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愛を誓うならヤドリギの下で 1

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「こんにちは、ルクシウスさん」
 こっそり一度だけ深呼吸をしてから、シュカは精悍な横顔に声をかけた。
 倍ほど年齢の離れた彼のことを名前で呼ぶことを許される関係になってから、毎日の時間があっという間に過ぎるようになった気がする。
「やあ、こんにちはシュカ。もう読み終わったのかい?」
「はい。ルクシウスさんが薦めてくれた本、どれもわかりやすいしおもしろくて、ついつい夢中になっちゃいました」
「それは良かった。そうそう、シュカが読みたがっていた魔法鉱石の専門書が届いていたよ。さっき新書の棚に並べたばかりだから、誰にも借りられてはいないはずだ」
「本当ですか! ありがとうございます、早速見てきます! あっ、こっちのは返却手続きお願いします!」
 シュカは抱えていた本をルクシウスに手渡すと慌しく、けれど走ったりはせずに館内へと足を踏み入れる。そんな自分の後ろ姿を見送ったルクシウスが低く喉を震わせたことには気付かなかった。
 父の仕事の影響からか、シュカは昔から魔術に関する本を読むのが好きだった。いつか自分も魔術を使えるようになれたらと空想してばかりの少し風変わりな子供だったかもしれないが、今年からついに念願の魔術学校に通えることになったおかげで毎日が楽しくて仕方がない。
 このやや寂れた印象を受ける村の外れにある大きな建物が魔術学校――正式な名称はラディアス魔術学校と言う――だと気付いたのは、十五歳の誕生日を迎えた頃だったと思う。
 父は何となく古めかしい外観の建物に近付くのを避けているようだったし、内気で本だけが友達だったシュカも薄暗い雑木林の真ん中を抜けなくてはいけない場所にある建物に自ら進んで近付こうとはしなかった。
 村長の提案で雑木林が切り開かれ、道が整備されてから初めてその存在を知ったシュカは、必ずラディアス魔術学校に入学するのだと本格的に魔術の勉強をした。
 幼い頃から魔術に関する本を読んでいたし、元々勤勉なシュカは努力甲斐あってラディアス魔術学校への入学を果たすことができた。それでも入学許可通知が届いた時には泣いてしまうほど喜んで、喜びすぎて熱を出して両親を苦笑させたものだ。
「あった、これだ」
 ルクシウスが教えてくれた本は彼が言ったとおりの場所に並べられていた。ずしりと重い本を抱え、シュカはお気に入りの席に座る。
 先ほど会話をしたのはルクシウス・ブラッドナイト。彼はラディアス魔術学校のすぐ隣に建っている、このリアンフェール図書館の司書長を勤めている。
 彼と知り合ったのは入学して間もない頃だった。
 少しでも遅れを取るものかと授業が終わるや否やすぐに図書館に向かい、一日分の復習と予習をし、休日ともなれば開館直後から閉館ギリギリまで飽きもせずに机に齧り付いている子供がいれば嫌でも顔は覚えただろう。
 そうして通い詰めるうちに司書長のルクシウスと顔馴染みになり、推奨されていないはずの私語を少しだけ交わしたり、さらには互いを名前で呼び合うようになるのに然程時間はかからなかったとシュカは思う。
 引っ込み思案な性格を自覚しているシュカは最初こそ自分よりも遥かに年上の相手と話すことに緊張していたけれど、ルクシウスは驚くほど気さくで、辞書や専門書と睨み合いながら苦戦していた課題をわかりやすく噛み砕いて教えてくれた。それを境に話すようになり、今では質問を投げかけることにもすっかり慣れた。
 司書長として以上に博識なルクシウスの瞳はブルーグレー。薄雲が広がる夜空のような少しくすんだ色合いすらも年上の彼にはとてもよく似合っていて、つい見惚れそうになる。ルクシウスは、もうすっかりシュカにとって特別な存在だった。
「長く生きていると知識だけは嫌でも増えるものさ」
 いつだったかそう言ったルクシウスの目元に薄く浮かんだ皺が自分と彼との経験の違いをまざまざと見せ付けて、何となく落ち込んだ気持ちになったのを今でも覚えている。
 生きてきた年月の差はあまりにも大きくて、ルクシウスを追い越すどころか追いつくことさえとてつもなく困難なように思えて仕方がない。少しでも憧れの彼に追いつきたくて魔法鉱石についての記述を目で追いながらも、今日のシュカの頭には別のことが浮かんでいた。
