みやこ落ち

皇海翔

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 老猫は、白地に茶と黒の斑の入りまじった、何ら意匠の伝わってこない平凡な毛並みをしていた。無造作に散らした鼻先の斑紋にも少しも愛嬌といったものが感じられない。まだら模様の版画を刷ったところ、紙と原版がずれてしまった――人から見るとおのずと目を逸らしたくなるような、そんなつまらない柄をしていた。総体に薄汚れているので毛艶も失せて、近寄ると糞尿の臭いが鼻をつく。ふだんの面構えからしてふてぶてしいのに、日中は日向の屋根に小いびきをかいて、たまに一方のまぶたが薄気味悪く見開かれていたりした。
 世捨て猫同然のみすぼらしさに、予感はしていたものの老猫は隣家で飼われているのではないらしかった。車道を横切り隣の街区から通ってきている。近頃ようやく出歩くようになったぼくの飼い猫のヒロシが、この老猫と塀の上で鉢合わせになったのを二階から見ていたことがある。
 老猫は塀の下までくるとおもむろに高さを測り、体勢をかがめ猪首の筋肉が盛り上がったとみるや、めざましい跳躍でふわりと塀に飛び乗った。そちらへ用のあったヒロシは老猫の突然の出現に、前脚を出したところでひたりと剝製みたく動かなくなった。先方は、何ら拘泥するそぶりも見せずに一定の歩みを運ばせてくる、その威信に気圧されてヒロシはあっけなく塀の上から退散した。
 ぼくは図らずも、腕力では決してよその子供にかなわなかった、自らの少年時代をわびしく思い返した。草むらに降り立ったのち、ヒロシが老猫を睨み返すわけでもなく、相手の気に障ることのないようツユの花なぞを無心につついたりして、さりげないふうを装っているのがなんとも無念でならなかった。

 アパート全体が寝静まった、ある夜更けのことだった。
 枕にうずめたぼくの耳元に、シャーッと乾いた音がした。それが床板に近い所だったので、一階の北側の牛乳屋さんが天井辺りで何かしているのだろうと思っていた。配管のどこかが割れて水が漏れているのかもしれない。いずれ朝になればわかることだと寝入ったが、翌日とくに下から苦情が出るようなこともなかった。
 ところが二三日たった真夜中、布団にまどろみかけたころ再び廊下に乾いた摩擦音がする。やや緊張して部屋の窓をそっと開けると、白髪の見たこともない大柄の背中が、ゆっくりと廊下を遠ざかっていく。ぼくは見てはならぬものを見たような気がして、そのまま静かに窓を閉めた。
「なんだか、知らない人が住んでるんですがね」
 まんじりともせず一夜を過ごした後、ぼくは酒井さんの部屋をノックした。酒井さんは寝ぼけ眼をこすりながら昨夜の話を聞くと、向かいの空き部屋の戸を激しく叩いた。返答はない。
「どうもおかしな話だな。四部屋のうち俺と君と守屋さんで三部屋は埋まっている。じゃあ君の観た爺さんっていうのはどこに住んでるんだ?。なあ悪いんだけれど、その爺さんとやらを見たらそんとき呼んでくれないか」
 煩わしい話はごめんだと言いたげに、酒井さんは朝寝の床についてしまった。すると翌朝、今度は酒井さんがぼくの部屋をノックした。真夜中に小用をたしに廊下に出てみると、七十年配の老人が顔色一つ変えるわけでもなく、薄暗い豆ランプの下に立ち尽くしていた――寝ぼけ眼でいた酒井さんは度肝を抜かれたらしい。
「黒縁のメガネかけた年寄りがよ、ものも言わずに見返してるんだ。俺と眼が合っても全く動じないっていうか、あんまり平然としてるもんで、つい『出た』って思っちまって……泥棒って考えるより先に、俺の方が何だか分かんないような世界に迷い込んじまった気がしたたよ。血の気が引くっていうのはあんなことだな」
「けっこう大柄の、老人じゃなかったですか」
「おお。この歳になるまで幽霊なんてハナっから馬鹿にしてたろ。何しろとっさに信じまったからな。『出たっ』って。それでこっちが氷みたいに固まってつくづくそいつを見てるとよ、ひとっことも喋らないまま俺の脇をすり抜けようとするんだぜ」
「それでどうしたんですか」
「思わずそいつの足元確かめちまったよ。したら何てことない、温和な顔した、ただの爺さんじゃないか。それでようやく訊いたんだ。『失礼ですけど、どちらさんですか』ってな。ほら、認知症っていうのか、夜になると町中を徘徊するのがあるじゃないか。そんな人かと思ってさ。そしたら、『先週こちらへ越してきました、笠原です。挨拶が遅れまして』なんて言うもんだからよ。遅れました、じゃねえよな。はじめから挨拶する気なんかなかったんだ。トボけた爺さんだぜ」
「近ごろは同じアパートの住人でも探られるのが嫌で話をしないっていう人も多いみたいですからね」
「そりゃ入口が別々の、部屋が独立した造りのアパートなら分かるけど。みんなが一つ便所を使う共同住宅で知らんふりするなんて変じゃないか」
 常識がないのも甚だしいと怒る酒井さんの言い分を聞いているうち、ぼくは何だか笑みがこぼれた。酒井さんが越して来たときも、相手がどういう人か分かるまで互いの生活ぶりを窺うような時期があったたのだ。
「ええ……ですから、そこらへんの感覚に慣れてなかったんじゃないかなあ」
