が回転いすに座ったまま、ニッコリと恭子にほほ笑んだ。
高見沢玲奈は月に一度、この会社に請われて診察に来る嘱託産業医だ。本業は東京の大学付属病院の精神科に勤務している。
国により、常勤従業員50人以上の企業では産業医の選任が義務付けられているが、この会社では健康診断以外でも、メンタルヘルス対策のためストレスを持つ社員に対し、面接指導が行われている。厚生労働省が実施した調査では、労働者のうち六割近くが職業生活でストレスを抱えているという回答があり、精神疾患での労災の請求は増加傾向で昨年度は1300件と過去最多を更新しているが、支給される件数は毎年ほぼ二百数十件に抑えられている。
本業の外来だけでも手いっぱいのところだったが、工場の本社がある東京の食品会社とは病院も昔からの付き合いがあるらしく、頼まれれば断ることができないのが実情だった。
パソコンのマウスを操りながら、玲奈は根本恭子の電子カルテに見入ったまま、おっとりした声音で近況を尋ねた。
「その後どうですか」
「はあ。今日も仕事中、頭の中が真っ白になっちゃって」
「かわらない?。うーん、それってどういうんだろう。頭のここら辺が真っ白になっちゃうっていう、感じはある?
。額のあたりとか後ろのほうだとか」
「右半分…のような」
「右半分…右半分。でもねえ、前に太田の病院で診てもらったCTの結果ではどこにも異常は見られないのね。その、真っ白になっちゃうときってどんな時なのかしら。ほかの人と話をしたとき?。それとも普通に仕事しててそうなっちゃうの?」
「仕事中ですが普通でもなかったです」
「というと?」
「目標数に出来高が追い付かなくなってラインが早く回りだしたんです。そうなるとみんな死に物狂いで、場の空気が何というか、異様に煮詰まってくるんです。集中しているみんなの気迫というか、ミスは許されないっていう暗黙の了解っていうか……。そうなるとあたしもうだめで、右の耳たぶからだんだん何かが入ってくる感じがするんです。それを左のほうで一生懸命にこらえるんですがマシンに包装紙が絡まって、あの緊急停止のサイレンが鳴りだすと、『ワーッ』って、頭全部が占領されるというか、訳が分からなくなっちゃって…」
「思い切って、目つぶっちゃうとか」
「え?」
『ムリかしら。そういうね、緊張感が高まってきたとき、五秒でいい、目を閉じて、ふーって深呼吸するの。酸素を取り込むの。工場の外のね、建物にそそぐお日様を想像してね、それを全身にいきわたらせる感じ」
「できませんそんなこと」
「だめ?」
「先生あたし、この仕事なくしたら、ほかに働くとこないんです。あたしの既往歴ご存じですよね。ここでしか働けないでやっとありついた仕事なんです。だから好きになる努力もしているし、誇りを持って働いているんです。目をつぶるだなんて、そんなこと絶対にできません」
「無理かあ。じゃあちょっと視点を変えてみようか。お家ではどう?。やっぱり似たようなことが起きる?」
ハッとして恭子は玲奈を直視した。
「話すのが嫌だったら、無理して言わなくってもいいんだけど、ご家族とはうまくいってるのかしら」
がっくりと、首を折ってうなだれてしまった恭子を見て、「また、次回にしようか?」玲奈は意識的に質問の機先を和らげ、持ち前のおっとりした声音で恭子に告げた。リノリウムの床面を見つめたまま恭子は固まったように動かなくなった。
「変なんです」
「ん?。なにが」
「うちの子。チハルっていう小学三年生になる女の子なんですが、あたしあの子、怖いんです」
泣きはらした瞼を持ち上げて、恭子は改めて医師を見つめた。
「あたしがこんなふうになったのも、元はといえばあの子が原因だったような気がするんです。二年位前から…家にいてもあたしなんだかいつも、あの子に見張られてるような感じがして。目線が何というか…親を見る目っていうより、まるで石ころでも眺めているような暗い目つきをすることがあるんです」
「思春期を迎え始めたころの女の子だと、どうしても母親を敵対視して、父親になつく傾向があるものねえ」
「そんなことはっ!…そんなことは解っているつもりなんですけど、そうじゃなくって、あたし何かあの子の気に障るようなことをしたとき――例えばほしいものを買ってあげないとか、見たいテレビを見せないとか、さすがにもう泣き叫ぶことはないんですが、ククッと眉間にしわを寄せて目が鋭く光るんです。そうするとあたしいつもの症状で、頭がジーンと痺れたようになるんです。先生これって…」
「お子さんのお名前なんて言ったっけ」
『チハルです」
「あんまり思いつめないようにすること。あなた仕事でもそうだけど、なんでも完ぺきにこなそうとしすぎるんじゃないかしら。母親として、チハルちゃんをきちんとした子に育てたい、そう思う一方で子供には常に好かれていたい、周囲や世間からもまっとうな親子とみられていたい…なんでも過度に期待しすぎて少し疲れちゃったのかも」
「あの。先生、私のこの頭の病気って、遺伝するものなんでしょうか」
「根本さんの場合は、環境による影響が大きいと思うのね?」
「だからそんなこと聞いてんじゃねーだろっ!。娘がどうかって聞いてんだろっ!。人の話聞いてんのか、オラーっ!
