愛を誓うならヤドリギの下で

月居契斗

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愛を誓うならヤドリギの下で 3

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 奥まった棚の前で、シュカは一冊の古書に夢中になっていた。
 古代魔術について記された本の中身は非常に興味深く、読んでいる間にも次の行が気になって、目で文面を追いかけるのを止められない。
 そんなシュカの肩にそっと重みがかかった。
「気になるものを見つけられたかい?」
「あ、はい。この本がとてもおもしろくて、ついつい読み込んじゃいました」
「おや…これは懐かしい」
「え?」
 ルクシウスは目を瞬かせるシュカの手から古書を取り、巻末の寄稿者一覧を開いて見せた。
「あ、これ…っ」
 シュカが驚きの声を上げる。
 印字されていたのは間違いなくルクシウスの名前だった。
「かなり前に人から頼まれて寄稿したんだよ。再版はしていなかったはずだが、こんなところに残っているなんて」
「ルクシウスさんが書いたものだって気付かなかった…」
「私は昔から大っぴらに名前を出すのが好きではなかったからね。寄稿の条件も『筆者名は最後に一度だけ載せる』だったかな」
 シュカはルクシウスから受け取った本の古びた背表紙を愛しげに指でなぞる。ルクシウスが寄稿していると知ってしまって買い求めたい気持ちは抑えられないのだが、付けられた値段は今日のシュカの手持ちの総額よりも少しだけ高かった。
(店員さんにお願いしたら、足りない金額が貯まるまでの間くらいは取っておいてくれるかも…)
 ものは試しだと一歩踏み出すよりも早く、道を塞ぐように立ったルクシウスがシュカの歩みを止めさせる。
 驚いて顔を上げると、思いがけないほど近くにお互いの顔があった。
「シュカ、こういう時は恋人に甘えたっていいんだよ」
 その言葉の意味に気付くまで、数秒かかった。ルクシウスが自分の代わりに本を買おうとしているのだとようやく考え至ったシュカは首を振る。
「でも…っ」
 頼まれていた本選びさえ満足にしないまま立ち読みに夢中になっていたのに、甘やかされるなんて心苦しい。シュカがはっきりとそう口にしても、ルクシウスは笑みを深くしてさらに顔を近付けてくる。
「たまにはちゃんと年上らしいことをさせてほしいな」
 小声で囁かれた耳が一気に火照った。
 その隙にルクシウスは完全に動きを止めたシュカの手から古書を抜き取ってしまう。
「代わりに、私が選んでおいた本を見てくれないか。カウンターに幾つか置いてあるから」
「わっ、わかりました!」
 背中を優しく押されたシュカは弾かれたようにカウンターに向かった。
 手が空いていた店員に声をかけると、簡単な説明と共に積み上げられた本を示される。
 礼を言って一番上に詰まれた本に手を伸ばすが内容なんて少しも頭に入ってこない。静まりきらない心臓の音がうるさいほど耳の奥で響いている。ルクシウスの低く落ち着いた声であんなことを囁かれたら誰だって自分と同じようになるはずだ。
 シュカは無意識に熱を持ったままの耳を擦り、頬の熱さを自覚しながらも必死で本の中身に目を通した。
 手にした絵本は心がじんわりとあたたまるような優しい物語で、淡い色の挿絵もとても良い。
「ルクシウスさん、この絵本、とてもいいと思います」
「ああ、やはりそれだったか。シュカが好きそうだと思っていたんだよ」
 ルクシウスも自分と同じこの絵本をいいと思っていたことがわかって、シュカは嬉しくて顔を綻ばせる。
「あとは、これもいいと思いました」
 店員から聞いた説明をルクシウスにも伝えると、彼は詰まれた本の中からさらに厳選した数冊をまとめて購入し、後日図書館に直接届けてくれるように手配した。
