みやこ落ち

皇海翔

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 南向きのガラス窓を開け放ち、部屋を拭き掃除してから生まれてはじめて布団を干した。
 昨日まで親まかせにしていたそんな家事も、自分でしてみると日射しがありがたく感じられ、ぼくは空いている六畳間の日なたにも掛け布団をひろげた。光線のなかで純白に輝いている布団に上半身をあずけると、神の毛根一つひとつにまんべんなく光がそそいでいるのが分かる。眼をつむる。肌にふれる日射しは初夏のそれを思わせた。
(つまり大気中の夾雑物が稀薄なんだな……)
   熱していく頭の中で、そんなことをふと思う。都心から西へわずか三十キロほど来ただけで、空気がこんなにも違うものだろうか。
 それからがばと跳ね起きた。
(こうして安穏にしていたのでは、ますます魂が弛緩していくばかりじゃないか。同世代との差が開いていくばかりじゃないか)
   守谷さんからもらった事務机に向かい腰を下ろすと、昨日掃除したばかりの机上のガラス板にうっすら埃がかむっていた。窓の外に上空をわたる風の音がうなり、みると褐色の土埃が舞い踊っていた。
 ぼくはあわてて手すりの敷き布団をしまい、ガラス窓を閉めた。流しに駆け込み、凍てつくような水に雑巾をあてて机と畳を拭ったが、洗面器で雑巾をじゃぶじゃぶやると立ちどころに水が黒く濁った。
 この辺りでは、人の暮らしの方が自然の威力に押され気味なのか、ぼくはあらためて郊外へ来たことを実感した。

 裸の大将で知られる山下清画伯の手記に、「住むんだったら食うに困らない食堂の二階がいいな、」という記述のあったのを記憶している。ぼくはこのアパートの一階に赤提灯がぶら下がっているのを見たとき、いざという時は握り飯の一つも食わせてもらえるのではないか――そんな下心を抱いていた。
 階下の小料理屋『高嶺』は毎晩深夜二時過ぎまで営業していた。下の様子は押入れの薄べりを通して酔客の騒ぐ声までがもろに聞こえる。来るたびに大声でがなり立てる客、シンと静まっているなか時折ぼそりとグチる客。連日二階で聞いているうち、店の客層はあらまし分かってきた。夜な夜な同じ叫声罵声に悩まされるなら、ともに騒いだ方がどれだけ気持ちが楽かしれない、ぼくは引越しの挨拶かたがた店に顔を出すことにした。
 縄のれんを分けて店に入ると、和紙で囲った柔らかな灯りの下で女将がカウンターをはさんで二人の客と向き合っていた。三人とも一瞬表情をなくしたような顔をしたが、
「いらっしゃい」僕が二階で予想していた駒鳥の声とはだいぶ違う、五十年配の大柄な女将が金歯を覗かせ、すばやくおしぼりを差し出してきた。
「小宮山といいます。こんどここのアパートに越してきたので……」
「ああ守谷さんからね、きいてますよ。浪人してるんだって?」
「え?。ええ、まあ」
 この引越しは、半分は都会の実家から叩き出されたような形だったが、それでも一年の期限つきで仕送りを得ることができたのも、父と来年の受験を約束したからだった。その時はただ家を出たい一心だったので、半分近くは母に焼かれてしまった参考書の類をダンホ‘-ルに詰めてきたのも、父の手前体裁をとりつくろう猿芝居に過ぎなかった。ぼくに受験生という認識はなかったが、他に適当な肩書も見つからないので女将の言うなり頷いていた。
 カウンターの奥で、浅黒く日焼けした土方ふうの巨漢の男が黙ってグラスを傾けていた。隣ではリーゼントの上背のある男が傾けた銀縁メガネを小鼻にのせて、上目づかいにこちらを見ている。
「この町に越して来たばかりで。なにも分からないものですから……」
 新しい人間関係に飢えていたぼくはそう言って二人に頭を下げた。
「……おらあ、ジュウイチってもんだけどよう、なんでジュウイチかっていうと、野郎をこの手で絞めるとよう、野郎が啼くのさ。ジュウイチってなあ。ジュウイチは俺じゃねえ、野郎の方ださ」
 巨漢の男は五分刈りの頭を節くれだった指でひと撫ですると、乱杭歯を覗かせて低く笑った。
「いっちゃんよ、なにもそんなに硬くなることもないじゃんかよ」
