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愛を誓うならヤドリギの下で 2
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その日、シュカは今までの人生の中で一番緊張していた。
朝起きた瞬間からどうにも落ち着くことができず時計を見てはため息をつき、椅子に座ったと思えば立ち上がって家の中をぐるりと歩いたり立ち止まったりを繰り返す。
見かねた母が水を注いだコップを差し出すと、シュカはそれを一気に飲み干した。
「もうそろそろかしらね」
母のその言葉に肩を跳ねさせたのはシュカではなく、シュカの父だった。彼もまた息子と同じくらい、もしかしたらそれ以上の緊張に苛まれている。
何せ今日は、ルクシウスがシュカの家に来る約束になっているのだ。
シュカがルクシウスの家に招かれ、彼からの告白を受け入れた日から既に一ヶ月。とっくに日課になっている図書館通いは相変わらずだが、ひとつだけ大きな変化がある。週末になるとルクシウスの家に泊まらせてもらえるようになったことだ。
いつもは授業が終わった足ですぐに図書館に向かうのだが、週末だけは先に家に帰って寝間着と翌日の着替えを詰め込んだ鞄を掴んで、逸る気持ちに後押しされるような駆け足で図書館へと引き返す。
閉館時間まで読書を楽しんで、前と同じように職員通用口の横で閉館作業をするルクシウスを待ち、一緒に帰宅するのはルクシウスの家。
二人で食事をしてからシュカは読書を、ルクシウスは依頼された原稿の執筆や校正の手伝いをして時間を過ごし、シュカがあくびをする頃に一緒のベッドに横になる。ルクシウスと「おやすみなさい」を交換する瞬間が恥ずかしくて嬉しくて、むずむずとくすぐったい。
多忙な司書長であるルクシウスは大抵翌日も仕事があり、シュカに構うことができないからと申し訳なさそうにしていたが、シュカはただ彼の傍にいられる時間が長くなるだけで充分だった。
そんな日々を過ごしていた先週末、ルクシウスが作ってくれた白身魚のムニエルを頬張っていたシュカは恋人からの爆弾発言に、丁寧に解した魚の身をフォークの先から取り落とした。
「あ、あの…今、何て?」
「来週末やっと休みが取れたから、シュカのご両親に交際の挨拶をしに行こうと思っているんだが、都合はどうだい?」
一言一句違えることなく律儀に繰り返すルクシウスの顔をまじまじと見つめてしまうのも無理はない。
「両親は…特に、出かけるとか言っていなかったと思うので、大丈夫かとは思いますけど…」
「そうか、急な話だから無理かもしれないと考えていたが。良ければシュカからも伝えておいてくれるかな」
「はい、わかり、ました。……挨拶って、ほんとに、その…」
ルクシウスの視線はいつだってシュカをドキドキさせるけれど、今はまた別の意味でドキドキする。シュカは無意識に唾を飲み込んだ。
「さっきも言っただろう。『交際』の挨拶だと」
そんな流れでルクシウスの訪問は唐突に決まり、あっという間に日は過ぎて、ついに週末が来てしまった。
少しでも印象を良くしたいとルクシウスが言ったせいで昨日はお泊りをさせてもらえなかったことが少しだけ不満ではあるものの、そのくらいしっかりと自分とのことをルクシウスが考えてくれているのだと思うと嬉しくなってしまう。
それにしても喉が渇く。緊張しすぎて落ち着かない。
テーブルの反対側に座っている父もそうらしく、シュカが自分のついでにとコップに水を注ぐと、父は視線を動かさないまま水を飲み干した。普段と変わりない様子なのは母だけだ。
ノックの音が聞こえ、驚いた猫のように揃って肩を跳ね上げた二人にやや呆れ気味の視線を向けた母は素早く玄関へと足を向ける。
――母は強し。
そんな言葉を思い浮かべながらシュカも慌てて立ち上がり玄関へと向かう。
開かれた玄関ドアの向こうには、仕事の時と同じローブのシルエットが立っていた。
ただひとつ違うのは、仕事中には締めていないネクタイがあることだけ。司書長としての仕事よりもシュカの両親に挨拶をすることのほうが重要なのだと言われているようで、状況も忘れて心が弾む。
「息子からお話は窺っております。こちらへどうぞ」
シュカとそっくりなプラチナブロンドの髪をきちんと結い上げた母は小柄だが凛としていて、居間へと案内する後ろ姿には迫力のようなものがある。
母と擦れ違い、シュカは家の中に入ってきたルクシウスをその場で待った。ルクシウスが少し屈んでシュカの耳にそっと囁く。
「緊張しているね」
「そりゃあ緊張しますよ…両親に紹介するんですから」
「私も緊張しているよ、お揃いだ」
シュカの緊張を解すため、わざと茶化すような言い方をしてくれるルクシウスの気遣いに、ついシュカの頬には笑みが浮かんだ。
居間に入る直前で、ルクシウスは持参してきた手土産をシュカの母に手渡した。
「ほんの気持ちです。ドライフルーツの焼き菓子がお好きだと窺ったので」
「あら、ありがとうござます。いただきますわ」
素直に手土産を受け取った母は余所行きの顔で笑う。両親が揃ってドライフルーツの焼き菓子が好きだと教えたのはもちろんシュカだ。
ようやく全員が居間に揃うと、俯いていたシュカの父が顔を上げて息子の後ろに立つルクシウスを見る。だが次の瞬間、父は口をあんぐりと開け、無言のまま椅子を蹴倒しながら立ち上がった。
椅子の背と床板がぶつかる派手な音に驚いて思わずよろけたシュカの肩を、背後のルクシウスが支えてくれる。
ルクシウスはシュカを見つめて僅かに笑んで見せると、声を出せないでいるシュカの父に改めて視線を向けた。
「随分と久しぶりだな、イーサン」
ルクシウスの声にはどこか挑発的な響きが混ざっている気がした。その証拠に、名前を呼ばれたシュカの父、イーサンの眉間には僅かにシワが浮かぶ。
「シュカから名前を聞いた時にまさかとは思ってましたが、やっぱりブラッドナイト先輩だったんですね…」
「だとしたらどうする。反対するかい?」
それ以上は何も言わず静かに睨み合う二人にはどうやら面識があるらしいが、事情がまったくわからないままのシュカは母と顔を見合わせた。
「ルクシウスさん、僕にもわかるように教えてください…」
「ああ、すまなかった、シュカ。今は君と私の話を優先すべきだったね」
置いてけぼりをくらっておもしろくないシュカがルクシウスのローブを引っ張ると、すぐさま大きな手が宥めるようにシュカの手を包み込んでくれた。もうそれだけで機嫌が直ってしまうのだから、呆れるくらいの単純さにシュカは自分を笑ってしまいたくなる。
「あなた、ルクシウスさんとお知り合いなの?」
「う、うん…」
椅子を起こしたイーサンはどこか気まずそうな顔で座り直し、妻と息子とルクシウスにも座るように促した。
ルクシウスは姿勢良く座って、真剣な眼差しをシュカの母に向けた。
「話を逸らしてしまって申し訳ありません。初めてお目にかかります、ルクシウス・ブラッドナイトと申します。リアンフェール図書館で司書長として勤めています」
「シュカの母、ミシェーラ・カレットです。不躾ですけれど、ルクシウスさんに端的にお尋ねします。息子とお付き合いなさりたいそうですね」
「はい。年齢や性別のこともあり、母上殿の心痛は計り知れません。ですが私もシュカも真剣な気持ちでいることは理解していただきたい」
仕事中よりも畏まった口調のルクシウスの隣で二人のやりとりを聞きながら、シュカも椅子に座ったまま背筋を伸ばした。
どうしたらルクシウスとの交際を認めてもらえるだろうかと、この一週間ずっと考えていたものの、結局答えらしい答えは出ないまま今日を迎えてしまった。
まだ未成年で学生のシュカは両親の庇護下で生活しているし、既に社会人のルクシウスとは立場にも大きく隔たりがある。交際を許してもらえないどころか恋人として過ごした一ヶ月を全否定されるかもしれない。つい悪いほうへと考えて震えそうになる両手を膝の上で強く握り締める。
しばらく無言でルクシウスと視線を交わしていたミシェーラは、緊張のあまり冴えない顔色の息子へと視線を移した。
「シュカ、あなたはどうなの?」
言葉を向けられて弾かれたように顔を上げたシュカは母を真っ直ぐに見つめた。父のほうは何となく怖い気がして見れなかったけれど、痛いくらいに視線を向けられているのがわかる。心臓が大きく脈打って、今にも喉の奥から飛び出してしまいそうだ。
「っ、ぼ、僕は…僕も、ルクシウスさんが好きだから、一緒にいたいし…こ、恋人として、お母さんにもお父さんにも認めてもらいたい」
どんな言葉にすればこの気持ちが真剣だと伝えられるだろうか。
自分の考えを上手く言葉にできる自信はなかったけれど、せめてルクシウスに対する感情が生半可なものではないことだけでもわかってもらいたい。
ルクシウスは大人だから、自分よりももっと大きな困難に直面することも多いはずだ。そうした時に真っ先に糾弾されるのはルクシウスのほうだし、もしそうなってしまっても彼はきっとどんな非難でも甘んじて受け入れる。
けれどシュカはそうしてほしくはなかった。
そんな都合の良い盾にするためにルクシウスの恋人になりたいと思ったわけではない。ルクシウスが非難されるなら自分だって同じように非難されるべきだし、ルクシウスとなら耐えられると覚悟を決めて、少なくともこの一週間を過ごしたつもりだ。
「たぶんこれから、いろんなことで困ったり苦しくなったりすると思う。でも…それでも僕はルクシウスさんと一緒にいたいんだ。ルクシウスさんとなら、どんなにつらいことでも乗り越えていけるって信じてる」
「…ああ、もちろんだ。シュカとなら、どんなことでも乗り越えられるとも」
膝の上に置いていた拳にルクシウスの手のひらが重ねられる。
緊張で冷えていたシュカの手をすっぽりと包み込んでしまえるほど大きな手のひらは力強くてあたたかく、なのにそんな大きさの差がほんの少しだけ寂しくて、一日でも早く大人になりたいとシュカは切に願った。
静かに見つめ合う二人を現実に引き戻すようにシュカの父が顔を歪めてテーブルを叩く。空になったコップが小さく跳ねて音を立てた。
「ブラッドナイト先輩、俺の息子に色目を使わないでいただけますか!」
「何を言う。お前の息子だろうと私にとっては愛しい恋人だ。こんなふうに想える相手はこの先、二度と現れないだろうな」
蕩けるような甘さを含んだルクシウスの言葉にシュカは胸をときめかせて面映く頬を染め、その一方でイーサンの形相はますます歪む。
「ミシェーラはどう思う?」
「私はルクシウスさんとシュカのお付き合いを認めるわ」
「なんで!」
「二人ともちゃんと真剣なお付き合いをすると言っているし、シュカは今まで私達を困らせるような嘘をついたことのない子よ。母親としても人を愛することを知っている一人の人間としても、二人がお互いをしっかりと想い合っていることは理解できたもの、反対する理由がないわ。それにルクシウスさんも、今さら火遊びなんてしないでしょうし…ねえ?」