 きっと子供達はあの絵本を気に入ってくれるに違いない。そんな光景を想像するだけで微笑ましくて口元を綻ばせたシュカの目の前にラッピングされた本が差し出される。中身は見るまでもなく、シュカが欲しがった古書だ。シュカはそれを両手で受け取った。
「ありがとうございます、ルクシウスさん。大切にします」
「そこまで大袈裟なプレゼントでもないだろうに」
 そう言いつつもルクシウスも嬉しそうな顔をする。
 シュカはプレゼントされた本を丁寧な手付きで鞄にしまい、喜びを隠し切れないままルクシウスの手を握った。
 昼時を間近に迎えた商都は多くの人でごった返している。
「少し早いが昼食にしようか。この近くにうまいパスタの店があるんだが、どうかな?」
「はい。ぜひそこに連れていってください」
「じゃあ行こうか」
 ルクシウスが薦めてくれた店は、彼が言ったとおり書店から程近いところにあった。
 二人は注文したパスタを一口ずつ交換して食べ、食後にルクシウスはコーヒーを、シュカはよく冷えたカフェオレをゆっくりと飲んだ。
「とってもおいしかったです、ごちそうさまでした。トマトソースのもおいしかったんですけど、ルクシウスさんがくれた、ジェ…ジェ…?」
「ジェノベーゼ」
「それです、ジェノベーゼ! 初めて食べたんですけど、そっちも本当においしかったです」
「口に合ったようで安心したよ」
 店を出ると街はますます騒がしさを増していて、二人が食事をしたパスタ店はもちろん、周囲に隣接している飲食店も軒並み混雑している。
 店の前で順番を待つ人が列を作っているところもあるほどで、もしあの列に並んでいたとしたら食事にありつけるまで三十分以上かかっていただろうし、並んでいる間におなかが鳴って恥ずかしい思いをしていたかもしれない。
「早めに入れてよかったですね」
「そうだね。ところでシュカ、もう一軒付き合ってもらいたいところがあるんだが、いいかな」
「もちろんです!」
 そうするのが当たり前とばかりに二人は手を繋いで心地良い賑やかさで満ちた街を歩き、たまに気になった店先を覗きながら、ゆっくりとした足取りで目的の店を目指した。
 やがて金色の文字が輝く一軒の店の前でルクシウスが足を止めると、つられて足を止めたシュカは軒の上の看板の文字を読む。
「シェングン宝飾品店…?」
「この店は一般向けの宝飾品だけでなく魔術用具も置いているから、シュカも楽しめると思うよ」
 ルクシウスが躊躇うこともなく店のドアを開けると、ドアベルが軽やかな音を立てた。
 店の奥にいた店主らしい男性は目が覚めるような鮮やかなイエローのターバンを巻いていて、さらにそのターバンには色とりどりの輝石が縫い付けられている。街中で見かればかなり派手な装いだが、宝飾品店の店主としては相応しいのかもしれない。
「いらっしゃい。ごゆっくりどーぞ」
 人好きする顔立ちで笑った青年の気の抜けた声を背中に受ける。
 宝飾品店に入るのは初めてなシュカは気後れしてルクシウスに隠れるようにしていたが、色や大きさ、形も様々な宝石があちこちでキラキラと輝きを放つ光景に一瞬で目を奪われた。
「うわぁ、宝珠だ…!」
 一際大きな歓声を上げたシュカが駆け寄ったのは、色とりどりの宝石を使って作られた魔術師向けの宝珠だった。
 魔術師は一人前になるとこれらの宝珠を自分専用に拵えたロッドに嵌め込んで使用する。
 使われた宝石の違いによっての効果の差はそれほど大きくはないが、魔術師本人と石そのものとの相性があり、相性が良いほど魔術の能力は飛躍的に増大すると言われている。並べられているのは宝珠の中でもさらに大粒の宝石を使用した熟練者向けのもので、今のシュカにとっては夢のまた夢のようなアイテムだ。
 丁寧に磨かれた石はどれもこれも魅惑的で、それでいてどこまでも澄んだ輝きを持っている。ルクシウスから見ても宝珠の仕上がりはかなり上等なものだった。
