みやこ落ち

皇海翔

文字の大きさ
上 下
3 / 9

しおりを挟む
 あるじのいない机と椅子に、窓外からイチョウの枯枝を透かして冬の日射しがさしこんでいた。なにひとつ置かれていない机の天板に光があふれ返っている。
 受験シーズンが近つ“くにつれ、教室には空席が目立つようになった。学校を休む生徒の中には、願書の提出のほか自宅で不得意科目を勉強するため登校してこない者もいて、この時期では、教科書をすでに独習ですましている生徒が多かった。一方でぼくのように、微積分の応用問題なぞ亜空間をさまよう宇宙塵の如き感覚で聞いている者も何人かいて、各人のレベルに雲泥の差があったから授業そのものがあまり意味をなさなくなっていのだ。
 「継続は力なり」「自分に負けるな」「夏を制する者は受験を制す」そうしたスロ-ガンのもと、ぼくらは長い期間にわたり厳しいスケジュ-ルに追い立てられてきた。けれどもこれは本当に自分に克つための戦いなのだろうか。その戦いに参加することを望んでいるとするなら、ぼくはいつその意思表示を明確にしたと言えるだろう。
 山積みの課題で首が回らなっていた僕たちに、競争の意義を云々する余裕はなく、精神的なゆとりなど誰も持ち合わせてはいなかった。物心ついて以来、営々として築き上げてきた学歴をこの期に及んで手放そうなどと考えるものはなく、この頭脳競争に疑いを差しはさむ者すらほとんどいなかった。

 三年生になってすぐの頃、同級の田村という生徒が麻疹にかかった。入院してワクチンを打つというので学校を一週間近く休んだことがある。久々に登校してきた彼が期末テストでいつにない悪点を取ったとき、気の毒なので表向きは励ましながら、言い知れぬ愉悦が鬱勃と身内からこみ上げるのをぼくは抑えることができなかった。慰められる彼もまた、これまでに数々の級友を追い越してきた、身に覚えがあるのでこちらの優越が手に取るように解るのだ。交際すべき友人は同レベル以上の学力をもつ者に求めたく、追い越してしまえば彼もまた過去の点景人物になってしまう。脱落したものに忍びよる失墜の悲哀は、他人事ながらおぞましい。
 田村君は、競争の裏面の現実に呆然として立ち尽くしていた。そんな脱落者の卑屈な相貌が、上位にいる者たちの糧となり、血肉となって強者独存の活力となるのだ。「自己に克つ」この美称のもと、ぼくらはずいぶんと昔からやみくもに級友を蹴落としてきた。成績が優秀で進学がほぼ確定している優等生は、けれども底辺あたりであえいでいるエゴイストたちのおぞましさとは無縁だった。陰気な教室を出た陽のあたるあたる校庭で、竹林の七賢よろしくキャンパスライフなぞを語って哄笑しており、洋々たる前途とともに輝いてみえた。
 どうしても解けずにいる問題を休み時間に尋ねにいくと、優等生は絶大な友愛精神を発揮して親身になって教えてくれる。有り難いのだが、困っているぼくを何とかして救おうとする彼の至誠、無垢の善意が涙の出るほど自分に苦しいのだった。学力の劣っているぼくのために、自分の時間をさいて何ら拘泥するそぶりも見せない。学校では、みなの前で出題頻度のたかい重要構文を蛍光ペンでけばけばしく囲ってみせて、帰宅すると、ぼくらが見たこともないような何易度の高い問題集を夜に一人ひもといていたりするのだった。
 要するに優等生は、頭脳競争に参加していることすら意識するまでもなく、勝者然として人生の大道を歩んでいくのだろう。とすると否応なく踏み台にされたうえ、望んだ覚えのない競争の渦中、凡才同士傷つけあっているぼくらの日常とは一体いかほどのものであるのだろう。 
 この真相がうすぼんやりと見えてきたとき、ぼくは断然この日常からの堕落を決意した。どころか厚さ二センチもある歴史の教科書に載っている、年号を丸暗記するのに自分の脳を使うのが嫌になった。
 強い日射しがジリジリと校舎に照りつける、残暑きびしい二月期の試験日。静まり返った教室に居ならぶ坊主頭の全員が「自分に克つこと」に血眼になっていた。油蝉のやかましい共鳴が唸り続け、ぼくの頭は空白で両足をバケツに突っ込んでいた。歴史の試験が終了するまでの九十分間、ぼくは額からしたたる汗が紙に醜く滲んでいくさまを半睡半眼の体でにらみつけていた。
「あと五分」
 監督官の声を聞くや、解答用紙には『教科書を見よ』とだけ大書し、憤然としてぼくは教室を飛び出した。