釘を刺されたことに気付いたルクシウスは微苦笑を浮かべる。もちろんだが、ルクシウスには火遊びのつもりなどまったくないし、シュカのことをそんなふうに軽んじて扱おうと考えてもいない。
しかしこうもあっさりと受け入れてしまうとは、母親とはこのように逞しい生き物なのかとつくづく感心させられる。
「俺が学生の頃にこの人のせいでどれほど苦労したか、ミシェーラには話したことあっただろう?」
「あら、あなたが学生時代に成績の低さから何度も留年しかかって、そのたびに同室の先輩に泣きついて徹夜で勉強を教えてもらったんでしょう? 勉強嫌いで飽き性のあなたにも懲りずに付き合ってくれただなんて、随分と忍耐強くて面倒見が良い方なのねって感心してたのよ」
「いや…まあ確かにそれは本当だし感謝もしてるけど、この人めちゃくちゃ性格悪くて有名だったんだよ! そんな人とシュカがだなんて…!」
言葉にならない雄叫びを上げながら頭を抱えたイーサンはテーブルに突っ伏してしまった。
今度は両親から蚊帳の外に追いやられてしまったシュカは大きな目を瞬かせると、ルクシウスに顔を寄せて彼に耳打ちする。
「ルクシウスさんはお父さんの先輩だったんですか?」
「ああ、君が今通っているラディアス魔術学校時代のね。当時のイーサン…君の父上殿は勉強があまり得意ではなくて、寮では私と同室だったこともあって試験前にはよく付き合わされたものだ」
「そうだったんだ…。ルクシウスさんは学生の頃から優秀だったんですね」
シュカはとろりと目元を緩めてルクシウスを見上げた。
「そんなにすごい人が僕の恋人だなんて…」
「私こそ、シュカのように素直で愛らしい子が恋人でとても嬉しいよ」
シュカとルクシウスは今度こそ手を取り合って完全に二人だけの世界に浸る。
見ているほうが恥ずかしくなりそうな二人の仲睦まじい様子に、ミシェーラは夫と付き合いはじめたばかりの頃を思い出した。
恋は盲目。その言葉のとおり、二人で一緒にいられれば他には何もいらないと本気でそう思っていたあの頃が懐かしくてくすぐったい。結局、現実がそんなに甘くはないとすぐに知ってしまったけれど、それでも夫を愛し、シュカを授かれたことは何物にも変えがたい幸運だったと思う。
だから愛しい息子にもそんな幸せを手に入れてほしいと願うのは母として当然の願いだ。
「そうだわシュカ。お母さん、うっかりしててお茶を淹れるのを忘れてたの。悪いけど四人分、淹れて来てくれる?」
「うんっ!」
元気いっぱいに頷いてキッチンに向かう息子の後ろ姿を見送ったミシェーラはそれまでの微笑を収め、真顔でルクシウスを見た。
「ここからは少し、大人だけでお話ししましょうか」
シュカの足音が遠ざかったことを確認したミシェーラがふわりとした笑みを浮かべた。
親子なのだから当然だが、シュカと彼女は面立ちがよく似ている。髪の色も瞳の色も二人はほとんど同じだ。しかしおとなしく控えめなシュカとは違い、ミシェーラの性格は母親らしい逞しさに満ちていた。
昔から感情的で神経質で頭に血が上りやすいイーサンを言いくるめるのは容易いが、ミシェーラは一筋縄ではいかないだろう。ここからが本番だとルクシウスは気を引き締めた。
「さっきも言ったように、私は二人の交際を認めます。シュカから聞いている限りでは、ちゃんとあの子のことを大切にしてくれているみたいですしね。でも、交際を認める代わりに条件が三つあります。よろしくて?」
「もちろんだとも」
「一つ目は、シュカを生涯かけて幸せにしてくれること。二つ目は、シュカが成人するまでキス以上の行為は一切しないこと。あの子は嘘をつけない子です、何かあればあの子が口に出さなくてもわかりますわ。母親ですもの」
どこから見ても母親の顔で言い重ねるミシェーラを見つめ返したルクシウスは、しっかりと頷いて見せた。
シュカが両親の愛情をめいっぱい受けて育った、どこまでも素直で純朴な少年であることは理解している。そんな彼を傷付けようだなんて気持ちは毛頭ない。
「三つ目の条件は、シュカとの婚約です。もちろん、今日この場で」
「ミシェーラ、婚約だなんてまだ早いよ!」
「あなたは黙ってて。いつまで経ってもヘタレなんだもの任せてられないわ」
目尻を吊り上げて息巻く夫に向けるミシェーラの視線は冷ややかで、容赦のない妻からの言葉にイーサンは再びテーブルに沈没する。そんな夫に鼻から息を漏らしたミシェーラはルクシウスに視線を戻した。
ルクシウスは、ほんの少しの迷いだって見逃さないと言わんばかりの鋭い視線を真っ向から受け止める。
「条件は三つとも受け入れよう」
しっかりと頷いたルクシウスに、シュカの母は美しく微笑んだ。
その表情はやはりシュカとよく似ている。シュカがあと何年か歳を重ねたら、きっとさらに似るのだろう。
「ルクシウスさん。この人はこんなこと言ってますけど、反対はしていないと思います。ただちょっと父親としては複雑なだけで」
「それはそうだろうね。息子が自分よりも年上の男を恋人だと連れて来たら誰だって反対したくもなるさ。…母上殿としても心中は複雑なのでは?」
「いいえ、と…はっきり頷けないことは事実です。奥手なシュカがこんなにも早く恋人を連れて来るなんて思ってませんでしたもの。昔から本ばかり読んでいるおとなしい子だったのに、いつの間にこんなに立派な人を捕まえたのかしら」
「いや、失礼。その…私がシュカと同性だということは気がかりでは?」
思い切ってルクシウスが切り出すと、ミシェーラはぱちぱちと瞬いた。
「愛には年齢も性別も関係ありませんわ」
至極きっぱりと言い切った彼女に、ルクシウスはシュカに告白した夜のことを思い出して肩を竦める。
「どうやら私は母上殿にも敵わないようだ」
「あらあら、ふふ。ルクシウスさんがこの人みたいにシュカの尻に敷かれてしまうのも時間の問題かしら?」
「肝に銘じておきましょう」
ルクシウスとミシェーラが和やかに会話を弾ませる間も、イーサンはテーブルに突っ伏したまま動かなかった。
「お母さん、お茶淹れてきたよ」
やがて危なっかしい足取りでお茶を運んできたシュカは盆をテーブルに乗せながら、突っ伏して動かない父を見て首を傾げた。だが、彼の関心はすぐに恋人へと向けられる。
「あの…お口に合うといいんですけど」
「ありがとう」
ルクシウスの前に置いたカップにはコーヒーが注がれている。
初めてルクシウスの家に泊まりに行った時に彼が普段はコーヒーを好んで飲んでいるのだと聞いてから、シュカは暇さえあればコーヒーを淹れる練習をした。
立ち上る香りはとても好ましかったけれど、熱くて苦くて、シュカにとってコーヒーは大人の飲み物だった。初めて飲んだ時にはあまりの苦さに眉間にシワを浮かべてしまい、ルクシウスはこれがおいしいと感じるのだと非常に難しい気分になったものだ。
少しでも早く大人に近付きたくてまめに飲んではいるものの、相変わらず砂糖とミルクを入れないと満足に飲み干すこともできない。
(少しでもおいしく淹れられてるといいな…)
先ほど母に促されて立ったキッチンにはコーヒーを淹れるための一式が揃えられていた。
練習の成果を披露できるように、わざと自分にお茶を淹れるように言ってくれたのだと気付いたシュカがちらりと視線を向けると、母はまるで悪戯好きな少女のように可愛らしく笑った。
椅子に座り直してルクシウスを窺うように視線を向けたシュカは、ブルーグレーの瞳が優しい色味を含んで自分に向けられたことに気付いて頬を染める。
「上手く淹れられているね」
「本当ですか? 良かったぁ」
カップを片手にルクシウスが微笑むのを見て、シュカも自分用の砂糖とミルクをたっぷりと混ぜたカフェオレに口を付ける。
砂糖とミルクのせいでコーヒーは本来の苦味をほとんど失っていた。こんな甘い味をおいしいと感じてしまう自分は紛れもなく子供で、ルクシウスのようにコーヒーに何も入れずに飲めるようになる日は来るのだろうかと不安になってしまう。
焦っても意味はない。そうわかっていても、何の引け目もなくルクシウスの隣に立てるようになりたいと逸る気持ちは虚しく空回る。
「そうだ、シュカ。先ほどご両親から正式に交際の許可をもらえたよ」
不意打ちで告げられた言葉に噎せそうになり、シュカは慌ててカップをテーブルに置いた。
口を押さえて目を白黒させながらルクシウスを睨むように見上げると、彼はさも楽しげにブルーグレーの瞳を細めて、動揺するシュカを見つめ返す。
「交際の条件の一つとして、この場で婚約をすることになった」
「婚約…? え、それってルクシウスさんと、僕が?」
「そうだよ。私達しかいないだろう?」
優しい声で念押しされ、シュカは声も息も飲み込んだ。
無言で見つめ合う二人の目の前に、いつの間にか復活していたイーサンが一枚の紙を置く。『婚約宣誓書』と記されたそれをシュカはまじまじと見つめた。
「先輩ならわかると思いますけど、この宣誓書は特殊な魔術をかけた紙を使ってます。一度サインしたら、然るべく手順を取った場合以外には物理的にも魔術的にも破壊することはできませんし、それは校長にさえ賢者と言わしめた先輩でも例外じゃありません。それでもサインしますか?」
「するとも」
宣誓書と一緒に差し出された羽根ペンを使いサインを済ませてしまうと、ルクシウスはそれを隣に座ったシュカの前に滑らせる。
シュカはそっとそれを手に取り文面に目を通した。
「『私はシュカ・カレットとの結婚を前提とした誠実な交際を、ここに宣誓する。ルクシウス・ブラッドナイト』…って、え、あの…結婚って?」
「君が大人になって、その時にもまだ私と共にいたいと思ってくれているのなら結婚しよう。これはそれまでの約束の証だ」
シュカはルクシウスの言葉に喜びを感じるよりも先に、言いようのない濁流のような憤りが腹の奥から込み上げるのを感じた。
唇を噛んで無言で羽根ペンを取ると、感情に任せていつもよりも少しばかり乱暴な手付きで自分の名前を書き、父の前に突き返す。
「こんな紙にサインなんてしなくても、僕はルクシウスさんとずっと一緒にいる! 大人になってもルクシウスさんの傍にいたいし、どんなに歳を取ったってルクシウスさんのことが大好きだよ! こんなっ、紙に書かなくちゃいけないような中途半端な気持ちで好きになったわけじゃない…っ」
激情に任せて言う間にもシュカの頬を大粒の涙が伝う。どんなに言葉を尽くしてルクシウスのことが好きだと言っても、子供だから信じてもらえないのかと悔しい気持ちでいっぱいだった。
でもきっと、たぶんそうなのだろう。両親から見れば自分はまだ未成年だし、ルクシウスとは倍近くも年齢が離れている。しかも同性だ。
(でも……でも、僕は…!)