「僕もいつかこういう宝珠を持てるくらいの魔術師になりたいな」
「なれるさ、シュカは努力家だからね。石もきっと君を好きになってくれるよ」
「ルクシウスさんにそう言ってもらえると心強いです」
 将来のことなんて誰にもわからないけれど、ルクシウスからそう言われるのは照れくさくて嬉しくて、それと同時にもっとがんばろうという気持ちが湧いてくる。
「そういえば、ルクシウスさんもラディアス魔術学校に行ってたんですよね。魔術師にはならなかったんですか?」
「ああ、そうか、その辺りのことはまだ話していなかったね」
 ルクシウスはそう言って視線を遠くに投げた。
「学校を卒業してから一応は魔術師にはなったんだよ。自分で言うのもなんだが、まあそこそこ優秀でもあったから就職先には困らなかった。ただね、その頃の私はものすごく他人が嫌いだったんだよ」
「えっ? ルクシウスさんが?」
 思いがけない言葉にシュカは目を真ん丸にしてしまう。今のルクシウスの仕事ぶりを見る限り、とてもではないが彼が昔は人嫌いだったなんて思えない。
 ルクシウス本人もそう思っているのか苦笑を浮かべている。
「だから仕事に就いてもなかなか職場の同僚達と馴染めなくて、どれも長続きしなかったんだ」
 ショーケースの中に並べられた淡い緑色の宝珠を見つめながら思いを馳せるのは、もうずっとずっと前のこと。とある辺鄙な小国の、お抱え魔術師になった時のことだ。
 若いが実力を持ったルクシウスを贔屓する少々不出来な国王と、見栄と出世欲の塊のような他の魔術師達に嫌気が差して、ルクシウスはよく単独で城外に出かけては宝珠に使う宝石の原石や魔法薬の原料となる草やキノコを集めたりしていた。
 そんな時に、弱りきった精霊と出会ったのがルクシウスを変えるきっかけとなった。
「出会ったのはヤドリギの精霊でね。もう今にも消えてしまいそうなほど弱りきっていて、そのまま消えていくのを見ているだけのつもりだったのに、気が付いたら自分のロッドの宝珠に宿して連れて帰っていたんだよ」
 ヤドリギの精霊は宝珠を通してルクシウスの魔力を吸収し、少しずつ元気を取り戻していった。
 力が極端に弱っていたせいかその精霊の姿はルクシウスにしか見えず、周りは精霊と会話しているルクシウスを「あんなに堂々と独り言してるヤツ初めて見た」と囁き合っていたらしい。元々遠巻きにされていたルクシウスはそんなことを気にも留めず、ヤドリギの精霊の喧しさに心底辟易した日々を過ごしていた。
 そんな喧しさも毎日続けばいつしか慣れてしまうもので、たまに癇癪持ちの子供のように騒ぎ立てる精霊に手を焼きながらも、ルクシウスはそんな日々がそれほど嫌だと感じなくなっていた。
 ルクシウスの魔力ですっかり元気になったヤドリギの精霊も何だかんだと言い訳をして森に戻ることはなく、むしろ快活に笑って「君の守護精霊ってヤツだよ」とさえ言った。底抜けに明るく呆れるほど元気で、ごく稀に肉親のように口喧しくなるヤドリギの精霊との生活は数年もの間続き、これからも続くのだろうとルクシウスさえ考えるようになっていた。
 けれど、別れは突然訪れた。
「その年は稀なほど雨が続いてね…領内のあちこちで河川の氾濫や土砂崩れが起こっていたんだ。私はもちろん他の魔術師達も、被害を受けた住民達の避難や住宅地に流れ込んでくる川の水や土砂を遮るので出ずっぱりだった。それでも何とか雨も弱りはじめて城に戻ろうかという時に、領内で一番高い山が土砂崩れを起こしたんだ」
 シュカは呼吸をすることさえ忘れたように聞き入っている。
 ルクシウスはそんな恋人の肩をそっと抱き寄せた。
「崩れた山の麓には国王が住む城が建っていた。…わかるだろう? 城にはたくさんの人がいる。王はもちろんだが、大臣、近衛兵…それだけじゃない。たくさんの人が働いていた。その城に土砂は容赦なく流れ込んだ」
 被害を想像したのか、シュカは息を飲んでルクシウスのシャツを握り締める。