「けど赤ん坊じゃあるまいし、あの歳で人見知りなんかするものかい」
「さあ……」
 真夜中になると聞こえる摩擦音がすぐにスリッパの音と気づかなかったのは、老人の足を前に出す動作が気の遠くなるほどの間隔を置いているからだった。シャーッと一歩を前に出す。寝床の中でアア、今笠原さんが便所に立ったなと気づいてから十秒……二十秒、いつになっても次の一歩が聞こえてこないとそれはそれで気が揉んだ。いかにも懸命に命を運んでいるといったふうに聞き取れて、それが老いて体力の衰えた人の侘びしさにも、また命あるもののひたむきさにも感じられた。
 老人は三越のバラ模様の印刷されたしわくちゃの紙袋をたった二つ、ぶら提げて飄然とアパートに舞い込んだ由で、これには酒井さんもぼくもあきれ返るばかりだった。

   残暑のきびしい午前中で全身が汗だくだった。
 アパートの階段がふるえるのを聞きつけてから、押し入れに隠れてかれこれ三十分近くになる。廊下をきしませている人の気配は各部屋を舐めるように、いやにゆったりと行き来していた。
 ぼくの部屋の戸をノックした。
 息をつめて潜んでいると、はめガラスが落ちるかと思うほど、ガラガラこぶしで激しく叩いた。それでも胸のつぶれる思いで堪えているとついに隣の部屋へと移っていった。
 そこでも戸を激しく叩く音。けれども返事ひとつ帰ってこない。結局、二階の四部屋のうち顔を出した住人は一人もなかった。各部屋の上部に付けられた電気メーターを調べ、その使用料とガス代、家賃を記した紙片が戸の隙間から投げ込まれると、足音はむなしく出入り口に引き返していく。帰り際に、「不用心だな」そうぼそりと呟いた、大家さんのひとり言を二階にいた全員が耳にしていた。
(これでまたひと月寿命がのびた)
 ぼくがほっと胸をなで下ろしていると、壁一枚隔てた隣の押し入れから笠原さんのしわがれ声がした。「……帰りましたな」
「ええ」
 まるで独房に入れられた囚人同士が看守の目を盗み、密通しているような後ろめたさだったが、大家さんが引き返してこないとも限らない。念のため二人とも声をひそめて様子を窺っていた。「……それで、オタクはいったいどのくらい家賃を溜めているのかね」
「四か月です」
 ほおっと、賛嘆とも軽侮ともつかない笠原さんのため息が洩れた。
「失礼ですが、オタクは見たところ真面目そうだし、仕事にも行っとるようだし、私のような年寄りと違って稼ごうと思えばいくらでも稼げるんでしょう。何だってこんな肩身の狭い思いをする羽目になったんですか。借金でもしてるんですか?」
「金には困っていますが、べつに肩身が狭いとは思ってないです。だって、この歳でチマチマ金なんか溜めたってしょうがないじゃないですか」
「そうは言っても――」笠原さんは体勢を変えたのか、隣でごそごそ布団を押しのけるような音がする。「お互いこのありさまじゃ、とても肩身が広いとは言えないようですが」

 ぼくは日中、一癖も二癖もあるような職工たちに囲まれて、板金工場に所狭しと並ぶ工作機械の熱に晒されながら、似たような工程を延々と繰り返していた。夕刻、職場での鬱屈や苛立ちを引きずったままアパートに帰り、『高嶺』の暖簾をくぐると、女将が冷えたビール瓶を拭いつつねぎらいの言葉をかけてくれ、栓が抜かれてその日一杯目のコップが見事に置かれる。汗と機械油にまみれた身体を、銭湯で洗い流した後のほてった喉に、冷えた金色の炭酸がはじけながらほとばしり、すきっ腹にしみわたる。このひと時の充足感はたまらなかった。虚脱感と同時に生きている喜びをかみしめるのがこのひと時だ。そうして連日、ぼくは『高嶺』に顔を出しては女将や職工仲間と夜更け過ぎまで呑み騒いでいた。なれない土地柄ひとり暮らしをしている自分にとって、年齢や職業にかかわらず顔見知りが一人でも増えることは先行き何かと心強く思われたのだ。
 月給は半月もしないうちに泡となって消えた。一夜にむさぼった愉快の代償として、月の後半は米びつの隅を睨んで暮らす涙ぐましい日々が続いた。その日暮らしのかつかつの有様で四六時中、呑み代の請求と家賃に追いまくられている。
 月末ごとにひたひた寄せてきては上積みされていく、金銭面の逼迫をしかし二十一のぼくは等閑視していた。悪習を断ち切りたいとは思うものの、ぼくには貯蓄という観念がない。これ以上、借金を重ねれば人格を疑われてしまう、アパートを叩き出されてしまう、そんな抜き差しのならぬ崖っ縁から、この世の実相を覗き見たいとすら思っていた。
「要するに、甘ったれてるんですな。優雅なものだ……」笠原さんはそう呟いた。
「まだああして、えんま帳に上書きして引き下がってくれてる分には大丈夫だろうって、高をくくってるんですがね」とぼくは言った。
「高をくくるより、腹をくくった方がいいですよ。あんた、いくら大人しい大家さんだってじきに堪忍袋の緒が切れますよ」
「キレたらキレたでその時に考えます」
「そん時じゃ手遅れになるかもしれませんよ――ははあ、宵越しの銭は持たないって主義ですか……。もっとも私も若い頃はそうでしたかねえ。どうも私にはなんだか危なっかしいというか、少しヤケになってるように感じるんですが。こうして話してるとなんざら血の巡りの悪い方でもなさそうだし……小宮山君、あんた一体何を考えてるんですか」
