愛を誓うならヤドリギの下で

月居契斗

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愛を誓うならヤドリギの下で 4

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 シュカは授業が終わってから真っ直ぐに家に帰ると、両親への挨拶もそこそこにお泊り用の着替えを詰めた鞄を掴んで図書館へと走った。
 気持ちばかりが逸って足が縺れそうになるが、怪我なんてしたらルクシウスに心配をかけてしまうことになると、シュカは走る速度を少しだけ落とした。
「こ、こんにちは、ルクシウスさん…っ」
 ルクシウスは息を切らせて駆け込んできたシュカを見つけて優しく笑いかけ、返却カウンターの席を他の者に譲ってわざわざ近くまで来てくれる。
「そんなに慌てて走って来なくても良かったのに。閉館時間はまだ先だよ」
「だって、少しでも早く、ルクシウスさんに会い、たくて…」
 夏があっという間に通り過ぎて外の空気はだいぶ涼しくなったのに、必死で走ってきたシュカは額に汗を滲ませていた。
 張り付いた髪を退けてくれるルクシウスの指先がくすぐったくて口元が緩む。
 ルクシウスも優しく目を細めていて、胸をときめかせたシュカはこういう瞬間にルクシウスと恋人のキスをしたいとどうしようもなく願ってしまう。
 そんな欲望が顔に出てしまったのかルクシウスが困ったように咳払いをした。
「閉館時間まで好きに過ごすといい。シュカが読みたがっていた本も返却されていたよ」
「ありがとうございます。ルクシウスさんも、お仕事がんばってくださいね」
「ああ。ありがとう」
 名残惜しいけれどルクシウスはまだ仕事中だ、あまり持ち場を離れさせるのも申し訳ない。
 聞き分けがいいふりをしてその場を離れようとしたシュカの唇にルクシウスが人差し指の背を当てる。彼はそのまま踵を返して返却カウンターへと戻っていった。
 一方のシュカは鞄を抱き直して顔を隠すと、時間を潰すために読む本を探しに棚の奥へと小走りで逃げ込んだ。
 何食わぬ顔で一番下の段の本のタイトルを辿りつつも、内心はのた打ち回りたいくらいの気恥ずかしさでいっぱいだった。
「もしキスができない場所で君にキスがしたくなってしまったら、唇の代わりに指で触れるよ」
 ルクシウスがそう言ったのは唇でする恋人のキスを初めて経験した日の別れ際。
 最初は意味がわからずきょとんとしたシュカだったが、顔を近付けたルクシウスが「例えば図書館とかで、ね」と囁いたことで、ようやく彼の言葉の意図に気付いた。
 あの日以来、ルクシウスはシュカへのキスを恋人らしいものへと一変させた。
 もちろん今でも頬や額、時には髪にもキスをしてくれるけれど、大抵は真っ先に唇で唇に触れてくれる。他人から見たら小さな進展かもしれないが、シュカにとってはかなりの大躍進だ。
 唇で受け止めるルクシウスの体温や感触を思い出してしまって、頬の熱はいっそう上がる。
 この辺りは魔術の専門書が多く並べられている棚ばかりで人の通りは少ないとは言え、まったくの無人というわけではない。必死に平静を取り繕って本を探すふりを続けているけれど、こんなに頬を赤くしていては不審がられてしまいそうだ。
 ルクシウスと恋人として交際をはじめて半年近くが経っているが、日課と言ってもいいシュカの図書館通いは健在で、おかげでルクシウス以外の司書達ともかなり打ち解けて話せるようになった。
 ――司書長のお気に入り。
 自分が他の司書達からそう思われている自覚があるからこそ、図書館にいる間はことさら礼儀正しく振る舞おうと努めている。
 シュカは適当に目に付いた本を棚から抜き取ると、空いている席に座って本のページを捲った。
「やっほー、シュカくん。こんにちは」
 ページが幾らも進まないうちに、シュカは名前を呼ばれたことに気付いて顔を上げた。
「ラランさん、こんにちは」
「今日はどんな本を読んでるの?」
 聞かれたシュカは読んでいた本の表紙をラランに見せる。色付きの挿絵がたくさん差し込まれた図鑑はずしりと重い。
「今日は宝珠に使われる宝石についての本です。ルクシウスさんに薦めてもらった本が返却されたって聞いたので、それはあとで探してみようと思ってるんですけど」
「そっか、シュカくんは魔術師を目指してるんだっけ。勉強熱心だね。あたし、司書の資格取る時でもシュカくんほど熱心に勉強なんてしなかったよ」
「でもラランさんは本について詳しいですよね。特に製本に関することとか」
「まあねぇ、趣味と実益を兼ねてるって言うかね」
「趣味と実益?」
「いやいや、こっちの話。あたしは昔から本がどういう工程で作られるかっていうのに興味があって、なのに気付けば司書になってたんだよね。ま、この仕事も楽しくて好きだけどさ」
 明るく笑うラランにつられてシュカも笑う。
 ラランが屈託なく話しかけてくれるおかげで畏まることなく気楽に彼女と会話することができたし、ルクシウスや彼女を通して他の司書とも会話をすることも増えて、シュカはますます図書館に通うのが楽しかった。
 図書館に通って魔術についての本を多く読むようになったことで成績も上がった。先日受けた試験でもなかなか良い点数を取れたことはシュカのちょっとした自慢だ。
 他の来館者の邪魔にならない程度に会話をしたラランが仕事に戻り、ルクシウスも席を外したまま戻って来ていないのを何となく確認したシュカは本に意識を戻したけれど、傍らに置いた着替えを詰めた鞄が気になって内容に集中できない。