「私達は慌てて城に戻って言葉を失った。城壁を押し流して、土砂は城の中にまで入り込んでいたんだ。崩れた壁に挟まれて助けを呼ぶ声があちこちから聞こえていたよ。もちろん私達は魔術を使って土砂を押し返そうとした。けれどね…それまで領内のあちこちで働き詰めだったせいで疲れきっていた私達ではどうすることもできないほど、被害は凄まじく甚大だったんだ」
「…それからどうしたんですか?」
 不安に揺れるシュカの目に視線を合わせたルクシウスが、あやすように髪を撫でてくれる。ますますシュカはルクシウスのシャツを握る手に力を込めた。
「せめて一人でも多くの人を救おうと、私達はそれまでに一度だってないほど協力し合って土砂を押し返していた。みんな必死だったし、その場の全員が初めて同じ気持ちで立ち向かっていただろうね。しかしその時、また山が崩れたんだ」
「そんな…っ」
 恐ろしいほどの地響きと共に一度崩れた山頂がさらに大きく崩れ出す。
 このままでは自分達も危ないというのにルクシウスを含めた魔術師達は動かず、最後の力を振り絞って城と人を守るべくロッドを掲げて防御壁を作り出した。極限まで魔力を消耗している自分達の力だけでは防ぎきれないことなどその場の誰もがわかっていたけれど、逃げ出す者は誰もいなかった。
 意思を持った化け物のような土砂が城の目前まで迫ったその時、ルクシウスのロッドが――ロッドに嵌め込んだ宝珠が眩く強い光を放った。
「ルクシウス、こんな時くらいボクに頼ってよ。水臭いなぁ」
 充分に力が回復してもルクシウスにしか見えていなかったはずのヤドリギの精霊は、その場にいた全員の視線を受けて快活に笑い、そして迫り来る土砂を見据えた。
「ありがとうルクシウス。あのまま消えてしまっていたかもしれないボクを生かしてくれたキミには感謝してもしきれない。だからずっとお礼がしたかったんだ。精霊って結構、義理堅いんだよ」
「…何をする気だ」
「今度はボクがキミを助ける番だよってこと!」
 強く言い切ったヤドリギの精霊は轟音と共に迫り来る土砂に立ち向かい、魔術師達が力を振り絞って張った防御壁の外へと飛び出した。
「ボクの本気を見せてあげるよ!」
 その声と共に精霊の足元から一気に芽が吹き出した。一本や二本ではない。無数の木が新芽を伸ばし、力強く幾重にも枝を広げ、あっという間に壁となって土砂の前に立ち塞がる。
 それは永遠のような一瞬だった。
 精霊の力によって分厚い壁となった木々が土砂を真正面から受け止める。
 身体が震えるほどの衝撃が城内を揺らしたが、土砂はすべて防御壁の前に聳え立ち並ぶ木々が受け止めきっていた。誰もが息を殺してそれを見ていた。
 ようやく雲の切れ目から差し込んだ太陽の光が崩れた山と木々の壁を、そして城下に建つ民家の屋根を照らしていく。
「ヤドリギ…」
 耳が痛くなるような沈黙の中、ルクシウスは精霊を呼んだ。その時になってようやく精霊に名前を付けなかったことを少しだけ後悔した。
 きっともう遅すぎる後悔の予感にルクシウスの背中は震える。
「ヤドリギ!」
 防御壁の向こうへと駆け出したルクシウスの前に、ヤドリギの精霊はふわりと姿を現した。萌黄色の髪が柔らかに風を孕んで揺れる。
「どう? ボクだってこのくらいできるんだ」
「ああ、ああ…! よくやってくれた、すごいな、ヤドリギ…!」
「ルクシウスが魔力をくれたからだよ。根付いた枝を折られて消えかけてたボクを助けてくれて、ありがとう」
 明るい笑顔とは裏腹に、その姿は少しずつ薄くなっていく。
「もう一度宝珠に宿せば…!」
「いいんだ。ボクはこれで満足なんだから。さっき生えたあの木はみんなボクだよ。ボクは消えるんじゃない、ここで生きるんだ。だから……泣くなよ、ルクシウス」
 子供が駄々を捏ねるように首を振り、唇を噛むルクシウスの濡れた頬に精霊が労わるように手を伸ばす。そんな精霊の頬も濡れていた。
