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第八十九話【初めての恋人】
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五年前、大学を卒業した私は大手食品メーカーに就職した。大学時代、勉強と短期アルバイトしかしていなかった私は、コミュニケーション能力に大きな問題があった。仕事は真面目に丁寧にを心がけ、一生懸命にこなしていた方だと思う。しかし、明るい同期や先輩たちと上手く付き合って行くことが出来ず、飲み会などでは一人端に座り、お酒をガブガブと飲んでいた。二十歳を機に喫煙も始めたが、職場の喫煙室にはどうにも入ることが出来ず、家でのみ吸っていた。そのうち、会社は全面禁煙になった。
「美沢さんてお酒強いよね」
ある飲み会の日、いつものように端に座り、特に誰とも話すこともなくお酒を飲んでいると、同じ部署の旭岡先輩に声をかけられた。同じ部署に所属しているが、普段関わることは殆どない。こんな風に二人で話をすることすら初めてだった。年齢は三十歳。爽やかで人当たりが良く、老若男女問わず人気がある。当時は今朝白君のような人だった。ここで彼を引き合いに出すのも申し訳ないけれど。
この時も数人の女性社員がこちらを見てヒソヒソと何か話していた。
「いいえ、そんなに強くは……」
「だって、それ、もう八杯目だよ?」
飲み会が始まって一時間。飲み放題なのを良いことに、私は既に七杯のお酒を平らげていたらしい。自分でもわからなかった。そもそも、この飲み会も半ば無理矢理参加させられたに近い。今の時代、飲み会の参加を強制する企業など珍しいが、まだまだそういう悪しき文化が残る企業もあるのが現実だ。社内に仲の良い友人もいない私は、只管、端でお酒を飲むしかない。
「何でそんな杯数まで……」
「だって、俺、美沢さんのこと見てたもん」
彼のその言葉に、男性とまともに話したことのない私はドキッとした。グラスを口に運ぶ手が微かに震えたのを覚えている。
「今日だけじゃないよ。俺、ずっと美沢さんのこと見てた」
私の耳に唇を寄せ、そう囁く彼。酔っても顔に出ることのない私は、その囁きに顔を赤くした。誰にも聞こえないように、私にだけ聞こえるように囁かれたことにより、もしかしたら、私は彼にとって少し特別な存在なのではないかと内心浮かれてしまっていた。その後、彼はすぐに別の席に呼ばれ、移動してしまった。その日から私の目は旭岡先輩を追いかけるようになった。
高校生以来の恋心だった。
しかし、私の様な所謂、陰キャと呼ばれる部類の人間が、先輩のような陽キャに恋心を抱いたところで叶うわけがない。人生経験の少ない私とて、そんなに身の程知らずではない。私は一歩引き、あまり目立たないように先輩に接した。それでも先輩は優しくて、飲み会の度、私が浮かないように話しかけてくれたりした。
恋心はどんどんと加速して行った。
そして、入社して五ヶ月が過ぎた頃、私は先輩にお洒落なバーに呼び出された。個人的な連絡先は交換していなかったので、会社のパソコンにメールが来た。私は内心ドキドキしていた。もし、告白されたら……いや、でも、先輩に限ってそんなことあるはずがない……だって、相手は私だから……そんなことを頭の中で何度も考えながら、バーの入り口のドアを開けた。
深海の様な深い青の照明。壁には大きな水槽。熱帯魚たちが優雅に泳いでいる。こんなお洒落なところに来たのは初めてだった。一番奥のボックス席に先輩は座っていた。私を見付けると微笑みながら手を振った。
「ごめんね、急に呼び出したりして……」
「いいえ……何かありましたか?」
きっと、社内では話し難いことなのだろう。私は仕事の話と決め込んで彼の向かいに座った。
「実は……」
「はい」
「……個人的に美沢さんともっと話してみたくて」
恥ずかしそうにそう言う先輩に、私はポカンとしてしまった。私と話してみたい?何故?