 あれは、自分もルクシウスのようにいろんなことを知りたいと何となく口にした時のことだ。ルクシウスは知的な瞳を少年のように瞬かせ、それから少しだけ声を出して笑った。
「では特別に私の家へ招待しようかな」
 ただし他の人には内緒にしておいてくれるかい、と口元に人差し指を立てて見せたルクシウスに、シュカは期待と喜びで頬を染めて力いっぱい頷いた。
 それが二週間前のこと。
 何かと多忙な司書長であるルクシウスの休みがなかなか重ならずに待たされたが、今日はルクシウスの仕事が終わり次第、一緒に彼の家へと向かうことになっている。
 そのため授業が終わってすぐに走って家に帰ったシュカは、制服から私服へと着替えると、すぐに図書館へ引き返した。いつもは大して遠いと思わない道のりが今日だけはどうしてももどかしくて、最後は走ってしまったくらいに楽しみにしている自分を思い返すと恥ずかしい。
(ルクシウスさんの家ってどんな感じなんだろう…)
 時間を気にしなくてもいいように泊まっていくといいと提案したのはルクシウスだったが、魔術学校が休みになる週末に合わせて彼がわざわざ休日申請をしてくれたと聞いたシュカは、何から何まで大人な対応のできるルクシウスを尊敬すると同時に少しだけ悔しくなった。
 自分の父親と歳の近い男性は学校の教師陣にもいるし、もちろんシュカが住んでいる村にだって幾人もいるけれど、ルクシウスほど温和で知性的な人物は見たことがないし、そのせいで彼は今まで一度も怒ったことがないんじゃないかとさえ思えてしまう。
 そんなルクシウスが自分を特別に扱ってくれていることにくすぐったくなるような優越感を抱きながらそわそわと二週間を過ごしたシュカは、この図書館に足繁く通うようになってから初めて閉館時間が待ち遠しくてたまらなかった。
 いつもなら夢中で読み耽る本の内容はちっとも頭に入ってこないし、それどころか視界の隅で司書の仕事に従事しているルクシウスの様子をことあるごとに窺ってしまって、たまに彼が馴染みの来館者らしい誰かと何かを親しげに話している姿にはどことなく胸の奥がざわつく。せっかくルクシウスが手配してくれた魔法鉱石の専門書も、適当に開いたところからページはほとんど進んでいない。
 普段の何倍も進みの遅い時計の針を恨めしく睨み、行儀悪く足を揺らしたくなるくらいじれったい気持ちになりながら何とか閉館時間までやり過ごしたシュカは館内の戸締りをして回る司書達の邪魔にならないように職員通用口の傍の椅子に座っておとなしく待った。
 臙脂色の装丁の分厚い専門書を抱えたままちょこんと椅子に座っているシュカの前を通りがかる司書達は、悉く微笑ましげな視線を向けてくる。
 彼らの視線が何だか無性にくすぐったくて、シュカは膝に抱えた専門書を開いて読むふりをして顔を隠した。
 そうこうしている内に館内の照明がすべて落とされる。普段は落ち着いた喧騒に満ちている図書館が一気に静まり返って、まるで知らない場所になってしまったかのようだ。唯一灯りが残されている通用口の扉の上の照明に見下ろされながら、シュカは専門書を抱える手に無意識に力を込めた。
「待たせてすまないね、シュカ」
「いいえ。お仕事お疲れさまです、ルクシウスさん」
 勢いよく立ち上がったシュカは、外出用のローブを羽織ったルクシウスに駆け寄る。
 彼の足元まで覆い隠すほど丈の長いローブは陽が落ちて夜に染まった山々のような色で、ルクシウスの瞳の色とも馴染みがいい。一見暑そうに見えるけれど、見た目以上に風通しが良い生地なのだと教えてくれたのもルクシウスだ。
 ローブ姿の彼は一流の魔術師のようにも見えて、シュカは憧れの気持ちを込めてはにかんだ。
「では、私は先に失礼するよ。通用口の戸締りを忘れずにね」
「大丈夫っスよ司書長。これ以上シュカを待たせちゃ可哀想っスもん、今日くらい俺達に任せてくださいよ」
 随分と砕けた口調でルクシウスを送り出してくれた司書にシュカも頭を下げて、本来ならば関係者しか通れない通路をルクシウスを追いかけて足早に通り抜けた。
 図書館の裏口の門扉を潜り、薄茶色と白色の石畳で覆われた道を二人並んで歩き出す。初夏とは言え夜の空気はひんやりとしていて、過ごしやすく心地よい温度に保たれていた館内に慣れていたシュカは思わず肩を震わせた。
「シュカ、これを」
「え…?」
 差し出されたのはルクシウスが首に巻いていた薄手のストールだった。
 受け取るのを躊躇うシュカの心を読み取ったかのようにルクシウスはシュカの手から専門書を優しく奪い、代わりにストールを乗せてくれる。
