愛を誓うならヤドリギの下で

月居契斗

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愛を誓うならヤドリギの下で 15

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「経過はどうだ?」
 あっという間に十二月になり、降って溶けてを繰り返す雪で村は斑に白く染められている。陽が差す日もあるが気温はそれほど上がらず、雪が本降りになる日は今日か明日かといったところだ。
 しかし学生としては天気よりも試験が気になる。シュカは目前に迫った期末試験に前向きに立ち向かい、今日もアッシュと一緒に図書館で試験勉強をしている最中だったが、唐突に話しかけられてペンを持ったまま向かいのアッシュを見る。何のことだかわからなくて首を傾げると、アッシュはやや呆れた顔をした。
「クリスマスまで三週間ほどしかないだろう。そっちの準備は進んでいるのか?」
「あ、ああ…うん、まあまあ?」
 シュカは言葉を濁して頬をうっすらと染める。
 ルクシウスの家に泊まる日以外せっせと自分の身体の準備を進めてきた結果、シュカのそこは軟膏を使えば指一本ならスムーズに入るようになった。
 痛みはないけれど違和感だらけで、慣らすためにと抜き差ししても気持ち良さなんてちっとも感じない。目標である指三本にも程遠く、焦って二本目を入れようとするとさすがにそこが引き攣るような痛みを発して、怖気付いたシュカはなかなか先に進めずにいた。
「アッシュ君のほうこそ甘えられるようになった?」
「……聞くな」
 不貞腐れたみたいにそっぽを向くアッシュに、ついシュカは苦笑してしまった。アッシュの性格からしたら恋人に甘えるのは難しいかもしれないが、ジークフリートはきっと喜ぶだろうと確信めいた思いがある。
「甘えるって、そんなに難しくないと思うんだけど」
「…少し前に甘えてみたら驚かれたから、もうやらない」
「えっ? いや、でも、たぶんそれは急に甘えられて驚いただけなんだと思うし、もう一回挑戦しようよ」
「恥ずかしいんだっ」
「それこそ慣れだよ!」
 変に熱が入った会話が途切れ、二人ははっとして辺りを見回した。
 幸い近くに他の来館者はいなかったが、騒がしくしてしまった気まずさに声を落とした二人はテーブルの上で顔を寄せ合う。
「アッシュ君は学校にいる間、いつも先生と生徒の距離感を保とうって気にしてるでしょ? だったら家にいる時くらい甘えるのが当たり前になっちゃうくらいに甘えたっていいと思うよ」
「……善処する」
 眉間にシワを寄せて頷くアッシュに苦笑しつつもシュカは「がんばってね」と応援した。
 試験期間中の一週間、ジークフリートは学校内にある教員用の宿舎で過ごすと決まっている。不正防止のために厳しく定められている決まり事のためどうしようもないのだが、一週間も満足に会う時間を作ることができないなんて自分なら寂しすぎて泣いてしまいそうだとシュカは自分のことのように落ち込んだ。
 学校で顔を見ることはできても、あくまでも教師と生徒としての立場として。試験中の監督役に割り当てられなければ一日中顔を見ることさえない日だってあるかもしれない。それ以前に生真面目なアッシュは自分の婚約者に声をかけることすら避けるような気がする。
 いろんな意味で憂鬱な一週間に思いを馳せていたシュカをアッシュの声が引き戻した。
「冬休みになったら、一度家に帰ろうと思ってる」
「家って…実家?」
「ああ」
 驚いて顔を上げたシュカを見てアッシュが小さく笑い声を漏らす。
「心配するな。アイツとのことを両親に伝えるためだ」
「あ…そうなんだ。良かった」
「俺が帰ったまま戻ってこないと思ったのか?」
「……ごめん。ちょっとだけ…」
「この近くで家を見つけるのも良いと思ってると言っただろう」
 アッシュは本気で家を買うつもりなのだ。
 考え方の規模が違うことに驚いていいのか感心していいのかわからず、シュカは曖昧に頷いた。
「俺は本当にこの村を気に入ってるんだ。皆も優しくしてくれるし、長閑で季節の移ろいも感じられる。味気ない生活に戻るより、この近くに家を買って住むほうがずっと良い」
「アッシュ君の実家がある場所って、どんなところなの?」
「前に一緒に入った商都と似た雰囲気の街だ。街中に石畳が敷かれて、街路樹が所々に植えられていて、この村よりも遥かに人が多い。その分、常に騒がしくて落ち着かない煩い街だった。だから、俺にはこの村の静けさは居心地が良いんだ」
 特にこれと言った特産品もない村だが、ジークフリートとのことで人知れず傷付いていたアッシュの心が癒される場所であったことは誇らしくさえ思う。
 そこでようやく試験勉強がちっとも進んでいないことを思い出した二人は慌ててペンを握り直した。どうしたって不安が残るのは仕方がないと割り切ってしまえば、あとはとにかく頭に知識を詰め込むだけ。
 無心で机に向かっているうちに時間は過ぎてしまい、アッシュは大詰めとなった問題作りに疲弊した表情のジークフリートに迎えられて一緒に帰って行った。
 シュカは通用口の椅子に座ってルクシウスを待つ間にも教科書を開き、単語をひとつでも多く覚えられないかと目を凝らす。
「暗いところで読み物をすると、目を悪くしてしまうよ」
 苦笑混じりの声に顔を上げると、帰り支度を終わらせたルクシウスが立っていた。既にマフラーまでしっかりと巻き付けている彼の姿に慌てて教科書を鞄に突っ込む。
「ごめんなさい、気付かなくて…」
「いや、集中していたのに邪魔をしてしまって、私こそすまない」
「ルクシウスさんが悪いわけじゃないのに」
 外へ出るとラランもジアスもいなかった。
 いつもは待っていてくれる二人の姿がないことに違和感を覚えたシュカは小さく声を上げる。
「もしかして、僕が気付くのを待っててくれたんですか?」
 鍵を閉めるルクシウスにそう訊ねると、彼は「少し他のことをしていて遅くなっただけだよ」と優しい嘘をつく。シュカは自分の胸が少しだけ苦しくなるのを感じながら、どこまでも優しい恋人に抱き付いた。
 ルクシウスはそんなシュカをしっかりと受け止めて、あやすようにあたたかい手のひらで髪を撫でてくれる。
「どうしてこんなに優しくしてくれるんですか…」
「シュカのことが好きだからだよ」