 今日も閉館してからルクシウスの家に泊まらせてもらう予定になっている。それが楽しみで仕方がなかった。
 ルクシウスと一緒に過ごす時間は胸がそわそわして落ち着かないのに、もっと一緒にいたいと思ってしまうのは我が儘だろうか。
「シュカ、そろそろ閉館時間になるよ」
「え、あ、もうそんな時間でした?」
「随分集中していたね」
 シュカは本を閉じて小さく伸びをする。
 集中できないと思っていたのに、いつの間にか読書に没頭していたようだ。一度本を読みはじめると時間を忘れてしまうのは昔からの悪い癖だと自覚はあるけれど、ちっとも治せる気がしない。
「借りていくかい?」
「いえ、まだ家に読み終わっていない本が残ってるので、また今度にします」
 頷いたルクシウスはシュカが閉じた本を小脇に抱えた。
「戻すのくらい僕も手伝うのに…」
「いいんだよ、これが私の仕事だからね」
 そう言いながらルクシウスはシュカの唇に指で触れた。
 さっさと本を戻しに立ち去ったルクシウスの後ろ姿を見送ったシュカは思わず手で顔を覆った。鏡を見なくても頬が赤く染まっているとわかる。
 出会った頃から思っていたことでもあるが、ルクシウスは何をするにもスマートで落ち着いている。それは年齢を重ねた大人の余裕とも言うべきもので、穏やかな微笑を向けられるたびに彼に恋しているシュカは毎回赤面してしまいそうになった。
「あんなに素敵な人が僕の婚約者だなんて、信じられない…」
 確かに両親の目の前で婚約までしたというのに、今でもあれは夢だと言われたら納得してしまいそうだ。
 それでもついにルクシウスと恋人のキスをしたことを思い出すと胸の辺りがくすぐったくなる。
 倍も年上の彼から恋人として求めてもられたことが嬉しくてたまらない。緩んだ頬を手のひらで隠しながらシュカは慌てて時計を見た。
「もう行かなきゃ…!」
 気付けば閉館時間まであと数分。シュカは鞄を掴むと、座っていた椅子を丁寧に戻して職員用の通用口に向かった。
 本来なら部外者であるシュカは通れない場所なのだけれど、ルクシウスと一緒に帰ることは他の司書も周知しているため黙認されている。むしろすっかり秋めいて陽が落ちるのが早くなった屋外でシュカを待たせるなんて無用心だというのが司書全員の考えでもあった。
 通用口のすぐ脇には椅子がひとつだけ置いてある。シュカはその椅子に座り、ルクシウスが仕事を終えるのを待った。
 図書館は普段から静かな場所だが閉館時間を迎えるとさらに静けさは増し、一人きりで照明を落とされて薄暗くなった館内を眺めていると少し不気味に感じることもある。早くルクシウスが来てくれればいいのにと願いながら、シュカは膝の上に置いた鞄をぎゅうっと握った。
「待たせてすまないね、シュカ」
「ルクシウスさん!」
 出退勤時にだけ着ている薄手のローブを腕にかけたルクシウスに心細さを打ち消すように飛び付いたところで、シュカはルクシウスの後ろにいたラランを見つけてしまう。
 慌てて離れたものの、ルクシウスもラランも笑っていて、シュカは耳まで真っ赤にして俯いた。
「ほんと、シュカくんってば司書長のこと大好きだよね」
 ラランの言葉にシュカは何と答えていいのかわからず口ごもった。
 ルクシウスと自分が婚約関係にあることは両親しか知らないし、ここがルクシウスの職場であることを思い出したシュカはどう取り繕えば良いか必死に思考を巡らせる。自分のせいでルクシウスを変に見られるのは耐えられない。
「ララン、あまりシュカを困らせないでくれないか」
「すみません。だってこんなに可愛い婚約者がいるなんて羨ましいんですもん」
「え…あの、ラランさんは僕とルクシウスさんのこと知ってるんですか?」
「うん、ちょっと前に司書長から教えてもらったんだよ。あたし、二人のこと応援してるからね!」
 ラランは困惑の表情を浮かべているシュカの手を握り締めて力強く笑った。
 シュカの視線を受けたルクシウスは「勝手に教えてしまってすまなかった」と謝ったが、シュカは彼を見つめて首を振る。
「いいえ…ルクシウスさんが僕とのこと誰かに言ってくれたの、嬉しいです」
 男同士で婚約しているだなんて大っぴらに宣言できることではないとわかっている。あまつさえルクシウスは仕事にも就いている立派な大人で、そんな彼に偏見の目が向けられるのをシュカは恐れていた。
「シュカくん、ひとついいこと教えてあげる」
 ラランは明るく微笑んだままシュカの耳にこっそりと囁く。
「まだ少ないけど、同性同士で結婚してる人はいるんだよ。正式に婚姻届を受理してくれる国もあるから、いつかそこで結婚式を挙げてもいいかもね」
「ほ、んとうですか…」
「うん! 実はあたしにはね、同性同士で結婚した友達がいるんだ。結婚式にも呼んでもらったよ。すごく幸せそうだったし、今もまだ新婚みたいに仲良しなの」
「うわぁ、いいなぁ」
 ふわりと頬を染めたシュカが可愛くて、ラランは彼の柔らかい髪をわしわしと撫でた。
 そんなふうにじゃれ合う二人は仲の良い姉弟のように見える。
「ララン、そろそろ私の婚約者を返してくれないかな」
「そうでした、すみません司書長。どうぞどうぞ、二人で仲良く先に退勤しちゃってください」
 茶化すラランに見送られて、頬を染め上げたシュカはルクシウスと共に館外へ出た。
 道を挟んだ茂みでは秋の虫が涼やかな音で鳴いている。日が暮れてからは一気に気温が下がり、頬を撫でる空気は驚くほどに冷えていた。
 微かに揺れたシュカの肩にルクシウスがストールをかけてくれる。シュカはありがたくジャスミンの香りが染み付いたストールに鼻先を埋めた。こういう時にルクシウスのことを大人だと強く意識する。