「なにって……あえて言うなら世間かなあ」
「世間……世間?。あっはは、可愛らしいことを言う」
「だって、戦う相手を知らなけりゃあ手も足も出ないじゃないですか」
「うん……。ちょっと失礼。こりゃ一杯やらずにいられない」と、壁の向こう側からグラスがふれあい液体をそそぐ音がした。
「小宮山君ね、そんなもなあ社会に出れば、いやと言うほど骨身にしみて解るもんです。焦って理解しようなんて代物じゃないですよ。私はこの歳になるまで、七十になるまでコテコテに世間に叩かれてきたんです。ですから、この自分も含めて世の人間共にはうんざりしています。だから悪いことは言わない、今のうちに学ぶべきことがあるんじゃないですか」
「知識より現実を知りたいんです」
「できますとも好きなだけ。見ていなさい、あなたの思いも及ばない縁遠い関係が知らないうちに加わってきますから。実際このウーロン茶だって、世に生まれたときはまさか焼酎と知り合いになろうとは夢にも思わなかったでしょうからねえ……それでいて、コップの中じゃ、きちんと釣り合いが取れてるんだから不思議です。何でしたら今から実感してみたらどうですか」
「世間をですか?」
「焼酎ですよ。大家さんも帰ったようだし、酒井君を呼んで私の部屋で一杯やろう。オタク、さっき家賃を四か月溜めてるって言ってたでしょう。てぇことはあたしの場合、まだふた月の猶予があるってことですな……ふた月のあいだ呑んで暮らせる。なんだか身震いがしてきましたよ。そうと分かったらご馳走しよう」
 押入れのふすまを開け、おそるおそる室内の様子を窺うと、ぼくは額の汗を拭った。窓ガラスには休日の午前の外光がいまいましいほど全面にあふれ返っている。ようやく解放された思いで押入れの上段から片足をのばすと、住みなれた部屋の畳に足指をおろすのに泥棒にでも入ったような心持ちがした。

   無造作に酒井さんの部屋の引き戸を開けると、たるんでやわな白い肌をさらした素っ裸の男が立っていた。
「あっ。だめっ」
「あっ。失礼」僕は眼を伏せ、あわてて戸を閉めた。
「小宮山くんっ、いくら君でもノックぐらいしてくれよ。なにか用?」
「すみません……あの、笠原さんが一杯やろうって」
「うん、わかった、後で行くから……でも小宮山君、このこと誰にも言わないでくれよ」
「わかってます」
 酒井さんはゴミ出し用の水色のポリ容器に入って、盛大に水浴びをやらかしていた。むろん銭湯代を浮かすためだ。流しの傍らには巨大な金盥が置かれており、中には丸々と太った真鯉が一匹泳いでいる。近所の釣り堀で釣ってきた鯉で泥吐きをさせ、頃合いを見て洗いにして食うのだそうだ。「そんときにはみんなで盛り上がろうぜ」そう酒井さんは言っていた。
 大っぴらには言えないが、酒井さんは電力メーターの回転盤にヘアピンを刺し、目盛りを止めて月々の電気代を浮かす、というようなこともしている。「ばれないように月々これだけって決めて止めなきゃだめなんだ」そう酒井さんは言っていた。それでもたまに電力会社の検針員が来て、酒井さんの部屋のメーターを見上げて首をかしげていた。そのことをぼくが酒井さんに告げると、さすがにピンは外したらしいが何日かすると、今度は自室の窓を開けて手の届く高さにある電柱のコンデンサを指さし、「ここから直接電気を引こうと思うんだ」そう言って真剣な眼差しで見入っていた。
 小麦粉を練って醬油で煮るスイトンだけで、半月はしのげると教えてくれたのも酒井さんだ。貧窮に対するそうした酒井さんのサバイバルぶりを見ていると、未熟なぼくなぞは知らず識らずうっとり感服してしまう。
「いやーっ、朝からずっと求人欄ばかり見ていたら頭がクラクラしてきたよ」
 酒井さんはそう言って愛嬌を振りまきつつ、部屋へ入ってくるなり折り込み広告だの求人誌の類を畳の上にばさりと投げた。そして「ああ肩が凝った」と、首を左右にひねって見せた。
「あんた。働く前から求人広告読んだだけで、そんなに疲れてどうすんのかね」
 笠原さんのつっ込みが入ったものの、酒井さんの視線は壁に吊るしたハンガーに掛けてある、紺色の上着に釘づけになった。隣にはもう一着、肩口にエンブレムの刺しゅうされた緑のジャケットが掛かっていた。
「あれっ、爺さん、また違う警備会社に行ってるのか」
「ははあ。気づきましたか」
「ちっ。爺さんには先越されてばかりいて面白くないな。それにしても二人とも、よくこんな蒸し風呂みたいな部屋で吞んでいられるなあ。こちとら汗が止まらないってのに。どうだい、も少し風通しのいい所に河岸を変えちゃあ」
「今日は休日だし、開いてる店なんかありませんよ。金もないし」
「北山公園へ行くか。氷だったら、俺んとこの冷凍庫に毎日ごっそりつくってあるから」
「あんたもひまな男ですな」

 北山公園に入るや、眼界は八国山を背景にしてひろびろとした野を一望のうちに眺め渡すことができた。
 一瞬のうちに視野が開けるこの爽快は、そこに横たわる広闊な空間がそのままの大きさでもって見るものを包み込んでしまい、自分もこの眺めの点景であることをとっさのうちに知らされるからなのだろう。