 さも当然だと言わんばかりに答えられては、ささやかな反論もできない。悔し紛れにルクシウスのローブのポケットの中で繋がれた手をぎゅうぎゅうと握り締めるが、ルクシウスはむしろ嬉しそうに目元を細めるだけだった。
 恋人が大人すぎてちっとも追いつける気がしない。悔しさに唇を尖らせながらルクシウスの家へと入ったシュカは、ドアを潜るなり正面からルクシウスにしがみ付いた。
 もう少しで成人となる誕生日を迎えるというのに、情けなくなるほど子供っぽいままの自分に嫌気が差す。
「悔しい…」
 思わず口から漏れた恨みがましい声を聞き止めたルクシウスが顔を覗き込もうとするのを首を捻って阻みつつ、シュカはルクシウスの広い背中に回した腕に力を込めた。早く大人になりたいと切実に願う心とは裏腹に、今もこうして拗ねている自分はどうしようもなく子供だ。
「ルクシウスさんが大人すぎて、追いつける気がしなくて悔しいです」
 思っていることを素直に告げるとルクシウスは低く笑った。耳を押し付けた胸からも直接聞こえてきた音に少しだけムッとする。
 抗議してやろうかと見上げたルクシウスの表情が思いがけず優しくて、一瞬にして毒気を抜かれたシュカは何も言えないまま口を閉ざした。
「年齢が離れているからこその経験値の差もあるが、単に私が君を甘やかしたくてたまらないんだ。私がすることでシュカの表情が変わるのを見るのも好きだしね」
 触れるだけのキスが鼻先に落とされる。あやされているのか誤魔化されているのか曖昧なところだが、こうされるとシュカは何も言えなくなってしまうのだ。
頬をうっすらと染めながら口を尖らせると、ルクシウスは微かに笑い声を漏らした。
「こういうところが可愛いんだよ」
 薄赤く染まった頬を手のひらで包まれたシュカは夜風で少し冷えた恋人の唇を受け止めるために目を閉じた。
 触れるだけで離れた唇を追いかけたかったけれど、今日は妙に恥ずかしさが先に立ってしまって身を引いたシュカは、お茶を淹れるための準備をするルクシウスの背中に恨みがましく視線を向けながら脱いだコートを椅子の背にかける。
 行儀は悪いが、週末ではない今日は家に帰らなくてはいけないからと心の中で言い訳をした。
「寒さが厳しくなってきたね」
「十二月ですからね。ついこの間、収穫祭が終わったばかりだと思ってたのに、早いなぁ」
「もう少しで試験だと思うが、勉強は順調かい?」
「あはは…今のところは。まあ、いくらやっても不安はありますけど…」
「昔、イーサンも似たようなことを言っていたよ」
「お父さんも?」
 ミルクティーのカップを受け取りながら目を丸くする。
 ルクシウスの口から学生時代の頃の話が出るのは珍しくて、シュカはつい身を乗り出してしまった。
「アイツはシュカよりもずっと勉強が苦手で、試験の前になると必死で机に齧り付いていたよ。覚えは悪くないんだが、些か神経質で小難しく考えがちだったせいか、引っ掛け問題には相当苦労していた」
「あ、そういうところは僕も同じかもしれません…」
「シュカは素直だからね」
 手のひらを返したルクシウスの言葉に笑いが込み上げる。そんな言い方をされてしまうくらいルクシウスから贔屓にされていることを誇らしく思っていいのか悩むところだが、もちろん悪い気はしない。ついさっきまでの悔しさなんてすっかりと忘れたシュカは二人きりでの食事を済ませ、勉強を教えてくれるというルクシウスの言葉に甘えて書斎へと移動した。
 ルクシウスの落ち着いた低い声は耳にも心地良く、教え方だって上手で、シュカの苦手な歴史の問題も順序立てて教えてくれるおかげで理解しやすい。
「特に歴史は複雑だからね。すべてを覚えるのは大変だが、年号と人名、その人物にまつわる出来事だけに集中してしまえば、それほど情報量は多くない。覚えようとしている人物の顔が肖像画として残っているのなら、年号と人名は絵のタイトルだと思ってしまえばいいんだ」
「絵のタイトル…そっか、それなら覚えられるかも」
「その人物にまつわる出来事だって、絵の解説だと思えば紐付けもしやすい」
「そうですね、そのやり方で覚えることにします」
 シュカは感心して何度も頷きながらノートにペンを走らせ、ルクシウスから聞いた覚え方を忘れないように書き留めた。
「ルクシウスさんは教師にもなれたかもしれませんね」
「私がここまで丁寧に教えるのはシュカだけだから、家庭教師で勘弁してほしいところだな」
「あ、いいですね、それ! ルクシウスさんが家庭教師だったら勉強がもっと好きになれそうです。と言っても、今の状況だって家庭教師とほとんど変わらないですけど」
「そうだね。でも、普通の家庭教師は違うところもあるよ」
「違うところ?」
 首を傾げたシュカの肩をルクシウスが抱き寄せ、耳に息が触れるくらいの距離で小さく笑う声が聞こえる。
 くすぐったさに跳ねた肩を逃がさないとばかりにますます引き寄せたルクシウスはシュカの耳のすぐ傍で囁いた。
「子供には教えられないようなことも教えてあげられる」
「っ…!」
 ぞわりと背中が痺れ、数秒遅れて顔が赤くなっていくのを自覚しながらルクシウスを見れば、彼はどこかいじめっ子のように微かに目を細めてシュカを見つめていた。
 見つめ返すシュカの心臓は煩いほどに高鳴っていて、震えそうな手を伸ばしてルクシウスの膝の上に乗せた。
「教えてほしいって言ったら…?」
 潜めた声で呟くと、視界がぐるりと反転する。後頭部に当たった柔らかい感触は、以前シュカがプレゼントした刺繍のカバーをかけたクッションだ。
 それに意識を持っていかれた一瞬の隙に距離を詰めたルクシウスがシュカの唇を奪うようにキスをする。
「ん…ッ」
 舌で唇をこじ開けられ、好き勝手に口内を嬲られる。
 いきなりの深いキスに戸惑うシュカの舌先をルクシウスが舐め上げた。耳に届く水音が恥ずかしくて目を開けられないが、それを吹き飛ばすほど気持ちが良くて、このまますべてを委ねてしまいたくなる。
 制服のリボンタイが引き抜かれ、次いでシャツのボタンが外されていくのを感じながら、シュカは覆い被さるルクシウスの肩に手を伸ばして縋るように指先に力を込めた。それを合図にしたみたいに、顔の位置をずらしたルクシウスの唇が胸に触れる。小さな痛みに反り返った背中の下にルクシウスの腕が滑り込んでくると身を捩ることもできない。
「あ、ん…」
 自然と腰を突き出すような体勢になったシュカの胸を、なおもルクシウスが唇で弄る。