 一日でも早く追い付きたいのに少しの成長も自覚できないことが悔しい。
「ありがとうございます」
「いや」
 いつもよりもどうしてか会話が続かない。
 何となく気まずさを感じているものの、シュカはどうしても話し出す切っ掛けを掴めないでいた。
「……気を悪くさせたかな」
「え、何がですか?」
 顔を上げたシュカはきょとんと瞬きをした。ルクシウスはシュカを見下ろしているが、その表情にはどこか不安げな色が混ざっている。
 どうして彼がそんな顔をするのかわからなくてシュカも困惑した。
「君に黙って他人に婚約していることを話したから…」
「いいえ! 怒るとか、そんなこと絶対にないです。本当に嬉しかったんですよ。僕にだって…ルクシウスさんと婚約しているんだぞって、みんなに言って回りたい気持ちはあるんですから」
 ルクシウスは自分達の関係を誰彼構わず吹聴するような人物ではないとわかっているし、もちろん今言ったことだって間違いなくシュカの本心だ。
「僕にとってルクシウスさんは自慢の恋人で、誰よりも素敵な婚約者です」
 なるべく良い笑顔を意識しながら言ったシュカの肩を抱き寄せたルクシウスは啄ばむようにシュカの唇を奪った。
 触れるだけのキスではあったが、ここが外だとかまだ図書館からそう離れていない場所だとか、そういう考えは一瞬でシュカの頭から吹き飛んでいく。気付けばルクシウスの腕に中に閉じ込められていて、彼の心音を耳で直接聞いていた。
「逃げるなら今のうちだよ、シュカ」
「…逃げる?」
 ルクシウスの腕の中でシュカはくぐもった声を上げた。
「前に言ったことがあっただろう? 私は君が思っているよりも貪欲な男だ。今のシュカは私に好意を向けていてくれているが…もしいつか心変わりしたとしても、その時には素直に君を逃がしてあげられないかもしれない」
 シュカが言われたことをしっかりと理解する前に、ルクシウスは次々と言葉を重ねた。
 物理的にも魔術的も破壊できない特殊な用紙を使った婚約宣誓書にサインはしたけれど、婚約関係を絶対に破棄できないわけでもない。時間はかかるかもしれないが、破壊するための手順を調べることだってできる。
 シュカが望めばいつだってこの関係を終わらせることができるということも、ルクシウスは淡々とシュカに言い聞かせた。
「だから…」
 その先を続けようとしたルクシウスの胸を、シュカは力いっぱいに押し退る。離れてしまった二人の距離をじわりと後ずさったシュカがさらに広げたのに、ルクシウスは黙ったまま開いた距離を縮めようともしない。
 それがただただ無性に悲しくて、胸の奥が引き裂かれるような痛みが込み上げてきて、シュカはその痛みに顔を顰めた。
「…ルクシウスさんは、僕が婚約者だと恥ずかしいですか?」
 大きく揺らぐ感情を押し殺して言葉を絞り出す。
「僕が子供だからですか? それとも、僕が男だからですか?」
「シュカ、違う…私は…」
 否定したのに、ルクシウスはそれ以上何も言わずに口を閉ざしてしまった。
 取り繕ったり偽ったりしないのはルクシウスの美点だ。いつでも誠実でいてくれる彼のことは常日頃から好ましいと思っている。
 けれど、今はその優しさはあまりにも残酷だった。
 瞬くことを忘れたシュカの目から零れ落ちた透明な雫が夜の月明かりに照らされて光っている。
 いつもならルクシウスの手のひらで拭われる涙は、シュカが血の気を失うほどきつく握り締めた拳で拭われた。
「逃げたいのはルクシウスさんのほうじゃないんですか…」
 視線だけを上げないまま静かにシュカが放った言葉はルクシウスを鋭く貫く。
 シュカ自身も自分の言葉に傷付いていた。
 考えないようにしていただけで、この不安はいつだってシュカの中にあった。親子ほども違う年齢も互いの今の立場も、二人が寄り添って生きていくには障害でしかない。
 いつかこんな日が来るかもしれないと頭のどこかで考えていた。
 誰が見ても自分とルクシウスは子供と大人でしかなく、さらには男同士だ、万人から等しく祝福されるはずがない。両親や司書のラランは快く受け入れてくれたけれど、これから知り合う誰もが自分達を受け入れてくれるなんてあまりにも都合が良すぎる。
「…はっきり言ってくれていいんです。子供のお遊びにはもう付き合えないって。僕なんかが婚約者だなんて恥ずかしいって。僕のこの気持ちは、どうせ…長続きしないんだろうって……信じられないって言ってくれていいんですよ、ルクシウスさん…」
 こんなことが言いたいわけではないのに、二人の関係を終わらせたいなんて少し考えてないのに。自分の胸にあるルクシウスへの恋心をルクシウスから否定されるのが死ぬほど恐ろしいのに、どうしても言わずにはいられなかった。
 シュカは最後まで言い切ってルクシウスを見上げた。懸命に笑みを浮かべようとして失敗した唇の端が震えている。
 ふと、ルクシウスは怖いのかもしれないとシュカは思った。
 子供の自分とは違ってルクシウスには立場もあるし、何かが起きた時には責任を負う立場だ。どう足掻いても子供でしかない自分は守られ、大人であるルクシウスばかりが責められることになる。
 そんなの不公平だ。一人の人間として、一人の人間を好きになっただけ。
 もしもルクシウスが責められるのなら自分だって同じくらい責められるべきだ。それくらいの覚悟もしているけれど、そうではなくて、ルクシウスがシュカの気持ちを信じられないと思っているのだとしたら話はまったく別になる。
 感情は目には見えないし、信じてくれと縋ったからといって信じてもらえるものではない。