 花菖蒲の見ごろはとうに過ぎて、菖蒲園には地元の人に刈り取られたあとの根株ばかりが残されてあった。堅く干からびた泥土の上のデッキ道を、三人がゴトゴト靴音を鳴らして歩いていくと、先頭にいた酒井さんが「あっ」と小さな声を立てた。「ヘビだっ。そこそこ」
 根株の合間の、朽ち果てた古縄に似たものをよく見ると、なるほど褐色の濡れて光った、縞模様を帯びている胴の一部がうねりながら移動している。蛇はのたうつように全身をくねらせていたかと思うと時折鎌首を持ち上げ、すすっと真一文字に直進していた。三、四十センチの瘦せていたって貧相な蛇だ。
「弱ってるんですかね」 
 緩急を織りまぜて這いまわっている姿には、しかし鋭利な刃物を思わせるひいやりとした殺気が感じられた。案の定、三人の眼に角度を変えて逃げまどう黒い獲物がすぐに分かった。蛇が、一瞬のうちに三十センチも伸びあがったと思ったとき、蛙の跳ねるゆるい弧はあまりに呑気なものにぼくには映った。次の瞬間、最期の跳躍を試みた蛙は伸びきった姿勢そのままの格好で、下半身のみが蛇の口先にだらりとぶら下がっていた。胴から腿へと呑み下されるにつれ、蛇の下顎が卑猥な形に膨らんでいく。
 デッキ道をさらに奥へ行くとハス田に出た。大人の背丈ほどもある長い茎と、大様な葉がびっしり生い茂っていた。合わせた手のひらをふくらませ、そうと開いて見せたような薄桃色の花びらが凛とした気品を匂わせている。すでに花弁を落とし蜂巣を突き立てている茎が多かった。それから三人はスイレン池の脇をめぐり、公園の中ほどにある東屋に腰を下ろした。
「やっ、いいものを見たな」
 酒井さんはポリ袋の氷をドライバーでかち割りながら、瞳を輝かせてそう言った。「あの、最後の一撃は鋭かった」
 隣接する小学校で正午を知らせるチャイムが鳴った。園内はバケツと手網を持った少年たちのほか、動くものの姿を見ない。はろばろと見晴らしの利く水棲植物園は夏日の光線に蒸され、閑散としていた。北側の線路際からせり上がる八国山の雑木林は、ここ数日間の雨に潤いどこまでも成長しようとしている。その緑の生動と、澄みきった底なしの蒼穹とが、見つめているとめまいを起こしそうなほどの対比だった。
「先週ね、あたし新宿に面接に行ってきたんですよ」
 唐突に笠原さんはそんなことを口にした。
「今行ってるとこは辞めるのかい?」
「辞めるもなにも、こちらからご遠慮願ったわけで――。職長さんっていうんですかね、ボス格の。その人がまるで年寄りの扱いってもんが解ってないんですなあ。工事現場でよく道路っぱたに置いてある、オレンジ色の三角の形したのがあるでしょう」
「カラーコーンか」
「名前なんかどうでもいい。そいつをね、百メートル離れた路地の角まで走って持ってけなんて言うんですよ。四十や五十の連中ならまだしも、あたしゃシルバーで派遣された七十の老人ですよ。人を見てものを言ってくれっていうんですよ」
「だから爺さんには警備員なんてムリだって言っただろう」
 それ見たことかといった面持ちで酒井さんは紙コップの焼酎を一気にあおった。「その足腰じゃ、ムリだって」
「あの懐中電灯のおばけみたいなやつ。あれを振ってるだけでいいって言われて行ったんですよ」
「派遣する方は、頭数さえそろえりゃいいんだから何とでも言うって。現実はそんなに甘くないってことね」
 笠原さんはぐっと口をつぐんでしまい、気まずい沈黙がしばらく続いた。八国山の尾根筋の一端に灰がかった薄雲が這い出してきていた。
「ですからね。勤務先を変えてもらうよう頼みに行ったってわけです。そしたら酒井君、その場ですぐに別の会社を紹介してくれましたよ。とりあえず週に三日、来週からです」
 フン、と鼻を鳴らせて焼酎をつぎ、酒井さんはもの思わしげにじいと紙コップの中を見つめた。
「まあそれはそれとしてね、新宿なんてところは右も左も人人人、あれだけたくさんの人が行き交って、いったい何してんのかと思うなあ。二十階、三十階建てのビルなんてざらですよ。
 烈しい労働意欲にあふれた人たちが動き回って、世界はいっそう完璧なものに近づいていきます。一点の汚点すら許せないとでもいうように、隅から隅まで磨き込まれてねえ。それがどうも私には馴じめなくって。だって私ら年寄りは年毎に衰えていって、頭も体も不自由になっていくんだから。考えることっていったら死ぬことの準備くらいでしょう。そんな身からするとねえ、今の人の目指しているものが、なんだか空しいものに思えてくるんです。だからって、若い人をけなすつもりはありませんよ。夢や情熱を馬鹿にしているわけじゃない。ただ、そっくり彼等のしていることに賛同する気にはなれないんですよ」
「何が言いたいんだい」
「年寄りというのはね、人の想いどころか世の中のことまでも、だんだんどうでもよく思えてくるんです。絵空事のような、まるで喜劇でも見ているような心境です。困ったことが起きても動じませんし、早い話あんまり深く考えない。だから隣町へでもどこへでも平気でひょこひょこ顔を出します……。
 それでもね、新宿からこっちの駅にたどり着いたときは、正直なところホッとしましたよ」