」
椅子を蹴って立ち上がった恭子を見上げ、高見沢玲奈はおっとりとした微笑を浮かべた。他病院から受け継いだ電子カルテにある通り、彼女は情緒不安定なうえ、明らかな人格障害が認められる。
「先生。そろそろ次の方が…」机上のインターフォンから受付の女性の声がした。
「はい。根本さん、来月もまたお話窺わせてね」
パソコンから医薬品のリストを呼び出すと、精神安定剤、睡眠剤を月例に倣って同分量クリックし、処方箋をプリントアウトした。
『先生すみませんあたし…」
「もっとすごい人、ほかにいっぱい見慣れているから気にしないで」
処方箋を受け取ると、恭子は一礼して帰っていった。
「次の方どうぞ」
インターフォンのボタンを押す、玲奈の指先がかすかにふるえた。
コンベアのスピードが上がっても、ラインの主役たるマシンそのもののスピードは一定なので、機械の手前でトレー同士が渋滞し、たちまち包装紙が絡んでしまい、黄色いサイレンがけたたましく鳴り響く。バラバラッとニ三人がマシンに集まり、運ばれてくるトレーをコンベアから手当たり次第に取り除ける。
「ういーっ!」
奇声を上げて飛び出してきた根元がマシンに向かうのを視界の隅にとらえたほのかは、反射的にラインの先端へ向かおうとした。身をひるがえした途端、背後から根本の肘鉄が突き出してきてほのかの腰上を激しく打った。
「オラッ、トロトロしてんじゃねーっ」
根本の恫喝が背後でしたが,こうしたときにこちらがうろたえたり、何か言い返したりすれば幾倍もの罵声が跳ね返ってくる。今そんなこと話してる場合じゃないでしょ、そう逆に押さえつけてくるのが彼女のいつものやり口なのだ。ほのかは熱い痛みに耐えながら、ほかの仲間同様、死に物狂いでコンベアから製品を取り除けていった。台車に積み上げ、解凍しないうちに冷凍室に運び入れる。作業に追われながら、叩かれた腰より腹底に悔しさが猛然と湧き上がってきた。
「うーん、ちょっと、届かなかったかあ」
夜勤の交代人員の人たちが仕事始めのラジオ体操をしているわきで、日中の達成数を見た部長はほのかたちを前にため息をついた。数字の不足分はそのまま夜勤の作業員たちに受け継がれる。労働時間は決まっているので残業はない。すまないとは思うものの、自分たちも四六時中を精一杯にこなしているので誰もがさばさばとした顔をしていた。床に這わせていた視線を、きっと根元に向けたほのかは思わず彼女の面立ちにくぎ付けになった。目尻に涙を浮かべている。それが明らかに、自分たちの班がノルマを達成できなかったことの悔しさからであるのが、目の当たりにして直感で理解できるのだ。すると自分にだけ異様につらく当たる、そう考えていた根本の仕打ちが、単なる新人いじめとは違ったものに思えてくるのだ。(この人ってもしかしたら仕事の鬼?)それでも先ほど腰を突かれた悔しさは消えなかった。十数人で働いている、こんなラインの仕事にそこまで思い入れるなんて、バッカみたい――目に涙を浮かべている彼女を見ると、逆にせいせいした気分にすらなる。今日の反省点を班長が部長に報告するのを聞きつつ、正直なところほのかはそう思っていた。
「はい、じゃ、お疲れさん」
白い電磁帽とマスクの間から覗かれる部長の目はいつもにこやかに微笑している、太い道間声とおおらかな気性は皆に好かれていた。渡り廊下の階段を上がって帰途に就く工員たちを見送って、根本は「あたし、これだけでもやっていっちゃう」、そういってラッピングマシンの前に散乱した包装紙のくずをゴミ箱に片付け始めた。
「ネモちゃん、いいのよ夜勤の人に任せておけば」