 見るからにまだ子供でしかない自分の気持ちが本当だとわかってもらうには信じてもらえるように行動して幾度となく言葉にするしかないし、無論シュカはずっとそうしてきたつもりだった。
 けれど、それが少しもルクシウスに伝わっていなかったのだとしたら。
 あまりにも絶望的な考えにシュカの膝からは力が抜ける。倒れ込みそうになったシュカを支えたのはルクシウスだった。
「シュカ、許してくれ。私が悪かった」
 真摯な声と共に全身を包み込まれる。すっぽりとシュカを覆い隠してしまえる大きな身体が、今だけは二人を遠く隔てる壁のように思えてしまった。
 ルクシウスの肩越しに見上げる夜空には幾つもの星が煌いていたが、涙が浮かんだ視界ではその光は僅かにも届かない。たった一人きりで暗闇に放り出されたみたいな恐怖感に身体が震える。
 ルクシウスの手はずっと背中を撫でてくれるのに、いつもならすぐに抱き締め返すシュカの腕は一向に動かない。滔々と流れ続ける涙だけが時を刻んでいく。秋めいた夜を彩る虫の声さえ、もうシュカには聞こえていなかった。
 ルクシウスを好きだと思う気持ちが自分の独りよがりだったとしたら、もう彼の傍にいることなんてできない。あんなことを言うくらいだ、ルクシウスは最初からシュカの想いを信じていなかったのかもしれない。
 キラキラと輝いていたルクシウスとの日々が一気に色褪せていくような恐ろしい喪失感に苛まれ、シュカは生まれて初めて消えてなくなりたいと願った。悲しくて、苦しくて、息を吸い込むことでさえ酷く胸が痛むのに子供のようには泣けなくて、胸の中で湧き上がる感情は何ひとつ言葉にも声にもならない。
 引き攣った息遣いを繰り返しながらシュカはひたすら星を見つめた。ルクシウスにとって自分は、夜空に浮かぶ星を手に入れようと一生懸命に手を伸ばす子供にすぎなかったのだろうか。
 そんなシュカをルクシウスの腕は痛いくらいに強く抱き締めた。
「逃げるつもりはない。逃げないよ、私は」
 逃げるのと逃がすのはまったくの別物だ。それを隠したまま、ルクシウスはシュカが落ち着くのを待った。
 しばらくして無言のままシュカが身体を離すと、ルクシウスはズボンが汚れるのも気にせずに地面に膝をついてシュカの顔を下から覗き込んできた。
「私は逃げないよ」
「……ほん、と…ですか?」
「ああ、本当だとも。誓うよ」
 涙に濡れた目尻と夜風で冷たく湿った頬を掌で拭われ、それから噛み締めた唇を指がなぞる。この場ではできないキスの代わりだ。
 けれどシュカは今すぐここでキスしてほしかった。
「私は君が好きだよ、シュカ。それに君の気持ちを疑ってもいない」
「……」
「ただ私は君より倍も年上だし、この通りおじさんだからね。もしかしたらこの先、君にもっと相応しい相手が出てくるのではないかと考えてしまうこともあるんだよ」
「ぼ、くには…ルクシウスさんだけ、なのに…っ!」
 涙を含んで滲んだ声がルクシウスを責め立てた。
「信じて、くれてないんでしょ? 僕の気持ち…ルクシウスさんとずっと一緒にいたいって、大好きだって思ってる僕の気持ちが、信じきれないん、でしょう…?」
「信じていないわけではない。それは本当だ」
「嘘…っ!」
 もうこれ以上どんな言葉も聞きたくなくて身体を捩るのに、耳を塞いだシュカの手は容易くルクシウスに捕まり引き剥がされた。力の差は歴然で、大人と子供の違いをまざまざと見せ付けられているように思えて悲しくなる。
 不意にルクシウスがシュカの片手を解放した。
 シュカがルクシウスの肩を押し退けるよりも早く、ルクシウスの手がシュカの後頭部に回り、力強く引き寄せる。
「っ…!」
 見開いた目のすぐ先にブルーグレーの瞳があった。息を止めたシュカの目から零れた涙がルクシウスの頬に滴り落ちた。
 唇が離れると、もう一度強く抱き締められる。
「確かに君はまだ子供で、私達は男同士だ。なのに今まで誰にもこの関係を非難されなかったのは僥倖だろう。けれどこの先、私達を受け入れてくれる人ばかりではないことも覚悟しなくてはいけない。それはわかるね?」
「はい…」
「友達をすべて失うことになるかもしれないよ?」
「構いません。友達は、また作ればいいんです。でもルクシウスさんの代わりになる人なんて誰もいないから…。僕は、逃げたりしない」
 ルクシウスは自らを貪欲と言ったけれど、だったらシュカだって負けないくらい貪欲だ。だってこんなにもルクシウスだけが欲しい。彼以外はいらない。
 シュカは言葉にならない想いを伝えるようにルクシウスの首に腕を回した。
 ルクシウスもシュカをしっかりと抱き止めてくれる。
「いい覚悟だ」
 たったその一言で、これからもルクシウスを好きでいていいのだと許されたような気がした。
 自分の胸に息衝く想いが確かなものだと少しは信じてもらえたのかもしれない。そう考えても不安はすべては消えてくれず、小さなガラスの破片が心臓に居座り続けているような違和感がシュカの胸を痛ませる。
 それでも良かった。少なくとも今はルクシウスの隣にいることを許されているのだから。
 手を繋いで帰路を並んで歩き、家に着くといつもよりも遅くなった夕食を二人で食べ、ルクシウスに入浴を勧められたシュカはおとなしくそれに従い、柑橘類に似た香りの石鹸で身体を丹念に洗い上げた。
 幾分かさっぱりとした気分で風呂から出ると、すぐにルクシウスの寝室に向かう。
「先にお風呂ありがとうございました」
 声をかけながら寝室に入るとルクシウスはベッドを整えていた。普段から常に整えられているベッドのどこに整えなくてはいけない部分があるのかシュカにはわからないが、ルクシウスは一頻りシーツや枕を弄ってようやく納得したのかベッドから離れた。