ルクシウスのことが好きだ。そう思っている気持ちだけは否定されたくなかった。
告白されて、それを受け入れて、恋人として過ごした一ヶ月は宝物みたいにキラキラしていて、最初よりももっとルクシウスのことが好きになっていた。どうしたらこの気持ちを理解してもらえるだろうか。自分が知っている限りの言葉を並べても足りない気がしてもどかしい。
嗚咽を殺して震えるシュカの肩にルクシウスが手を乗せる。泣いてしまった自分を慰めようとしているのはシュカによくわかっているけれど、なかなか涙を止めることができなくて、居間にはシュカが鼻を啜る音が響いた。
イーサンは婚約宣誓書を受け取り二人分のサインを確認すると、人目につかないように保管するため魔術で別の場所へと転送してしまう。それからまるで挑むような目でルクシウスを見た。
「ブラッドナイト先輩…息子をよろしくお願いします。俺とミシェーラとの大事な子です。傷付けたりしたら、アンタでも絶対に許さない」
「そんな心配は無用だ。条件もきちんと守る」
シュカは涙を拭いながらルクシウスを見た。
条件とは一体何のことだろう。自分の知らない話をされるのが悲しくて、また涙が込み上げそうになる。
そんなシュカにテーブルの向こうから母が声をかけた。
「お母さん達とルクシウスさんとの秘密の約束よ。今は言えないけれど、シュカが成人する時に教えてあげる」
「ほんと? 約束だよ?」
「ええ、約束するわ」
そう言って母は優しく微笑んでくれた。
***
「ん……」
カーテンの隙間から差し込んだ朝日がシュカの顔に当たり、眩しさに顔を顰める。
たった一秒前まで見ていた夢の気配があっという間に遠退いていくのが惜しくて掛け布を被って寝直そうと伸ばした手に布とは違う感触が当たった。寝ぼけながらシーツの上を探るけれど掛け布は見つからない。おかしい、掛け布はどこへ行ってしまったんだろう。
夢から覚めきらない頭で疑問を抱えながら目を開けたシュカは、自分のすぐ目の前にいる人物に焦点を合わせると一気に覚醒した。
「ひぇ…っ」
音がしそうなほど急激にシュカの顔に血が上る。
そうだ、昨夜は今やすっかり毎週末の恒例となったルクシウスの家へのお泊りの日だった。
目を丸く見開いて驚くシュカを見つめる知的なブルーグレーの瞳はしっかりとしていて、起きたばかりとは思えない。もしかしたら寝顔をずっと見られていたのではないかと気付いたシュカの顔に上った血は一気に下がる。
ルクシウスはおもしろそうに僅かに目を細め、顔色を目まぐるしく変えるシュカの髪を指先で掬った。
「おはよう、シュカ」
「お、おはようございます、ルクシウスさん」
全力で走った時のようにうるさく騒ぐ鼓動を寝間着の上から押さえつつ朝の挨拶を交わす。
自分の家の自分のベッドではない場所で目覚めるのはまだ両手の指だけで数えられるほどでしかないけれど、もっとたくさん回数を重ねても、きっと懲りずにドキドキしてしまうのだろう。
そんな考えを読み取ったようにルクシウスはふと笑ってシュカを引き寄せると、赤く染まった頬に優しいキスをしてくれた。
ほんの僅かに伸びた髭が当たる小さな痛みすら彼に愛されている証だと思えば愛しくて、戯れるみたいに触れるだけのキスでさえもシュカの心臓を熱く高鳴らせる。
「朝食を用意するから顔を洗っておいで」
「は、はい」
頬を押さえたまま頷くシュカをベッドに残してルクシウスはキッチンへ向かった。
シュカは赤く染まりきってしまった頬を冷ますために洗面所で顔を洗い、歯も磨いてリビングへと足を向ける。既にリビングには食欲を誘う香りが立ち込めていた。
ルクシウスは慣れた手付きでベーコンと玉子を焼いて、薄切りのパンに乗せて軽く胡椒を振りかけ、あたためた鍋から昨夜の残りのスープを器に注ぎ分ける。手際の良さに感心して立ち尽くしていたシュカに気付いたルクシウスが穏やかに微笑んだ瞬間、シュカの胸はきゅんと柔らかく痛んだ。
「僕も何かお手伝いします」
「そうかい? じゃあ、これをテーブルに並べてくれるかな」
「はい」
ルクシウスが示したのはパンを乗せた二枚の皿。シュカは急いで頷いてそれをテーブルに運んだ。サラダとスープの器も並べると、それぞれ椅子に座る。
「いただきます」
二人揃ってする食事の前のお祈りにも慣れた。
たったそれだけのことにも幸福感を募らせたシュカは、最高の焼き加減のベーコンと玉子をパンに乗せて頬張り、サラダもスープもあっという間に平らげた。
ごちそうさまも二人で声を揃えると、シュカは食べ終わった食器をシンクへと運んだ。
「私は支度をしてくるよ」
「はい、食器を片付けたら僕もすぐにそっちに行きますね」
料理はいつもルクシウスがしてくれるが、使った食器や調理器具を洗うのはシュカの担当だ。
本当はもっといろいろとお手伝いをしたいのだが、元よりここはルクシウスの家であることと、慣れないキッチンで火を使うのは危ないからと、優しくて少々過保護な年上の恋人は頑として譲ってくれなかった。
だったらせめて食器を洗うくらいはさせてほしいと散々食い下がってお願いした結果、根負けしたのはルクシウスだった。
家でも普段から手伝っているため食器洗いは慣れている。洗うだけで良いとそれ以上のことは許可されなかったが、そうだとしても何かひとつでもルクシウスのためにできることがあるのは嬉しい。
シュカは鼻歌交じりに手早く食器を洗い、シンクの横の水切り籠に置いた。
「僕も早く着替えないと」
両親公認の恋人になってから、ルクシウスはシュカのために月に一度は必ず週末に休みを入れてくれるようになった。普段から誰よりも真面目で仕事熱心な彼なのに恋人としての気遣いもできるなんて惚れ直すしかなくて、シュカの頬は毎日緩みっぱなしだ。
寝室に戻ると、夏らしいライトカラーのスラックスに薄手のシャツを着込んだルクシウスが鏡に向かって髪を整えているところだった。
仕事中よりも少しだけ緩く流された前髪が艶めいている。きちんと整えられて清潔感のある普段の髪型も好ましいけれど、休日用のラフさを感じさせるこの髪型だってもちろん好きだ。
あんまりにも見つめすぎていたからか、鏡越しのルクシウスの視線がシュカに向く。慌てて視線を逸らしたシュカは薄く熱を持った頬を隠すように俯いた。
(見てたの気付かれちゃったかな…)
シュカはそそくさと自分の鞄から着替えのシャツを引っ張り出した。
今日は二人で街まで出かけるのだ。ついつい足取りは軽くなる。
ルクシウスの家の前に止まっていた馬車は二頭引きの小さめのもので、行き先は既に告げてあるらしく、二人が乗り込むとすぐに動き出した。
「ルクシウスさん、窓を開けてもいいですか?」
「ああ、いいとも」
許可を得たシュカが窓を開けると、待ち構えていたように爽やかな風が吹き込んだ。いよいよ本格的に夏が近付いて空から降り注ぐ日差しは強さを増しているが、常に静かな風が吹き抜けるこの辺りは暑さも緩やかで過ごしやすい。
瑞々しい風を胸いっぱいに吸い込んで満足したシュカは、日除けのローブを脱いだルクシウスの横に座り、押し付けがましくない程度に寄り添った。
「シュカ」
「はい」
呼ばれて顔を上げると、ルクシウスがシュカの肩に腕を回してそっと引き寄せてくれた。頬に触れてくるもう片方の手は壊れやすいものに触るみたいにゆっくりだ。
そんなに簡単に壊れやしないのに。そう思ってしまうこともあったけれど、シュカはそんな優しさを持ち合わせているルクシウスが好きで好きでたまらなかった。
風で頬にかかる髪の先を払ってくれるルクシウスの指先は、本に触れ続けているためかやや硬い。その感触がまたいてもたってもいられないくらいに好きなのだから、自分はかなりの重症だと頬に苦笑が浮かんでしまう。
倍ほども歳の離れた恋人はいつもこうして親鳥が雛を包み込むように優しく触れてくれる。けれどシュカはだんだん物足りなくなって、触れるだけのルクシウスの手に自分から頬を押し付けた。そんな戯れを、これまで幾度となく繰り返している。
ルクシウスがシュカの両親に交際の挨拶をしてから、もう少しで一ヶ月になろうとしている。
一悶着あったようななかったようなあの日から、シュカはいまだに自分がルクシウスと婚約したことが信じられずにふわふわと夢の中を彷徨っているような気分だった。
(夢、じゃないよね…?)