渡り廊下の上から、ほのかの前にいた大柄なブラジル人女性が大声で根本に声をかけると、「いいの、いいの本人がやりたいんだから」。班長が振り返って彼女の恰幅のある肩をたたいた。
「あの、もしかしてコレですか?」
好奇心にかられたほのかが、手のひらの上でこぶしを回せて見せて、ごますりのポーズをするとブラジル人が上体をゆすって吹きだした。眼下で仲良く肩を並べている部長と根本の二人を見ていた班長は、「それとも違うと思うけど」そう呟いて先に行ってしまった。
「根本さん、どう最近の調子は?」無駄になった資材を惜しむように、しわくちゃになった包装用フィルムをカッターで切り刻みながら、部長は根本恭子にさりげなく訊ねた。
「なんとか、やっています」
「うん。お昼ごはんはみんなと一緒に食べてんの?」
「はい」
「うん。とにかくねえ、自分に負けちゃだめだと思うんだ。まあ、なかなかむつかしいけどねえ」
「はいっ」
「まあ、そう堅苦しくとらないで。何かあったら俺でも班長でも、いつでも相談に乗るからね?。何しろ君のこと知っているのは、ここじゃ俺と班長しかいないはずだから」
「もう一人います」
「うん?」
「今日、第一の木曜日なんで」
「あっ、高見沢先生、いらしてるんだ」
「まだあたしの時間にならないんで。もうしばらくここにいさせてください。医務室に入るとこ、ほかの人に見られたくないんで」
蚊の鳴くような声でそう言うと、恭子はふっと目を細めて包装用のフィルムに静かにカッターの刃を当てて縦に引いた。
日勤のほとんどの工員たちが帰った後、恭子はロッカー室で着替えてから一階の医務室の扉をノックして緊張した面持ちで中の様子をうかがった。待合室のソファには三人の女性が順番を待っていた。三人ともが、同時に恭子の顔をちらと見た。自分を知っている者はいないようだった。職場では電磁帽とマスクで顔の大半は隠れているので、私服に着替え髪をおろしてしまえばどこの部署の何班の人間であるのかは、二百名近くが働いている構内では知られる由もない。頭のてっぺんから履いている靴まで同一規格の没個性的なユニフォームに、どれだけ救われた思いをしたか、医務室に来るたび恭子はいつも再認識する。受付の事務員に黙って予約票を差し出すと、事務員も心得ているので、微笑んで何も言わずにソファのほうを指し示した。
「14番の方」
やがて予約票の番号を呼ばれ、防音のためか扉のふちにゴムのついた重い引き戸を開けると、中でピンクのブラウスを腕まくりした女医が回転いすに座ったまま、ニッコリと恭子にほほ笑んだ。
高見沢玲奈は月に一度、この会社に請われて診察に来る嘱託産業医だ。本業は東京の大学付属病院の精神科に勤務している。
国により、常勤従業員50人以上の企業では産業医の選任が義務付けられているが、この会社では健康診断以外でも、メンタルヘルス対策のためストレスを持つ社員に対し、面接指導が行われている。厚生労働省が実施した調査では、労働者のうち六割近くが職業生活でストレスを抱えているという回答があり、精神疾患での労災の請求は増加傾向で昨年度は1300件と過去最多を更新しているが、支給される件数は毎年ほぼ二百数十件に抑えられている。
本業の外来だけでも手いっぱいのところだったが、工場の本社がある東京の食品会社とは病院も昔からの付き合いがあるらしく、頼まれれば断ることができないのが実情だった。
パソコンのマウスを操りながら、玲奈は根本恭子の電子カルテに見入ったまま、おっとりした声音で近況を尋ねた。
「その後どうですか」
「はあ。今日も仕事中、頭の中が真っ白になっちゃって」
「かわらない?。うーん、それってどういうんだろう。頭のここら辺が真っ白になっちゃうっていう、感じはある?