 言いながら、女将は微笑して巨漢の男に焼酎を注いだ。
「そんな訳でもねえけどよう」
「だったらあんた、ここじゃ先輩なんだからよろしく頼むよ後藤君」
「おら知らねえ」
 高校を卒業して一年しかたたない自分には、他人の年齢というものが分からない。後藤重一という男の歳は、とくに年代の特徴が感じられず三十にも四十にも見て取れた。体を使う仕事をしている人は鍛えているから年齢より若く見えるのだろうか。
 後藤さんの隣で呑んでいるのは精肉店の職人だった。二人はぼくより椅子二つ隔てたところで頭を突き合わせるようにして話し込んでいた。「何だ……浪人だあ?。二十歳で?。馬鹿じゃねえのか」「坊ちゃんだろう」「坊ちゃんだあ?……」それから声を押し殺したような失笑が洩れた。ぼくはすっかり立場をなくし、この店に入ったことを後悔し出した。顔を上げることもできずにいると、まな板で刻み物をしていた女将が、
「よしなさい」、子供でもたしなめるような口吻で奥の二人にくぎを差した。
 職人風情の二人から見ると、二十歳にもなって勉強している者というのが取るに足りない稚児同然に映るらしい。二人とも、珍しい生き物でも見るような眼をして懸命に笑いをこらえていた。
「あんたら。なにがそんなにおかしいんだい。人が悪いよ」
 女将が𠮟るのと同時に、「おい坊ちゃ……」後藤さんが声をあげ、単純に振り返ったぼくの顔を見て二人は俯いたまま腹を抱えた。
「いいじゃないか坊っちゃんだって何だって。これから頑張ろうっていうんだからね……」
 菜を刻む手を休め、女将は二人を睨みつけたものの、ついに口元がゆるみ、ククッと金歯がのぞいた。おそらくは長年、質の悪い酔客相手に水商売の修羅場をかいくぐってきたに違いない、女将にも労働者たちの失笑が琴線に触れて共感されるようだった。店で三人に嘲笑されてしまうと、ぼくはいよいよその場に居づらくなった。目の前のコップに視線を落としていると、
「ほんとうにごめんね」
 はじめて小料理屋のお袋らしい真顔になって、女将は両手でビールを注いでくれた。

 アパートの二階に戻り、流しにぶら下がった裸電球のスイッチをひねる。
 六畳一間にさし込む沁みいるような明かりのなかに、日中畳にひろげたままにしておいた掛け布団がうすらさ寒げに敷いてあった。上体をパスン、とそこにあずけ薄暗い天井の染み跡を見つめていると、知らない土地で寄る辺のない二十歳の身空がさながら情けなくなってきた。
 なるほど労働者の彼らからすると、ぼくなぞ嘲りの対象としか映らないのだろう。自己の本性を明らかにしたい、なぞと息巻いて故郷を出たまではよかったが、社会経験を積んだすべての大人からみて、自分は最下等なのだと悟らざるを得なかった。一笑に付されるほどの価値しかない。天井の、意味不明な染み跡を眺めつつ、自らそう観じてしまうと、自分がけし粒ほどの黒点になって、最下等だ、最下等だという現実が頭の中を無尽にかけめぐった。
 『ホワイト』のマスターや、木田やチハルの懐かしい面々を想い浮かべる。けれども都会そのものを捨ててきた自分に、誰も慰めとなる言葉を掛けてくれそうにもない。勉強を放擲したうえ、仲間まで置き去りにしてきてしまった、けし粒に過ぎない今の自分は一体どこに精神的なよすがを求めたらいいのか――住みなれぬ土地の六畳間で、一人息詰まるような逼迫感に堪えきれず、ぼくはおもむろに上体を起こした。
 ガラス窓を開けると、ひんやりした夜気がさやさや全身を包み込んだ。下の庭から、饐えたような土の香りのまじった空気が立ち昇ってくる。夜空の底にうずくまる何軒かの平屋の向こう側に、遠くの山影に向けて電信柱が一列に居並んでいた。こちらから四本目あたりの中天には十日目ほどな月がかかっている。大気が澄んでいるせいだろう.ふりそそぐ白い光が網膜に燻すようにまばゆい。
 眼下に拡がる屋根屋根の片側は月に磨かれ、何百枚かのすべての瓦が一様にかっきりした陰影を際立たせていた。借家らしい、似たような平屋の背後には、思うさま枝葉を茂らせた一本欅が高々と夜空に屹立していた。月明りを受けた側の樹冠が、幾万もの葉群を浮き立たせている。月影は、瓦一枚から葉脈の微細に至るまで、これほど完璧に照らす腕前を持ちながら、西方の町はずれに横たわる遠い山容は前後を忘れて漆黒の内に押し黙っていた。