さらに抱き寄せられて髪にキスをされるとルクシウスの髭が頭皮に当たって微かに痛んだが、その痛みさえ幸せすぎる日々が夢ではないことを教えてくれるような気がしてむず痒くなる。
シュカはちいさく笑い声を上げて自分からもルクシウスの顎にそっと触れた。
恋人として過ごすようになってから知ったのだが、ルクシウスは休日の朝だけは髭を剃らない。仕事の日にはどこにも隙を見せない彼の唯一の怠惰な面を見つけたシュカは嬉しくてたまらなくて、あまり触れる機会のないルクシウスの髭の感触を楽しんだ。
「ルクシウスさん、お髭が痛いです」
「ん? ああ、しまった。休日だからと剃るのを疎かにしてしまった。せっかくシュカと出かけるのだから剃れば良かったな」
「お仕事がある日はいつも剃ってますもんね。でもいいんです。お髭が伸びてるルクシウスさんは特別って感じがするから」
司書長としての凛々しい印象のルクシウスも気を抜いて髭の伸びたルクシウスも、シュカにとっては大好きな人に違いないし、他の人はきっとこんなルクシウスの姿は知らないはず。そう思うだけでシュカの心は喜びに弾んだ。
「うわぁ…賑やかですね!」
二時間ほど馬車に揺られて辿り着いたのは、たくさんの人で賑わう商都だった。ここは大小様々な店が立ち並び、生活必需品から魔術用具までありとあらゆるものが揃う。
シュカも両親と今までに数度訪れたことはあったが、今日は恋人と一緒だ。いつも以上に胸が高鳴って仕方がなかったけれど、シュカははしゃぎたい気持ちを堪えてルクシウスを振り返る。
「ルクシウスさん、今日は何を見に来たんですか?」
「図書館に置く本を増やそうかと思ってね。私が選ぶものは堅苦しいものばかりだと言われてしまったこともあるし、シュカにも選ぶのを手伝ってもらおうかな」
「僕でよければいくらでもお手伝いします!」
ルクシウスに頼られるなんて滅多にないことだ。少しでも彼の役に立てるのなら何だってやりたい。
意気込むシュカの手をルクシウスが握る。
「逸れてしまったら大変だから」
子供扱いしないでほしいと言いたい気持ちと、手を繋いでもらえたことを喜ぶ気持ちとが複雑に入り混じる。
結局シュカはルクシウスに手を引かれたまま雑踏の中に足を踏み入れた。
「あ、司書さん。いらっしゃい」
一軒の書店に足を踏み入れた途端、近くにいた店員がルクシウスを見るなりそう言った。
顔馴染みらしい店員がルクシウスを「司書さん」と呼んだことに、シュカは思わず笑ってしまう。休日で無精髭まで生やしているのに、ここでは仕事中の顔のまま過ごしているルクシウスを容易に想像できたからだ。
この店は新書だけでなく古書も扱っているようで、仄かに漂う古い紙とインクの匂いがルクシウスの書斎を思い出させる。
どんな本があるのかと考えて落ち着きをなくしたシュカの肩をルクシウスが引き寄せた。
「しばらくはここにいるからシュカも好きに見ておいで」
「でも…」
「まずは私が大まかに選んでおくから、その間は自由時間だよ」
「ありがとうございます」
シュカは嬉しそうに頷いて棚の奥へと足早に向かった。タイトルを見るだけであれもこれも読みたくなってしまって、最初の一冊を決めきれない。
一瞬で本に夢中になったシュカが棚の向こうに姿を消すのを見送ったルクシウスは、近くにいた店員に入荷したばかりの本を幾つか見せてくれるように声をかけた。顔馴染みの若い店員は気安く請け負い、まだ棚に並べる前の本を二十冊ほどカウンターの上に置く。
「ここ最近入荷したのはこの辺りですね。図書館に置くなら…これとかどうですか。最近話題になってる絵本作家の新作です」
「ふむ、これは良さそうだね。いただいていこうか」
「毎度あり」
薦められた絵本にすべて目を通し、絞り込んだ五冊を購入予定とする。
「あと、この冒険小説は子供に人気があるんですよ」
差し出された小説にも目を通したルクシウスは、そういえばシュカがこういった子供向けの本を読んでいるところを見たことがないと思い出した。生真面目で勉強熱心なシュカはいつも魔術の専門書ばかりを読んでいる。
「私の連れくらいの年齢でも読むだろうか」
「あー…ちょっと子供っぽすぎるかもしれませんけど、おもしろくはあると思います。実際うちの店のヤツにも、この小説に熱中してるのがいますから」
「そうか。なら、試しに置いてみることにするよ。村の子供達にも図書館に来てもらえるように、いろいろと企画を練ろうと思っていてね」
「じゃあ、たぶんこれは当たりだと思います。シリーズがもう何冊か出てるんで、あるだけ持ってきましょうか?」
「頼むよ」
店員は快く引き受けて在庫を探しに店の奥へと向かった。一人残ったルクシウスは改めて薦められた冒険小説を開いてみる。
物語の舞台はシュカが暮らす村とよく似た印象の山間の地域で、主人公は十七歳の少女だった。まず十七歳になるとくじ引きで職業を決めるというとんでもない設定に意表を突かれるし、こまめに挿絵も挟まれていて、これは確かに子供が楽しく読める作品だ。
「お待たせしました。とりあえず今のところは三冊分ありました」
「ありがとう。三冊すべていただこう」
「はいはい毎度あり」
購入予定の本に積み重ねられた小説は、まずシュカに読んでもらって感想を聞くのもいいかもしれない。きっとシュカは取り繕った感想なんて言わず、おもしろければおもしろいと瞳を輝かせてくれるだろう。
「あ、そうだ司書さん」
「何だい」
「いつも一人で来るのに珍しいから気になったんですけど、連れの子、司書さんと親しそうだけど身内って感じでもないし誰なんですか?」
「好奇心は猫をも殺すと言うだろう? 余計な詮索は身を滅ぼすよ」
ルクシウスは手にしていた本を購入予定のものに重ね、それから人が良さそうに見える笑みを意識して浮かべて見せた。
「ひえ、おっかねえの。ま、大体は今の反応でわかりましたけどね」
大袈裟に怖がっているくせに、店員の顔は真逆の表情だ。むしろ楽しんでいるようにも見える。
「あんな若い子を射止めるなんて、司書さんもなかなかやりますね」
猫のように目を細めて笑う店員は「俺も恋人欲しいなー」などとわざとらしく言いながら店の奥へと逃げていった。
ルクシウスは彼を見送り、以前ならばきっと不愉快に感じたはずのからかいに対して、それほど悪い気分になっていない自分を自覚して苦笑を漏らす。
「一目で見破られてしまうとは」
それほどわかりやすくシュカを特別扱いしていたということだ。
しかしあのままはっきりとシュカと自分が恋人だと告げていたとしても、きっとあの店員は動じなかっただろう。肝が据わっているというか何と言うか、少々喰えない性格ではあるが悪い人間でもない。
素直で真っ直ぐな性格を写したような見目のシュカは贔屓目を抜きにしても愛らしいし、婚約したばかりの恋人を見せびらかしたいという気持ちも否定できない。手を繋いだままこの店に入ったのは、きっとそんな感情の表れだったのだろう。
ただ、自ら進んで障害を作るような真似はしないようにとルクシウスは自分に言い聞かせる。
「…あの子が成人するのが待ち遠しいな」
にもかかわらず、ため息混じりに零れたのは浅ましいほどの欲望に塗れた本音だった。
若い頃の貪欲さは単にルクシウスの中で息を潜めていただけで、とうに尽きたと思い込んでいた性欲までもが活気を取り戻しつつある。
他には目もくれず一心に慕ってくる恋人は瑞々しい魅力に満ち満ちて愛らしく今すぐにでも貪ってしまいたくなるけれど、シュカが成人するまでの残り一年半の間はキス以上の接触をしないとシュカの両親にも約束してしまった。
もちろん誓約を反故にしてでもと思うほど年下の恋人を軽んじているわけではないし、宝物のように大切に手の中に閉じ込めて守りたいと思う気持ちも嘘ではない。
ただあまりにも真っ直ぐに向けられる信頼と好意には気の乗らない原稿以上に頭を悩ませられることもあって、それでも屈託なく笑うシュカを見るだけで渇望を覆い尽くすくらいの愛しさが込み上げてくる。
「まさかこの歳になってから本気の恋をするとはね」
青年期の火遊びを鼻で笑い飛ばしたくなるほど、シュカへの想いは一途で強かった。
朝起きた瞬間からどうにも落ち着くことができず時計を見てはため息をつき、椅子に座ったと思えば立ち上がって家の中をぐるりと歩いたり立ち止まったりを繰り返す。
見かねた母が水を注いだコップを差し出すと、シュカはそれを一気に飲み干した。
「もうそろそろかしらね」
母のその言葉に肩を跳ねさせたのはシュカではなく、シュカの父だった。彼もまた息子と同じくらい、もしかしたらそれ以上の緊張に苛まれている。
何せ今日は、ルクシウスがシュカの家に来る約束になっているのだ。
シュカがルクシウスの家に招かれ、彼からの告白を受け入れた日から既に一ヶ月。とっくに日課になっている図書館通いは相変わらずだが、ひとつだけ大きな変化がある。週末になるとルクシウスの家に泊まらせてもらえるようになったことだ。
いつもは授業が終わった足ですぐに図書館に向かうのだが、週末だけは先に家に帰って寝間着と翌日の着替えを詰め込んだ鞄を掴んで、逸る気持ちに後押しされるような駆け足で図書館へと引き返す。
閉館時間まで読書を楽しんで、前と同じように職員通用口の横で閉館作業をするルクシウスを待ち、一緒に帰宅するのはルクシウスの家。
二人で食事をしてからシュカは読書を、ルクシウスは依頼された原稿の執筆や校正の手伝いをして時間を過ごし、シュカがあくびをする頃に一緒のベッドに横になる。ルクシウスと「おやすみなさい」を交換する瞬間が恥ずかしくて嬉しくて、むずむずとくすぐったい。
多忙な司書長であるルクシウスは大抵翌日も仕事があり、シュカに構うことができないからと申し訳なさそうにしていたが、シュカはただ彼の傍にいられる時間が長くなるだけで充分だった。