「君に風邪を引かせてしまったら、私を信用してシュカを任せてくれた親御さんに申し訳ないからね」
「…じゃあ、お借りします」
 納得したシュカはルクシウスのストールを恐る恐る首に巻き付けた。途端にシュカの鼻先をくすぐった花のような仄かな芳香がルクシウスの大人な雰囲気をまざまざと感じさせ、図書館で会うだけだった彼のプライベートを垣間見れた気がしたシュカは何となく嬉しくなる。
 無意識に笑いが込み上げたシュカを目敏く見つけたルクシウスがほんのりと目元を細めた。
「どうかしたかい?」
「いえ、あの…何だか、いい香りがするなって思って…」
「香り? ああ、ジャスミンの香りかな。私は昔からこの香りが好きでね」
「とてもいい香りです。ルクシウスさんにぴったりだなぁ」
 閉館時間後の薄暗い道は普段なら少し怖く感じてしまうのに、今日はルクシウスと一緒だというだけで少しも怖く感じない。それどころか足取りは雲を踏んでいるかのように軽く、さっきから心臓の鼓動も高鳴ったままだ。
「シュカは学校帰りだし、おなかが空いているだろう? 帰ったら先に食事にしよう」
「えっ、いえそんなお構いなく!」
 また気を遣わせてしまったとシュカが焦って声を上げた瞬間、正直な腹の虫が微かに鳴いた。いつの間にか木立の上から顔を覗かせた月明かりのせいで顔が真っ赤に染まったのはルクシウスからも見えてしまっているだろう。
 恥ずかしさのあまり、さらに耳まで赤く染め上げてストールに鼻を埋めたシュカの髪をルクシウスはそっと撫でてくれた。
 母譲りのプラチナブロンドの髪は柔らかく毛先に向かって僅かに波打っている。癖が付きやすい厄介な猫毛なのに、ルクシウスの指先に撫でられているというだけで何だかいつもとは違う特別なものになってしまったようにさえ感じるから不思議だ。
「さあ、どうぞ入って」
「お邪魔します…」
 ルクシウスの家は図書館から歩いて二十分ほどのところにあった。
 シュカの家がある住宅地の区画からも距離があり、さらには木々に囲まれているため、静かで落ち着いた雰囲気の家はルクシウスそのもののようで安心できる。
 家主の不在で暗かった家はルクシウスがオイルランプに火を灯したことで明るくなり、ここで彼が生活しているのかとシュカはあちこちに興味深く視線を走らせた。椅子やテーブル、棚などはあるけれど部屋を彩る小物の類はそう多くはなく、ルクシウスとよく似た物静かな印象だ。
「先に何か飲み物でも淹れようか。シュカ、ここに座って待っていなさい」
「はい」
 先ほどのこともあり、あまり遠慮するのも失礼になると考えたシュカは座るように促された椅子に素直に腰を下ろす。物珍しさから視線は彷徨いがちだが、あまり見るのも失礼だ。
 ルクシウスが吊り戸棚から取り出した銀色の缶には茶葉が入っているようだった。図書館で見ている司書長としてのルクシウスと違う動きは見飽きることはなく、やがて立ち上りはじめた湯気の揺らめきさえもシュカをわくわくさせる。
 テーブルに置かれた白いカップにはブルーのラインが細く引かれていて、大人っぽくて上品で、どうやらルクシウスは青色が好きらしいとシュカはしっかりと記憶した。
「私は普段はコーヒーばかりでね、紅茶を淹れたのは久しぶりなんだ。シュカの口に合うといいんだが…」
「いただきます。…いい香り、これもジャスミンですか?」
「ああ。ジャスミンの香りを染み込ませた紅茶だそうだよ。もらったのはいいんだが、実際に飲むのは私も初めてで……うん、悪くない」
 ルクシウスはそう言ったけれど、甘党の傾向にあるシュカには渋みが強すぎて飲み込むのがやっとだった。微かに甘さを持った香りが強いためか味とのバランスが崩れ、あまりおいしいとは感じられない。
(でもせっかくルクシウスさんが淹れてくれたんだもん…っ)
 大人の味だと思って必死に飲み進めるものの量はなかなか減ってはくれなかった。
 どうしようと考えてしまったのが顔にまで出てしまっていたのか、ルクシウスが不意にカップを置いた。
「ミルクと砂糖を入れるとよりおいしくなるとも言われたな。ものは試しだ、シュカもどうだい?」
「お、お願いします!」
 縋るように差し出したカップの中で砂糖とミルクがゆっくりと混ざり合っていく。
 スプーンがぶつかる音を立てもしないルクシウスの手元から目を離すことができなかったシュカは、差し出されたカップを夢見心地のまま受け取った。
 さっきは耐えられなかった紅茶の渋みをミルクがまろやかに和らげていて、ジャスミンの香りが甘く爽やかに喉と鼻を通り抜ける。まるでまったく別のお茶になったみたいだとシュカは顔を上げた。