 ぼくは光と影からなる眼前の欅――巨大なモニュメントの荘厳に恍惚として魅入った。いったい今夜に限り、景物の一つひとつがこれほど際立って目に映るのはどうした訳なのだろう。これと同じ台地の延長に、あの激越な競争社会が今も渦巻いているということが、まったく不可思議なことに思われる。……すると、つい先ほどまでけし粒ほどまでにしぼんでいた自我がゆるゆる膨らんでいくのが分かるのだった。それが人間のもたらす温情と何ら異なることがない。あの恋情を得た際の爆発的な悦びほどではないにしろ、胸内にひたひたと寄せてはことほぐす、そうした類の優しさなのだ。
 そういえば引越しの時、軽トラックの中でひとしきりうなだれていたぼくの頭を上げさせたのも、メタセコイアの並木だったり、都会では見られなくなった野原や竹林、畑地といった自然の風物だった。埼玉県境に間近い郊外の緑地帯は、都心からと南北の三方からじわじわ寄せる車道の拡張や宅地造成の波からかろうじて残されてあった。高層ビルと住宅とで都心から延々埋め尽くしてきた建築群のうねりがここへきてようやく鎮まって、力尽きたところに気の抜けたように空き地や畑が点在している。風致地区、鳥獣保護区といった空間が、まるで理想郷の空でも見出したように懐かしかった。
 そうしてぼくはすっかり心身の均衡を取り戻していった。
 階下から、後藤さんの唸る演歌が轟いている。
 要するに、他人とは距離を置いて接しないとこちらが馬鹿を見るのではないか。安易な批評で限定されてはこちらの身が参ってしまう。それなら相手の性格に合わせ、いくつか引き出しを用意して臨機応変に出し入れしたらどうだろう。けれども、そう考えたところで思考が止まった。そんなことなら赤ん坊でもしている。第一、初対面の人に先入観で接しては嫌な奴に違いない。裸の心でいるに如くはない。経験の未熟なので虚仮にされても、こだわらず好きに笑わせておくより仕方ない……。 
 目の当たりにしている月映えの光景は、ぼくにとっては引越してきてもたらされた第二の風景だった。同時にいまだこの瞳に馴らされていない、清浄無垢な新世界だった。外物の心象に救われた自分は、この晩どうあっても経験量の豊富より、感性の初心であるのを上位置に置いた。

 小料理屋『高嶺』の入っているアパートは駅から二十分ほど歩いた畑中にある。市街地の喧騒も及ばない、場末の赤提灯といった情調だった。それでも日中を都会の塵埃にまみれて帰宅した人々からすると、心の安息所にも似た有難みがあるらしい。
 ぼくは店に出入りするうち、幾人かの常連と知り合いになり、新しい人間関係を築いていった。そこで耳にする土木作業員や塾の講師、肉屋やサラリーマンの人生観にそっくりひたって、反駁も追従もしなかった。経験に乏しく、何ら独自の考えを持たないぼくは大抵貝のように大人しくしていた。
 アパートの二階で向かいの部屋に住む守谷さんは身近に過ぎて、かえって会話を交わさなくなった。質実な暮らし向きを旨とする守谷さんはめったに赤提灯に顔を出すこともなく、毎朝七時にアパートを出ていく。
 僕は話相手のない侘びしさから週に二三日は『高嶺』で吞んだが、一方で支払いがとても月の仕送りではもたなくなった。同時に一刻も早く働きたかった。そのことを店で口にすると、後藤さんが近場ならといって、彼が以前働いていた駅前のパチンコ店を紹介してくれた。それから自分の家はすぐ近いから一度遊びに来い、飼っている猫が子を五匹も産んでしまい、引き取り手がなくて困っているからと、照れくさそうにぼくに語った。

 1989年1月17日、昨年から病床に臥せっていた昭和天皇が亡くなった。ラジオは早朝からこのニュースでもちきりで、歴史のつなぎ目という題目のもと、天皇の生涯や戦争を中心とした昭和に起こった事件など、さまざまな特集番組が放送されていた。
 ぼくはこの日、パチンコ店のバイトが入っていたが、営業は自粛するだろうと楽観していた。それでも一応店へ行き、裏口の前に自転車を止めたが建物からいつもの店内放送が聞こえてこない。裏口のノブを回して店内に入ると、左官屋、設備屋たちのいつもと違わぬ常連たちが一心不乱に台と向き合っていた。