そんな日々を過ごしていた先週末、ルクシウスが作ってくれた白身魚のムニエルを頬張っていたシュカは恋人からの爆弾発言に、丁寧に解した魚の身をフォークの先から取り落とした。
「あ、あの…今、何て?」
「来週末やっと休みが取れたから、シュカのご両親に交際の挨拶をしに行こうと思っているんだが、都合はどうだい?」
一言一句違えることなく律儀に繰り返すルクシウスの顔をまじまじと見つめてしまうのも無理はない。
「両親は…特に、出かけるとか言っていなかったと思うので、大丈夫かとは思いますけど…」
「そうか、急な話だから無理かもしれないと考えていたが。良ければシュカからも伝えておいてくれるかな」
「はい、わかり、ました。……挨拶って、ほんとに、その…」
ルクシウスの視線はいつだってシュカをドキドキさせるけれど、今はまた別の意味でドキドキする。シュカは無意識に唾を飲み込んだ。
「さっきも言っただろう。『交際』の挨拶だと」
そんな流れでルクシウスの訪問は唐突に決まり、あっという間に日は過ぎて、ついに週末が来てしまった。
少しでも印象を良くしたいとルクシウスが言ったせいで昨日はお泊りをさせてもらえなかったことが少しだけ不満ではあるものの、そのくらいしっかりと自分とのことをルクシウスが考えてくれているのだと思うと嬉しくなってしまう。
それにしても喉が渇く。緊張しすぎて落ち着かない。
テーブルの反対側に座っている父もそうらしく、シュカが自分のついでにとコップに水を注ぐと、父は視線を動かさないまま水を飲み干した。普段と変わりない様子なのは母だけだ。
ノックの音が聞こえ、驚いた猫のように揃って肩を跳ね上げた二人にやや呆れ気味の視線を向けた母は素早く玄関へと足を向ける。
――母は強し。
そんな言葉を思い浮かべながらシュカも慌てて立ち上がり玄関へと向かう。
開かれた玄関ドアの向こうには、仕事の時と同じローブのシルエットが立っていた。
ただひとつ違うのは、仕事中には締めていないネクタイがあることだけ。司書長としての仕事よりもシュカの両親に挨拶をすることのほうが重要なのだと言われているようで、状況も忘れて心が弾む。
「息子からお話は窺っております。こちらへどうぞ」
シュカとそっくりなプラチナブロンドの髪をきちんと結い上げた母は小柄だが凛としていて、居間へと案内する後ろ姿には迫力のようなものがある。
母と擦れ違い、シュカは家の中に入ってきたルクシウスをその場で待った。ルクシウスが少し屈んでシュカの耳にそっと囁く。
「緊張しているね」
「そりゃあ緊張しますよ…両親に紹介するんですから」
「私も緊張しているよ、お揃いだ」
シュカの緊張を解すため、わざと茶化すような言い方をしてくれるルクシウスの気遣いに、ついシュカの頬には笑みが浮かんだ。
居間に入る直前で、ルクシウスは持参してきた手土産をシュカの母に手渡した。
「ほんの気持ちです。ドライフルーツの焼き菓子がお好きだと窺ったので」
「あら、ありがとうござます。いただきますわ」
素直に手土産を受け取った母は余所行きの顔で笑う。両親が揃ってドライフルーツの焼き菓子が好きだと教えたのはもちろんシュカだ。
ようやく全員が居間に揃うと、俯いていたシュカの父が顔を上げて息子の後ろに立つルクシウスを見る。だが次の瞬間、父は口をあんぐりと開け、無言のまま椅子を蹴倒しながら立ち上がった。
椅子の背と床板がぶつかる派手な音に驚いて思わずよろけたシュカの肩を、背後のルクシウスが支えてくれる。
ルクシウスはシュカを見つめて僅かに笑んで見せると、声を出せないでいるシュカの父に改めて視線を向けた。
「随分と久しぶりだな、イーサン」
ルクシウスの声にはどこか挑発的な響きが混ざっている気がした。その証拠に、名前を呼ばれたシュカの父、イーサンの眉間には僅かにシワが浮かぶ。
「シュカから名前を聞いた時にまさかとは思ってましたが、やっぱりブラッドナイト先輩だったんですね…」
「だとしたらどうする。反対するかい?」
それ以上は何も言わず静かに睨み合う二人にはどうやら面識があるらしいが、事情がまったくわからないままのシュカは母と顔を見合わせた。
「ルクシウスさん、僕にもわかるように教えてください…」
「ああ、すまなかった、シュカ。今は君と私の話を優先すべきだったね」
置いてけぼりをくらっておもしろくないシュカがルクシウスのローブを引っ張ると、すぐさま大きな手が宥めるようにシュカの手を包み込んでくれた。もうそれだけで機嫌が直ってしまうのだから、呆れるくらいの単純さにシュカは自分を笑ってしまいたくなる。
「あなた、ルクシウスさんとお知り合いなの?」
「う、うん…」
椅子を起こしたイーサンはどこか気まずそうな顔で座り直し、妻と息子とルクシウスにも座るように促した。
ルクシウスは姿勢良く座って、真剣な眼差しをシュカの母に向けた。
「話を逸らしてしまって申し訳ありません。初めてお目にかかります、ルクシウス・ブラッドナイトと申します。リアンフェール図書館で司書長として勤めています」
「シュカの母、ミシェーラ・カレットです。不躾ですけれど、ルクシウスさんに端的にお尋ねします。息子とお付き合いなさりたいそうですね」
「はい。年齢や性別のこともあり、母上殿の心痛は計り知れません。ですが私もシュカも真剣な気持ちでいることは理解していただきたい」
仕事中よりも畏まった口調のルクシウスの隣で二人のやりとりを聞きながら、シュカも椅子に座ったまま背筋を伸ばした。
どうしたらルクシウスとの交際を認めてもらえるだろうかと、この一週間ずっと考えていたものの、結局答えらしい答えは出ないまま今日を迎えてしまった。
まだ未成年で学生のシュカは両親の庇護下で生活しているし、既に社会人のルクシウスとは立場にも大きく隔たりがある。交際を許してもらえないどころか恋人として過ごした一ヶ月を全否定されるかもしれない。つい悪いほうへと考えて震えそうになる両手を膝の上で強く握り締める。
しばらく無言でルクシウスと視線を交わしていたミシェーラは、緊張のあまり冴えない顔色の息子へと視線を移した。
「シュカ、あなたはどうなの?」
言葉を向けられて弾かれたように顔を上げたシュカは母を真っ直ぐに見つめた。父のほうは何となく怖い気がして見れなかったけれど、痛いくらいに視線を向けられているのがわかる。心臓が大きく脈打って、今にも喉の奥から飛び出してしまいそうだ。
「っ、ぼ、僕は…僕も、ルクシウスさんが好きだから、一緒にいたいし…こ、恋人として、お母さんにもお父さんにも認めてもらいたい」
どんな言葉にすればこの気持ちが真剣だと伝えられるだろうか。
自分の考えを上手く言葉にできる自信はなかったけれど、せめてルクシウスに対する感情が生半可なものではないことだけでもわかってもらいたい。
ルクシウスは大人だから、自分よりももっと大きな困難に直面することも多いはずだ。そうした時に真っ先に糾弾されるのはルクシウスのほうだし、もしそうなってしまっても彼はきっとどんな非難でも甘んじて受け入れる。
けれどシュカはそうしてほしくはなかった。
そんな都合の良い盾にするためにルクシウスの恋人になりたいと思ったわけではない。ルクシウスが非難されるなら自分だって同じように非難されるべきだし、ルクシウスとなら耐えられると覚悟を決めて、少なくともこの一週間を過ごしたつもりだ。
「たぶんこれから、いろんなことで困ったり苦しくなったりすると思う。でも…それでも僕はルクシウスさんと一緒にいたいんだ。ルクシウスさんとなら、どんなにつらいことでも乗り越えていけるって信じてる」
「…ああ、もちろんだ。シュカとなら、どんなことでも乗り越えられるとも」
膝の上に置いていた拳にルクシウスの手のひらが重ねられる。
緊張で冷えていたシュカの手をすっぽりと包み込んでしまえるほど大きな手のひらは力強くてあたたかく、なのにそんな大きさの差がほんの少しだけ寂しくて、一日でも早く大人になりたいとシュカは切に願った。
静かに見つめ合う二人を現実に引き戻すようにシュカの父が顔を歪めてテーブルを叩く。空になったコップが小さく跳ねて音を立てた。
「ブラッドナイト先輩、俺の息子に色目を使わないでいただけますか!」
「何を言う。お前の息子だろうと私にとっては愛しい恋人だ。こんなふうに想える相手はこの先、二度と現れないだろうな」
蕩けるような甘さを含んだルクシウスの言葉にシュカは胸をときめかせて面映く頬を染め、その一方でイーサンの形相はますます歪む。
「ミシェーラはどう思う?」
「私はルクシウスさんとシュカのお付き合いを認めるわ」
「なんで!」
「二人ともちゃんと真剣なお付き合いをすると言っているし、シュカは今まで私達を困らせるような嘘をついたことのない子よ。母親としても人を愛することを知っている一人の人間としても、二人がお互いをしっかりと想い合っていることは理解できたもの、反対する理由がないわ。それにルクシウスさんも、今さら火遊びなんてしないでしょうし…ねえ?」
釘を刺されたことに気付いたルクシウスは微苦笑を浮かべる。もちろんだが、ルクシウスには火遊びのつもりなどまったくないし、シュカのことをそんなふうに軽んじて扱おうと考えてもいない。
しかしこうもあっさりと受け入れてしまうとは、母親とはこのように逞しい生き物なのかとつくづく感心させられる。
「俺が学生の頃にこの人のせいでどれほど苦労したか、ミシェーラには話したことあっただろう?」
「あら、あなたが学生時代に成績の低さから何度も留年しかかって、そのたびに同室の先輩に泣きついて徹夜で勉強を教えてもらったんでしょう? 勉強嫌いで飽き性のあなたにも懲りずに付き合ってくれただなんて、随分と忍耐強くて面倒見が良い方なのねって感心してたのよ」
「いや…まあ確かにそれは本当だし感謝もしてるけど、この人めちゃくちゃ性格悪くて有名だったんだよ! そんな人とシュカがだなんて…!」