「すごい、もっとおいしくなりました!」
「うん、そうだね。この茶葉はミルクティーにするほうが合うようだ」
 ルクシウスはミルクだけを注いだ紅茶を飲み干すと、煮立つ音を立てはじめた鍋へと近付いた。鍋の様子を窺いつつパンを切り分けたり、サラダ用の瑞々しい葉野菜を千切って木のボウルに入れてドレッシングと和えたりと忙しく動いている。
 シュカが魔術学校に入学し、図書館に通い出してから数ヶ月。
 最初は目が合ったらぎこちなく一礼する程度の関係が、今ではこうしてルクシウスと個人的に会わせてもらえるまでになったのに、そういえば彼が料理をしている姿を想像したことは一度もなかった。
 他のこともそうだ。司書長として図書館にいるルクシウスは私生活の片鱗をほとんど見せたことはない。親切で、丁寧で、他の誰よりも真面目に仕事に取り組んでいて、何をさせてもそつのないルクシウスは良くも悪くも人間臭さのようなものを垣間見せたりしなかった。
 だからこそシュカは驚きに似た一種の感動に、瞬くことも、いつの間にか飲み干されて空になったカップをテーブルに戻すことも忘れたまま、図書館で会っているだけでは見ることができなかったルクシウスの後ろ姿を食い入るように見つめ続けた。
 あまりにも見つめすぎていたのだろうか、苦笑混じりのルクシウスが肩越しに振り返る。
「夕食はシチューの予定なんだが、食べられるかい?」
「シチューは大好きです! お母さんもよく作ってくれるんです」
「そうか、それは良かった。しかし私ではシュカの母上のようには作れないからね、あまり期待せずにいてほしいな」
 そんなことを言われても期待は勝手に膨らんでしまう。
 シチューは煮込むのに時間のかかる料理であり、シュカと一緒に帰宅してからの短時間で仕上げることはできない。調理らしい調理をしていたのもサラダを作った時だけだ。つまりシチューの仕込みは昨日か、もしくは今日の出勤前に済ませてあったということになる。
(僕を待たせないように、ってことだよね…)
 学校が終わってお泊り用の荷物を取るために急いで帰宅したシュカはおやつも摘ままずに家を飛び出してきた。
 ルクシウスはそれを見越して、すぐに食事にできるように準備してくれたのだろう。今しがた飲み干したばかりのお茶だって、おなかを空かせたシュカを気遣ってくれたからに違いない。
(やっぱりルクシウスさんってすごいなぁ)
 そわそわしながら待ち続け、食器に盛り付けられた料理がすべてテーブルに並ぶ頃にはシュカはすっかり空腹で、目の前のおいしそうな料理を一分でも早く食べたいという気持ちで頭がいっぱいになっていた。
「待たせてすまなかったね。さあ、食べようか」
「いただきます」
 二人揃って食事のお祈りをしてから、シュカは早速シチューを口に運んだ。
 ジャガイモやニンジンは芯までしっかり火が通っていて塩気も充分しみているし、大きめの鶏肉はほろほろした触感がたまらなくて、一口大に千切ったパンも一緒に頬張るともっとおいしい。サラダのドレッシングはさっぱりしていて柑橘類のような爽やかな香りがする。
 空腹感をじんわりと癒してくれるあたたかな料理に自然と笑みが浮かんでしまい、シュカは咀嚼していたものを飲み込むと、テーブルの向こう側のルクシウスに満面の笑みを向けた。
「とてもおいしいです、ルクシウスさん」
「それは良かった。たくさん作ってしまったから遠慮なく食べてくれて構わないよ」
「ありがとうございます」
 食事に集中しつつも時折会話を挟み、笑い合い、思い出したように手を動かす。
 初めて訪れた場所にもかかわらずシュカは寛いだ気分になっていた。それもすべてルクシウスがそうなれるように気を配ってくれたからだとシュカもわかっている。彼はそういう人だからだ。
 お代わりをするためだろう、会話を切って腰を上げたルクシウスがちらりとシュカに視線を向けてくる。
「ぼ、僕もお代わりしてもいいですか…?」
「もちろんだとも」
 遠慮がちに差し出した皿には、たっぷりとシチューがよそわれて戻された。シュカはそれをゆっくりと味わいながら、お代わりがほしいと言い出しにくく思っていた自分を気遣ってくれたルクシウスへの好意をまた膨らませる。
 羨ましさなんて通り越して、感激してしまいそうなほどルクシウスは良く出来た人だと思う。
「こんなに楽しい食事は久しぶりだ」
 食事を終えて一息ついたところで不意にルクシウスが呟いた言葉に、シュカは驚いて目を丸くした。
「突然すまない。しかしもう随分と長い間、一人で暮らしていたものだから」