「私も風呂に入ってくるから先に寝ていてもいいよ」
「はい」
 そう言って寝室から出て行くルクシウスを見送ったものの、シュカはまだ眠る気になれずに小さめのソファに座った。
 ルクシウスが丁寧すぎるほどに整えたばかりのベッドを乱してしまうことに気が引けたからというのが要因のひとつで、もうひとつはソファの肘掛けの上に置かれた本が気になったからだ。一目で真新しいとわかる本を、シュカは少し躊躇ってから思い切って手に取った。
 適当にページを捲って内容を確かめる。どうやら古代魔術を近代魔術に応用する方法とその効果、そして近代魔術をさらに応用した新しい呪文についてをまとめたものらしい。
 ただ理解するには少し専門的すぎて、シュカは自分の勉強不足が悔しかった。
「…やっぱりルクシウスさんが寄稿してる」
 予想したとおり巻末の寄稿者一覧にはルクシウスの名前が記されていて、シュカはもっと勉強してこの本をすんなり理解できるようになろうと決意した。
 以前父から聞いた話では、ルクシウスはラディアス魔術学校はじまって以来の成績優秀な生徒で、校長からも一目置かれていたらしい。卒業後は王宮付きの魔術師も経験したというルクシウスは確かに優秀だ。魔術師のままでいれば今や世界中で名前が知られるくらいにまでなっていただろう。
 けれどルクシウスが魔術師を辞めるきっかけになったヤドリギの精霊との話を思い出すと、シュカの胸にはほんのりと切なさが込み上げた。
 その当時のルクシウスが使っていたというロッドはペリドットの宝珠もそのままに、今も彼の書斎にひっそりと置かれている。飾り付けるでもなければ乱雑に扱うでもなく、ただそこにあるだけ。
 ペリドットの優しく澄み切った淡緑色はあたたかい言葉を残して光に溶けていったヤドリギの精霊そのもののように思えて、シュカは心の中でルクシウスを守ってくれた精霊に感謝の言葉を捧げた。
物思いに耽っていたシュカは寝室のドアが静かに開いた音を聞き付けて振り向く。
「おや、それを読んだのかい?」
「あ、はい。でも、やっぱり難しくて…」
「古代魔術は今のものとかなり違っているから仕方ないさ」
 勝手に触ってしまったことを謝ると、ルクシウスはタオルで濡れた髪を拭いながら「見せようと思っていたから気にしなくていいよ」と言ってくれた。
 ルクシウスが当たり前のようにシュカの隣に座る。途端にふわりと漂った石鹸の香りにどぎまぎしたのを誤魔化すようにシュカは開いたままの本に視線を落とし、書かれている単語の中から自分がわかるものを拾い集めていく。
 古代魔術は原初のエレメントの力を借りて行使するもので、威力が強い反面、制御することが非常に難しく、暴走したエレメントの力に飲み込まれた魔術師が命を落とすという痛ましい事故もしばしば起きていた。
 エレメントの力を細分化することで制御しやすくしているのが近代魔術であり、威力こそ弱まるが行使する際の負担は軽くなったおかげで魔術の用途も多岐に渡るものとなった。概ねそのようなことが書いてある。
 それから近代魔術を使った応用呪文の作り方や威力の強め方、弱め方が説明されているが、それはさすがにシュカにはまだ理解できないレベルだった。
「もっとちゃんと理解できるようになりたいな…」
「シュカは勉強熱心だから、すぐに理解できるようになるよ。図書館にも古代魔法についての著書は幾つかあるし、足りないようならまた一緒に街の書店に行ってみるかい?」
「はい、あの書店にはまた行きたいです! ルクシウスさんが書いた本もまだあるかもしれないし、そろそろ辞書も新調しようと思ってたから」
 もちろん書店にも行きたいが、あの宝飾品店にもまた顔を出してみたいと思ったシュカはつい身を乗り出してしまう。前と同じパスタ店にも行きたいし、手作り雑貨を扱った店もなかなか興味深かった。
 嬉しそうに顔を輝かせるシュカの頭を撫でてから、ルクシウスは髪を乾かすために一旦ソファから離れた。
 ルクシウスの背中を見送りつつ、ふとシュカはあの時、店で持たされた石が何のためだったのか聞くのを忘れていたことを思い出す。帰りの馬車の中で唇にキスをしてもらったことで頭がいっぱいですっかり忘れてしまっていた。
(聞いてみようかな…でも、ルクシウスさんには何か考えがあるのかもしれないし…)
 石のことはとても気になったが、結局シュカは違う質問を口にした。
「ルクシウスさんの得意な魔術は、どのエレメントに因んだものなんですか?」
「特にこれが得意だと言うのは難しいけれど、学生時代は風属性の魔術を専攻していたよ」
「風…ということは、守護精霊はシルフですね」
「そう。シルフ、もしくはシルウェストレやニンフとも呼ばれているね」
「あれ? ニンフって水の精霊ですよね?」
「実は、二つを同一視している研究者がいるんだよ。根源は違う属性だが、風と水はどこかしらで深い繋がりがあるのかもしれない。そう思うと魔術は奥深くて実におもしろいね」
 ルクシウスの言うおもしろさを難しいと感じてしまうのが悔しくて、シュカは絶対に理解できるようになってやろうと密かに決意する。
「そういえば、シルフとウンディーネ、どちらも人間との婚姻譚が多いのはなんでですか?」
「風と水が人の生活に深く根付いているからだと主張している者もいるが、それを言えば火と土だって同じだ。四大エレメントはどれかひとつが欠けても、人のみならずこの世界にも大きな損害を与えることになってしまう。なのにどうしてかシルフとウンディーネは女性の姿で描かれることが多く、人間との間に子を成したという伝承も多い。…ああそうだ、シルフとウンディーネに性別があるのは知っているかい?」