言葉にならない雄叫びを上げながら頭を抱えたイーサンはテーブルに突っ伏してしまった。
今度は両親から蚊帳の外に追いやられてしまったシュカは大きな目を瞬かせると、ルクシウスに顔を寄せて彼に耳打ちする。
「ルクシウスさんはお父さんの先輩だったんですか?」
「ああ、君が今通っているラディアス魔術学校時代のね。当時のイーサン…君の父上殿は勉強があまり得意ではなくて、寮では私と同室だったこともあって試験前にはよく付き合わされたものだ」
「そうだったんだ…。ルクシウスさんは学生の頃から優秀だったんですね」
シュカはとろりと目元を緩めてルクシウスを見上げた。
「そんなにすごい人が僕の恋人だなんて…」
「私こそ、シュカのように素直で愛らしい子が恋人でとても嬉しいよ」
シュカとルクシウスは今度こそ手を取り合って完全に二人だけの世界に浸る。
見ているほうが恥ずかしくなりそうな二人の仲睦まじい様子に、ミシェーラは夫と付き合いはじめたばかりの頃を思い出した。
恋は盲目。その言葉のとおり、二人で一緒にいられれば他には何もいらないと本気でそう思っていたあの頃が懐かしくてくすぐったい。結局、現実がそんなに甘くはないとすぐに知ってしまったけれど、それでも夫を愛し、シュカを授かれたことは何物にも変えがたい幸運だったと思う。
だから愛しい息子にもそんな幸せを手に入れてほしいと願うのは母として当然の願いだ。
「そうだわシュカ。お母さん、うっかりしててお茶を淹れるのを忘れてたの。悪いけど四人分、淹れて来てくれる?」
「うんっ!」
元気いっぱいに頷いてキッチンに向かう息子の後ろ姿を見送ったミシェーラはそれまでの微笑を収め、真顔でルクシウスを見た。
「ここからは少し、大人だけでお話ししましょうか」
シュカの足音が遠ざかったことを確認したミシェーラがふわりとした笑みを浮かべた。
親子なのだから当然だが、シュカと彼女は面立ちがよく似ている。髪の色も瞳の色も二人はほとんど同じだ。しかしおとなしく控えめなシュカとは違い、ミシェーラの性格は母親らしい逞しさに満ちていた。
昔から感情的で神経質で頭に血が上りやすいイーサンを言いくるめるのは容易いが、ミシェーラは一筋縄ではいかないだろう。ここからが本番だとルクシウスは気を引き締めた。
「さっきも言ったように、私は二人の交際を認めます。シュカから聞いている限りでは、ちゃんとあの子のことを大切にしてくれているみたいですしね。でも、交際を認める代わりに条件が三つあります。よろしくて?」
「もちろんだとも」
「一つ目は、シュカを生涯かけて幸せにしてくれること。二つ目は、シュカが成人するまでキス以上の行為は一切しないこと。あの子は嘘をつけない子です、何かあればあの子が口に出さなくてもわかりますわ。母親ですもの」
どこから見ても母親の顔で言い重ねるミシェーラを見つめ返したルクシウスは、しっかりと頷いて見せた。
シュカが両親の愛情をめいっぱい受けて育った、どこまでも素直で純朴な少年であることは理解している。そんな彼を傷付けようだなんて気持ちは毛頭ない。
「三つ目の条件は、シュカとの婚約です。もちろん、今日この場で」
「ミシェーラ、婚約だなんてまだ早いよ!」
「あなたは黙ってて。いつまで経ってもヘタレなんだもの任せてられないわ」
目尻を吊り上げて息巻く夫に向けるミシェーラの視線は冷ややかで、容赦のない妻からの言葉にイーサンは再びテーブルに沈没する。そんな夫に鼻から息を漏らしたミシェーラはルクシウスに視線を戻した。
ルクシウスは、ほんの少しの迷いだって見逃さないと言わんばかりの鋭い視線を真っ向から受け止める。
「条件は三つとも受け入れよう」
しっかりと頷いたルクシウスに、シュカの母は美しく微笑んだ。
その表情はやはりシュカとよく似ている。シュカがあと何年か歳を重ねたら、きっとさらに似るのだろう。
「ルクシウスさん。この人はこんなこと言ってますけど、反対はしていないと思います。ただちょっと父親としては複雑なだけで」
「それはそうだろうね。息子が自分よりも年上の男を恋人だと連れて来たら誰だって反対したくもなるさ。…母上殿としても心中は複雑なのでは?」
「いいえ、と…はっきり頷けないことは事実です。奥手なシュカがこんなにも早く恋人を連れて来るなんて思ってませんでしたもの。昔から本ばかり読んでいるおとなしい子だったのに、いつの間にこんなに立派な人を捕まえたのかしら」
「いや、失礼。その…私がシュカと同性だということは気がかりでは?」
思い切ってルクシウスが切り出すと、ミシェーラはぱちぱちと瞬いた。
「愛には年齢も性別も関係ありませんわ」
至極きっぱりと言い切った彼女に、ルクシウスはシュカに告白した夜のことを思い出して肩を竦める。
「どうやら私は母上殿にも敵わないようだ」
「あらあら、ふふ。ルクシウスさんがこの人みたいにシュカの尻に敷かれてしまうのも時間の問題かしら?」
「肝に銘じておきましょう」
ルクシウスとミシェーラが和やかに会話を弾ませる間も、イーサンはテーブルに突っ伏したまま動かなかった。
「お母さん、お茶淹れてきたよ」
やがて危なっかしい足取りでお茶を運んできたシュカは盆をテーブルに乗せながら、突っ伏して動かない父を見て首を傾げた。だが、彼の関心はすぐに恋人へと向けられる。
「あの…お口に合うといいんですけど」
「ありがとう」
ルクシウスの前に置いたカップにはコーヒーが注がれている。
初めてルクシウスの家に泊まりに行った時に彼が普段はコーヒーを好んで飲んでいるのだと聞いてから、シュカは暇さえあればコーヒーを淹れる練習をした。
立ち上る香りはとても好ましかったけれど、熱くて苦くて、シュカにとってコーヒーは大人の飲み物だった。初めて飲んだ時にはあまりの苦さに眉間にシワを浮かべてしまい、ルクシウスはこれがおいしいと感じるのだと非常に難しい気分になったものだ。
少しでも早く大人に近付きたくてまめに飲んではいるものの、相変わらず砂糖とミルクを入れないと満足に飲み干すこともできない。
(少しでもおいしく淹れられてるといいな…)
先ほど母に促されて立ったキッチンにはコーヒーを淹れるための一式が揃えられていた。
練習の成果を披露できるように、わざと自分にお茶を淹れるように言ってくれたのだと気付いたシュカがちらりと視線を向けると、母はまるで悪戯好きな少女のように可愛らしく笑った。
椅子に座り直してルクシウスを窺うように視線を向けたシュカは、ブルーグレーの瞳が優しい色味を含んで自分に向けられたことに気付いて頬を染める。
「上手く淹れられているね」
「本当ですか? 良かったぁ」
カップを片手にルクシウスが微笑むのを見て、シュカも自分用の砂糖とミルクをたっぷりと混ぜたカフェオレに口を付ける。
砂糖とミルクのせいでコーヒーは本来の苦味をほとんど失っていた。こんな甘い味をおいしいと感じてしまう自分は紛れもなく子供で、ルクシウスのようにコーヒーに何も入れずに飲めるようになる日は来るのだろうかと不安になってしまう。
焦っても意味はない。そうわかっていても、何の引け目もなくルクシウスの隣に立てるようになりたいと逸る気持ちは虚しく空回る。
「そうだ、シュカ。先ほどご両親から正式に交際の許可をもらえたよ」
不意打ちで告げられた言葉に噎せそうになり、シュカは慌ててカップをテーブルに置いた。
口を押さえて目を白黒させながらルクシウスを睨むように見上げると、彼はさも楽しげにブルーグレーの瞳を細めて、動揺するシュカを見つめ返す。
「交際の条件の一つとして、この場で婚約をすることになった」
「婚約…? え、それってルクシウスさんと、僕が?」
「そうだよ。私達しかいないだろう?」
優しい声で念押しされ、シュカは声も息も飲み込んだ。
無言で見つめ合う二人の目の前に、いつの間にか復活していたイーサンが一枚の紙を置く。『婚約宣誓書』と記されたそれをシュカはまじまじと見つめた。
「先輩ならわかると思いますけど、この宣誓書は特殊な魔術をかけた紙を使ってます。一度サインしたら、然るべく手順を取った場合以外には物理的にも魔術的にも破壊することはできませんし、それは校長にさえ賢者と言わしめた先輩でも例外じゃありません。それでもサインしますか?」
「するとも」
宣誓書と一緒に差し出された羽根ペンを使いサインを済ませてしまうと、ルクシウスはそれを隣に座ったシュカの前に滑らせる。
シュカはそっとそれを手に取り文面に目を通した。
「『私はシュカ・カレットとの結婚を前提とした誠実な交際を、ここに宣誓する。ルクシウス・ブラッドナイト』…って、え、あの…結婚って?」
「君が大人になって、その時にもまだ私と共にいたいと思ってくれているのなら結婚しよう。これはそれまでの約束の証だ」
シュカはルクシウスの言葉に喜びを感じるよりも先に、言いようのない濁流のような憤りが腹の奥から込み上げるのを感じた。
唇を噛んで無言で羽根ペンを取ると、感情に任せていつもよりも少しばかり乱暴な手付きで自分の名前を書き、父の前に突き返す。
「こんな紙にサインなんてしなくても、僕はルクシウスさんとずっと一緒にいる! 大人になってもルクシウスさんの傍にいたいし、どんなに歳を取ったってルクシウスさんのことが大好きだよ! こんなっ、紙に書かなくちゃいけないような中途半端な気持ちで好きになったわけじゃない…っ」
激情に任せて言う間にもシュカの頬を大粒の涙が伝う。どんなに言葉を尽くしてルクシウスのことが好きだと言っても、子供だから信じてもらえないのかと悔しい気持ちでいっぱいだった。
でもきっと、たぶんそうなのだろう。両親から見れば自分はまだ未成年だし、ルクシウスとは倍近くも年齢が離れている。しかも同性だ。
(でも……でも、僕は…!)