「ルクシウスさんはいつから一人で暮らしてるんですか?」
「いつだったかな…シュカの歳の頃は学校の寮で生活をしていたし、卒業後は何度か住み込みの仕事もしていたから、その間は数えないとしても十五年くらいにはなるかな」
「十五年…!」
 自分の年齢と同じくらいの長い間をひとりで生活しているなんて寂しくはないのだろうか。そんな考えが顔に出てしまったのか、ルクシウスがほんのりと苦く笑う。
「寂しいと感じたことがないと言ったら嘘にはなるが、もうずっとこんな生活をしていたからね、今はもうこれが当たり前になってしまったよ」
 微かに遠い目をするルクシウスに何と言ったらいいのか考えあぐねて、シュカは結局何も言えなかった。
「そんな顔をしないでおくれ。今はシュカがいてくれるから、毎日を楽しいと感じられているんだ」
「僕、がいるから…?」
「ああ。君が毎日のように図書館に通ってくれて、会話をして、私のために笑ってくれる。それが、私はとても嬉しいんだよ」
 優しい声音で語りながらルクシウスが伸ばした手がシュカの右手に重なると、はっきりと音を立ててシュカの鼓動は大きく跳ねた。いつもよりも早い脈拍がうるさいくらいに耳の奥で高鳴っている。
 ルクシウスの言葉は、まるで自分のことを特別だと言っているように聞こえてしまって、シュカは自分がどんな反応をしたらいいのかわからずに困惑した。
 彼の周りにはいつだって人がいるし、ただでさえ歳の離れすぎた自分なんて相手にされなくてもおかしくはないのに、そんな彼が自分との会話を嬉しいと思ってくれているだなんて俄かには信じられない。
 しかしルクシウスが嘘をつくような人間だとも思えなくて、シュカはただただテーブルの向こうのブルーグレーの瞳を見つめた。
「この家に人を招いたのも久しぶりだ。腐れ縁の友人が押しかけてくることはあっても、私自身が望んで招き入れたのはシュカが初めてかな」
「僕が初めて…」
 ルクシウスの言葉がシュカの頭をぐるぐると回る。耳が、頬が、ルクシウスの手が重ねられた右手が熱い。
 口説かれてでもいるかのような雰囲気に飲まれそうになり、シュカは慌ててブルーグレーの瞳から視線を逸らした。心臓がうるさく騒いで今にも胸の中から飛び出してしまいそうだ。
「…すまない、シュカは本を読みに来たのに時間を取らせてしまったね。こちらにおいで、書斎に案内しよう」
「あ、はい…」
 離れていってしまったルクシウスの手を追いかけるようにして、シュカは家の奥へと続く廊下を歩いた。突き当たりにある濃い色の木製のドアが開けられ、中に入るように促される。
「うわぁ…!」
 おずおずと中を覗き込んだシュカは思わず声を上げた。
 居住スペースよりも広いのではないかと思われる空間に並べられた書籍の数は一個人が所有するにはあまりにも多く、古いものから比較的新しいものまでが無作為に棚に収められている。
 呆気にとられたまま本棚に近付いたシュカは、目の前の本が随分と前に発行停止になったものだと気付いた。図書館に並んでいるならさほど珍しくはないけれど、個人が所有するのは珍しいはずだ。
「気に入ったかい?」
「もちろんです! こんなにたくさん…もう読めないと思っていた昔の専門書まであるし、感激です」
「貸すことはできないけれど、ここで読む分には問題ないからね」
「ありがとうございます!」
 頭を下げたシュカは早速めぼしい本を手に取って書斎の真ん中に置かれたテーブルへと運ぶ。ソファタイプのロングベンチは適度な柔らかさのおかげで長時間座っていても腰が痛くなりにくそうだ。
「ごゆっくり」
 既にルクシウスの声も聞こえていない様子で文字を追いかけはじめたシュカに笑みを零し、ルクシウスは静かに書斎の扉を閉じた。


 廊下へと出たルクシウスは、頃合を見てシュカにお茶の差し入れをしてやろうと考えながら寝室から書きかけの原稿を持ち出した。
 締め切りまではそれほど余裕がないのに、ルクシウスの思考を占めるのは原稿の続きではなく、シュカが好みそうな茶請けがあったかどうかだ。
「まったく年甲斐もない…」
 いつになく足取りの軽い自分に苦笑を漏らし、ルクシウスは文字の読み書きをする時にだけかけるメガネをシャツの胸ポケットに差し込む。
 リビングに戻って食器を片付けると、原稿を広げて羽ペンの先にインクを付けた。今までも古代魔術についての原稿は幾つか書いたことはあったが、今回は古代魔術を応用した近代魔術の新しい呪文について書いてくれと頼まれていた。