 授業が休講になると軽音楽部の小屋に顔を出す。小屋では部長のシュウちゃんがたいてい一人でエレキギタ-をひていた。音が外に漏れてはまずいから、プラグを抜いたままつまびている。シュウちゃんも、来春の受験はすっかりあきらめた様子だった。部外者のぼくが小屋に来ても嫌な顔ひとつせず、かといって音楽の話をするでもない。ぼくはロツクミュ-ジシャンをほとんど知らなかったし、ギタ-テクニックもどこがすごいのだかピンとこない。そんな二人が小窓から射しこむ冬の薄日を浴びて、ひとつ屋根のもと向き合っていること自体、不思議といえば不思議だったが、どちらかというと行き場のないぼくがシュウちゃんの居場所に間借りしている格好だった。
 煤けた小屋の板壁にもたれ、ぼくはシュウちゃんの指先ばかりを見つめて過ごしていた。校舎から鐘の音が聞こえても、シュウちゃんはギタ-の教習本から顔も上げず、「次の授業なんだっけ……」そう独り言のようにつぶやいた。
「世界史だよ」
「うわ-っ、眠いな。休もうか。ここのフレ-ズ、あと少しでマスタ-できそうなんだ」
 たまに交わす二人の会話といったらその程度のものだ。そうしたシュウちゃんのそっけない態度がどうゆうわけだか、この頃ぼくには居心地のいい相手だったのだ。シュウちゃんの方でも、たまに珍しい冬鳥が小屋に羽を休めにやってくる、ツグミ程度の存在としてぼくを見ているようだった。
 授業が続けて休講と分かると、仕方なく教室に居残っている生徒を後にしてぼくはさっさと校門を出てしまう。