「えっ!」
 シュカが目を丸くする。
 教科書に載っているシルフとウンディーネはどちらも女性の姿だ。その一方で、火のエレメントは若い男性で、土のエレメントは年老いた男性で描かれていた。昔から読んでいた絵本にも似たり寄ったりの姿で描かれていたせいで、シュカにはすっかりそのイメージが染み付いている。
「男のシルフをシルヴァ、男のウンディーネをアンディーンと呼び分けて区別することもある。昔からの知り合いに断固としてそう呼び分けている研究者がいるんだが、機会があればシュカにも会わせよう」
「ぜひ!」
 目を輝かせるシュカに微笑みかけ、ルクシウスは「さあ、今日はここまでだ」と話を切り上げた。
 気付けば時計の針は日付が変わりそうな時刻を差している。シュカは明日は休みだがルクシウスは仕事があるのだ、名残惜しいが彼のためにも眠らなくてはいけない。
「また聞かせてくださいね」
「いいとも」
 シュカはルクシウスが几帳面に隅々まで整えたベッドに潜り込んで壁際へと身を寄せ、掛け布を捲ってルクシウスを待った。
「はい、どうぞ」
「あ…ああ。ありがとう」
 何故だか複雑な表情になったルクシウスがベッドに入ってくる。
 彼の表情の理由がわからずに首を傾げながらも、掛け布の中、シーツの上で足先が触れ合い、シュカはくすぐったさに笑みを零した。
「涼しくなってきたから、こうやってくっついて寝やすくなりましたね」
 ルクシウスの肩に頭を乗せたシュカは小さく笑い声を漏らす。しかしシュカはその笑みをふと沈めて、ルクシウスに額を擦り寄せた。
 自分とはまったく違う大人の男の筋肉の感触は硬くて、なのにそれに安心する。この温もりを失いたくない。胸に甦る痛みで鼻の奥がツンとした。
「…ルクシウスさん」
「なんだい?」
「今日は、ごめんなさい。僕、ルクシウスさんにひどいことを言ってしまいました」
「ああ…いや、あれは私のほうが悪かったんだ。君の気持ちを試すようなことをした…」
「いいんです。だって、ルクシウスさんが不安になる気持ち、わかったような気がしたから。ルクシウスさんから見たら僕はまだまだ子供で、学校さえ卒業もしてなくて、両親に養ってもらってる立場で…それだけじゃなくて、きっと大人の世界はいろんな制約があるんだろうなって」
 ルクシウスはシュカの髪を撫でながら続きを待ってくれた。
「でも僕…ずっとルクシウスさんと一緒にいたいんです。いずれはルクシウスさんと…結婚したい」
 二人でサインをした婚約宣誓書には『結婚を前提に』と書かれていた。シュカはあの日からずっとそれを願い続けている。
 この国ではまだ同性同士での正式な婚姻関係を結ぶくとはできないけれど、寝食を共にし、お互いを想う気持ちが繋がっていればそれはもうほとんど結婚と同義だと思う。たとえルクシウスがシュカの気持ちを子供の一時の戯れだと思っていたとしても、シュカ自身が本物だと信じていれば確かに本物であるのと同じように。
 そんな切望を込めて言葉を紡げば、ルクシウスの腕がシュカをそっと抱き締めてくれた。そのまま彼の胸板に乗り上がるような体勢になり、思いがけず顔が近付いて鼓動が跳ねる。
 ルクシウスは柔らかく触り心地のいいシュカの髪を何度も撫で付け、くすぐるように耳にも触れた。
「いいよ。君が大人になったら結婚しよう」
 シュカは目を瞠った。
 婚約までした間柄なのに、今までルクシウスはあまりはっきりと二人の将来を語ることはなかった。だからこそルクシウスは本当は自分と婚約なんてしたくなかったのではないかと疑って、今日はその不安がついに爆発してしまったのだ。
 未だに胸の奥には疑心と不安の欠片が取り残されている。生まれてしまったその小さくも鋭い欠片はたぶん不意に浮上しては、そのたびにシュカを責めて傷付けるに違いなかった。
 その痛みをシュカに与えたのはルクシウスなのに、その痛みからシュカを救えるのもルクシウスだ。何という愚かしいまでの矛盾だろうか。
 それでもルクシウスから離れるという選択肢はシュカの中にはなかった。
「だが、ひとつだけ言っておかなければいけないことがある。聞きたくなければ今はやめておくけれど…どうする?」
「……聞きます」
 話を聞くために身体を起こそうとするのにルクシウスは腕を緩めてくれない。それどころかますます腕の拘束を強めてしまう。
 ルクシウスの胸に乗りかかる体勢のままで聞いていい話なのかと困惑するが、彼がそれでいいと言外に言っているのだからシュカはそれに従うだけだ。規則正しい心臓の鼓動が肌から伝わってくる。この音をずっと傍で聞いていたい。
 ルクシウスは見慣れた天井を見上げ、シュカの髪に指先を遊ばせたまま口を開いた。
「結婚というのは夫婦になるということだ。私達は男同士だけれど、シュカは私と夫婦になりたいと思っていると、そう考えて間違いはないかい?」
「は、はい…間違ってません。僕はルクシウスさんと夫婦になりたいです」
「夫婦になるということは、恋人でいる時よりももっと踏み込んだ関係になる、ということもわかっているかな?」
「踏み込んだ…?」
 いまいち理解できずに首を傾げたシュカの毛先がルクシウスの指から逃げると、それを追いかけるようにして、またルクシウスの指は艶やかなプラチナブロンドの中に潜り込んだ。
「キス以上のことをする、ということだよ」
「…キス、以上の、こと…」
 たどたどしく鸚鵡返しに呟いてから、シュカは一気に顔を赤らめる。天井を見つめたまま視線を合わせようとしないルクシウスが言いたいことは何となくわかった。