 ここ数日は続きを書き進めるのに悩んでいた原稿は、シュカと過ごしたことが刺激になったのか進みが良くなった気がする。
 ペン先が紙の上を滑らかに擦る音だけがリビングに漂い、静かに時間が流れていく。
 あらかたの内容を書き終わって顔を上げると思っていた以上に時間が経ってしまっていた。小さく息を吐き出したルクシウスはメガネを外して座ったまま腕を回して硬くなった肩を解すと、席を立って湯を沸かした。
 その間に書き込んだ文章に誤字や脱字がないかを簡単に確認し、食事の前に出したものと同じ茶葉で紅茶を淹れてミルクと砂糖を混ぜ溶かす。
 そうしながら、シュカがまだ子供なのだと改めて思い知らされた気分になった。同時に、知識欲は人並み以上にある彼と過ごす時間が楽しいと感じている自分にも気付いて苦笑を浮かべる。
「どうしたものかな」
 そんな独白は湯気と共に薄れていった。
 書斎のドアをノックして開けると、シュカはルクシウスが書斎を出た時と同じ姿のまま本と向き合っていた。
「シュカ、読書は一旦そのくらいにして少し休みなさい」
「あ…はい、すみません」
 ルクシウスが肩に手を置いたことで彼の存在にようやく気付いたシュカは、湯気を燻らせるカップを手に取るとしぱしぱと目を瞬かせた。
 ずっと読書に集中していたせいで目が乾いている。ミルクティーを一口飲むと、無意識に詰めていた息がゆったりと吐き出された。
「随分集中していたね」
「はい。昔から本を読みはじめると時間を忘れちゃうんです。両親にも呆れられるくらいで…」
「私もそうだったよ。本を読んだり、薬草の調合をしたり、ついつい寝食を忘れてしまって倒れたこともあるよ」
「えっ、ルクシウスさんが?」
 何事も完璧な彼がそんなふうになるだなんて想像ができない。
 そう思ったのが伝わってしまったのだろう、少しばかり苦笑したルクシウスはシュカの隣に座ってカップに口を付ける。少しでもいいからルクシウスの話を聞きたくて、シュカは黙ったまま彼が続きを話してくれるのを辛抱強く待ち続けた。
「昔は貪欲だったんだよ、これでもね。まあ、いろいろとありすぎて今はすっかり落ち着いてしまったが…。人間というのはどんなに歳を重ねても、性格の根本的な部分は変わらないのかもしれないね」
 彼の言葉の意味がよくわからなくて、シュカは困って首を傾げた。そして同時に悔しいと思った。
 ルクシウスの言葉をすべて理解できるようになれたら、もっと彼に近付けるだろうか。隣に立つに相応しいと誰からも認めてもらえるだろうか。どうしてそんなふうに考えるのかもわからないのに、そんな思いだけが強く湧き上がってくる。
「君も大人になれば少しずつわかってくるよ」
「そうだといいな…」
 シュカは小さく呟いて、ジャスミンが華やかに香るミルクティーを飲んだ。
 いつだってルクシウスは気さくで優しくて落ち着いていて、声を荒げたりはもちろん、機嫌が悪そうにしているところさえ見たことがない。
 今までシュカにとって一番身近な年上の男性は父親だった。
 けれどルクシウスは父親とは違う包容力を感じさせてくれたし、彼の視線は未来を見通しているのはないかと思えるほど常に凪いでいる。その視線の先にあるものを自分も見てみたい。
「僕、ルクシウスさんのこともっとよく知りたい…もっとたくさんルクシウスさんからいろんな話を聞きたいし、どんなものをどんなふうに感じるか知りたいんです」
 シュカはカップをテーブルに置いて身体ごとルクシウスに向き合う。
 さっきからずっと心臓の音がうるさいくらいに身体の中で響き、えも言われぬ緊張で指先が震えた。
「こんな気持ちになったのは初めてだから、どう伝えたらいいのかわからないんですけど…」
 得体の知れないほんの少しの焦りが、普段は引っ込み思案な気性であるシュカを奇妙なほどに突き動かす。
 初めは父親や教師以外の年上の男性への憧れだった。知識の豊富なルクシウスとの会話はシュカの探究心を大いに刺激し、そして満たしてもくれたから、そんな彼を眩しく見ているだけだと思っていた。
 けれど、大勢いる来館者の中の一人だったはずの自分の顔をいつしかルクシウスが覚え、見かけるたびに必ず名前を呼んでくれて、あまつさえ他の来館者にはあまりしない少し長めの私的な会話をしてくれるようになった。
 そのことが不思議なくらいに嬉しくて、次第にシュカが足繁く図書館に通う理由が勉強のためではなく、ルクシウスに会うためという意味合いを強くしていったのは当たり前のことかもしれない。