 地下鉄白山駅の構内から地上に出ると、住みなれた町の匂いをかいでぼくはようやく本来の自分に還ったような気分になった。木田という同級生の悪友と商店街を抜け、しばらく行くと駒込大観音の向かいに黄色い喫茶店『ホワイト』がある。
 マスタ-が店を始めて間もないので、客の個人的なことにはあまり口を挟まないものの、基本的に高校生は断っている様子だった。木田とぼくはいつも私服だったので、東洋大の学生だと思ったらしい。木田は夜となると学校近くの雀荘に出入りしており、ヘビ-スモ-カ-でつねに濃厚なピースの煙をくゆらせている、勝負師の妙に苦み走った面立ちをしていた。一方でぼくは頬の丸みも取れていない幼い童顔だ。 
 ある時、ぼくらのテーブルを露骨に窺いながらささやいている中年の二人連れがおり、それがどうも近所の私立高校の教師であるらしかった。席を立つと何事かマスタ-に問い質していた。するとマスタ-は頷きながらフライパンの火を止めて、カウンタ-を出、ぼくらのテーブルの前に来た。そしてどことなくこわばった面持ちで内緒話でもするように片手を口元に添え、
「君たち……高校生?」と訊いてきたのだ。
 ぼくはチクられたと思い、すうっと大人社会に足蹴にされたような虚脱を覚えた。顔の青ざめていくのが分かったが、木田がすこぶる低調のトーンでマスタ-の顔を真正面に見つつ、
「いや。違いますよ。俺もこいつも浪人生です。なんなら身分証出しましょうか? 免許証なら持っているから……」
 不快そうに言い放つと、
「いや、それはいい」手で制してマスタ-はそのまま調理場へ引き返していった。注文したブレンドが出されてからは、テレビゲ-ムに興じながら二人して濛々と煙草を吹かしていたが、木田の不機嫌はなかなか止まなかった。
 店内には1950年代のハードバップのレコ-ドが抑えめのボリュ-ムで流れていた。夜の都会の片隅にひとり置かれたような哀感にみち、どこか無機的で退廃的、それでいて温かな音色をもつトランペットがたびたびかけられており、それがどうやらマスタ-の好みであるらしいのが分かる。木田との会話がとぎれると、ぼくの心身はすっかりピアノやギタ-のアドリブ演奏にさらわれてしまった。これほどの猛烈な自己主張を、ぼくはそれまでに聴いたことがなかった。自由奔放に謳い上げるソリストの音色は表現する悦びにみちており、圧倒的な独自性を放って野鳥の生の声を聴くのと変わらない。それが作品としてレコ-ドに残されている、ということが驚きだったのだ。トイレへ向かう通路のわきには、フライパンで揮発した調理油をこってりと浴び、褐色に変色したレコ-ドジャケットが戸棚二段にわたってぎっしりしまわれてあった。
「失礼な店だ。出ようか」
 木田がどんなにフンガイしても、実際ぼくらが高校生であることに変わりはなかったが、日中は教科書を棒読みするだけの漢文でアクビを嚙み殺し、物理のおよそこの世のものとも思われない、意味不明な数式の異次元の如き空間をわびしくさまよってきたぼくらには、心身を健全な状態によびもどすための居場所がどうしても必要だったのだ。
 もっとも、千駄木町は地元なので幾度か店に出入りするうち、
「あら。あの子知ってるわよ」
 知ってることなら何でも口から出さずにはいられないチワワのようなオバサンがいてあっけなく正体がばれてしまった。店の従業員がマスタ-に告げると、「あいつらのことは、もういいよ」、ほっといてやろうという事になったので、それは一つにはぼくらの使うゲーム代が馬鹿にならない額に上ったからだが、もう一つの理由は、駅近くのファーストフ-ド店ではしゃぎ騒いでいる制服姿の高校生とはどこか様子が違う、そうマスタ-が見たらしかった。
 木田とぼくは、どんなことを話しているときでも、話の盛り上がりにつれ我を忘れるほど声高になる、ということがあまりなかった。
 そもそも何事かに熱くなるという傾向がない。単位を取得するためだけに行く学校生活には一年の頃から幻滅しており、自分の立場をあやうくしない程度には親や担任、それに周囲の大人たちの思惑といったものを敏感に計算に入れて行動していた。だから成算のない、過度の情熱に首を突っ込むというようなことがない。60年代から70年代にかけて吹き上がった学生運動の猛火はすっかり鎮静し、その余燼すらきれいに片付けられた後の80年代、ぼくらはシラケの世代などと呼ばれたが、学生がいくら肩肘を張ったところで成せることはたかが知れている、そんなどこか無感動で索漠とした諦念が時代の空気としてかすかにあった。
 ぼくは腕組みをして瞑目し、ジャズの旋律に没入している。木田は麻雀ゲームに見入りながら、
「コンピュ-タ-なのに両面待ちよりカンチャン待ちの方があがれる確率がたかいのはなぜだろう……」
 などと独り言をいっている。そんな両人を見て、マスタ-も店から追い出す気にはならなかったのだろう。