[ここら辺りじゃ、今時分だと町中でもあんまり人の姿を見ないもんね」僕がそう言って相づちを打つと、
「まったく。都会の喧騒に比べたら我々のアパート暮らしなんて屁のようなもんですなあ」
 笠原さんは酒飲みの癖で、舌先を上唇に這わせながらひとり愉快そうに頷いた。
「それあ、俺たちが負け犬って意味かい
「酒井君。オタクはどうしてそう人の話を悪い方へ取るのかね。勝ったとか負けたとか、そんなこと誰に決められるんです?。酒は楽しく吞まなきゃいかん。この芋焼酎にすまないし、酒を手にする者には愉快な時を過ごす権利があるんだから」
「ぼくは……笠原さんの言うこと少しは解るな。ぼくも最近どうも工場の仕事がつまらなくって。会社から帰ってアパートの赤提灯見ると何だかホッとするもんなあ」ぼくがそう言うと、「それとも違うと思いますけどね」笠原さんがぼそりとつぶやいた。
「いや。違わないよ、俺だって……」
 酒井さんが言いかけた時、一陣の強風が東屋を吹き抜け、菓子袋やら紙コップがばらばらと床に飛び散った。三人はあわててそれらを拾い集めた。
「いやーっ、涼しくっていい風だ」
 酒井さんはこの際本当に旨そうに、しみじみと紙コップの焼酎を口に含んだ。
「俺だって、じつは何か月ぶりかでこないだ電車に乗ったんだ。試練というか、自分を試すつもりでね。嗤うなら嗤ってもいいよ。けど、ダメだった。同じ車両に居合わせた連中に囲まれていると思うだけで、血の気が引いて額から脂汗がだらだら出てくんだ。ほんっとに足元もおぼつかない、フラフラの状態でアパートに戻ってきたときには……ほっとしたどころか命拾いしたような、もっと切羽詰まった心地がしたな」
「あんたはそれなりに努力しとる。世間の眼なんて気にしなさんな」
 笠原さんはそう言うと、ズボンのポケットから黒革の手帳を出してくくり始めた。口の中でカホリと入れ歯を外し、再度ふくんで嚙み合わせの具合を確かめてから、手帳の文句を誇らしげに朗読した。
「『ぐうら しありるだ けえた るてえる とれかんだ』」
「何ですかそれ」
「カエル語です。昔この町に住んどった、草野心平という人の詩ですよ」
「意味があるんですか」
「もちろんです。いいですか、訳しますとね――『われわれは ただ たわいない幸福こそうれしいとする』っていうんです。人間だって、出し抜くばかりが能じゃないですよ」

 吹きつける風が断続的になってきた。
 東屋一帯がにわかにかき曇り、見上げると、熱を帯びたような鉛色の雨雲が西の空から上空にかけて這い出してきている。一方で東の雑木林では樹冠の緑がいよいよまぶしく、昼下がりの熱射に照り返っており、様相の正反対な東西の空が不穏な矛盾をはらませていた。校舎の向こう側に雷鳴がとどろいた。
「これあ、一雨くるぞ」
 吹きつのる風に中身の入った菓子袋が運ばれていく。老人の髪は横になびいた。「アパートへ戻ろう」
 身支度をして、酒井さんを先頭に東屋を出ると後ろから笠原さんが声をかけてきた。「小宮山君……おい洋平君や。あんた、世間を実感したいとわしに言っとったね」ぼくは振り返って返事した。
「さっき、蛙がヘビに吞まれるのを見たろう。酒井君は喜んどったが、ああいうガキ大将みたところが彼にはあるんだなあ。わしは身につまされる思いがしたが……。だって、蛙にとっては修羅場じゃないか。
 あの菖蒲田が、つまり蛙にとっての世間なんだろう。少なくとも蛙は観念したに違いない。『この世は地獄だ』ってね。ところが世間を出はずれた隣では、こんなにも可憐なハスの花が何やら高貴な品すら漂わせて、ひっそりほころんでいるんだからねえ。君はこれをどう見るい」
「どうって……笠原さんはどう見るんです?」
「蛙は世間の外の存在を知らない。外の世界は蛙の修羅場に無関心だ。けれど、もし蛙が外の世界に気づいていたら……」
「世間の外へと逃げるでしょう」
「いいや。も少し往生際よく死ねたろう」
 ハス田の葉群が強風にあおられ大きくしなった。
 ひょろ長い茎と茎とがもたれ合い、ぶつかりあってざわめく葉表にパタパタと雨粒が落ちてくる。襟元に吹き付ける風が思いのほか冷たい。
「私ね……じつは老人ホームから逃げ出してきたんですよ。特別養護施設っていうんですか。私のいた階は自分じゃ歩くことのできない、車椅子の連中が暮らしていましたが、彼らときたらまるで野獣なんだから。
 五十あるベッドのうち、埋まっていたのは半分ほどでしたがね。真夜中になると、『ういい、』だの『ぎゃあっ』だのと、あちこちの部屋で絶叫してるんです。床ずれの痛みや、寝返りを打ったときの姿勢が悪くて、自分ではどうすることもできずに苦しんでいるんです。何より恐ろしいのは、じき襲ってくる死の予感に苛まれた者の雄叫びですな。ホームでも一つ屋根の下に暮らしてるとね、何を訴えているかが身につまされて解るんですよ。