 いつの間にかシュカの中には、もっと長い時間をルクシウスと一緒に過ごしたいという願望が芽生えていた。両親や友人には感じたことのないこの感情には、一体どんな名前が付くのだろうか。膝を強く握り締める手のひらに汗が滲む。
 複雑な感情に振り回されているシュカの顔を見つめていたルクシウスが、ふと表情を和らげた。同時に困っているようにも見えて、熱く騒いでいた鼓動がきゅっと縮こまる。
「本当に、私のことをもっと知りたいかい?」
「え…?」
「私はきっとシュカが思っているように良く出来た大人の男ではないよ。今まで見せていたのだって私という人間のほんの上辺だけに過ぎないし、私という人間の本質に近い部分を知ったら幻滅してしまうかもしれない」
「それでも…っ」
 シュカはルクシウスの言葉を遮るように声を上げた。
 瞳は僅かな不安を浮かばせてはいたが真っ直ぐにルクシウスを見て、一見賢しい言葉で逃げようとしているルクシウスを許さず、ちゃんと自分に向き合えと訴えかける強さを秘めている。そんな自分に気付く余裕なんてないシュカの視線を真正面から受け止め、ルクシウスは口を閉じた。
 ルクシウスが自分の言葉を聞こうとしてくれているのだとわかったシュカは唾を飲み込んで、緊張で渇いた喉をほんの少しだけ湿らせる。
「それでも僕はルクシウスさんのことをもっと知りたいです。教えてください…僕に、あなたを」
 駄々を捏ねて縋り付く子供じみた自分の声色が嫌で、なのに取り繕うこともできずに様々な葛藤が思考をより混迷させていく。
 こんなのは我が儘だと一蹴されてしまうだろうか。ルクシウスが絶対にそんなふうにはしないとわかっていても不安は消せず、泣きたくなんてないのに目尻から涙が零れそうになってしまい、シュカは慌てて手の甲で目元を拭った。
 どのくらいの時間が経ったか、それともほんの僅かな時間か、沈黙を打ち消したのはルクシウスだった。彼は無言で両手をゆっくりと広げ、伸ばしたその腕の中にシュカを閉じ込める。
「…敵わないな」
 ため息混じりの囁きがシュカの耳に届いた。
「まったく君という子は…こんなおじさんを本気にさせて、どうしようと言うんだい」
「え?」
 ルクシウスはシュカを閉じ込める腕を緩め、戸惑う顔を覗き込んできた。
 知的なブルーグレーの瞳は優しいけれど真剣で、わけもわからずシュカの心臓は跳ね上がる。そのままドキドキと動きを速めていく鼓動を他人事のように感じながら、シュカはルクシウスと視線を合わせ続けた。不規則に色が混ざり合う虹彩は吸い込まれそうなほど綺麗だ。
(…好きだなぁ)
 胸の奥から唐突に浮かび上がってきた感情にシュカは息を飲んだ。
 自分で気付いたばかりの感情はまさに青天の霹靂と表現するのが相応しいほどに衝撃的で、思わず不規則に飛び跳ねた心臓に引き摺られて体温が一気に上昇した。暴れ出したくなるほどの羞恥心が全身を隅々までくまなく駆け巡る。
「あ、僕……」
 咄嗟に口を開いたものの、結局は言葉にならなかった。暖炉の火に長く当たった時のように耳まで熱い。
 博識で穏やかなルクシウスの人柄は人を惹き付ける魅力に満ち満ちている。自分も彼のそういう部分に惹かれているのだと思っていたけれど、今シュカの胸を高鳴らせている感情はそうではない。もちろん家族に向けるものとも、学校の級友や教師に向けるものともまったく違う。
 好きなのだ、ルクシウスのことが。同性だけれど好きになってしまった。
 いつの間に好きになったのかなんてわからないが、少なくともこの二週間、シュカの頭はルクシウスのことでいっぱいだったのは間違いない。今日という日が楽しみで待ち遠しくて、どうしようもなくそわそわして、授業中も上の空で珍しく教師に注意されてしまったくらいだ。
 父親とも教師とも違う、理想的な大人の男の人。
 まだまだ子供でしかない自分がルクシウスに向けている感情は純粋な憧れだと思っていたのに、それがまさかこんな色と温度を持った感情だったなんて思ってもみなかったが、自覚したばかりの感情は呆気ないほど素直にシュカの胸の奥深くにすとんと落ちて嵌まった。最初からそこにぴったり嵌まり込むために生まれたんだと言わんばかりに。
 そんなシュカの葛藤に気付くはずもないルクシウスは、やや複雑そうな顔で何かを考え込んでいたが、やがて意を決したように口を開いた。
「シュカ、倍も歳の離れた私から突然こんなことを言われても困惑してしまうだけだとは思うが……私の恋人になってくれないだろうか」
「…っ!」
 思いがけない言葉を向けられたシュカは零れ落ちそうなほど目を丸くする。
(恋人になってくれ? 誰が、誰の?)
