荊棘の道なぞ誰が好んでいくものか

れんじょう

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第十八話

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―――――冷たい。

アストリッドは額の上に冷たさを感じて意識が浮上した。
ふらふらと手を額にやると濡れた手拭きが滑り落ち、ぽとりとソファの上に落ちた。

「気づかれましたか」

薄暗い部屋の中、燭台の小さな明かりを受けてアッペルクヴィスト女史がこちらを心配そうにのぞき込む。

「よかったですわ。顔色も戻ってきておりますし」

ほっと息をつくと、シーツの上の手拭きをそっと取り上げて、テーブルの上の洗面器に蓄えてある水に浸してゆっくりと絞り始めた。
アストリッドは女史の動きを呆とする意識の中で見ていたが、なぜ自分が眠っているのか、また女史がなぜアストリッドの寝室にいるのかわからずにゆっくりとあたりを見回すと、浮き上がってきた部屋の設えは見覚えがないもので、アストリッドはここが今日から暮らし始めるスコー学院の寮であったことを思い出した。

「大変申し訳ございませんでした。わたくしが至らないばかりに貴女に無理をさせてしまったようです。講師を引き受けてくださってから今日までとても大変だったのでしょう、カードを見ている最中に倒れられてしまいましたのよ」
「倒れた…………?」

貧血でも起こしたのかしら。

アストリッドは女史から差し出された手拭きを受け取りながら首をかしげた。
一体何があったのかと考えて始めたとき、頭の中に”物語”の場面絵がものすごい勢いで何枚もめくれ始めた。

ざっと音を立てて落ちる血の音が聞こえたようだった。

ああ、そうですわ。
私はまた見てしまったのね。

冷たい手拭きを握りしめる手が震えているが、室内を動き回っている女史には気づかない。

「ええ、ちょうどソファに座っていらっしゃったときでよかったですわ。そうでなければ床の上だったでしょうから。
私に力があれば貴女をベッドへ運びたかったのですがさすがにそれは出来ませんでした。
それと校医に来ていただいて診察していただきましたが、やはり過労だそうですわ」

そう言いながら、もう一度アストリッドの顔をのぞき込んで心配そうに眉をひそめた。

「まだ顔色が戻らないようですし、もう遅い時間でもありますから、今日はこのままゆっくりとお休みなさいませ」

起き上がろうとするアストリッドを手で制して、女史はテーブルの上に用意されていた軽食の他に気付け用にとワインを置き、ゆっくり寝るようにと何度も言い聞かせながら帰って行った。




それからどれほどたったのか、ようやくアストリッドは意識を”物語”から今に向け始めた。
ベッドの横に置かれている時計に目をやると夕食の時間はとう過ぎ、学生たちもすでに寝入る前のひとときを過ごしている頃だった。
退出した女史の手荷物の中には食器がなかったことから、彼女は自分の食事も取らずつきっきりで看病をしていてくれたに違いない。
女史には迷惑を掛けてしまったことへの申し訳なさと、看病してくれたことへの感謝の気持ちがわき上がったが、それを伝えるべき人はすでにここにはいず、何一つ言葉を返すことが出来なかったことを恥じ入った。
一通り反省をした後、女史には明日会ったときには礼を伝えようと心に決めて、ソファから起き上がった。
ぐらりと体が揺らぐが、とっさにテーブルに手を添えて踏みとどまった。
”物語”を見た衝撃がまだ体に残っているようで体のあちこちが悲鳴を上げていたが、アストリッドは気力を振り起こしてライティングデスクの上に整理されて置かれていた学生たちの個人カードを手に取った。
何枚かめくっていくとお目当てのカードが出てきた。

テレーシア・ステュルビョルン

どうして忘れていたのだろう、と彼女は自問する。
シーラという仮の名前をつけた彼女・・は、アストリッドの中では無理に名前を思い出そうとは思わないほど重要ではなかった。
恋に狂ったのは弟であってシーラのせいではないからだ。
店を開けるほどのドレスも宝石も帽子も、持ち主はシーラだが、買い与え買うことを許したのは弟に間違いがない。
だとすれば恨むべきは理性をなくした弟であって、貢がせたシーラではないとずっと思っていた。