 そうかと思うと、まだ夜の明けないうちから枕元のブザーを押してね、ヘルパーを呼んで起こしてもらい車椅子に乗ってどこかへ出ていく。寝ながら聞いているとリノリウムの床を滑っていく、タイヤのゴムの音が後から絶えないんですな。何だろうと思っていたら、朝食の時間、ホールに出てみて解りました。皆さん十時からの入浴の順番待ちをしてるんですよ。入浴っていったって、ストレッチャーに裸で寝かされたまま、ボタンを押すと浴槽の中で上下する人間の丸洗い機みたいのに縛り付けられて、ほんの二三分、湯にひたるだけですよ。時間がくるとブザーが鳴って、無情にもザーッと湯から引き揚げられる。それでも並んでいる者の数が多いと、結局その日は順番が回ってこなかったりするんだから連中だって必死ですよ。汚れた身体のままでいて、周りに嫌われたら仲間外れですからな。私はね、幸い歩行器を使って歩く練習をしてましたから別の階の湯船に入ってましたが――。
 私のいた部屋は六人が寝ている相部屋でしたが、それでも月に十万以上かかるんです。そしたら息子夫婦が私の年金をそれにあてろだなんて言い出して……だったら、まだなんとか歩けるんだし、好きな酒も飲めなくなるし、何が嬉しくってあんな動物園みたようなとこにいてやるもんですか。
 私の向かいのベッドにいた男ね。パジャマの尻にいつも百円ライター忍ばせてましたよ。煙草を吸うためじゃないです。ヘルパーや看護士の目を盗んで火をつける隙を窺ってるんです。よほど腹に据えかねていたんでしょうなあ。施設から何度も逃げ出そうとしては、そのつど取り押さえられてましたっけ。だって、エレベーターにはあなた、上下階に行くボタンのほかにいかめしい南京錠が下ろしてあって、看護士以外はよその階へ行けないようになってるんですから。
 私もねえ……とてもあんな所で往生する気にはなれませんでした。小宮山君の言うように、外の世界へ逃げ出したいと思いました。ほかに行き場所があるのなら、せめて畳の上で安らかに死にたい。年金だけでも、食い詰めて暮らしておれば、おたくらのいるアパートでならやってけますから……」
「おおい、二人とも何やってんだ、もたもたしてると――」酒井さんが呼んだとき、薄紫色を感じさせる凄みを帯びた曇天がいっせいに閃き、レントゲンのように雲の内部がビカリと見透かされた。ズズン・ドドド……と腰に響くほどの雷鳴が轟いている。「冗談ぬきにマジやばいぜ」
 雨脚はさらに強まってきた。酒井さんの後を追いながら振り返ると、笠原さんはぼくを追い払うように手の甲を振って、先に行けと合図している。へたな同情から、病人のように付き添われて街を歩くのはごめんだという意味のことを、ぼくたちは日頃から笠原さんに言われていた。 
 公園を出て畑中のゆるい坂道を上がりきったところで、酒井さんとぼくは後ろを顧みた。すると、笠原さんは裂いたポリ袋をマントのように肩にかけ、大きな葉をつけたハスの茎をかざしていた。公園脇の竹林に入って高所を仰いで立ち尽くしており、こちらに気づくと、白く曇ったメガネのままニタニタ笑いながら手を振っている。
「こうしてみると、つくづく風変わりな爺さんだぜ」
 雨は本降りになっていた。農家の垣根を過ぎて川を渡り、次の角を折れればもうアパートが見えてくるという頃、カチッと何かが爆ぜる音がした。同時に電柱脇といわず、ポストの下といわず白いものの跳ね回っているのが視界によぎった。「いてっ」酒井さんが頬に手を当てたとき、二人はようやく一帯の異変に気づいた。
「雹だっ」
 アパートの鉄階段に辿り着くと、カンカンいくつもの氷塊が上段から跳ね落ちてくる。笠原さんの部屋についたときには、二人とも肩で息をしていた。
 窓枠に腰を下ろし、髪を拭きながら通りを眺めていると、やがてハスの茎にしがみついた笠原さんが角を折れてやってきた。
「なんだあれ。走ってるじゃねえか」
 見ると、なるほどいつもなら両足を伸ばした格好で、ぎこちなく前進することしかできない笠原さんが、ブリキ玩具のロボットを手放したときのように目覚ましい速度でにじり寄ってくる。
「見ろよ。ハスの葉っぱが走ってくるぜ」
 酒井さんはそう言って腹を抱えて笑った。

 耳を聾さんばかりの雹の音に互いの声すら聞き取れない。
 聴覚を奪われてしまった三人は、仕方なく六畳間の思い思いの場所に腰を下ろし、じいと屋外の転変に堪えていた。暗灰色と紫の入り混じったまだら模様の分厚い雲に、渦巻き形の純白の雲がつき刺さり、みるみるうちに呑みこまれていく。大空は突風と雹と雷鳴とで縦横無尽に荒れ狂い、刻々と形を変えて流れていく雲の奥深くで、ときおり稲妻が鈍く光った。

(他者の、世間の寛恕の限界――)平屋の瓦に叩きつける氷のつぶてを見つめながら、ぼくはそんなことを考えていた。      
 自分をとりまく他者を正確に知ろうと思うなら、相手がよりどころとしている立場を揺すぶってみるのが手っ取り早い。他者の、集団の感情の破裂する臨界点というのが、とりもなおさず世間の器の大きさであることを、ぼくらは幼いころから自覚している。まずは親という肉親の器量を。それから親しい友の譲歩の限界を。仲間内と思っていた間柄にもいつしか生じている不文律を――。
 性質の温順ないわゆるいい子は、決して波風を立てるようなことはしなかった。規律の内容に関わらず、破約すること自体を嫌っているので大人や先輩たちに可愛がれ、忍耐強い子が多かった。