 跡が付かない程度に何度も柔らかく吸われ、その間に滑り落ちた手のひらが腰骨の辺りを撫でてくるのが心地良い。身体の奥からじわじわと熱が生まれて全身に流れていく感覚は、霧がかかるようにシュカの思考を鈍らせる。
 ルクシウスの腰と重なった部分がむずむずして、ルクシウスが少しでも身体を動かすたびに擦れて声が出そうになった。そこがどうしてそうなるのかわからないほど子供じゃない。
 シュカはたまらなくなって自分からルクシウスに腰を押し付けた。
「触ってもいいかい?」
「っ、はい…」
 必死に頷くと、少しだけ身体を起こしたルクシウスの手がズボンのウエストを緩めて、窺うようにそろりと入り込んできた。大きな手に包み込まれて、じれったくなるほどゆっくりと擦られる。全体を手のひらで刺激されるたび、シュカが吐き出す息にも熱が混じった。
「ぁ、あ…ッ」
「我慢しなくていいよ」
「っ、ぅ…んん…っ!」
 あっという間に高められてしまったシュカは、我慢しきれずルクシウスの手の中に熱を吐き出す。絞り出すみたいに扱かれると息が詰まって勝手に腰が跳ねた。
 こうしてルクシウスに手で慰めてもらったのは初めてではないけれど、何度されても逃げ出したくなるくらい恥ずかしくて申し訳ない気持ちになってしまって、シュカは恥ずかしさを誤魔化したくてルクシウスの身体に擦り寄った。
「…僕もしたい、です…」
「それはまた今度でいいよ」
「でも…」
「私が理性を保てている間に、君を帰さなくてはいけないからね」
 手を洗いに書斎から出て行くルクシウスの後ろ姿を無言で見送ったシュカは落ち込んだ気分でソファに身を委ねた。
 自分ばかりしてもらっているのに、ルクシウスには何もできていない。お返しをしたいと言ってもルクシウスがそれを受け入れてくれたことはなく、いつもさっきみたいにかわされてしまう。
 戻ってきたルクシウスが濡らしたタオルで身体を拭ってくれる間もシュカは黙ってそれを見るだけだ。自分に触られたくないのではないかとまで考えて泣きそうになる。
「シュカ」
 穏やかに呼ばれて、のろのろと顔を上げる。
「クリスマスになったら、私は何も我慢しない。君がしたいことも、してほしいことも、全部叶えてあげよう」
 視線を合わせたルクシウスは真剣な目をしていた。
 シュカはきょとんと瞬いて言われたばかりの言葉を頭の中で反芻する。理由はわからないが、今のルクシウスは我慢しなくてはいけない状況にいるということだけを理解したシュカは小さく頷いた。
「全部…ですか?」
「ああ、全部だよ」
「わかりました」
 ちっともわからないままなのに、そう言うしかない。 クリスマスが来たらすべてがわかるはずだと自分に言い聞かせたシュカは、服を整えてくれるルクシウスの手を受け入れた。
 コートとマフラーをきっちりと着込んでも、外に出ると寒さで身体が強張る。帰り道を半ばまで歩いたところでちらちらと雪が舞いはじめた。吐き出す息はますます白くなり、耳や鼻は赤くなる。
 ぴったりと寄り添っているのに分厚いコートとローブに阻まれて体温が伝わりにくくてもどかしい。
「ルクシウスさん」
「何だい?」
「…何でもないです」
 何かを言いたかったはずなのに、言葉を探しているうちに忘れてしまった。
 雪が舞う冬の夜道は感傷的な気分にさせて、シュカはルクシウスと繋いだ手をますます強く握る。
「シュカ」
「何ですか?」
「私といて、幸せかい?」
 シュカは少しばかりの驚きを混ぜた視線をルクシウスに向けた。
 この期に及んで自分の気持ちを疑っているのかと、かつての不安と憤りが甦りそうになったが、暗い夜道を真っ直ぐに見つめるルクシウスを見た途端にそんな不満は言えなくなった。
 彼の横顔は穏やかで、口元はほんのりと笑みを浮かべていたからだ。
「幸せです。ルクシウスさんと一緒にいて、自分でも知らなかった自分を知りました。ほんのちょっとのことで喜んだり不安になったり、嫉妬したり…。でも、一緒にいなければ良かったなんて思ったことは一度もありません。ルクシウスさんと出会えて良かった、好きになれて良かったって…いつも心からそう思ってます」
 言い終わって口を閉ざすと、ポケットの中で繋いだ手をルクシウスが強く握ってきた。
「良かった…私と同じ気持ちでいてくれて」
「同じ…?」
「そうだよ。私も、シュカと一緒にいて今まで知らなかった自分を知った。些細なことで嬉しいと感じたり、不安になったり、大人げなくアッシュ君に嫉妬だってした。歳ばかり重ねているくせに、ちっとも大人じゃないことを痛感させられたよ。こんな私にいつシュカが愛想を尽かしてしまうかと心配で仕方がなかった」
「不安だったんですか…?」
「当然だよ。私にとってこれは初恋なんだ。昔に比べて人嫌いは多少マシになったが、恋愛的な意味で他人を見たことはなかったからね。だから君に惹かれている自分を自覚した時には天変地異の前触れかとさえ思ったよ」
「ルクシウスさんも初恋だったんですね。じゃあ、僕と同じだ。それにしても天変地異って」
 くすくすと笑うシュカを見つめるルクシウスの瞳は優しい光を湛えている。そんな彼に気付いたシュカは寒さからではなく寒さで強張る唇ではにかんだ。
「不安なんだよ。どうしたら君を繋ぎ止めておけるかと、少々物騒なことを考えるくらいには」
「何もしなくても、ルクシウスさんがルクシウスさんでいてくれたら、僕はそれで充分です」
 ポケットの中で指を絡めて重ねた手のひらを、今度はシュカから握り締める。
「もしまた不安になったら教えてください。ルクシウスさんが安心するまで、僕はずっとルクシウスさんが大好きですって言いますから」
「…ああ、ありがとう」
 どことなくルクシウスが泣きそうな顔になった気がして、代わりにシュカは微笑んだ。
 静かに雪が舞う中で、そうすることが当たり前のように唇を重ねる。
 まさかルクシウスも初恋だったなんて考えてもみなかった。けれど、そう聞かされたシュカの心はあからさまな喜びで溢れ返っている。
「ルクシウスさんは、一生…僕だけのものです」
 シュカは唇が触れそうな距離を保ったまま呟いた。
 ルクシウスの恋はこれが最初で最後だ。だって、彼を手離す気なんてこれっぽっちも自分には存在しないのだから。
「絶対に逃がしてあげないから、覚悟してくださいね」
 ブルーグレーの瞳が驚きに見開かれたが、すぐさま悦びに細められる。
 それを静かに見つめたシュカは背伸びをして、ルクシウスの唇に自分から唇を押し付けた。子供っぽいリップ音も今だけは気にならない。
