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第十九話
しおりを挟む「先生。ベーヴェルシュタム先生。お待ちください!!」
アストリッドが授業を終え職員研究室に向かう道を歩いていると、講師を受け持つ学年の学生から声をかけられた。
その声色に十分に記憶のあるアストリッドは彼女にわからないように小さくため息をつくと立ち止まってゆっくりと振り向いた。
「ベーヴェルシュタム先生。なぜですか。なぜ私が不可なのですか」
講義が終わってから慌てて駆けつけてきたのか、いつもは美しくうねっている金の髪を振り乱し、額に汗をかきながら、非常識と言っても過言でない距離感まで詰めてきた彼女は、アストリッドの二重の意味での悩みの種でもあった。
今この時も、アストリッドの教え一つ守ることができずにいる。
「ステュルビョルンさん。まずは一歩後ろに下がって距離を取りなさい。大変失礼ですよ。そして淑女が授業でもないかぎり額に汗をかくほど慌てるようなことなどこの学院には何もないことを何度かお話しいたしました。まだ理解できませんか」
アッペルクヴィスト女史からバトンを受け取り、教養の講師として教鞭をふるってすでに半年。
後数ヶ月で卒業する学生たちはアストリッドが学生会会長だった頃は入学した者たちだったが、名が変わり、髪を染め、眼鏡をかけたアストリッドに誰も気づくことがなかったため、アストリッドは誰も知らない講師として振る舞うことが出来た。
はじめは若い講師に難を示した学生たちだったが、若くしてアッペルクヴィスト女史から認められるほどの人物であり、学院にきたばかりだというのに違和感なく学院に溶け込んだ彼女に一目置くようになり、授業を受け彼女の人柄に触れると敬愛するようになった。
だが一部の学生からは明らかに倦厭されているし、親の権力を笠に着て圧力を掛けてこようとする者もいる。
学生たちから過分な感情を向けられることは本位ではない。
ただ彼女たちが社会に出て行く上でスコー学院卒業生であることに、そして自分自身に誇りを持てるように指導していくだけだった。
だが、どれだけ指導に力を入れても、ある一定の学生たちには理解されず、身につくことはない。
その最たる者が目の前にいる学生だった。
またでそうになったため息を押し殺しながら、面白みのない黒縁の眼鏡のヨロイを揃えた指で押し上げ、アストリッドはじっと彼女の目を見つめた。
対する彼女は普段であればきらきらと美しく煌く蛋白石の瞳は理不尽な扱いを受けたと憤りで揺らめき、怒りで顔は上気して、訴えるように握られた手は小刻みに震えている。
「先生。今はその話をしているのではありません。私の成績の話ですわ。
なぜ私が不可などという不名誉な評価なのですか!」
容姿に似合った甘く甲高い声を張り上げて、テレーシア・ステュルビョルンは訴えた。
彼女にとって教養の単位は簡単に手に入るものであって不可などという評価はあり得なかった。
「なぜ?私になぜと貴女が問うことができると本当に思うのでしたら、貴女は自分を理解していないということです」
「私が私を理解していない……?
それはいったいどういう意味ですか。それにそのことと成績のことは関係ありません。私が今話しているのは教養の単位が落ちるというあり得ない評価を正していただきたいと言うことです」
「貴女はどうして自分の都合が悪いことには耳を貸そうとせず、自分の考えを押しつけようとばかりするのですか?
私は今も貴女に伝えましたよ。
貴女はいつも人との適切な距離をとろうとせず、人の言葉に耳を貸さず自分の我を通そうとする。
社交において最も大切なものは相手を思いやる心だと私は考えます。
距離を詰める行為はほとんどの人にとって不快なものです。
それを許されるのは近しい者の特権であって、そうでなければ諍いを招くと何度も貴女に話しましたがいまだに守られませんね」
「先生、それはおかしいですわ。
だって、私のお友達はみな、私の行動がおかしくないと言ってくれます。
先生がおっしゃられる適切な距離をきちんととっているとも言ってくれます。
先生が……その、人との距離を取らなければならないというのは、今の時代には合わない古い考えではないでしょうか」
「…………貴女の指導教員はいったい誰でしょう?