 それでは教師や世の大人たちに目の敵にされる、きかん坊とはいったい何か。破約すること自体に悦びを感じ、大人を烈火のごとく怒らせて、怒ったとみるや後日もう一度同じことをしてふたたび怒るかどうかを確かめる。親をなじり教師をあざ笑い、果ては法律にまで触れるようなことをして、こっぴどく痛めつけられた後にようやく規律の意味を理解する。人の迷惑になるような事だけはしてくれるな、そう諭されながら、どこまでだったら迷惑でないのか、その身で確かめるのでなくては納得しない――。
 野生児のような生命力といい直情径行な性分といい、不良少年の独自性はめったに陽の目を見ることはなかったが、人物を比較すれば優等生の影もかすむほど彼らの存在は水際立っていた。素直という点でいえば、彼等ほど自己の魂に従順であった者はいない。
 高校を出てから歳を追うごとに人生の地歩を踏み固め、一段一段登りつめていくかつての級友たちに比べると、ぼくは積みあげた石段をかたっぱしから突き崩してきていた。皆が当たり前に乗り越えてきたハードルさえも闇雲に蹴散らしてしまい、親には家を叩き出され友人には愛想を尽かされて、どこへ流れていくのか自分自身にも分からなかった。
 思うに人生行路というものが、無尽蔵にある可能性のうちから選択を迫られるたび一方の道を却下していく、なにやら侘びしい道行きなのだ。二十歳前という若さからか、ぼくには可能性の萎んでしまうのがどうにも我慢ならなかった。結果として人生の岐路に立たされながらついに身動きが取れなくなった。それはまるで卒業と同時に球の中心から爆発的に放射していく、他人の半径を眺めているような侘びしさだった。年と共に膨張してゆく球の表面を実社会とするなら、ぼくはそれらのどこにも参加しておらず、早い話が人生の可能性そのものを放擲していた。
 進学する大半の級友たちと歩調を合わせ、勝者同士肩をたたき合い快哉を挙げている、もうひとつの人生をぼくはときおり夢想する。本来ならば、そうして光に向かって伸びていくのが自然なところ、枝ぶりを無理にねじ曲げた盆栽のように、ぼくは自身の人生を歪めてしまったのではなかろうか――。けれども、四六時中を寒風にさらされた土地に縛られ、どれも似たような樹形にかしいだ林はどこか痛ましい光景にぼくには映った。
 実社会のどこにも触れていない、求めてそんな立場から眺めていたのは世間の、そして運命の外殻ともいうべきものだった。それが実感されたとき、はじめて自分の採るべき道が見えてくるのではないか――。ある人に近づいては煙たがられ、またある集団の急所を突いては逆鱗に触れて、そうして人心の破裂点を手探りにしながら、ぼくは一刻も早く世間というものの実体が知りたかった。

 瓦屋根に叩きつける雹の轟音に覆いかぶさるように、バリバリッと砕ける音が間近に起こった。
「こんなすごい雹、はじめて見るぞっ」
 酒井さんが大声で怒鳴った。一階の裏口にかざしてあったタキロン製の屋根にひときわ大きな雹の塊が直撃し、所々裂け目ができていた。「普通じゃねえよ、これじゃ車なんかボコボコにされちまうぜっ」
 超意思の、自然の気象の寛恕の限界――そんなことを考えていたぼくに、天災というものが計り知れぬスケールの、一つの憤怒のように感じられた。他者を知り、世間を知った先にはまだどえらい奴が控えてるらしい。
 票がやんで暴風が弱まると、世界がにわかに鎮静した。
 雷雲がみるみると遠退いていく。西の空がすこやかな水色の明るみを取り戻し、窓外はひんやりした風と小雨の吹き付ける空模様となった。街中の様子を窺うと、人気ない通りの路肩に白い氷塊がうずたかく残されてあった。
 深閑とした部屋内で、三人はそれまで別の国にいたように、妙にちぐはぐな面持ちで顔を合わせた。
「ときにオタクらは……ここのアパートの人たちはいったい何して暮らしてるんですかね」
 酒瓶を前に、一人手酌で吞んでいた笠原さんはだいぶ出来上っているらしい。
「皆さん、いやに静かなんでね。いないと思ったらいる、いると思うとやっぱりいる。わたし入口のとこの下駄箱調べて毎日観察してるんで……酒井君の靴はいつも置きっぱなしになっている、青い穴の開いたズックがそうでしょう」
 フン、と鼻を鳴らして外を見たまま酒井さんは相手にならなかった。「小宮山君の靴はあれかね、黒の安全靴みたいなやつがそうかね。ここんとこ何日か置いたままになっとるようだが……」
 いやな爺さんだなと思いつつ、笠原さんの心境もやむお得ない気がした。出入口が一つで共同便所を使うアパートの構造上、住人がどんな暮らし向きをしているかは老人の気になるところだろう。
 ぼくは先週、仕事を三日間無断欠勤していた。そのことを白状すると、老人は相好をくずして頷いた。人間の弱さやダラシなさ、若い自分の飽きっぽさ、そんな程度のことなら誰にでも身に覚えがある――笠原さんは酒の肴に格好の話題が出たとでも言いたげに、微笑を浮かべコップの焼酎をクピリとあおった。
「君ねえ……下の吞み屋でも借りてるんだろう。まあ、呑んじまったもんは仕方ないとして、君のような若い人があんな婆さんのやっとる赤提灯に高い金を支払って、いったい何が面白いのかね。金が惜しいとは思わんのかね。いいかね、同じツケするんだったら酒屋にしなさい。黙って一万円も出してみろ。三人で浴びるほど吞めるんだから。なんだったら、あたしが口を利いてあげても、いい」