 まるで水晶のように煌いた雫が幾つも幾つも零れ落ちる。
「これはさよならじゃない。ヤドリギがどこかで芽吹くたびにボクはキミを思い出すから。だからルクシウス…こんな時にくらい笑ってくれよ。笑うことを覚えなくちゃ、いつか出会うキミの大切な人にも愛想を尽かされるぞ」
「そんな相手、できるはず…」
「ないなんて言うなよ? ヤドリギは永遠を願う恋人達の味方なんだ。そのボクがルクシウスにもできるって言ってるんだから間違いない」
 精霊の瞳が穏やかな笑みを浮かべる。
 芽吹き、いつか枯れる命を見守ってきたあたたかい目だった。どこまでも優しいその光を忘れはしまいと、ルクシウスは視界を遮る涙を瞬きで押し流す。呼吸が引き攣り、勝手に嗚咽が漏れた。
「誰かの傍にいることはちっとも怖くなんかないよ、ルクシウス。それに忘れないで…この世界のどこでだってボクはキミを、ちゃんと見守っているから」
 そうして差し込む光に溶け込むようにヤドリギの精霊は消えていった。
 ルクシウスは遠い思い出から戻り、瞬きをする。
「それ以来魔術師は辞めてしまったけれど、ロッドは今でも残してあるよ。家に戻ったら見るかい?」
「はい…見せて、ください」
 溢れて止まらない涙を拭いながらシュカは必死に頷いた。ルクシウスにこんなにも切ない出来事があっただなんて、ちっとも知らなかった。
 俯いて肩を震わせ、それでも健気に顔を拭うシュカのプラチナブロンドの髪にルクシウスが指先を埋める。
 そのあたたかくて優しい手がたまらなく愛しい。
「シュカ、ほら、そんなに泣くとヤドリギに笑われてしまうよ」
「はい…っ」
 懸命に笑って見せた自分の頬を撫でて涙を拭ってくれるルクシウスに精一杯の愛情を捧げようとシュカは誓った。ルクシウスが話してくれたヤドリギの精霊が呆れてしまわないように、自分が持っているすべての気持ちをあげたかった。
「あの…良かったらこれ使ってください」
 おずおずと声をかけてきた少年は、ふんわりとした感触のタオルを差し出している。あまりにも泣いているシュカを見てわざわざ持って来てくれようだ。
 少年はシュカと似たくらいの年齢で、入店した際に出迎えてくれた青年が頭に巻いていたターバンと良く似た鮮やかな金髪が随分と印象的だった。
「すまないね。気を遣わせてしまって」
「いいえ。連れの人が落ち着くまで、ゆっくりしてってください」
 軽く頭を下げた少年はこの店の従業員だったらしく、派手な装いの青年がいる店の奥へと入っていった。
 シュカはルクシウスの手からタオルを受け取り、小さく謝罪しながら頬を拭う。
「シュカが落ち着くまでちゃんと待っているから焦らなくていいよ」
「はい」
 シュカがタオルに顔を埋めてすんすんと鼻を鳴らして感情の昂りを鎮めている間に、ルクシウスは派手な青年と何かを話し込んでいた。
 何の話をしているかまでは聞こえなかったが、やがて青年が店の奥に向かって声をかける。すると先ほどシュカのためにタオルを持ってきてくれた少年がすぐに顔を出した。少年も交えて三人で何を話し込んでいるのか気になり、ようやく涙が治まったシュカはタオルを丁寧に畳んでそちらに近付く。
「すみません…タオル、ありがとうございました」
「おー、気にしない気にしない。それよりちょっと手、貸してもらえる?」
「? はい」
 言われるがまま両手を差し出すと、派手な青年は迷わずシュカの左手を掴んで何かを確認するようにあちこちを触りはじめる。
 彼が何をしているのかわからないシュカは思わず救いを求めるような視線をルクシウスに送ってしまった。大丈夫だと言っているような視線が一瞬だけ交わる。
 手を離されると、今度は金髪の少年が小さめのトレイを差し出した。
「これをひとつずつ持ってもらっていいですか? あ、持ってる間はなるべく静かにお願いします」
「は、はい…」