ルクシウスのことが好きだ。そう思っている気持ちだけは否定されたくなかった。
告白されて、それを受け入れて、恋人として過ごした一ヶ月は宝物みたいにキラキラしていて、最初よりももっとルクシウスのことが好きになっていた。どうしたらこの気持ちを理解してもらえるだろうか。自分が知っている限りの言葉を並べても足りない気がしてもどかしい。
嗚咽を殺して震えるシュカの肩にルクシウスが手を乗せる。泣いてしまった自分を慰めようとしているのはシュカによくわかっているけれど、なかなか涙を止めることができなくて、居間にはシュカが鼻を啜る音が響いた。
イーサンは婚約宣誓書を受け取り二人分のサインを確認すると、人目につかないように保管するため魔術で別の場所へと転送してしまう。それからまるで挑むような目でルクシウスを見た。
「ブラッドナイト先輩…息子をよろしくお願いします。俺とミシェーラとの大事な子です。傷付けたりしたら、アンタでも絶対に許さない」
「そんな心配は無用だ。条件もきちんと守る」
シュカは涙を拭いながらルクシウスを見た。
条件とは一体何のことだろう。自分の知らない話をされるのが悲しくて、また涙が込み上げそうになる。
そんなシュカにテーブルの向こうから母が声をかけた。
「お母さん達とルクシウスさんとの秘密の約束よ。今は言えないけれど、シュカが成人する時に教えてあげる」
「ほんと? 約束だよ?」
「ええ、約束するわ」
そう言って母は優しく微笑んでくれた。
***
「ん……」
カーテンの隙間から差し込んだ朝日がシュカの顔に当たり、眩しさに顔を顰める。
たった一秒前まで見ていた夢の気配があっという間に遠退いていくのが惜しくて掛け布を被って寝直そうと伸ばした手に布とは違う感触が当たった。寝ぼけながらシーツの上を探るけれど掛け布は見つからない。おかしい、掛け布はどこへ行ってしまったんだろう。
夢から覚めきらない頭で疑問を抱えながら目を開けたシュカは、自分のすぐ目の前にいる人物に焦点を合わせると一気に覚醒した。
「ひぇ…っ」
音がしそうなほど急激にシュカの顔に血が上る。
そうだ、昨夜は今やすっかり毎週末の恒例となったルクシウスの家へのお泊りの日だった。
目を丸く見開いて驚くシュカを見つめる知的なブルーグレーの瞳はしっかりとしていて、起きたばかりとは思えない。もしかしたら寝顔をずっと見られていたのではないかと気付いたシュカの顔に上った血は一気に下がる。
ルクシウスはおもしろそうに僅かに目を細め、顔色を目まぐるしく変えるシュカの髪を指先で掬った。
「おはよう、シュカ」
「お、おはようございます、ルクシウスさん」
全力で走った時のようにうるさく騒ぐ鼓動を寝間着の上から押さえつつ朝の挨拶を交わす。
自分の家の自分のベッドではない場所で目覚めるのはまだ両手の指だけで数えられるほどでしかないけれど、もっとたくさん回数を重ねても、きっと懲りずにドキドキしてしまうのだろう。
そんな考えを読み取ったようにルクシウスはふと笑ってシュカを引き寄せると、赤く染まった頬に優しいキスをしてくれた。
ほんの僅かに伸びた髭が当たる小さな痛みすら彼に愛されている証だと思えば愛しくて、戯れるみたいに触れるだけのキスでさえもシュカの心臓を熱く高鳴らせる。
「朝食を用意するから顔を洗っておいで」
「は、はい」
頬を押さえたまま頷くシュカをベッドに残してルクシウスはキッチンへ向かった。
シュカは赤く染まりきってしまった頬を冷ますために洗面所で顔を洗い、歯も磨いてリビングへと足を向ける。既にリビングには食欲を誘う香りが立ち込めていた。
ルクシウスは慣れた手付きでベーコンと玉子を焼いて、薄切りのパンに乗せて軽く胡椒を振りかけ、あたためた鍋から昨夜の残りのスープを器に注ぎ分ける。手際の良さに感心して立ち尽くしていたシュカに気付いたルクシウスが穏やかに微笑んだ瞬間、シュカの胸はきゅんと柔らかく痛んだ。
「僕も何かお手伝いします」
「そうかい? じゃあ、これをテーブルに並べてくれるかな」
「はい」
ルクシウスが示したのはパンを乗せた二枚の皿。シュカは急いで頷いてそれをテーブルに運んだ。サラダとスープの器も並べると、それぞれ椅子に座る。
「いただきます」
二人揃ってする食事の前のお祈りにも慣れた。
たったそれだけのことにも幸福感を募らせたシュカは、最高の焼き加減のベーコンと玉子をパンに乗せて頬張り、サラダもスープもあっという間に平らげた。
ごちそうさまも二人で声を揃えると、シュカは食べ終わった食器をシンクへと運んだ。
「私は支度をしてくるよ」
「はい、食器を片付けたら僕もすぐにそっちに行きますね」
料理はいつもルクシウスがしてくれるが、使った食器や調理器具を洗うのはシュカの担当だ。
本当はもっといろいろとお手伝いをしたいのだが、元よりここはルクシウスの家であることと、慣れないキッチンで火を使うのは危ないからと、優しくて少々過保護な年上の恋人は頑として譲ってくれなかった。
だったらせめて食器を洗うくらいはさせてほしいと散々食い下がってお願いした結果、根負けしたのはルクシウスだった。
家でも普段から手伝っているため食器洗いは慣れている。洗うだけで良いとそれ以上のことは許可されなかったが、そうだとしても何かひとつでもルクシウスのためにできることがあるのは嬉しい。
シュカは鼻歌交じりに手早く食器を洗い、シンクの横の水切り籠に置いた。
「僕も早く着替えないと」
両親公認の恋人になってから、ルクシウスはシュカのために月に一度は必ず週末に休みを入れてくれるようになった。普段から誰よりも真面目で仕事熱心な彼なのに恋人としての気遣いもできるなんて惚れ直すしかなくて、シュカの頬は毎日緩みっぱなしだ。
寝室に戻ると、夏らしいライトカラーのスラックスに薄手のシャツを着込んだルクシウスが鏡に向かって髪を整えているところだった。
仕事中よりも少しだけ緩く流された前髪が艶めいている。きちんと整えられて清潔感のある普段の髪型も好ましいけれど、休日用のラフさを感じさせるこの髪型だってもちろん好きだ。
あんまりにも見つめすぎていたからか、鏡越しのルクシウスの視線がシュカに向く。慌てて視線を逸らしたシュカは薄く熱を持った頬を隠すように俯いた。
(見てたの気付かれちゃったかな…)
シュカはそそくさと自分の鞄から着替えのシャツを引っ張り出した。
今日は二人で街まで出かけるのだ。ついつい足取りは軽くなる。
ルクシウスの家の前に止まっていた馬車は二頭引きの小さめのもので、行き先は既に告げてあるらしく、二人が乗り込むとすぐに動き出した。
「ルクシウスさん、窓を開けてもいいですか?」
「ああ、いいとも」
許可を得たシュカが窓を開けると、待ち構えていたように爽やかな風が吹き込んだ。いよいよ本格的に夏が近付いて空から降り注ぐ日差しは強さを増しているが、常に静かな風が吹き抜けるこの辺りは暑さも緩やかで過ごしやすい。
瑞々しい風を胸いっぱいに吸い込んで満足したシュカは、日除けのローブを脱いだルクシウスの横に座り、押し付けがましくない程度に寄り添った。
「シュカ」
「はい」
呼ばれて顔を上げると、ルクシウスがシュカの肩に腕を回してそっと引き寄せてくれた。頬に触れてくるもう片方の手は壊れやすいものに触るみたいにゆっくりだ。
そんなに簡単に壊れやしないのに。そう思ってしまうこともあったけれど、シュカはそんな優しさを持ち合わせているルクシウスが好きで好きでたまらなかった。
風で頬にかかる髪の先を払ってくれるルクシウスの指先は、本に触れ続けているためかやや硬い。その感触がまたいてもたってもいられないくらいに好きなのだから、自分はかなりの重症だと頬に苦笑が浮かんでしまう。
倍ほども歳の離れた恋人はいつもこうして親鳥が雛を包み込むように優しく触れてくれる。けれどシュカはだんだん物足りなくなって、触れるだけのルクシウスの手に自分から頬を押し付けた。そんな戯れを、これまで幾度となく繰り返している。
ルクシウスがシュカの両親に交際の挨拶をしてから、もう少しで一ヶ月になろうとしている。
一悶着あったようななかったようなあの日から、シュカはいまだに自分がルクシウスと婚約したことが信じられずにふわふわと夢の中を彷徨っているような気分だった。
(夢、じゃないよね…?)