「あっ。今日やってたんですね」
「あたぼうよ。常より入りがいい方なんだわ。みんな正月気分でヒマ持て余してんだろ、これが庶民の本音ってもんよ」
 祭りとなると店を放ったらかして神輿の片棒を担ぎに行ってしまう、気っ風のいいおばちゃんは、どうよと言わんばかりに頷いてみせた。
「だけど妙に静かですね」
「ああ。有線の歌謡番組、消してあんのさ」
 言っているそばから大当たりの台が出た。けれどもおばちゃんはいっこうにマイクを持とうとしない。
「『おめでとうございます』も禁止だと」
   ふだんなら軍艦マーチにのせて意気揚々、「いらっしゃいませ、いらっしゃいませ……」とお客をあおる、謳い文句では店でピカ一のおばちゃんも、今日は出番がないらしい。大量放出、出血大サービスの幟は店頭からかたず片付けられていた。たまに起こるパチンコ台の効果音も虚しく、ガラスに弾ける球の音のみがガチャガチャとして、殺風景なことこの上ない。
「なんだか、間が抜けたみたいですね」小声でぼくがそう言うと、
「シラけてんだろ。こんな時はお客も気が立っているから、気いつけな」そ知らぬふりしておばちゃんがつぶやいた。
 ホールに立ってみていると、椅子に座った人の前でチューリップに入賞した台がたまにチーン、カラカラと十三個の玉を吐き出す、ただそれだけの光景なのだ。むしろ両替に席を立つお客の動作が際立って感じられ、それは万札がみるまに千円札になり、五百円玉になり、パチンコ玉に様変わりするなんとも痛ましい光景だった。
 お客が店員を呼ぶ赤ランプに、ぼくがそちらの「川」をみると常連の一人が顎で奥の台を指し示している。なにかと騒ぎを起こすので知られている土建屋の職人があろうことかドル箱を抱えて仲間の台に大量の出玉を分け与えていた。なるべくならそういった事にはかかわらずに過ごしてきたぼくも、教えてくれた常連の手前、注意しないわけにはいかなかった。赤ら顔で坊主頭にした作業着の男の背後に立つと、ぷんと酒の臭いがした。
「あの……すみません。一発台で出した玉は、一般台では使えないんですが……」言い終わらないうちだった。
「おおっ?」
 やおら反転してぼくの襟首を締め上げながら、男が椅子からいきなり立ち上がった。締め上げる手をゆるめずに、入り口の小広い場所にぼくを連れ出すと、衆目のなか、ぎぎっと斜めに睨みすえた。ばらばらと男の仲間らしい職人風、チンピラ風の幾人かがパチンコ台から離れて顔を出し、瞬く間にぼくは数人の男たちに囲まれてしまった。胸を突かれ、自動ドアから外に出され、隣の建物との間の狭い通路に連れ込まれ、そこでふたたび壁に突き上げられた。
「おめえは……さっき、なんか言ったか?」
「いや、玉の横流しは……」
 と、人垣の中から巨大な黒い頭がすっ飛んできて、顔面に稲光と衝撃がとばしった。とっさに、この人数では何をされるかわからないという打算が脳裏をよぎり、後頭部を壁面に打ち付けられたあと顔を押さえたまま、ぼくはその場にへたり込んでしまった。
「おめえはよう、見ない顔何だよなあ。どこの馬の骨だ。どっかの組の回しもんかあ?」
 ぼくがぐったりとうなだれたまま黙っていると、
「なんとか言わねえかっ」別の一人が恫喝した。「どっから来たのかって訊いてんだろっ」
 筋肉質の腕が伸びてきて襟首をつかまれ、持ち上げられた後にふたたび壁面に押しつけられた。
「文京区……です」
「なんだあ?。ぶんきょーって、なんだあ?」
 頭突きを喰らわせてきた、水死人のように蒼黒く顔のむくんだ男がシンナー臭い息を吐いてぼくの顔を覗き込んだ。
「二十三区の、文京だろう」「しらねえ、そんな区」「余所もんじゃねえか」
 そんなやり取りの後で、舌打ちの混じった失笑が低く男たちの間に洩れ伝わった。
「こんなガキ、相手にするだけ時間の無駄だあ」
「酔いが醒めちまった……」
 その場に打ち捨てられたまま、罵り声とともに一二人が背中を見せて歩み去ろうとした、そのときだった。
「おーい、おまえらそこで何してるんだあ?」
 聞き覚えのある声がして、通路の奥から後藤さんが歩いてきた。