貴女の友人方ですか?では貴女は何のためにこの学院に籍を置いているのでしょう。
もし貴女の友人方が講師であれば、貴女は不可ではなく秀となるでしょうし、そのように堂々としていればいいでしょうが、あいにくですがこの学院で貴女に教養を教えているのは私です。念のため再度いいますが、スコー学院長に承認された講師である私が貴女に教養を教えております。貴女の友人方が指導員でも講師でも教員でもありません。
そして貴女こそが指導員でも講師でもましてや教員でもない、指導を請うべき一学生であることを自覚しなさい」
「先生がおっしゃることはいつも回りくどくて意味が読み取れません。もっとわかりやすく教えていただかないと誰にもわからないと思います」
「貴女は…………」
アストリッドが呆れて声が詰まったが、ときを同じくして中央棟の時計台から次の講義の始まりを告げる予鈴が鳴り響いた。
予鈴は講義の開始を知らしめる本鈴の五分前になり、学生たちは慌てて次の講義が開かれる教室に向かい始める。
スコー学院は時間に厳しく、講師が講義を始める前までに着席していないと遅刻は一切認められず欠席扱いとなり、正当な理由なく欠席を三回すると単位が所得されない。
学院の敷地は広く、講義の間の休憩時間はほとんどが移動時間となるが、大抵の学生は講義が終わり次第無駄口をたたかず移動を開始するのが常だ。
だというのに呼び止めたあげくにこちらの都合や言葉を理解しようとせずに自分都合を押しつけてくる彼女はまるで正当な理由で欠席できるとでも思い込んでいるのか予鈴が鳴っても一向に動こうとせず、悪いのはアストリッドとばかりに詰め寄ってくる。
アストリッド自身は次の講義がないからよいものの、学生の彼女にはあるはずだった。
「貴女、次の講義に向かわなければ間に合わないのではなくて?」
「まあ!先生。先生こそ私の話をきちんと聞いてくださっていましたか?私の成績につけられた評価は何かの間違いだと思うのです。このことを正さないかぎりここから一歩も動くことなどできません」
「そうですか。貴女には何を言っても無駄なようですが、私は私の指導が間違っているとは思いませんし、貴女の評価については貴女が何を言っても何をしても変わることはありません。
このことについてはこれ以上時間を割くつもりもありませんから、貴女がもし貴女に対する評価が不当というのであれば学院長に直談判なさいませ。もちろんその場合、それ相応の覚悟でなさらないといけませんが。
では、次の講義に遅れないようになさいませ」
「先生!?お待ちください、先生!!」
アストリッドは後ろからはしたなく叫ぶ声に耳を蓋して歩き続けた。
これ以上彼女の耳に触る甲高い声を聞きたくもなかったし、自分の主張が正しいと言い続ける傲慢さに触れたくもなかった。
しかしアストリッドが彼女の前から立ち去ってすぐに、数名の男子学生が教室に現れない彼女を心配して探していたようで、彼女の元に慌てて駆けつける姿が見えた。
彼女の取り巻きと嘲笑されているその学生たちは、泣き叫ぶ彼女を心配し、なだめ、どうしたのかと声を掛けている。
その中に弟の姿も見えたが、彼はアストリッドに気づきもしなかった。
「先生が、私のことを嫌っているようで」「教養の評価が」「不当だわ」
聞こえてくる声は、自分は悪くない、アストリッドが理不尽だと言い、彼女に味方する弟たちはあり得ない、学院長に抗議しにいこう、いやそれでは生ぬるい、両親に伝えて辞めさせてやるだのとアストリッドに聞こえるように大きな声で話し、アストリッドを射殺さんばかりに睨み付けてくる。
「みんなごめんね。ありがとう。だけど講義に遅れてしまうから行かなくちゃ」
健気にも泣いていた顔に微笑みを浮かべて彼女は言う。
弟たちは時間が差し迫っていることを思い出したのか、最後にアストリッドの背中に憎しみを込めた視線を向けると反転、彼女を守るように背に手を当てて、やって来た道を戻っていった。
これで何回目かしら。
茶番の役者たちが立ち去った後、アストリッドは立ち止まって彼らの歩いて行った方向を見続けながら、なんともいえないやるせなさで胸が苦しくなった。
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