荊棘の道なぞ誰が好んでいくものか

れんじょう

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第十五話

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「お久しぶりです、先生」

ラーゲルブラード侯爵家の重厚な扉を大きく解き放って、アストリッドは幼少の頃からの恩師であるアッペルクヴィスト女史をタウンハウスに招き入れた。
女史は相変わらず背筋をピンと伸ばし、しずしずとした足取りで部屋に入ってくる。
変わることのない姿に、頬が緩みそうになった。

「それで、今日はどういうご用件でしょうか。先生のお手紙にはご訪問いただける内容までは書かれていなかったものですから」

しばらく他愛のない雑談をいくつか話した後、持ち上げていた薄い陶器のカップをソーサーの上に置いて、アストリッドは訊ねた。
慎み深い女史のことだ、教え子の婚家までわざわざ出向くにはそれなりの理由がなければならない。

「二年ほど前のことを覚えていらっしゃるかしら」
「二年前、のことですか。それはまだ学院に在籍をしていたときのことですわね」

充実した学院生活で思い出は多いが、女史が関わったことと言えば少なく、二年前と言えばとあのことだと鮮明に思い返すことが出来た。
あれは卒業パーティの後始末をした直後の出来事だった。
わざわざ学生会室まで出向いてきた女史が普通ならば考えられない提案、つまりは女史の後任にならないかとまだ在学期間が1年以上ある学生であるアストリッドに提案してきたのだ。

あのときはその場でった話だった。
貴族子女として、また近い未来に結婚することになる立場として、受け入れることが出来ない提案だった。
けれどその話を受けていたら今はどうなっていただろう、と夢想することを止められない。
まず母の悩みはなくなるだろう。
あれほど弟を知るために学院に伝手はないかと行っていた母の悩みはなくなるだろうし、それ以前に同じ校舎に講師として姉がいるのならば無茶は出来ない。
それよりも、

その後の考えにアストリッドは顔を曇らせた。
それは弟と離れて暮らすことでずいぶん見ることが少なくなったあの”物語”に関わることだからだ。
できることならこのまま考えることをせず、知らないふりをしておきたかったことだ。
愛する人と結婚と生活、そのあまりの幸せに忘れたかった”物語”は、すでに佳境に差し掛かっている。

わかっているわ、でも手放すことがこんなにも難しい。

何かしなければ、”物語”よりも一歩先んじなければ本当の幸福な未来などやってこないというのに、アストリッドは今得られた安寧をかき乱すことができないでいた。

胸の苦しさを表すように眉間のしわが増え、ソーサーを持つ手が震える。
かちゃかちゃと陶器がこすれる音は耳障りで、アストリッドの神経を逆なでた。

「具合が悪いのでしたらまたの機会に致しましょうか」

女史は立ち上がり、アストリッドの震える手からソーサーを受け取るとテーブルにそっと置いた。
お茶をほとんど飲み干していたことは幸いだった。
そうでなければ盛大に溢していたことだろう。

ばかね、自分で勝手に思い巡らして理性を保てなくするなんて。

アストリッドはしばらく自分の小刻みに震える手を見ていたが、ぎゅっと手を握りしめると膝の上に載せて顔を上げた。

「…………申し訳ございません。
ええ、決して具合が悪いわけではありませんから、ご心配には及びませんわ」

誤魔化そうという努力はしてみたももの、その努力は実っていない。
聡い女史が気づかないはずはないとわかっていたが、彼女はアストリッドの握られた拳の上にそっと手を触れ、また席に戻っていった。

「それで、二年前のことでしたわね。
それは卒業パーティの後のことでしょうか」
「そうですわ、そのことです」
「もちろん覚えております。
先生が学生会室までおいでになり、私を先生の後任にとお話しくださいましたが、お断りいたしました件ですわね」
「まさにそのことです。
断られたことは非常に残念なことでした。
ですが今回の訪問も、また同じ言葉を貴女に伝えたかったのです」

まさか、そんなことが。
アストリッドはあまりのことに女史を凝視した。

「先生。私、結婚いたしましたのよ?」
「存じ上げておりますわ。そうでなければこちらには訪れることはないでしょう」
「ではお受けできないということもおわかりになりますでしょう?」
「たしかにそうでしょう。ですがそこを曲げてなんとかお願いできないかと思っております」
「まあ、先生!私、新婚なのです。結婚した女性の務めとして子をなさなければなりません。もし万が一私が講師を引き受けたとしてもすぐ妊娠をして講師交代となってしまいますわ」
「わかっております、わかってはいるのです。こんなことは私が貴女に教えてきたことに反することだと、無理をお願いしていることも重々承知しているのです。ですが私の知る限り貴女ほどの適任者がどうしても思いつかないのです。今年度は私がなんとか一年引き延ばして務めておりますが、来年度までとなると難しい。正直に申しますと私の抱えている病の治療に当たりたいのです。これを言ってしまうと同情をかってしまうためにあまり言いたくはなかったのですが、理由を言わず貴女に無理なお願いをすることは出来ないと判断しました。一年、一年でよいのです。なんとか引き受けてもらえないでしょうか」