「ジュウイチじゃねえか。おめえこそ何してんだ、こんな所で」
「こいつはよう。俺のちいと知り合いでなあ。たまに店に顔を出せばこの始末だあ。こいつに手を出したのはどいつだあ?」
 後藤さんの強面顔を前にして、ぼくは内心助かったという嬉しい気持ちと、ようやく男たちが引き揚げそうになったところへ……という面倒なことになりそうな困惑と、半々の心境だった。
「俺だがよ……」
 そう言って胸を反らせて一歩前へ出た水死人顔の男に、ぬーっと後藤さんの丸太のような腕が伸びた。と、同時にマットを叩くような音がして、太鼓腹にひざ蹴りを喰らった後藤さんは呻き声を洩らしつつ、尻餅をつく形にしゃがみこんでしまった。
「俺だがようっ」横様に倒れている後藤さんの脇腹をめがけ、再度つま先での蹴りが入った。
「ううっ、もうよせっ」
 男達のせせら笑う声が舗道に遠退いていき、腹を抱えて口から涎を垂らしている後藤さんをぼくは呆然と見下ろしていた。
「ちくしょう、あいつら。人をいいように叩きやがって……」
 苦悶の表情を浮かべ、片腕を突いて立ち上がろうとした後藤さんは、巨体のバランスを崩して尻をしたたかコンクリートに打ちつけた。何度も片腕を心棒にして起き上がろうとするのだが、一人では立てそうになく、ぼくはあわてて肩を入れた。
「ああっ。情けないとこ、見られちゃったなあ。『高嶺』のママには、黙っといてくれねえかあ?」
 目じりに皴を寄せて照れ笑いしている後藤さんに、ぼくは胸内が焼けただれたようになってしまい、何と言っていいのか分からなかった。
 Yシャツの襟元がびりびりに裂けてしまったが、ぼくはその格好で閉店まで働いた。夜十一時にバイトが終わると、ぼくはその足で『高嶺』の暖簾をくぐった。青タンに膨れ上がった僕の反面を見るや女将は目をつりあげて憤慨したが、成り行き上どうしても後藤さんの加勢を黙っているわけにはいかなかった。
「ふーん。そうか、あの洟垂れ小僧が、そんな悪さしたってか」
 女将は、ぼくと後藤さんを殴った水死人顔の男なら、隣町のワルで有名なその男に違いない、生まれたときから知ってるよ、こんど会ったらただじゃ置かない、と大変な権幕だった。
 ぼくはしかし全く違うことを考えていたので、つまりこれで明日から店で働きやすくなるだろう、ということだった。手を出したのは向こうの方でこちらには何の落ち度もない。謝るのは店員たちからも煙たがられている、あの土建屋たちの方だという形勢が、明日からきっと自分に有利に働くに違いない。暴行はいわばぼくがこの町に越して来た、そしてあの店で働くのに避けて通れない洗礼のようなものなのだ。
「しかし後藤君も、あれも男だな」どこか労しげに女将が呟いた。
「うん。やられっぱなしだったけど、来てくれて本当に嬉しかったよ」
「そうじゃなくってね……後藤君、重度の障碍者手帳、持ってるの知ってるかい」
「どういうこと」
「小さい頃からの持病でね、てんかん持ち……なのよ。がたいは大きいけど、とても喧嘩なんかできる身体じゃないの」
 ぼくは絶句した。
 それから自分の立場ばかり考えていた了見に、その晩はひとしきり自己嫌悪に陥った。
 パチンコ店でのアルバイトはそれから数か月後にやめることにした。事件のあった直後に辞めてしまうのも癪だったからだが、他にもう一つ理由がある。
 店ではパチンコ台の並ぶ通路――「川」を見下ろす形に監視カメラが設置してある。お客が不審な動きをしたり、ゴト師に台の扉を開けられたりすると、二階の事務所でモニターを見ている店長がすぐに駆けつけてくる仕組みになっていた。台の釘に玉が詰まっているだけで、いつもならモニターで目敏く気づいてホール係を𠮟る店長が、どうしてあの晩に限りホールに下りてこなかったのか――。
 店内で男たちに囲まれたとき、監視カメラの無言に押し黙ったレンズの奥をすがる思いで見つめていた自分が、あまりにも情けなくなったのだ。













   



























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