  喫茶店で木田と別れてから自宅に戻り、二階の自室にこもっていると、母はよく前ぶれもなしに部屋の障子戸をいきなり開け放った。机上に置いた文庫本に目ざとく気つ”くと、
「なんだ。勉強してたんじゃないんだ。だったら電気もったいないから、消すね」
 そう言って階下へ下りていき、キッチンにある配電盤のブレ-カ-を落とし、二階の電気を消してしまう。目の前のスタンドから頭上の室内灯からがふっと消えて闇になる。初めてこれをやられたとき、ぼくは停電かと思ったが、それまでしていたことはすべて諦めなければならなかった。これを執拗に繰り返されると、まるでこちらの意思、あげくに存在までを全否定されたようなやりきれない気分に落ち込んでくる。それはどこか精神的な拷問に似ていた。
 中学生のころ、暮れの押し詰まった寒い夜、やはり母に不勉強をなじられて、家を叩き出されたことがある。三時間外をぶらぶらしたあとで家に戻つてみると、勝手口や風呂場の小窓まで抜かりなく鍵がしてあった。仕方なく二階の物干しで膝を抱えてふるえていると、隣家の娘の忍び笑いが洩れてきた。ぼくはたまらなくなって、ふたたび真夜中の舗道をさまよい歩いた。行き交う大人たちの怪訝そうな目付きが、そこでも自分をいたたまれない惨めさに追い込んでいった。
 それから人目を避けて近所の大学構内に逃れた。グラウンドの黒滔々たる闇に自己を遺棄してみると、身体の輪郭がだんだんに信用できなくなってくる。ぼくはそのとき、真実この肉体が世界のどこにも関与していない、不参加であることの恐怖を感じて、心神の平衡を意識的に保たずにはいられなかった。おもむろに手足を動かしてみたり、暗い非常階段を二三段上ってみたりした。
 頬をなぶるつめたい風に薄目をそっと開けたとき、ぼくはいつしか地震研究所の非常階段を上りつめて屋上の縁にきわどく佇んでいた。その場で眼をつむるのはだいぶ勇気のいることだった。これより一歩も先へ進む余地がないという絶望。その境涯に自らすすんで没入するということが、級友たちの顔がなつかしく蘇つてきてしまい、ぼくにはとうてい理解できなかった。自己の内奥を観るのに慣れた視覚に、足下にすっぱり切れ落ちているビルの遥か谷底は、無意識同然の闇に思えた。

  
  思春期を迎える多くの青年がそうであるように、ぼくもまた過剰な自意識にさまざまな失態を繰り返してきた。それでもこの生命について今こそ真摯に問うのでなくては、この先何をするにしろ自己の中心を欠いた浮薄な生へ流されていくのではないか――そんな疑念をもっていた。自分は何をしにこの世に生まれてきたのか、沈思するほどしみじみ不思議に思われてくる――その疑念がもっとも奥深いところから湧き出してくる十代後半の今、長考するのでなくては一歩も前へ進めない気がした。
 漠とした難題にほてったぼくの脳はさしたるあてもなく図書館におもむき、思想や哲学といった高校生にはややむつかしい人文書を漁るようになった。三時間机に向かい理解できたのがたった数行であるにしろ、それらの金言はかつえた精神に慈雨のごとくに浸透した。
 クラスの話し相手を一人、また一人と失いながら、かきむしられるような不安と焦燥はそうした類の本でしか癒すことができなかった。独自性ということになれば決局は自分の力で産み出すしかない――そんな醒めた眼で学校の教科書の小山をみると、それらはとうてい無味乾燥な、自分とは縁のない冊子としか映らなかつた。

 ある晩、帰宅した父と母が激しく罵り合っているので階下の様子を見にいくと、配電盤の下で二人がもみ合いになっていた。高々と掲げた母の手にはペンチが握られており、それを父が奪おうとしていた。配電盤の中は灰色の電線の束がごっそり切断されてあった。母はなおも電話線を切るのだとわめき立て、ペンチを手放そうとしなかった。
 夜が更けて、階下がひっそり寝静まったころ、空腹を抱えてキッチンへ下りていくと八畳間にほのかな明かりが漏れていた。下半分がガラス張りになった障子戸から中を覗くと、畳に置いた懐中電灯の明かりのもと、母は片膝を立てて足の爪を切っていた。こちらに気つ‘‘くと電灯のスイッチをカチリと切って、闇の中じっと息をころしている。と、
「真っ暗なところにいれば自分のほんとうの気持ちに気つ‘‘くはずです」母はそう静かにつぶやいた。
 それからパチン、と爪切る音がした。