先生は持病を抱えててもなお、仕事を続けていたというの。

その使命感の強さに驚きながらも、女史ならありえるとアストリッドは思ったが、だがそれも自身の体を壊してまで続けるべきではないとも思った。
アストリッドとて本心を言えば講師をしてみたい。
弟の近くにいれば”物語”を見ることになっても、だ。
それは純粋に自分が今まで培ってきた教養や勉学を誰かに女史がアストリッドに教えてくれたように誰かに教えてみたいと考えたことがあるからだ。
女史がおのが信念をまげてまで、教え子であったアストリッドを後任に据えたくなるほどの教養が自身にあるというのなら、余計にその思いは深まる。
ただその夢を夢でしか終わらすことができないのは、貴族子女として躾けられた観念と夫の存在だ。
いくらアストリッドが望んでも高位貴族の子女が職業につくことや、結婚した女性が夫の許しなく何かを成し遂げることなどできるわけがなかった。

それは言い訳ではないの?

アストリッドは自問する。
この夢のように幸せな世界を壊したくないだけの、言い訳ではないのか。
もうすぐ”物語”の未来が待っているとすれば、動かなければいけないのは今このときなのだ。
弟がシーラと知り合ってであろうスコー学院在籍中の今動かなければ三年の月日はあっという間に過ぎ、彼は卒業をして彼女と婚約、結婚、そして自身の破滅へと連鎖していくだろう。

幸せなのよ、本当に。
手放したくない幸福を捨ててまでなぜ起こるかもしれない未来のために動かなければならないというの。
だって、少しずつ違いが見えてきたわ。
弟が私をとても慕ってくれていることも、姉上と呼ばれるようになったことも、私が学院を首席卒業してこうして先生から講師の後任を勧められていることも。
ではこのまま生きていけばあの結果を招くのではないのかもしれない。
何かの小さなきっかけが破滅を招かないかもしれないと考えてはいけないことなの?

いいえ、いけなくなんてなにもない。
けれど今何もしないで”物語”通りの破滅が来たときに、私はそれを許せるというの?

なぜ小さな頃からあれほど勉学に励んできたのか。
高位貴族の女性の務め以上の教養を身につけ、勉学に励み、自身を貶める弟や死に追いやる父親を愛し続けてきたというのか。
弟が生まれてから見てきた”物語”を回避したかったからではないのか。
もちろん”物語”を知らなかった頃に築いた両親との関係性や弟を見たときの無償の愛がなかったとはいえないが、それでも”物語”を見せ続けられれば恐怖の対象となってもおかしくなかったというのに。

”物語”に怯え暮らさなければならないのならばと奮闘していたのは誰だったのか、忘れたの?

鬩ぎ合う思いはアストリッドの心を狂おしいまでに苛むが、自分自身で道を見つけなければ後悔することもわかっていた。

だったら。

ずっと何もしないでこの幸せを、生ぬるい幸せの中を揺蕩って人生を終わらせるのか、自分から未来をつかみに行くのか、今がまさに決断の時だ。

だったら私は。

「先生。今すぐにはお受けできるといえませんが、必ずご期待に添いたいと思いますのでしばらくお時間をいただけませんでしょうか。
私は一人の人間ですが一人ではありません。
夫に話して彼からの了承をいただいて、そちらに参るのが筋だと考えます」

自分の弱い心につけいる隙を与えてはいけない、夫であるアンブロウシスが帰宅次第この話をしてみよう。
夫にこの決断を話すことで、ひどく驚かれ、はしたないだの、馬鹿かと罵倒されるかもしれない、もしかしたら恥だと罵られ離縁されるかもしれない――――それならそれで自分の気持ちを偽ることになっても”物語”とは異なる未来となるのだから良しとするが――――が、この機会を逃してしまうとまた弱い自分がしゃしゃり出てきてぬるま湯から出ようとしなくなるだろう。

さあ、もう十分活力を蓄えたでしょう?
この幸せが続く未来を勝ち取るために、”物語”通りにはならず、アンブロウシス様と幸福に生きるために、戦うのよ。

ありがとうと何度も言いながらアストリッドの手を取る女史を見下ろしながら、すぐ臆病になる心を奮い立たせていた。







アストリッドの決断は、思いも掛けない方向からの援護射撃を受け、叶うこととなる。







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