「やはり君には敵わないな」
 苦笑するルクシウスにシュカも笑って、残り少ない帰り道をわざとゆっくりと歩いた。
 不安や心配は尽きないけれど、二人でいれば乗り越えられないものではないと改めて確信することができた。心が少しだけ大人になったのかもしれない。そう思うと勝手に頬が緩むくらいにくすぐったくて、それから不思議と誇らしい気分になった。
 家の前で「また明日」と言葉を交わして離れる瞬間が切なく胸を締め付ける。
 名残惜しくルクシウスの背中を見送ったシュカは家に入り、勧められるまま入浴の支度をした。もちろん慣らすための軟膏も忘れずに持ち込み、ルクシウスを想いながら自分の中に指を押し入れる。まずは一本、指が奥まで進む。
「ん…」
 この指がルクシウスのものだったら一体どんなふうに動くのだろうか。
 指を慎重に前後に動かしながら、そこに異物が入る感覚を身体に覚えさせる。こうして自分で慣らしはじめた最初の頃よりも違和感や抵抗は薄らいだ気がするが、まだまだ狭くて動かしにくいことには変わりない。
 シュカは一旦指を抜き、軟膏を追加してもう一本の指を添えた。
「んん、っ…」
 追加した軟膏を指全体に行き渡るようにして塗りたくり、少しは力を抜くことを覚えた後孔に揃えた指先を押し当てる。強い圧迫感に力みそうになるが、深呼吸を繰り返して力を抜くと、何とか爪先だけを含ませることができた。
 そこからまた時間をかけて根元まで押し込んだ指は強い締め付けに押し潰されそうだ。軟膏の滑りがあっても指を抜き差しするのがやっとなほどの圧迫感に苦戦する。
 時間的にも怪しまれそうだと判断したシュカは自分の中から指を抜き、冷えた身体をあたためようと湯船に浸かった。
 いつも以上に長風呂だったことを母に指摘されたシュカは「勉強のこと考えてたから」と苦し紛れの言い訳をしておいた。指を入れたことでほんのりと違和感が残っているのがバレやしないかと気が気じゃない。
 部屋に戻ってガラスの容器を棚に置き、シュカは火照った頬を冷ました。
自分に触れるのがルクシウスの手だったらと想像したのが良かったのか、今日は指を二本入れることができた。この調子ならクリスマス当日までに準備を整えられるかもしれない。
 シュカの視線は自然と机の上の指輪に注がれる。
「大人になっても、ルクシウスさんのことが大好きです。それだけは絶対に変わりません」
 今夜は厚い雪雲に隠されていて姿を見ることはできないが月はきっとそこにある。
 祈りを捧げて、指輪にキスをして、髪を乾かしてからベッドに潜り込むと、不意にルクシウスの台詞が甦った。
 シュカがしたいことも、してほしいことも、全部叶えると言ってくれたルクシウスの言葉はきっと嘘じゃない。今さらじわじわと頬が熱を帯びていく。
(僕、ちょっと大胆すぎたかな…)
 毛布に包まって悶えるシュカはいつものようにすんなりと寝付けず、幾度となく悩ましくため息を吐き出した。



      ***



 長いようで短い試験期間が無事に終わって冬休みになるとすぐにアッシュはジークフリートと共に村を離れる予定になっていた。
 去年のようにアッシュとクリスマスを楽しめないのは少し寂しいけれど、アッシュが本当にこの村に家を買って住み着くのなら、また一緒にクリスマスを過ごす機会はある。それにジークフリートの隣で幸せそうに恥じらいを押し隠してはにかんでいるアッシュを見ていると、それだけでシュカの胸の中には喜びと嬉しさが満ちた。
 予定どおり二人が村を発つ日、見送りに行ったシュカの目の前にアッシュは丁寧にラッピングされた小箱を差し出した。
「誕生日の当日に祝ってやれないから、先に渡しておく」
「ありがとう、アッシュ君」
「クリスマスの集まりにも参加したかったが、今年は諦めるしかないな…。去年もらった飾りは来年まで持っていても良いのだろうか?」
「いいと思うよ。二年分のありがとうを込めて来年持っていけば、きっと神様も怒らないよ」
「それもそうか」
 年明けには二人で帰ってくると約束してくれたアッシュにシュカは何度も頷き、走り去る馬車に向かっていつまでも手を振った。せめて馬車が山を越えるまでは、今朝から少し弱まっている雪の降り方が続いてくれればいいなと願いながら家への道を歩き出す。
ふと道の脇に目をやると、誰にも踏まれていないと思っていた雪の上に特徴的な形の穴が開いていた。小さな丸と細長い形の足跡はたぶんウサギだろう。少しだけくねった足跡の線はやがて藪のほうに曲がって、ふつりと消えていた。
 ルクシウスにも教えてあげようと考えたシュカは、次の瞬間に胸の中の蟠りを思い出してマフラーに埋めた唇を尖らせる。
「ルクシウスさんの、バカ…」
 白い息と共に口から漏れたのは、いかにも子供っぽい拗ねた声だった。
 今日はクリスマスイブ。年内の開館日も今日が最後だ。
 それにいよいよ明日はシュカが成人を迎える誕生日で、予定としては今日の夕方にはルクシウスの家に行く予定になっていたのに、どうしても司書達の慰労会に参加しなくてはいけなくなったと告げられたのが一昨日のこと。
 普段なら聞き分けの良いシュカもさすがに機嫌を損ねて「予定は入れないって言ったのに」と責める口調で言ってしまった。
 当然ルクシウスは申し訳なさそうに何度も謝ってくれたが、楽しみにしていた気持ちを裏切られた気がして悲しくなったシュカはルクシウスに許すと言えないまま昨日は図書館に顔も出さず、そうして今日を迎えた。
 司書長という立場のあるルクシウスだからこそ抜けられない付き合いだってあるのだと理解しているつもりだったのに、つい頭に血が上って嫌な態度を取ってしまったことを今さら激しく後悔する。
 きっと明日になったら朝一番に迎えに来てくれるだろうから、その時は責めてしまったことをちゃんと謝ろう。仲直りして、二人で笑い合って誕生日を一緒に過ごしたい。
 そして、ルクシウスのものにしてほしい。
 擦れ違ったまま誕生日を迎えることになるなんて考えてもいなかった。遅すぎる後悔にじんわりと涙が滲んで、シュカは慌てて手袋を着けた手で目元を拭う。
 涙の気配が消えるまで適当に時間を潰してから家に帰ると、父と母がせっせと動き回っていた。まだ昼過ぎだというのにテーブルにはクロスが敷かれ、燭台や花飾りなどが着々と定位置に並びはじめている。
「僕にも何か手伝えることある?」