。額のあたりとか後ろのほうだとか」
「右半分…のような」
「右半分…右半分。でもねえ、前に太田の病院で診てもらったCTの結果ではどこにも異常は見られないのね。その、真っ白になっちゃうときってどんな時なのかしら。ほかの人と話をしたとき?。それとも普通に仕事しててそうなっちゃうの?」
「仕事中ですが普通でもなかったです」
「というと?」
「目標数に出来高が追い付かなくなってラインが早く回りだしたんです。そうなるとみんな死に物狂いで、場の空気が何というか、異様に煮詰まってくるんです。集中しているみんなの気迫というか、ミスは許されないっていう暗黙の了解っていうか……。そうなるとあたしもうだめで、右の耳たぶからだんだん何かが入ってくる感じがするんです。それを左のほうで一生懸命にこらえるんですがマシンに包装紙が絡まって、あの緊急停止のサイレンが鳴りだすと、『ワーッ』って、頭全部が占領されるというか、訳が分からなくなっちゃって…」
「思い切って、目つぶっちゃうとか」
「え?」
『ムリかしら。そういうね、緊張感が高まってきたとき、五秒でいい、目を閉じて、ふーって深呼吸するの。酸素を取り込むの。工場の外のね、建物にそそぐお日様を想像してね、それを全身にいきわたらせる感じ」
「できませんそんなこと」
「だめ?」
「先生あたし、この仕事なくしたら、ほかに働くとこないんです。あたしの既往歴ご存じですよね。ここでしか働けないでやっとありついた仕事なんです。だから好きになる努力もしているし、誇りを持って働いているんです。目をつぶるだなんて、そんなこと絶対にできません」
「無理かあ。じゃあちょっと視点を変えてみようか。お家ではどう?。やっぱり似たようなことが起きる?」
ハッとして恭子は玲奈を直視した。
「話すのが嫌だったら、無理して言わなくってもいいんだけど、ご家族とはうまくいってるのかしら」
がっくりと、首を折ってうなだれてしまった恭子を見て、「また、次回にしようか?」玲奈は意識的に質問の機先を和らげ、持ち前のおっとりした声音で恭子に告げた。リノリウムの床面を見つめたまま恭子は固まったように動かなくなった。
「変なんです」
「ん?。なにが」
「うちの子。チハルっていう小学三年生になる女の子なんですが、あたしあの子、怖いんです」
泣きはらした瞼を持ち上げて、恭子は改めて医師を見つめた。
「あたしがこんなふうになったのも、元はといえばあの子が原因だったような気がするんです。二年位前から…家にいてもあたしなんだかいつも、あの子に見張られてるような感じがして。目線が何というか…親を見る目っていうより、まるで石ころでも眺めているような暗い目つきをすることがあるんです」
「思春期を迎え始めたころの女の子だと、どうしても母親を敵対視して、父親になつく傾向があるものねえ」
「そんなことはっ!…そんなことは解っているつもりなんですけど、そうじゃなくって、あたし何かあの子の気に障るようなことをしたとき――例えばほしいものを買ってあげないとか、見たいテレビを見せないとか、さすがにもう泣き叫ぶことはないんですが、ククッと眉間にしわを寄せて目が鋭く光るんです。そうするとあたしいつもの症状で、頭がジーンと痺れたようになるんです。先生これって…」
「お子さんのお名前なんて言ったっけ」
『チハルです」
「あんまり思いつめないようにすること。あなた仕事でもそうだけど、なんでも完ぺきにこなそうとしすぎるんじゃないかしら。母親として、チハルちゃんをきちんとした子に育てたい、そう思う一方で子供には常に好かれていたい、周囲や世間からもまっとうな親子とみられていたい…なんでも過度に期待しすぎて少し疲れちゃったのかも」
「あの。先生、私のこの頭の病気って、遺伝するものなんでしょうか」
「根本さんの場合は、環境による影響が大きいと思うのね?」
「だからそんなこと聞いてんじゃねーだろっ!。娘がどうかって聞いてんだろっ!。人の話聞いてんのか、オラーっ!
」
椅子を蹴って立ち上がった恭子を見上げ、高見沢玲奈はおっとりとした微笑を浮かべた。他病院から受け継いだ電子カルテにある通り、彼女は情緒不安定なうえ、明らかな人格障害が認められる。
「先生。そろそろ次の方が…」机上のインターフォンから受付の女性の声がした。
「はい。根本さん、来月もまたお話窺わせてね」
パソコンから医薬品のリストを呼び出すと、精神安定剤、睡眠剤を月例に倣って同分量クリックし、処方箋をプリントアウトした。
『先生すみませんあたし…」
「もっとすごい人、ほかにいっぱい見慣れているから気にしないで」
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