  ぼくの通う高校は都立校で、三年に進級するさい理数・文科に分けるクラス替えがあり、生徒の大半は進学を希望していた。入学した当初、ぼくは業者の学力テストでは学年で十二位で、クラスでは二番か三番の位置にいたのだったが、三年間でみるまに成績を落とし、卒業間際の時期には落第を免れるか否かという瀬戸際にいた。
 進路相談の指定日を記したプリントが配られたとき、ぼくはこの日が高校生活最大の修羅場になるなと覚悟していた。
 担任のいる体育館の教官室をノックして中に入ると、バスケットボ-ルやバレ-ボ-ルの革製品の匂いとともに男まさりの体臭が二人分、それに煙草の煙がまじりあい、一歩ふみこんですぐに異様な価値観におそわれた。ぼくはこうしたアクの強い、体育会系の体臭に免疫がなかった。にわかに色をなくし、うろたえているぼくの態度を教諭は一瞥するや、
「ああ……おまえのツラだけは見たくなかったよ」
 そう言って、連日の進路相談に疲弊した面立ちをあらわに浮かべ、椅子の背もたれにぐったりと上体をあずけた。
 教諭は、おまえの入れる大学がこの世にあるとも思えないが、行きたいところがあるのならかってに行け、という意味のことを聞き取りにくい小声で言った。それから中学以来ぼくの品行がいかに悪く、だめな人間であるのかを諭すというより、被告人の罪状を読み上げる検察官のような無表情で簡潔に述べた。嫌悪を通りこしてあきれ果て、このさい減刑でも何でもいいからサッサと行くところに行ってもらいたい、そんな気だるさだった。真剣に勉強に取り組んでいる、ほかの生徒にあてるべき貴重なな時間を一分でもぼくのために費やすことが非常な苛立ちであるらしく、うなだれているぼくの面前で怒りがあふれ語尾のふるえているのが分かった。
「おまえの場合、相談にもなんにもならないよ。おまえから訊きたいことがないんだったら、もう行っていい」
 退室を命じられ、一言もものをいわぬまま部屋を出ようとしたとき、
「ところでおまえ、昨日はどうして学校休んだ」
 そう声をかけられた。
 単位を落とす、ギリギリの日数まで授業をさぼるのは入学以来ぼくの習慣だったから、そのことについては言及されると思っていたのだ。学校へ行かなくなったのは、授業に出て教科書を読むのと家で寝転がって教科書を読むのとでさほど差がないと思ったからだが、そんな甘い言い訳をいまさら教諭の前で言っても仕方ない。ぼくはこの部屋に入ってすぐに、この人に何を言っても無駄だな、そうはなから諦めていたのだ。
 教官室のドアの向こう側で、生徒たちの叫ぶバスケットボ-ルのかけ声がしていた。体育館の床を踏みしだく音、ボールを追ってなだれこむ、幾人かの躍動感がそのまま足裏に伝わってきたとき、ぼくはふっと気持ちが軽くなり、
「昨日はミッドウエ-を見に行きました」
 そう答えていた。するとこちらに背を向けていた新人の体育教諭がおや、といった顔をして振り返り、
「ミッドウエ-って、横須賀港へか」
 とぼくに尋ねてきた。それからなぜミッドウエ-を見にいったか、見た感想はどうだったかと訊いてきた。それにぼくが応えようとしたとき、
「先生。こんなやこんな奴の話まともに聞いてちゃだめですよ。小宮山。おまえなんだって学校さぼって横須賀なんかに行くんだよ。行ったとして、おまえなんかがアメリカの戦艦見たところで……」
「先生、戦艦というより、ありゃ空母ですよ」
「そうですか、空母でしたか。先生よくご存じですな。その、空母とやらを見たところで世の中なんも変わりゃしないよ。学生の本分は勉強だろう。とくに三年生の今の時期、横須賀くんだりにぶらつく馬鹿がいるか。もういい、おまえのツラは見たくないと言ったろう。たくさんだ、行け」
 担任に手の甲であしらわれ、ぼくの進路相談はものの五分に満たないやりとりで終わった。
しおりを挟む

処理中です...