「じゃあ、お父さんと一緒に飾り付けをお願いね」
 どうやらキッチンは母の独壇場のようだ。
 シュカは燭台の向きを何度も微調整している父に近付いた。
「飾り付け手伝うよ、お父さん」
「そうか、ならシュカには窓のところを任せる。飾りは置いてあるから、良い具合に並べてくれ」
「うん!」
 父の言うとおり出窓の枠には適当に飾りが積まれていて、シュカはひとつひとつ丁寧に向きを揃えて並べた。
 作り物の柊、木を削って作られたリンゴ、仲睦まじく寄り添うトナカイの置物。見ているだけでもクリスマスの雰囲気が漂ってきて胸が踊る。
 シュカは椅子の背にかけたコートのポケットからアッシュに渡された少しだけ気の早い誕生日プレゼントを取り出した。慎重にラッピングを解いて小箱を開くと、中には水晶の塊が入っていた。
「綺麗…」
 何の変哲もない石に張り付いた水晶が六角形を保ったまま幾つも伸びてきらきらと光っている。その中に僅かに混じった金色の線に気付いて、シュカはそれを父に見せた。
「お父さん、見て。これね、アッシュ君が誕生日プレゼントにってくれたんだけど、水晶の中に何か入ってるんだ」
「ああ…これはルチルクウォーツだよ。水晶の中に別の鉱石の成分が閉じ込められてできる貴重なものだ」
「えっ! 僕、そんなにすごいものをもらっちゃったの?」
 思わず水晶を持つ手が震えてしまった。
今にも飛び上がりそうなほど驚いたシュカに父が笑い声を上げる。
「この大きさなら、そんなに驚くほど高価すぎるものではないだろう。ありがたくもらっておきなさい」
「う、うん…」
 シュカは恐る恐るといった手付きで水晶の塊を窓辺に置いた。水晶は差し込む光を受けて輝きを増し、不思議な力を宿していると言われても納得してしまいそうなくらい綺麗で神秘的だ。
 ふと思い付いて、シュカは水晶にそっと囁いた。
「ルクシウスさんと仲直りするチャンスをください」
 もう我が儘なんて言わないから、何の気兼ねもなく、またルクシウスに笑いかけられるようになりたい。明日からはもっと大人らしく振る舞えるようにするから、子供でいられる最後の日の願いを叶えてほしい。
 けれど水晶は美しくキラキラと輝くばかりで何も応えてはくれなかった。
 日没が近くなり、気温の低下と共に雪の降り方が強くなる。吹雪にはならないだろうが、歩いて帰るはずのルクシウスは大変だろう。
 シュカは部屋の窓から外を眺め、止め処なく降り落ちる雪を見ながらルクシウスを想っていた。胸の奥から込み上げるのは後悔と、それを上回るルクシウスに一分でも早く会いたいという切望がどんどん膨らんでいく。
 でももし、明日の朝になってもルクシウスが来てくれなかったらどうしよう。
 勝手に溢れそうになる不安を誤魔化すように、シュカは自分の部屋に戻って当面の着替えと勉強のための教科書類、それからあの軟膏の容器を鞄の奥に押し込んだ。
 気を紛らせるために手を動かしていても、知らず知らずため息が漏れる。
 正直に言ってしまえば身体の準備も心の準備もちっとも整っていない。むしろ喧嘩をしてしまっていると言ってもいいこの状況で、そんな流れになるのだろうかと疑問さえ湧いてくるし、もしも万が一にでも別れたいなんて言われてしまったら…。
 そんなことになったらきっと自分は幼い子供のようにみっともなく泣き喚いてルクシウスを困らせるに違いない。今だって最悪の展開を考えただけで涙が出てしまいそうなくらいなのだから。
 シュカは慌てて息を吐き出して気分を紛らわせ、ルクシウスのために用意したクリスマスプレゼンの包みを一番最後に鞄に入れた。
 少し前に鉱石について学ぶ授業の一環で郊外の工房を訪れた際、それぞれに好きな鉱石を選んでアクセサリーを作ることになった。指輪やペンダントトップだけでなくブローチやネクタイピンにも加工できると聞いた瞬間、シュカの心は決まった。
 ロメルマリアのように石の声が聞こえるわけではないシュカが時間をかけて厳選した小さなサファイアの原石を使って作った世界でたった一つしかないネクタイピン。それがルクシウスのために用意した今年のクリスマスプレゼントだ。技術はないがルクシウスへの気持ちだけは詰まっていると思う。
 手触りの良い布張りの箱を用意して、何度も失敗しながらラッピングして、リボンだっていつも以上に丁寧に結んだ。
 感慨深く鞄の上からプレゼントを撫でると、左手の婚約指輪がきらりと光る。シュカは励まされた気分になり、お礼を言う代わりにそっと指輪にキスをした。
 明日、ルクシウスが迎えに来てくれたら謝ろう。もしも迎えに来てくれなかったら、こちらから押しかけてしまえばいい。きっとルクシウスは、いつものように笑って許してくれるはずだから。
「シュカ、少し早いが夕食にしよう」
「うん、わかった、今行くね」
 ノックと共に父に呼ばれ、シュカはいつでも出られるようにコートとマフラーを机の上に乗せてから部屋を後にした。
 食卓にはたくさんの料理が並べられていた。火を灯されたキャンドルが彩りも盛り付けも美しい料理を照らしていてわくわくしてしまう。
「うわぁ、すごい!」
「まだ少し早いけど、シュカのお誕生のお祝いも兼ねて作ったの。たくさん食べてね」
「ありがとう、お母さん!」
「その前にプレゼントを渡しておくかな」
「ありがとう、お父さん!」
 両親からの誕生日の祝う声を聞きながら受け取ったプレゼントが何か開けなくてもわかる。
 シュカが覚えている限り、誕生日のプレゼントはいつも本だった。子供の頃は絵本が多かったが、ラディアス魔術学校に入学する少し前からは父が選んでくれたらしい初心者向けの専門書が増えた。
 去年は鉱石の図鑑だったが、今年は何の本だろう。ラッピングを解くのが楽しみだ。
 家族揃って食前のお祈りをしてから、まずはグラスを持って乾杯する。口を付けたグラスの中身はただのリンゴジュースだった。あと数時間で成人を迎えると言っても今はまだ未成年だと、そういう区別をはっきりと付ける母の性格故だろう。
「とうとうシュカも明日で成人なのね。何だかあっという間だったわ」
「まだ子供だと思っていたのに、いつの間にか恋人を見つけてくるとは…」
「それとまったく同じ台詞を、あなたと出会った日の夜に私も父から言われたわよ」
「そうだったの?」
 去年の収穫祭の日に父と母の出会いの話を聞かせてもらっていたシュカがグラスを置きつつ口を挟むと、母は微かに笑いながら頷いた。