 シュカの小指の爪ほどもない小粒の石は見るからに宝石とわかるものから岩に近い質感のものまである。言われたとおり端から順にひとつずつ手に取っていく。
 その間、派手な青年までもが石になったかのように静けさを保っていた。
「ありがとうございます。大丈夫です」
「今の、何だったんですか?」
 一通り小粒の石を手に取っただけだが、これで何かわかるのだろうか。
「コイツ、こんなクソ地味な見た目のクセにすごいんだ。石の声がわかるんだぜ」
 青年が傍らの少年の髪をめちゃくちゃに掻き混ぜながら言った。頭を片手で鷲掴みにできそうなほど大きな掌で混ぜられた金髪は見るも無残に乱されてしまう。
 その手から必死に逃れた少年は縺れきった髪を整えつつ隣の青年を睨み付けた。
「ちょっともー! 変な言い方したらお客さんが不審がるっていっつも言ってるでしょ! あとお客さんには敬語使えよ! あっ、俺がわかるのは石の声っていうか音です! その人と相性のいい石が何となく音として聞こえるっていうか…わかんないかもですけど……」
 だんだんと尻すぼみになる少年の声に、シュカは慌てて首を振った。
「僕には石の声とか音はわかりませんが、石との相性がわかるっていうのはすごいなって思います。僕、魔術師を目指してて今もそのために学校に通ってるんですけど、いつか一流の魔術師になれたら自分と相性のいい石を使った宝珠を持ちたくて…。ええと、つまり、その…そういう人の手助けができるってこと、ですよね?」
「あ、うん。そういう感じ、です」
「それってすごいなって思います。石との相性って正直、僕にはわからないから」
「そうだね。使ってみてからわかることが大半だから、君のように最初から石と持ち手の相性がわかるというのはとても貴重なことだと思うよ」
 シュカとルクシウスの言葉を受けて、少年がおぞずと顔を上げる。
「自信持てって。お前は自分が思ってるよりもずっとすげーんだぞ」
「わっ、ちょ、わかった! わかったから髪の毛ぐしゃぐしゃにしないでよ!」
「すんませんねー、コイツ店長代理のクセに自分の能力を売り込むのがドへたくそで」
 シュカはルクシウスと顔を見合わせた。
「あなたが店長では?」
「いんや、俺はただの従業員兼用心棒。こんな貧相なガキ一匹しかいない宝飾品店なんて、ぜひ強盗に入ってくださいって言ってるようなもんだろ?」
「ふむ。確かにあなたのように目立つ人物なら店にいるだけで抑止力にはなるか」
「そういうことー。本物の店長は石の買い付けに行ってて留守なんだ」
 軽快に笑う派手な青年の身体は確かによく鍛えられているし、彼が身に着けているたくさんの輝石も人目を引くには充分だ。まさに歩く防犯装置と言ったところか。
「あとはまあ、コイツがひとりぼっちは怖いから一緒にいてーって泣き付いてきたから一緒にいるって感じかね」
「泣き付いてないし! 仕方なくって思ってるんなら出てってくれて結構です!」
「あんま可愛くないこと言うなよ。本当に出てったらマジ泣きするだろ」
「泣かねーわ!」
 一際威勢良く吼えた少年が青年の腹に拳を叩き込む。なかなかに良い筋のパンチにもかかわらず青年は少しのダメージも負っていない。
 逆に硬い腹筋で拳を痛めたのか、少年は涙目になり手を擦りつつ「もう知らないからな!」と捨て台詞を残して店の奥へと引っ込んでしまった。足音も荒く階段を上る音が聞こえてくる。どうやら二階が住居スペースになっているらしい。
「だ、大丈夫ですか?」
「あとでドーナツの一個でもくれてやりゃあ機嫌は直るさ」
 シュカが気になったのは青年の腹筋もだったが、どうやらそちらは気にしなくても平気なようだ。
「ま、そういうことで、これからもご贔屓に」
 まるで大きな猫のような青年の笑顔に見送られたシュカはルクシウスと共に店を出た。
 まだ陽は高かったけれど、そろそろ帰ろうと手を引かれ、ルクシウスの手をしっかりと握り返す。