 通常、結婚した夫婦の間には子供が生まれる。具体的なあれこれについてはまだ未知の領域だとしても、コウノトリがどこかから子供を運んでくるわけじゃないことくらいは知っている。だからこそシュカは赤くなった顔を首筋までさらに染め上げた。
「私はね、シュカとそういう関係になることを望んでいるよ」
「っ…!」
 無意識に肩が跳ねてしまうと、途端にシュカの髪を弄んでいたルクシウスの指が動きを止め、そして彼の唇は諦めを含んだような細い息を吐き出した。
 ルクシウスの様子から彼が誤解したのだとシュカはすぐに気付いた。今よりも一歩以上踏み込んだ関係になることを自分が怖がっているか、もしくは怖気付いて躊躇したのだと。
 そんな考えを表すかのように拘束が緩んだ腕の中からモゾモゾと身体を起こしてルクシウスの腕の中から抜け出ると、シュカは彼の腹を跨ぐように座って視線を落とす。それでもルクシウスは視線を天井に向けたままだった。
「そ、それって、つまり…その…」
 唾を飲んで、やけに渇いた喉を湿らせたものの言葉はなかなか出てこない。それでもさっきからずっと痛いくらいに心臓は騒いだままで、ルクシウスの腹に置いた掌が勝手に汗ばむ。
「僕のこと…大人扱い、してくれるってこと、ですよね…?」
 目を丸くしたルクシウスが天井からシュカへと視線を移した。
 シュカは自分がみっともないほど顔を真っ赤にしていることを自覚しながらもルクシウスの視線をしっかりと受け止める。
 身体の深いところから込み上げてくるのは恐れでも驚愕でもなく、歓喜だ。激しく沸騰する湯のような、自力では抑え切れない熱が胸を突き破りそうなほど大きく膨らんでいた。
「僕はまだ子供だけど…ルクシウスさんから見たら、いつまで経っても子供のままかもしれないですけど、ちゃんとルクシウスさんの恋人に…夫婦になりたいって、思って、ます…」
 絞り出すような声音がちゃんとルクシウスに届いているのか不安になる。
 恥ずかしさのあまりいつの間にか目を閉じてしまっていたシュカは、気付いた時には天井を見上げる体勢になっていた。本当にいつの間に体勢を変えられたのかわからない。天井よりももっと近くにルクシウスがいる。のしかかるような体勢の彼はシュカに体重をかけないようにとベッドに両手をついていた。
 肘を曲げたルクシウスの顔がゆっくり近付くと、シュカは自然に目を閉じて、唇同士のキスを受け止める。
「嬉しい…」
 キスの合間に言葉が溢れた。ついでに涙も溢れて、こめかみを伝って髪の合間に消えていく。
 その雫を追いかけてルクシウスが慈しみを込めたキスを与えてくれることが嬉しくて、幸せで、どうにかなってしまいそうだ。
 ルクシウスに求めてもらえたことはシュカにとって喜び以外の何物でもない。
 触れ合うだけのキスを何度も繰り返し、潤んだ目元にも唇が落とされる。重なる体温と体重をまざまざと感じ、幸福感に浸ったシュカがもう少しと手を伸ばしたところでルクシウスが身体を起こした。
「このまま少し待っていて」
 口早にそう言って唐突にベッドを降りてしまったルクシウスの体温が恋しくて、追い縋るように身を起こしたシュカは僅かに乱れたシーツに手をついた。秋の夜の空気はほんのり冷たくて、あたたまっていた身体が小さく震える。
 ルクシウスは本棚の片隅に置かれていた何かを掴んで早足でベッドまで戻ってきた。
「シュカ、左手を出してくれるかい」
「? はい」
 言われるがままシュカが手のひらを上にして差し出すと、次いでルクシウスは目を閉じるように促した。素直に目を閉じると、差し出していた手をひっくり返される。
 わけがわからないまま待っていると何か小さな硬いものが指の表面を撫でた。
 ひやりとしたそれは少しずつシュカの体温に馴染んでいく。何が何だかわからないけれど、酷く胸がドキドキする。
「目を開けてごらん」
 言われたとおりに目を開けて、シュカは微かな違和感のある左手を見た。
「……ルクシウスさん…」
 薬指には銀色の輝き。よく見ると深い青色の宝石が一粒嵌め込まれている。
 どことなくルクシウスの瞳に似た色を見つめ、高鳴り続ける心臓の音をどこかぼんやりと聞いていたシュカはゆっくりと顔を上げた。
「婚約指輪だよ」
 優しい微笑みを浮かべたルクシウスを見つめたまま何も言えず、ただただルクシウスと自分の左手の薬指に通された指輪を何度も何度も見返して、はくはくと唇を震わせた。言葉の代わりに勝手に滲んだ涙があっという間に雫になって頬を伝い落ちていく。
 未来の約束をしてくれただけでなく、形にして与えてくれるなんて予想もしていなかった。受け止めきれない現実にシュカは顔を歪めた。
「ご、め…なさ、ぃ…」
 涙を零しながらシュカは指輪を握り締める。
 シュカの指にぴったりと合うサイズの指輪を用意するなんて昨日今日でできることではないのに、自分はルクシウスに酷い言葉を吐いた。
 ルクシウスの婚約者であり続ける自信がなかった。それは自分があまりにも子供だったからだ。
 成人もしておらず、その上まだ学生の身であることもシュカを不安にさせたし、いつルクシウスに見限られるかと心の奥底ではいつだって怖がっていた。相応しくないと誰かから糾弾されることも恐ろしかった。
 ルクシウスのことが大好きなのに、その気持ちに嘘はないのに、時々不安定に揺らいでしまう自分が嫌で嫌でたまらなかった。
 無言のままのルクシウスが抱き締めてくれる。その腕はシュカの何もかもを包み込むように大きくて優しくてあたたかかった。零れた涙がルクシウスの寝間着の胸に吸い込まれていく。