「血は争えないって、こういうことを言うのかしら」
 その言葉に笑ったのはシュカと母だけで、苦虫を噛んだような表情の父を見たシュカは母と一緒になってまた笑う。
 窓の外では家路を急ぐ人の足音や子供達の笑い声が行き交っていて、幸せに満ち溢れた空気を感じながらもルクシウスだけがいないことが寂しかった。
 メインディッシュのローストポークをおなかに詰め込んでいると、生クリームとベリーで彩られたケーキが運ばれてきた。シュカは細いロウソクを吹き消しながら願いをかけ、改めてかけられるお祝いの言葉と拍手に照れて笑い、切り分けてもらったケーキを頬張った。
 すべてを堪能し終わって落ち着いた頃を見計らって、傍らに置いていた両親からのプレゼントを手に取る。
「プレゼント、開けてもいい?」
「もちろんだ」
 プレゼントの中身は薬草の図鑑と歴史の参考書だった。シュカの好きなものと苦手なものを把握している両親からの的確なプレゼントに苦笑が浮かぶ。
「ありがとう、大切に使うね!」
 どちらの本も宝物のように胸に抱き、それぞれの顔をしっかりと見つめてお礼を言う。
 父には髪を撫でられ、母からは優しい抱擁をもらった。
「シュカも大人になるのね」
 感慨深く呟く母にどんな言葉を返せば良いのか思い付けず、シュカはただ黙ってあたたかい腕の中で目を閉じる。
 幼い頃は父と母と自分だけが世界の中心にいたのに、いつの間にかシュカの横にはルクシウスが立っていて、世界の中心は自分とルクシウスのほうに僅かに傾いていた。これが大人になるということで、きっとかつての父も母も今の自分と同じ気持ちになったのだろう。
 けれど、変わらないものだってある。
「いつまで経ってもお父さんとお母さんは、僕の世界で一番素敵なお父さんとお母さんだよ」
 シュカが笑顔でそう言うと、母は笑いながら顔を歪めて綺麗な涙を零した。無言の父も微かに目を潤ませていて、息子を抱き締めた妻を腕の中に包み込む。
 この二人の子供として生まれて来れて本当に良かった。シュカは心の底からそう思って、両親の温もりを全身で受け止める。この時代に、この土地に、この優しい両親の元に生まれたからこそ、自分は一生で唯一と思える恋と出会うことができた。
 三人で顔を見合わせ涙を堪えながら笑みを交わし合っていると、微かにノックの音が聞こえたような気がした。
「俺が出るよ」
 そう言って父が居間を出て行く。
シュカは感極まってしまったらしい母の涙を拭いながら、少しして居間に戻ってきた父の気配に目を向けた。その目がゆっくりと見開かれる。
 ローブの至る所に雪をこびりつかせたルクシウスが大きく肩で息をして、鼻も耳も赤くして、そしてシュカが一番好きな笑顔を浮かべていた。
「遅くなってしまってすまない。…シュカ、君を浚いに来たよ」
 ルクシウスが広げた腕の中にシュカは迷うことなく飛び込んだ。
 ローブからは冷たい雪と冬の夜の匂いがして、息が止まりそうなくらい強く抱き締められると勝手に涙が溢れてくる。
 どうして、何で、今日はどうしても抜けられない集まりがあると言っていたのに。
 次々と溢れ出す気持ちは混乱を極め、結局どれもこれも音にはならずに喉の奥でくぐもった呻きに変わってしまう。ルクシウスも何も言わずにシュカの背中を擦るだけだ。
 耳を押し付けた胸からは分厚いローブ越しでも、急いで来てくれたのがわかりすぎるほど速い心臓の音が聞こえてくる。すっかり日が暮れて雪が降る外の空気は身を切るように寒かったはずだ。その証拠にシュカの背を強く抱き、髪を撫でてくれる手も氷かと思うくらい冷たくなっている。
 冷え切った手が愛しくて、少しでもあたためてあげたくて、シュカは涙で濡れた頬にルクシウスの手のひらを押し付けた。
 ルクシウスの首に巻かれたネクタイを見つけて、違う意味で心臓がまたひとつ跳ねる。
「父上殿、母上殿。このままシュカを連れて行く許可をいただけるだろうか」
 彼らしくない緊張を孕んだ声に合わせてシュカも顔を上げ、両親に懇願を込めた視線を向けた。
 母は力強く頷き、父は僅かに複雑そうに口元を歪めながらも小さく小さく頷いてくれた。
「ぼ、僕、コートとマフラーを取ってきますっ」
 さっきからずっと心臓が破裂しそうなほど大きく強く脈打っている。
 シュカは足が絡まりそうになりながら居間から飛び出して自分の部屋へと飛び込み、鞄の中に着替えと教科書、ルクシウスへのクリスマスプレゼントが入っているかどうかを急ぎつつも念入りに二回確かめてからコートとマフラーを掴んで部屋を出た。
 日付が変わるまであと数時間。今日のうちに気まずいまま過ごしたこの二日間のことを謝っておかなくては後悔する。
 焦りに突き動かされるように部屋から出たシュカは、居間の明かりが零れる廊下で足を止めた。
「僕、とうとう…」
 自分自身の独り言に耳まで熱くなる。このままルクシウスに浚われて日付を越えたら、もう二度と子供には戻れない。
 ほんの少しだけ怖いと思う気持ちをシュカは否定しなかった。いつだって変化は多かれ少なかれ恐れを含んでいるものだ。それでもルクシウスと共に迎える変化なら受け入れたいし、変わるならルクシウスの手で変えられたい。
 深呼吸をしてからこっそりと居間の様子を窺うと、両親もルクシウスも椅子に座って赤い色の液体の入ったグラスを傾けていた。父の顔が赤くなっていることから、それがお酒だとすぐにわかった。
「まったくもう。ついにシュカも成人になるっていうのに、あなたはいつまでも子供みたいなんだから」
「うう…ミシェーラ酷い…」
 もう既に涙ぐんでいるイーサンの手からワインのグラスを取り上げたミシェーラは、アルコールに弱いくせにワインを一気に飲み干した彼の心情も理解できてしまい苦笑するしかない。
「学校を卒業するまでは禁止って条件にするんだった…」
 意味不明な言葉を吐き出しながらテーブルに突っ伏した父を見て、何か自分だけが置いてけぼりにされていることがあったのだろうかと悲しくなる。
 今ここに着いたばかりだと装っておずおずと居間に顔を出すと、母が椅子に座るようにと促した。
「今の会話、聞こえていたんでしょう?」
「なっ、何のこと?」
「父子揃って本当に嘘がヘタねぇ」
 思わず視線が泳いでしまうシュカを見て母もルクシウスも小さく笑う。
 テーブルに突っ伏したまま弱々しい唸り声を上げている父は不貞腐れた犬のように見えて何だかおかしいけれど、今のシュカに笑う余裕はなかった。