「もし…いつか僕が一流の魔術師になれたら、さっきのお店で宝珠を選ぼうって思いました」
「ああ、そうするといい。あの少年の能力はきっと本物だ」
「ルクシウスさんも石の声とか音とかがわかるんですか?」
「あの少年ほどはっきりとではないよ。ただ、あの店に並べられていた宝珠はどれも素晴らしいものだった。的確に石の性格を見抜いた加工を施されていたよ。それは間違いない」
「そうなんだ…。僕、もっといっぱい勉強します。勉強だけじゃ足りないかもしれないけど、良い魔術師になりたいです」
 決意を込めて見上げると、シュカの大好きな優しい微笑が浮かんでいた。
「なれるとも、シュカなら」
 疑うことなくそう言ってくれるルクシウスのことを好きになって良かったと、シュカは幸せな気持ちで微笑んだ。
 馬車は朝来た時と同じ場所に止まっていた。ルクシウスが木陰で昼寝をしていた御者に声をかけると、日避け代わりの帽子を顔から退けた御者は大きくあくびをしてから起き上がり、手早く自分の馬を繋いで御者台に座った。
 シュカはルクシウスに支えてもらいながら馬車に乗り込んで、座り心地の良い椅子に腰を下ろす。
「今日は楽しかったかい?」
「はい! 素敵な本も見つけられたし食事もおいしかったし。それにルクシウスさんのお話が聞けて、とても嬉しかったです」
「そうか。楽しんでくれて良かった」
 そう言って笑うルクシウスにシュカはしっかりと寄り添った。ルクシウスの大きな手が肩を抱いてくれるのが嬉しくて幸せで、居てもたってもいられない気持ちになる。
 今にも身体から溢れてしまいそうになる感情を寸分違わずに伝えられる言葉を見つけられなくて、シュカは思い切って手を伸ばした。髭の感触を手のひらで感じるとますます鼓動が高鳴っていく。
「ルクシウスさん…あの、僕…」
「どうしたんだい?」
「えっと、その…っ」
 勝手に顔が熱くなっていく。
 シュカは目を伏せて小さく息を吸っては吐き出し、それを二回繰り返してから、もう一度ルクシウスと視線を合わせた。こんなことを言うなんてはしたないと思われてしまうかもしれないが、それでも押し込めることができなかった気持ちを今度こそ言葉にする。
「き…キス、したい、です…」
 心底からそう思っているのに、口から溢れたのはほんの小さな音でしかなかった。
 聞こえたかどうか心配だったが、ブルーグレーの瞳を見開いたルクシウスの様子を見たシュカはちゃんと聞こえたんだと安堵する。
 安堵と、それよりも倍くらい強い羞恥がますますシュカの頬を熱くした。
「シュカ」
「は、ぃ…」
「どこまで君に触れていい?」
「え?」
 聞かれたことの意味がわからずにシュカが顔を上げると、ルクシウスは思いがけず真剣な顔をしていた。
「今までのキスは手と頬と額にだけしていたが、今の君はどこにキスをしてほしいと思っているのかな」
「え、えっと…それは…」
 すぐには答えられずにシュカは俯いた。
 両親公認の交際も一ヶ月をゆうに過ぎたというのに、ルクシウスとの恋人らしい接触は子供っぽいキスだけのまま。ほとんどは頬か額に。
 たまに手の甲にしてくれるキスは童話に出てくる王子様みたいでシュカをときめかせたし、最初こそ子供だましのキスでも充分すぎるほど幸せで、ドキドキしすぎて、それ以上のことを考えられなかった。
 なのにシュカは日が経つにつれてしょんぼりと寂しくなった。ルクシウスの気持ちを疑うわけではなかったけれど、恋人がするような唇へのキスをしてくれないことが不安で仕方なかった。
 自分には恋人としての魅力がないのか子供だからダメなのかと悩みもしたが、ルクシウスは今、はっきりとしたシュカの答えを求めている。恋人でいる覚悟はあるのかと聞かれているのだと何となく気付いて、シュカは渇いた喉に唾を流し込んだ。