さらに抱き寄せられて髪にキスをされるとルクシウスの髭が頭皮に当たって微かに痛んだが、その痛みさえ幸せすぎる日々が夢ではないことを教えてくれるような気がしてむず痒くなる。
シュカはちいさく笑い声を上げて自分からもルクシウスの顎にそっと触れた。
恋人として過ごすようになってから知ったのだが、ルクシウスは休日の朝だけは髭を剃らない。仕事の日にはどこにも隙を見せない彼の唯一の怠惰な面を見つけたシュカは嬉しくてたまらなくて、あまり触れる機会のないルクシウスの髭の感触を楽しんだ。
「ルクシウスさん、お髭が痛いです」
「ん? ああ、しまった。休日だからと剃るのを疎かにしてしまった。せっかくシュカと出かけるのだから剃れば良かったな」
「お仕事がある日はいつも剃ってますもんね。でもいいんです。お髭が伸びてるルクシウスさんは特別って感じがするから」
司書長としての凛々しい印象のルクシウスも気を抜いて髭の伸びたルクシウスも、シュカにとっては大好きな人に違いないし、他の人はきっとこんなルクシウスの姿は知らないはず。そう思うだけでシュカの心は喜びに弾んだ。
「うわぁ…賑やかですね!」
二時間ほど馬車に揺られて辿り着いたのは、たくさんの人で賑わう商都だった。ここは大小様々な店が立ち並び、生活必需品から魔術用具までありとあらゆるものが揃う。
シュカも両親と今までに数度訪れたことはあったが、今日は恋人と一緒だ。いつも以上に胸が高鳴って仕方がなかったけれど、シュカははしゃぎたい気持ちを堪えてルクシウスを振り返る。
「ルクシウスさん、今日は何を見に来たんですか?」
「図書館に置く本を増やそうかと思ってね。私が選ぶものは堅苦しいものばかりだと言われてしまったこともあるし、シュカにも選ぶのを手伝ってもらおうかな」
「僕でよければいくらでもお手伝いします!」
ルクシウスに頼られるなんて滅多にないことだ。少しでも彼の役に立てるのなら何だってやりたい。
意気込むシュカの手をルクシウスが握る。
「逸れてしまったら大変だから」
子供扱いしないでほしいと言いたい気持ちと、手を繋いでもらえたことを喜ぶ気持ちとが複雑に入り混じる。
結局シュカはルクシウスに手を引かれたまま雑踏の中に足を踏み入れた。
「あ、司書さん。いらっしゃい」
一軒の書店に足を踏み入れた途端、近くにいた店員がルクシウスを見るなりそう言った。
顔馴染みらしい店員がルクシウスを「司書さん」と呼んだことに、シュカは思わず笑ってしまう。休日で無精髭まで生やしているのに、ここでは仕事中の顔のまま過ごしているルクシウスを容易に想像できたからだ。
この店は新書だけでなく古書も扱っているようで、仄かに漂う古い紙とインクの匂いがルクシウスの書斎を思い出させる。
どんな本があるのかと考えて落ち着きをなくしたシュカの肩をルクシウスが引き寄せた。
「しばらくはここにいるからシュカも好きに見ておいで」
「でも…」
「まずは私が大まかに選んでおくから、その間は自由時間だよ」
「ありがとうございます」
シュカは嬉しそうに頷いて棚の奥へと足早に向かった。タイトルを見るだけであれもこれも読みたくなってしまって、最初の一冊を決めきれない。
一瞬で本に夢中になったシュカが棚の向こうに姿を消すのを見送ったルクシウスは、近くにいた店員に入荷したばかりの本を幾つか見せてくれるように声をかけた。顔馴染みの若い店員は気安く請け負い、まだ棚に並べる前の本を二十冊ほどカウンターの上に置く。
「ここ最近入荷したのはこの辺りですね。図書館に置くなら…これとかどうですか。最近話題になってる絵本作家の新作です」
「ふむ、これは良さそうだね。いただいていこうか」
「毎度あり」
薦められた絵本にすべて目を通し、絞り込んだ五冊を購入予定とする。
「あと、この冒険小説は子供に人気があるんですよ」
差し出された小説にも目を通したルクシウスは、そういえばシュカがこういった子供向けの本を読んでいるところを見たことがないと思い出した。生真面目で勉強熱心なシュカはいつも魔術の専門書ばかりを読んでいる。
「私の連れくらいの年齢でも読むだろうか」
「あー…ちょっと子供っぽすぎるかもしれませんけど、おもしろくはあると思います。実際うちの店のヤツにも、この小説に熱中してるのがいますから」
「そうか。なら、試しに置いてみることにするよ。村の子供達にも図書館に来てもらえるように、いろいろと企画を練ろうと思っていてね」
「じゃあ、たぶんこれは当たりだと思います。シリーズがもう何冊か出てるんで、あるだけ持ってきましょうか?」
「頼むよ」
店員は快く引き受けて在庫を探しに店の奥へと向かった。一人残ったルクシウスは改めて薦められた冒険小説を開いてみる。
物語の舞台はシュカが暮らす村とよく似た印象の山間の地域で、主人公は十七歳の少女だった。まず十七歳になるとくじ引きで職業を決めるというとんでもない設定に意表を突かれるし、こまめに挿絵も挟まれていて、これは確かに子供が楽しく読める作品だ。
「お待たせしました。とりあえず今のところは三冊分ありました」
「ありがとう。三冊すべていただこう」
「はいはい毎度あり」
購入予定の本に積み重ねられた小説は、まずシュカに読んでもらって感想を聞くのもいいかもしれない。きっとシュカは取り繕った感想なんて言わず、おもしろければおもしろいと瞳を輝かせてくれるだろう。
「あ、そうだ司書さん」
「何だい」
「いつも一人で来るのに珍しいから気になったんですけど、連れの子、司書さんと親しそうだけど身内って感じでもないし誰なんですか?」
「好奇心は猫をも殺すと言うだろう? 余計な詮索は身を滅ぼすよ」
ルクシウスは手にしていた本を購入予定のものに重ね、それから人が良さそうに見える笑みを意識して浮かべて見せた。
「ひえ、おっかねえの。ま、大体は今の反応でわかりましたけどね」
大袈裟に怖がっているくせに、店員の顔は真逆の表情だ。むしろ楽しんでいるようにも見える。
「あんな若い子を射止めるなんて、司書さんもなかなかやりますね」
猫のように目を細めて笑う店員は「俺も恋人欲しいなー」などとわざとらしく言いながら店の奥へと逃げていった。
ルクシウスは彼を見送り、以前ならばきっと不愉快に感じたはずのからかいに対して、それほど悪い気分になっていない自分を自覚して苦笑を漏らす。
「一目で見破られてしまうとは」
それほどわかりやすくシュカを特別扱いしていたということだ。
しかしあのままはっきりとシュカと自分が恋人だと告げていたとしても、きっとあの店員は動じなかっただろう。肝が据わっているというか何と言うか、少々喰えない性格ではあるが悪い人間でもない。
素直で真っ直ぐな性格を写したような見目のシュカは贔屓目を抜きにしても愛らしいし、婚約したばかりの恋人を見せびらかしたいという気持ちも否定できない。手を繋いだままこの店に入ったのは、きっとそんな感情の表れだったのだろう。
ただ、自ら進んで障害を作るような真似はしないようにとルクシウスは自分に言い聞かせる。
「…あの子が成人するのが待ち遠しいな」
にもかかわらず、ため息混じりに零れたのは浅ましいほどの欲望に塗れた本音だった。
若い頃の貪欲さは単にルクシウスの中で息を潜めていただけで、とうに尽きたと思い込んでいた性欲までもが活気を取り戻しつつある。
他には目もくれず一心に慕ってくる恋人は瑞々しい魅力に満ち満ちて愛らしく今すぐにでも貪ってしまいたくなるけれど、シュカが成人するまでの残り一年半の間はキス以上の接触をしないとシュカの両親にも約束してしまった。
もちろん誓約を反故にしてでもと思うほど年下の恋人を軽んじているわけではないし、宝物のように大切に手の中に閉じ込めて守りたいと思う気持ちも嘘ではない。
ただあまりにも真っ直ぐに向けられる信頼と好意には気の乗らない原稿以上に頭を悩ませられることもあって、それでも屈託なく笑うシュカを見るだけで渇望を覆い尽くすくらいの愛しさが込み上げてくる。
「まさかこの歳になってから本気の恋をするとはね」
青年期の火遊びを鼻で笑い飛ばしたくなるほど、シュカへの想いは一途で強かった。
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