 子供をあやすように背中を撫でられると、心地良さと、子供扱いしないでほしいというジレンマがシュカの胸をじくじくと焼いた。
「自信が、ないん、です…」
 ルクシウスがいつまで自分を好きでいてくれるだろうと考えてしまう。彼の『好き』が幼子を慈しむような気持ちではないだろうかと疑ってしまう。
 目には見えない感情が、ある日突然、陽炎のように消えてしまうのではないかと。
 けれどそんな不安を口にしたら本当になってしまいそうで、それが何よりも怖かった。
「自信なんて私にもないさ。だが、シュカがいつでも真っ直ぐに気持ちを向けてくれていることはちゃんとわかっているよ」
 頬を押し当てたルクシウスの胸から響く声を聞きながら鼻を啜る。
「こんなにも君に想われて…私は幸せ者だね」
 シュカはルクシウスの背中に腕を回して、さらに頬を押し付けた。
 勝手に溢れ出す気持ちをうまく言葉にできず、ただ無言でしがみ付くシュカの髪をルクシウスは飽きることなく撫で続ける。
「この指輪だって、ひと月近くも前に出来上がっていたのに、タイミングを測りかねてなかなか渡せなくてね。その挙句に君を傷付けて、こんなにも泣かせてしまうだなんて…。本当にすまなかった」
 シュカは唇を震わせながら首を振り、困った顔で涙を拭ってくれるルクシウスの手に手を重ねた。二人の手の隙間をシュカの涙が濡らしていく。
「好き…大好きです、ルクシウスさん」
「私も君が好きだよ、シュカ。君のすべてが愛しくてたまらない」
 重なった手のひらに引き寄せられ、シュカは目を閉じた。唇に触れるぬくもりが胸の奥底から泉のように愛しさを溢れ出させる。
 涙を滲ませる目尻にも何度もキスをされると、くすぐったさと心地良さに瞼が重くなった。
 いつもの就寝時間はとうに過ぎてしまっている。ルクシウスもそれをわかっていて、シュカの肩を撫でる手のひらの動きを穏やかにする。
「さあ、そろそろ寝ないと」
「はい…」
 ルクシウスに促されたシュカはベッドに横になると改めて左手の指輪を見つめた。ランプの灯りに照らされたサファイアの深い青色はとても美しくて神秘的だ。
 しかし何度思い返してみても、あの宝飾品店で持ったものの中に、この色の石はなかったはずだった。
「あの時、僕が持った石の中にこんなに綺麗なのありましたっけ?」
「内側に隠れていたんだろう。何の変哲もない岩石を削っているうちに宝石が見つかることはよくあるよ。それでもあの少年か、本来の店主のどちらかはそれを見越していたのかもしれないが」
 そうだとしたら、とてつもない審美眼だ。
 しかしあの少年ならば、内側に隠された原石を見つけることもできるかもしれない。
「…もしかしたらルクシウスさんのことを好きって思う気持ちも、こんなふうに見つかったのかな」
「うん?」
 不意に口から出た言葉をルクシウスは聞き止めたらしい。
 腕枕をしてくれる傍らで髪を撫でてくれる手があたたかくて、ふわ、とあくびが漏れる。
「僕の中にあった自分でも気付いてなかった気持ちを、ルクシウスさんが見つけてくれたのかなって」
ルクシウスから告げられた言葉に呼び起こされた恋心は、今まさにシュカの指で輝くサファイアと同じだ。
「輝かせるのも、濁らせるのも…ルクシウスさん、だから…」
「ああ……そうだね」
 頷いたルクシウスがシュカの額におやすみのキスを贈ると、それを合図にしたようにシュカは音もなく眠りの世界へと落ちていった。
 シュカを抱き直したルクシウスはベッドサイドの灯りを弱めると薄暗い寝室の天井を見つめ、額にかかる髪を掻き上げるふりをして頭を抱えた。
「まったく…とんでもない殺し文句だよ、シュカ」
 自分を生かすも殺すもルクシウス次第だと手放しで曝け出されたようなもの。なんて危うい博打だろうか。一歩間違えば無謀なほどの無垢さには驚かされるばかりだ。
 笑うことも泣くことも恋をすることさえ一生懸命な少年を前にして、ルクシウスは誠実な紳士の仮面を被り続けている。年齢差も当然それを増長していた。
 恋人になって欲しいと口にしたのはルクシウスのほうだが、シュカが年上の同性への憧れと恋心を勘違いしているのではないかという可能性を否定しきれずにいたことも確かだ。だからと言ってシュカを泣かせたかったわけではない。
 大切に包み込んで近くから見守りながら、彼が大人になるのを待とうと思っていたのに。
 分別のある大人を装ってルクシウスが越えないようにしていた一線を越えてきたのはシュカのほうだった。
(参ったな…)
 あの日、商都から帰る馬車の中でシュカが唇同士のキスを求めてきた時、ルクシウスは薄々自覚していた自らの欲望が鮮烈なものだと思い知った。
 自分の中に存在した情熱を涼しい顔の下に隠したまま触れたシュカの唇は甘く柔らかくて、聖域を穢すような背徳感に理性を失いそうだった。こんな薄汚れた感情を抱いていると知ったらシュカは幻滅するかもしれない。
 不安と、それからきっとシュカなら真正面から受け止めてくれるはずだという期待に柄にもなく泣きたいような心地になる。ルクシウスは穏やかな寝息を立てるシュカのプラチナブロンドの髪を指先で弄び、無意識に擦り寄ってくる華奢な身体を抱き寄せた。
 早く大人になってほしい。だが、無垢なままでもいてほしい。
 笑いたくなるくらい正反対の願望に苦笑を浮かべ、シュカの唇に指先で触れる。
「君が大人になる日が待ち遠しいよ」
 音もなく苦笑を漏らしたルクシウスはその夜、なかなか寝付けなかった。
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