「ど、どうしてですか……?」
「どうしてって……それは……」
先輩は照れ臭そうに鼻を掻いた。私は、これは夢なのではないかと思った。同期とも打ち解けられない私を、皆から好かれている人気者の先輩が……有り得ない。古典的な方法だが、そっと手の甲を抓ってみた。痛かった。夢ではなかった。
先輩は小さく咳ばらいをすると、私の隣に座った。そして、真っ直ぐ私の目を見る。整い過ぎているその顔に見つめられ、私は動けなくなった。心臓が口から飛び出てしまいそうだった。
「……俺、美沢さんのこと、好きみたいなんだ」
流れているのはジャズだっただろうか。ムーディーな曲に乗り、その言葉は私の中に入って来た。数分間、私は動くことが出来なかったと思う。今思えば、「好きだ」と言い切らなかったところにも悪意を感じる。「好きみたい」ということは、好きではないかもしれないという可能性もある。
「もし、今、付き合ってる人がいなかったら……俺と付き合って欲しいなって……」
当時の私に、この告白を断ることなんて出来なかった。
私の片思いだと思っていた先輩と思いが通じ合った。只、見ているだけの恋しか知らない女が、通じる恋を知った。初めての経験に、当時の私は天にも昇る気分だったと思う。
その日を境に、私たちは恋人同士となった。
ここから、私の人生の歯車が狂い始めた。
「美沢さんてお酒強いよね」
ある飲み会の日、いつものように端に座り、特に誰とも話すこともなくお酒を飲んでいると、同じ部署の旭岡先輩に声をかけられた。同じ部署に所属しているが、普段関わることは殆どない。こんな風に二人で話をすることすら初めてだった。年齢は三十歳。爽やかで人当たりが良く、老若男女問わず人気がある。当時は今朝白君のような人だった。ここで彼を引き合いに出すのも申し訳ないけれど。
この時も数人の女性社員がこちらを見てヒソヒソと何か話していた。
「いいえ、そんなに強くは……」
「だって、それ、もう八杯目だよ?」
飲み会が始まって一時間。飲み放題なのを良いことに、私は既に七杯のお酒を平らげていたらしい。自分でもわからなかった。そもそも、この飲み会も半ば無理矢理参加させられたに近い。今の時代、飲み会の参加を強制する企業など珍しいが、まだまだそういう悪しき文化が残る企業もあるのが現実だ。社内に仲の良い友人もいない私は、只管、端でお酒を飲むしかない。
「何でそんな杯数まで……」
「だって、俺、美沢さんのこと見てたもん」
彼のその言葉に、男性とまともに話したことのない私はドキッとした。グラスを口に運ぶ手が微かに震えたのを覚えている。
「今日だけじゃないよ。俺、ずっと美沢さんのこと見てた」
私の耳に唇を寄せ、そう囁く彼。酔っても顔に出ることのない私は、その囁きに顔を赤くした。誰にも聞こえないように、私にだけ聞こえるように囁かれたことにより、もしかしたら、私は彼にとって少し特別な存在なのではないかと内心浮かれてしまっていた。その後、彼はすぐに別の席に呼ばれ、移動してしまった。その日から私の目は旭岡先輩を追いかけるようになった。
高校生以来の恋心だった。
しかし、私の様な所謂、陰キャと呼ばれる部類の人間が、先輩のような陽キャに恋心を抱いたところで叶うわけがない。人生経験の少ない私とて、そんなに身の程知らずではない。私は一歩引き、あまり目立たないように先輩に接した。それでも先輩は優しくて、飲み会の度、私が浮かないように話しかけてくれたりした。
恋心はどんどんと加速して行った。
そして、入社して五ヶ月が過ぎた頃、私は先輩にお洒落なバーに呼び出された。個人的な連絡先は交換していなかったので、会社のパソコンにメールが来た。私は内心ドキドキしていた。もし、告白されたら……いや、でも、先輩に限ってそんなことあるはずがない……だって、相手は私だから……そんなことを頭の中で何度も考えながら、バーの入り口のドアを開けた。
深海の様な深い青の照明。壁には大きな水槽。熱帯魚たちが優雅に泳いでいる。こんなお洒落なところに来たのは初めてだった。一番奥のボックス席に先輩は座っていた。私を見付けると微笑みながら手を振った。
「ごめんね、急に呼び出したりして……」
「いいえ……何かありましたか?」
きっと、社内では話し難いことなのだろう。私は仕事の話と決め込んで彼の向かいに座った。
「実は……」
「はい」
「……個人的に美沢さんともっと話してみたくて」
恥ずかしそうにそう言う先輩に、私はポカンとしてしまった。私と話してみたい?何故?
「ど、どうしてですか……?」
「どうしてって……それは……」
先輩は照れ臭そうに鼻を掻いた。私は、これは夢なのではないかと思った。同期とも打ち解けられない私を、皆から好かれている人気者の先輩が……有り得ない。古典的な方法だが、そっと手の甲を抓ってみた。痛かった。夢ではなかった。
先輩は小さく咳ばらいをすると、私の隣に座った。そして、真っ直ぐ私の目を見る。整い過ぎているその顔に見つめられ、私は動けなくなった。心臓が口から飛び出てしまいそうだった。
「……俺、美沢さんのこと、好きみたいなんだ」
流れているのはジャズだっただろうか。ムーディーな曲に乗り、その言葉は私の中に入って来た。数分間、私は動くことが出来なかったと思う。今思えば、「好きだ」と言い切らなかったところにも悪意を感じる。「好きみたい」ということは、好きではないかもしれないという可能性もある。
「もし、今、付き合ってる人がいなかったら……俺と付き合って欲しいなって……」
当時の私に、この告白を断ることなんて出来なかった。
私の片思いだと思っていた先輩と思いが通じ合った。只、見ているだけの恋しか知らない女が、通じる恋を知った。初めての経験に、当時の私は天にも昇る気分だったと思う。
その日を境に、私たちは恋人同士となった。
ここから、私の人生の歯車が狂い始めた。
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