 孫にでも言って聞かせるような軟化した物言いに、ぼくが思わず釣り込まされそうになったとき、部屋の引戸がガラリと開いた。
「すごい雹だったわねえ。裏の勝手の庇なんか穴ぼこだらけにされちゃったわよ。笠原さんとこは大丈夫?。心配になってさ……」
 戸口に立っているのは、今し方話していた『高嶺』の女将だった。
「まあまあ、皆さんおそろいで。昼間っから焼酎なんか開けちゃって、いいご身分だこと」
 ぼくは背筋に水がはしり、笠原さんは固まったまま動かなくなった。
「小宮山君っ。あなたお家賃、何か月も溜めたままにしてるんだってねえ。今朝がた大家さんこぼして帰っていったよ。それにこないだはこないだで、仕事にも行ってなかったんだって?。工場長が心配してね、店にまで顔を出してくれたんだよ。そりゃ仕事がきついとか、向かないって言うんなら話は別だけど、行けば真面目にこなすんだそうじゃないか。だったら、裏切るような真似しちゃあ、会社の人に申し訳ないって思わないの?」
「まあまあ……女将さん、そのへんで。今ね、私がこってり絞りあげてたところですから」
「笠原さんだって人のことは言えないよッ。大家さんが大人しいのにつけ入って、払うものも払ってないって言うじゃないか。うちのツケは大丈夫なんだろね」
 ははあ、と唸り、笠原さんは焼酎にしめらせた唇を右へ左へ交互にゆっくり舌なめずりした。それから金輪際口は開かぬといった面持ちで、焼酎のコップをずいいと手前に引き寄せた。
 女将は本腰を入れて𠮟るつもりで来たらしい。店で呑んでいるときの朗らかな面立ちとはほど遠い、すごんだ眼をして仁王立ちしていた。ぼくはすっかり消沈し、神妙に頭を垂れて畳を見ていた。
「こちとら都会で暮らしていくのに、一日だって休んじゃいられないんだからねッ」
 痛打だった。それでも女将のそんな啖呵を耳にしたとき、ぼくの中にほのかな弛みが生じた。都心の文京区で育った自分には、雑木林や田畑の点在する緑豊かなこの街を都会と形容する、女将の頭がどうやら意外に感じられたのだ。化粧っ気のない女将の、素人くさい顔に見入ったまま、ぼくが眩しげに目をしばたいていると、女将はおやっという顔をしてぼくを睨んだ。そのとき、
「女将さんのおっしゃりたいことは、よく分かります」
 窓際にいた酒井さんが、座をとりなすように二三度深く頷いた。そして尻の下に敷いていた小汚い座布団を裏返し、女将の前にすすめながら、
「ま、ま。一杯いかがです」
 そう言って焼酎のボトルを差し出した。
 女将は絶句したまま、あきれ顔をして三人を見ていた。説教する気力も失せたらしい。ため息を棒のように吐き出すと、つまらない時間を過ごしたと言わんばかりに押し黙ったまま背を向けた。そして部屋の戸を閉める間際、
「だいたい、あんた方は世間をなめているんだよ。甘ったれんなッ」
 癇癪を破裂させて帰っていった。

 酒宴はつねに、一升なみなみとある出だしは誰も威勢がいいが、酒も互いのふところ具合も透けてくると段々に口数が減ってくる。自分たちのしていることの愚かさが、酔いの醒めるにつれ不快に各々の胸に去来するので、しまいには相手の不甲斐なさを罵り合う、醜い酒盛りとなった。それでも捨てぜリフを吐いて自室に引きあげ一人の時間に堪えているより、まだ皆と顔を合わせている方が救われるのだ。少なくとも明日からのことに思い悩んでいなければならぬ憂鬱からは解放される。
 ぼくは住人たちとの付き合いにうんざりすると、翌日からは生活のため仕事に出掛けていった。重い足取りでアパートの階段を下りていくと、朝の日なたに相変わらず老猫がいぎたなく寝ている。
 猫は隣家の庇でひねもす丸くなっていた。以前は舗道に面した玄関先を寝場所にしていたのに、どうしてこちらへ移ったのか――ぼくは下校中の子供たちが小石を投げつけているのを見たことがある。睨みのきいた風貌からして、老猫はそうとうの遍歴の持ち主だった。その泰然とした居ずまいが、人間の子供の癪にさわるので石をぶつけられたりするのだろう。
 夕刻になり、機械油にまみれた作業服のままぐったりして階段を上っていくと、そこでもやはり猫が寝ている。鼻先まで近寄ったところで何ら動じる気配もない。ぼくは腹立ちまぎれに、
「くせぇなあ」と聞こえよがしに言ってやった。
 すると――老いた猫は気だるげに前脚の一方を裏返し、醜いひびの入った肉球を一二度なめた。そしてなめた前脚でもって耳の裏から顔全体を洗うようなしぐさを何度も繰り返した。
 ぼくはハっとして心中揺らぐものを覚えずにはいられなかった。ふだんは目やになぞ固まったまま、幾日も放置しているこの老猫の如き、見るものは見、すべきことはし尽くした後で、今さら人に媚びるのも面倒なほど生に倦み疲れた立場でも、なおも嫌われていたくないという――そんな老いた者の心根がしんみり伝わってくるのだった。











































































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