けれど、あれは。

"物語”だからこそか、夢の中の図書室の情景は逆光であったというのに抱き合う二人の表情が鮮明に見えた。
彼女を胸に抱いて幸せに酔いしれる弟と、胸に頬を当てて笑う彼女の、その口元が。
儚くか弱いと言われる彼女からは想像もできない皮肉に歪む口元と人を馬鹿にしたように見下す目元は。

断言できる。
あれは弟のように幸せに酔いしれてみせる笑顔ではない。
あれは、あれは、

企みに成功して人間が見せる、――――――――嗤いだ。








なるほど。
そういうことだったの。

弟は恋に溺れ、策にはめられたのだ。
アストリッドと弟以外に侯爵には子がいない。
よほどのことがない限り侯爵の跡をとるのは弟となる。
テレーシア・ステュルビョルンは子爵の娘だ、社交界に出る前のまだ手管など知らない初々しい次期侯爵と懇意になれば華やかな未来を得ることが出来るだろう。

テレーシアの個人カードをじっと見つめながら、アストリッドは下唇を噛んだ。

豪奢な色合いの容貌に儚い体つき。
視線は熱く、仕草は妖艶。
そのくせ全体の印象は庇護欲をそそるなどあり得ないと思っていたら、故意に作られたものだったのだ。
男というモノはえてして女性の表面しか見ない。
彼女のように儚く見えればそれだけで庇護下に置きたくなるだろう。
何かにつけ頼られれば男であれば叶えてやりたいと思うだろうし。自分が頼られる強い男になったと勘違いするに違いない。
その上、女性から微かだろうが接触を持たれたら、弟のように女性に免疫のない男なら気があると思ってしまっても当然だ。

馬鹿な子。

恋するあまり、彼女の策略に気づかないなんて。
彼女に溺れるほどのめり込んでも、薄々彼女からの愛情は作られたものだとわかっていたのだろう、彼女を繋ぎ止めたいがために言うがまま贈り物を贈り続けていたということなのね。
そして私は弟の手によって彼女の欲を満足させるためだけの踏み台となり、私の幸せは彼女のヒールに踏み潰され弟によって踏みにじられる未来が待っている。

なんて滑稽なの。

自分を罵り嗤いそうになりながら今得たばかりの情報を処理しようと努力するが、押し殺せない負の感情が渦巻き、考えがまとまらない。
いつの間にか手にしていたカードもくるくると回していた自分に苦笑しながら、カードの裏面を何気なしに見ていると、驚くことにそこにはまだ第一学年しか終了していないというのに隙間なくびっちりと文字が埋められていた。
他の学生たちのカードにはそれほど記入されていないというのに。
どれほど特筆すべきことがあるのかと、アストリッドは手元に燭台を寄せて文字を追う。
右に左にと目をせわしなく動かして書かれている内容を読んでいくと、そこには貴族子女としてあり得ない事柄が書かれていた。

成績優秀で話術が優れている、といったのは長期休暇で帰ってきた弟だったが、なるほど成績は優秀だろう。
ただし特出する学科と底辺を這いずっている学科があるが。
話術も得意というのも頷ける。
交友関係に書かれている名が名だたるもので、弟が言っていたように殿下を始め、弟を含む殿下の側近一同、各学科に秀でた者、とはいっても男子学生の名は連なっていても女子学生の名は一名も記載されていない。
そこに誰がいるかによって恐ろしいほど印象と言動が変わる、要注意が必要とまで書かれている。

この学院にいる貴族の子息息女たちは、この学院が社交界の縮図だということを知っている。
女子であればお茶会を開き情報を集め派閥の結束を固めるし、男子であれば将来の足がかりとして親交を深める。
だというのにテレーシアに限ってはそれがない。
女子学生の名一つもないというのがその証拠で、どこにも属さず誰からも嫌煙される存在となっていることが読み取れる。
女子学生からこれほど嫌がれる存在が男子学生からは真逆の扱いを受けているとは。

いいわ。
彼女が卒業するまでの二年間で、彼女の本質を見抜いてみせる。
そして弟がこれ以上毒されないようにもしてみせる。
そうすれば彼女という存在が私の人生に関わりをもつことはなくなって、彼女に人生を踏みつけられることもなく、弟に潰されることもなくなることだろう。


アストリッドはテレーシアのカードをにらみつけると、何事も起こらなかったかのようにテーブルの上に置いた。

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