 ルクシウスからすれば成人してもいない自分はまだまだ子供にしか見えないのはわかっているけれど、たとえ両親に反対されたとしても貫きたいと思ったほどルクシウスのことが好きなのだとシュカは覚悟を決める。
 ずっと夢見ていたのだ。ルクシウスと恋人のキスをする日を。
「く…くちび、る、に……して、ください」
 たどたどしい言葉を必死に搾り出しながら、ルクシウスの頬を包む指が震えてしまう。さすがに自分から唇を寄せるほどの勇気を持てないシュカはきつく目を閉じた。
「シュカ。君が好きだよ」
 蕩けてしまいそうなほど優しい声が聞こえたと思ったら、唇にあたたかく柔らかいものが触れた。自分の唇に触れたものが何なのか目を開けなくてもわかる。
 この日を、この瞬間を待ち侘びていた心が芯から震え、喜びが溢れて涙となって零れていく。目を潤ませたシュカはルクシウスの頬に触れていた手を動かして彼の首へとしがみ付いた。
「大好きです、ルクシウスさん…っ」
 きゅうきゅうと甘く痛む胸から飛び出した想いを言葉にして、シュカはもう一度目を閉じる。
 唇同士が軽く触れるだけのキスだったけれど、シュカにとっては生まれて初めての特別なものだ。頬を摺り寄せて感じるルクシウスの無精髭さえもが愛しくてたまらない。
 馬車がルクシウスの家へと辿り着くまでの間、二人は何度も何度も繰り返し幸せなキスを重ね合った。

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「辰巳会の次期跡取りは、俺の息子――辰巳悠真や」 大阪を拠点とする巨大極道組織・辰巳会。その跡取りとして名を告げられたのは、一見するとただの天然ボンボンにしか見えない、超絶美貌の若き御曹司だった。 しかも、現役大学生である。 「え、あの子で大丈夫なんか……?」 幹部たちの不安をよそに、悠真は「ふわふわ天然」な言動を繰り返しながらも、確実に辰巳会を掌握していく。 ――誰もが気づかないうちに。 専属護衛として選ばれたのは、寡黙な武闘派No.1・久我陣。 「命に代えても、お守りします」 そう誓った陣だったが、悠真の"ただの跡取り"とは思えない鋭さに次第に気づき始める。 そして辰巳会の跡目争いが激化する中、敵対組織・六波羅会が悠真の命を狙い、抗争の火種が燻り始める―― 「僕、舐められるの得意やねん」 敵の思惑をすべて見透かし、逆に追い詰める悠真の冷徹な手腕。 その圧倒的な"跡取り"としての覚醒を、誰よりも近くで見届けた陣は、次第に自分の心が揺れ動くのを感じていた。 それは忠誠か、それとも―― そして、悠真自身もまた「陣の存在が自分にとって何なのか」を考え始める。 「僕、陣さんおらんと困る。それって、好きってことちゃう?」 最強の天然跡取り × 一途な忠誠心を貫く武闘派護衛。 極道の世界で交差する、戦いと策謀、そして"特別"な感情。 これは、跡取りが"覚醒"し、そして"恋を知る"物語。

過去のやらかしと野営飯

琉斗六
BL
◎あらすじ かつて「指導官ランスロット」は、冒険者見習いだった少年に言った。 「一級になったら、また一緒に冒険しような」 ──その約束を、九年後に本当に果たしに来るやつがいるとは思わなかった。 美形・高スペック・最強格の一級冒険者ユーリイは、かつて教えを受けたランスに執着し、今や完全に「推しのために人生を捧げるモード」突入済み。 それなのに、肝心のランスは四十目前のとほほおっさん。 昔より体力も腰もガタガタで、今は新人指導や野営飯を作る生活に満足していたのに──。 「討伐依頼? サポート指名? 俺、三級なんだが??」 寝床、飯、パンツ、ついでに心まで脱がされる、 執着わんこ攻め × おっさん受けの野営BLファンタジー! ◎その他 この物語は、複数のサイトに投稿されています。

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