「去年、あなた達の交際を認めた時に、ルクシウスさんには三つの条件を出していたのよ」
 そう言えばそんなことを言われた記憶がある。その条件とは、さっきへべれけになった父が呟いていたものだろうか。
「一つ目は、シュカを生涯かけて幸せにしてくれること。二つ目は、あの場で婚約をすること」
 シュカは母の言葉を聞いて、父が魔術を駆使して今もどこかにしまい込んでいる自分とルクシウスの婚約宣誓書をぼんやりと思い出す。
 両親の婚約宣誓書は額に入れられて寝室の壁に飾ってあるのを見たことはあるが、自分達がサインした婚約宣誓書は交際の報告をしたあの日以来一度も目にしたことはない。
 なのに、どこにしまわれているかもわからなかった用紙がいつの間にかテーブルの片隅に乗っていた。
 酔っていたはずのイーサンが顔を上げて、とろりとしつつも真剣な眼差しをルクシウスに向け、確かにルクシウスとシュカのサインが記入された婚約宣誓書を指先で移動させる。
「これは先輩にお返しします」
「ありがとう」
「…これからも、シュカを…息子をよろしく頼みます」
「心得た」
 ルクシウスが婚約宣誓書を受け取り指先で擦ると、たちまち用紙は空気に溶けたように消えてしまった。もうシュカには何が何だかわからない。
 混乱のために口数が減った息子に様子に小さく笑ったミシェーラが三つ目の条件を教えてくれる。
「三つ目の条件はね、シュカが成人するまでキス以上の行為はしないこと」
「…え……」
 思いがけない条件の内容に、頭の天辺から湯気が吹き出すんじゃないかというくらいの勢いで頬に血が上る。そんな条件を出されていたなんて知らなかった。
 今まで何度かそれらしい雰囲気になったのに頑としてルクシウスが手を出してこなかったのは、この条件があったからなのか。隣に座っているルクシウスに目を向けると、彼はほんのりと苦笑を浮かべている。
 黙っていたことを責めていいのか条件を守ってくれたことを喜んでいいのか判断できずに、シュカは視線を向けたまま何度も瞬きをした。
「まあ、そこは完全には条件を満たせなかったようだけど大目に見ましょう。あなた達が真剣に想い合っていることは、充分に見せ付けられてきましたからね」
 含みのある言い方にシュカの頬はさらに赤みを増す。キス以上のことと言われて思い当たるのは一つしかない。
 俯いた視界の隅に映るルクシウスの手を見て、ますます頬も耳も熱くなる。
「シュカ」
「は、はい」
 優しい微笑みを湛えたミシェーラは、顔を真っ赤にした息子をしっかりと見据えて口を開いた。
「世界で一番幸せになりなさい」
 背中を押すような母の言葉にシュカは力いっぱい頷いて、席を立ったルクシウスに手を取られて腰を上げる。
 コートを着込み、夜風が入らないようにマフラーをしっかりと巻き付けて玄関へ向かおうとした時、ふとルクシウスが立ち止まった。
「母上殿、シュカを返すのは早くても明後日になるかと思う」
「…あの人には私から伝えておきますわ」
 微かな呆れを浮かべた表情で、それでも母はそっと二人を見送ってくれた。
 玄関を開けるとまるで別世界のような暗闇が広がっていて、その中に点々と家の玄関先に置かれたクリスマスキャンドルが光を放っているのが見える。止め処なく舞い落ちる雪で視界は悪いが、これなら歩いて帰れそうだ。
 ルクシウスはシュカの右手を捕まえてローブのポケットの中に入れてくれた。
「帰ろうか」
「はい」
 一歩ずつ雪を踏み締めて、真冬の夜道に足跡を残す。
 息を吸うだけで肺の奥まで凍りそうな寒さのせいで会話は弾まなかったけれど、繋いだ手の温もりがあれば気にならなかったし、ルクシウスの隣にいるだけでどんな寒さだって平気だった。
 暗闇と雪のせいでいつもの倍も時間がかかった帰路も、着いてしまえば呆気ないものだ。ルクシウスが鍵を開けたドアを潜り、家中に明かりが灯される間も、シュカは居間に一歩踏み入れたところで立ち尽くしていた。
 一秒でも早くルクシウスと二人きりになれる場所に行きたいとあんなにも強く望んでいたのに、今こうしてその場に立つと床に張り付いたみたいに足が動かない。
「お茶でも淹れようか」
「ぁ…はい」
 湯を沸かすルクシウスはまだローブを着たままだ。そのくらい身体が冷え切っているのだろう。
 薪を足した暖炉の火のおかげで部屋が少しずつあたたまる頃には湯も沸いて、茶葉を入れたポットの中に注がれた熱湯が真っ白な湯気をもうもうと立ち上らせた。
「遅くなるんじゃなかったんですか…」
 言ってから、これでは責めているかいじけているかと思われてしまうのではと不安になる。シュカは唇を噛んで俯いた。
 自分からごめんなさいと言わなくてはいけないのに、自分よりも仕事を優先したルクシウスに対する怒りと悲しさも同時に思い出してしまって、いつもみたいに素直になれない。いや、素直になっているからこそ、こんな八つ当たりみたいな言葉を吐いてしまったのかもしれない。
 ルクシウスは二人分のカップをテーブルに置き、それからゆっくりとした歩調で、相変わらず立ち尽くしたままのシュカの前に跪いた。
「ラランに怒られたんだ。どうしてここにいるんだ、早く帰ってシュカを迎えに行け、とね」
「…ラランさんに?」
「彼女には以前、クリスマスがシュカの誕生日だと話したことがあってね。しかも今年のクリスマスはシュカが成人を迎える特別な日だ。それなのに仕事上の付き合いとは言え、私は君を蔑ろにしてしまった…」
 ルクシウスは跪いたままシュカの手を取る。まるで騎士がそうするみたいに恭しい仕草にシュカの心臓はとくりと脈打った。
「今日だけは他の何よりも君を優先するべきだったのに、本当にすまなかった。愛しい人よ、愚かな私をどうか許してくれないだろうか」
「っ…許します」
 僅かに呼吸を引き攣らせたシュカは空いた手をルクシウスの手に重ねる。
「僕も…嫌な態度をして、昨日は会いにも行かなくて。ルクシウスさんの立場とか、そういうのを考えずに子供みたいに我が儘を言ってごめんなさい。こんな僕のことを許してくれますか?」
「ああ、もちろん許すとも」
 ブルーグレーの瞳が安心したように細められるのを見て、シュカは跪いたままのルクシウスに抱き付いた。力いっぱいしがみ付いて溢れそうになる涙を必死に堪える。今は泣く時ではなく、笑う時だ。
「嫌われたらどうしようって、怖かった…」
「君を嫌いになるなんてありえないよ」