 シュカの頭はさっきよりも酷く混乱した。予想だにしていなかった展開に頭がついていかないどころか、呼吸すらも忘れてしまうほどのパニック状態だ。
 その一方でシュカの胸は甘く痛んでときめいた。恋心を自覚した直後に告げられた言葉に、鼓動はさらに加速する。
「返事は急がなくていい。ゆっくりと考えてくれれば…」
「いえ、あの…僕…っ!」
 シュカは咄嗟にルクシウスの上着に縋りつく。そうしたものの、やはり言葉は上手く口から出てくれなくて、困り果てたシュカは視線を落とした。
 ルクシウスは穏やかな表情を崩すことはなく黙ってシュカを見つめ続けている。
 恋人になってほしいと乞う言葉を向けたくせに、たぶんきっとルクシウスはシュカが断ることを望んでいる。年齢や性別、二人を隔てる障害はあまりにも大きすぎて、シュカが気付いてしまったそれに聡明なルクシウスが気付かないはずがない。
 簡単に引き返せるうちに引き返したほうがお互いに傷は浅くて済む。断られるのが自然な流れであり、シュカにとってもそのほうがいいとでも考えているのだろう。
 シュカの心をこんなにも掻き乱しておきながら自分はあっさり引こうとしているだなんて狡いと思う反面、これがルクシウスの優しさであるともわかってしまったシュカはひくりと口元を震わせた。でもやっぱり、狡いものは狡い。
「…僕…、僕は…」
 口ごもりつつも、ルクシウスの大人らしい狡い考えを見透かしたかのように、自分のものではない白いシャツを掴んだシュカの指先には逃がすまいと力が篭る。
「やっぱり、ルクシウスさんのことを、もっと知りたいです」
 顔を上げたシュカの目に困惑はなく、射抜くように向けられた視線に戸惑ったのはルクシウスのほうだった。
 きっとルクシウスは逃げ出したいのだろう。優しい彼は世間一般の『普通』からシュカを外れさせたいと思っていないはずだから。
 余裕のある大人のふりをして身を引きながら、今までと同じように気さくで博識な司書長としてシュカに接してくれる。でもたぶん、今日みたいな特別な日は二度と訪れなくなる。そう考えるとシュカの胸は潰れるような痛みを伴って震えた。
 ルクシウスの優しさは理解できるし、彼が感じているだろう恐れもわかっている。
 だからと言って、今さらさっきの告白をなかったことになんてさせやしない。シュカの中に毎日少しずつ音も立てず静かに降り積もっていた甘やかであたたかい特別な感情を今しがたはっきりと芽吹かせたのは、他でもないルクシウス自身なのだから。
「自分でも気付かなかったけど…というか、ついさっき気付いたばかりだけど、僕…ルクシウスさんのことが好きだったんですね。だからルクシウスさんのことを知りたかったし、一緒にいるのが楽しかったんだ」
 自らに言い聞かせるように言葉を紡いだシュカはルクシウスを見上げて精一杯の笑みを浮かべ、狼狽する彼の瞳を覗き込んだ。
 表情にも動揺の欠片を浮かべるルクシウスの両手が肩にかかり、シュカの身体を僅かに引き離す。
「シュカ、よく考えてごらん。私は君よりもずっと年上だ。君の父上より年上かもしれないんだよ?」
「はい。でも、もしルクシウスさんと歳が近かったら、こんなふうに出会えてなかったかもしれません」
「それはそうかもしれないが…君と私は同性だ。ご両親が何と言うか」
「…反対される可能性はあります。それでも僕はルクシウスさんが好きなんです。それにいつだったか、お母さんも言ってました。愛には年齢も性別も関係ない、って」
「心の逞しい母上だな」
 思わず遠い目をしてしまうルクシウスの隙を突き、シュカは身を乗り出した。
 皺が僅かに浮かんでいる目尻だって少しも気にならないどころか、むしろそれすらも大人の男らしさを感じさせて胸がときめく。自分とは違う骨張った指も、広い肩幅も、羨ましさ以上に好ましさがシュカの中で膨れ上がる。
「大好きです、ルクシウスさん」
 自分から逸れてしまったルクシウスの意識と視線を取り戻したくて今度こそはっきりと告げると、ルクシウスが息を詰めたのがシャツ越しに触れている彼の胸から伝わってきた。
 この言葉も、この気持ちも嘘じゃないと、どうしたら正しくルクシウスに伝わるだろうか。
 シュカは不意に泣き出したくなって微かに鼻を鳴らす。
「僕を、あなたの恋人にしてください」
 音として返る言葉はなかったけれど、息苦しさを覚えるほどの力で、シュカはルクシウスの腕の中に閉じ込められた。
 高鳴る鼓動に押し出されたように、シュカの瞳からは安堵の涙が零れ落ちた。

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