 立ち上がったルクシウスに頬を支えられて仲直りのキスを交わす。
 安堵の涙も唇で優しく拭われて、ようやく肩から力を抜くことができた。日付が変わる前に謝ることができて良かったと、気を抜けばまた涙が零れそうになる。
 シュカが少し冷めてしまったミルクティーを飲んでいる間に、ルクシウスはミシェーラがお裾分けだと言って取り分けておいてくれた料理を食べた。慰労会の序盤で抜けてきたというルクシウスは満足に食事すらしていなかったらしい。
 ローストポークとサラダ、シュカが食べたのよりも幾分か小さく切られたケーキがすっかりルクシウスの腹に納まってしまうのを黙って見届ける。
 自分も今からあんなふうに食べられてしまうのかと考えたシュカは一人で頬を赤くした。
「冷えただろう? 先に風呂であたたまっておいで」
「は、はい…っ」
 シュカはミルクティーを飲み干してシンクにカップを置くと、鞄を掴んで浴室に向かった。
 持参した寝間着と用意されていたタオルを棚に置いて、鞄の奥底に押し込んでおいたガラスの容器を取り出し、蓋を開けて中身を確認する。半分以上使ってしまったが足りるだろうかと、ここに来てまで不安が込み上げた。馬の速足みたいな速度の心音が耳の奥で聞こえている。
 この時がついに来た。来てしまった。
 湯気でけぶる浴室に足を踏み入れ、頭の天辺から足の先まで、洗い残しがないようにたっぷりと時間をかけて丹念に洗い上げてからシュカはようやく湯船に浸かった。
 バスタブの淵に置いたガラスの容器を指先でなぞり、どこまで準備しておけばいいのか迷いに迷ってから、シュカは腹を括って指に取った軟膏を自分の奥まった場所に塗り込んだ。表面だけでなく、指を押し込んで内側にも滑りを残す。
 自分がこんなことをしていると知ったらルクシウスはどう思うだろう。
「…っ」
 頭を振って余計な考えを吹き飛ばしたシュカは風呂から出て、寝間着の上からガウンのベルトを結びながら書斎を覗く。
 そこにルクシウスはいなかった。
 では寝室かと足を向け、閉じたドアを遠慮がちにノックする。中から入室を促す声が聞こえてきて、何となくほっとしながらシュカは目の前のドアを開けた。
「う、わぁ…」
 シュカの口から感嘆の音が漏れる。
 普段は殺風景とも言えるくらいだった寝室は花の香りとたくさんのキャンドルの明かりで満たされていた。
 サイドテーブルにも控えめな色合いの花の飾りと、今年のルクシウスの誕生日にシュカが贈ったキャンドルが置かれ、柔らかな光と馥郁とした香りを漂わせている。あまりにも幻想的な光景に圧倒されながら視界を巡らせたシュカは、キャンドルの光に照らされているルクシウスの姿をうっとりと見つめた。
 ベッドを整え終わったルクシウスは立ち尽くすシュカに近付き、手を引いて寝室へと引き込んだ。
「今年のシュカの誕生日には花とキャンドルを飾ると約束していたからね」
「覚えててくれたんですね…」
「もちろんだとも。君が大人になる特別な日なんだ、忘れるわけがないさ」
 不規則に揺れるキャンドルの火が、あちこちに飾られた花の影を浮かび上がらせる。
 雪に閉ざされるこの季節にこれほどの量の生花を用意するのは大変だったはずだ。なのにこれほどの量を用意して、いそいそと飾り付けをするルクシウスを想像したシュカの頬には笑みと同時に涙も浮かんだ。
「とっても嬉しいです…」
「喜んでもらえて良かった」
 心底から安堵した顔をするルクシウスに笑いかけたシュカは、抱えていた鞄の中から小さな箱を取り出して差し出す。
「これは僕からのクリスマスプレゼントです。授業で作ったものなんですけど、ルクシウスさんへの気持ちをいっぱい込めました」
「ありがとう、シュカ。だが、私からのプレゼントはまだあるんだ」
 楽しそうに笑ったルクシウスが机の引き出しから何かを取り出す。
 形も大きさも不揃いの箱が三つ、シュカに手渡された。
「こんなにたくさん? いいんですか?」
「当然だよ。明日はクリスマスだし、何よりも君の誕生日なんだからね。開けてごらん」
「は、はい…」
 まずは一つ目。一番小さい包みを開けると、中からはインク瓶が出てきた。インクの色はダークブルーで、ルクシウスの瞳の色を意識してるのはすぐにわかった。
 わくわくして手に取った二つ目のプレゼントは平たくて長細い箱で、中身は灰色の羽根ペンだった。以前、ルクシウスと一緒に商都に行った時に通りがかりの店先に飾られていたものに目を奪われたことがあったのだが、聡い恋人は気付いていたのだろう。
 シュカはもうすっかり興奮しているのを隠せずに三つ目の包みに手をかけた。
「エプロンだ! そういえば、収穫祭の日に言ってましたもんね」
 三つ目のプレゼントは、よく晴れた日の空を映した湖の色のような青色のエプロンだった。やはりルクシウスは青色が好きらしい。
 エプロンはしっかりとした厚手の生地なのに触れてみると柔らかくて手触りも良く、大きめのポケットは実用性が高そうだ。明日からでも使わせてもらおうと考えるだけで気分が上がる。
「誕生日プレゼントにしようと今日まで渡さずにいたんだが、手に入れてからすぐに渡しておけば良かったと後悔しているんだ。そうしたらもっと早くシュカの可愛いエプロン姿を見ることができたのにね」
「もう…。これからいくらでも見られるんだから、いいじゃないですか」
 想いが詰まった三つのプレゼントはどれも嬉しいものばかりで、胸がいっぱいになってしまう。
 ルクシウスもシュカが渡した小箱のリボンを丁寧に解いて箱を開いた。
「これは、ネクタイピンか」
「はい。ルクシウスさんはたまにしかネクタイを着けないけど、そのたまにを全部独り占めできたらいいなって思って…」
 気恥ずかしくて尻すぼみになる声をルクシウスはちゃんと聞き届けてくれた。
「わかったよ。もうこのネクタイピンしか使わないようにしよう」
「そ、そこまで拘らなくても、いいです…」
 あまりにも真剣な声でルクシウスが言うからシュカのほうが恥ずかしくなってしまう。
 照れて俯いたシュカの額にキスをしたルクシウスは、贈り合ったプレゼントを一旦机の上に置いた。
「私も風呂を済ませてくるよ」
「はい、わかりました」
「今夜だけは眠らずに待っていて」
 シュカの髪をくしゃりと撫でたルクシウスが寝室を出て行く。
 その後ろ姿を見送ったシュカは足から力が抜けてしまい、思わずその場にへたり込んだ。
 自然と足元に置きっぱなしにしていた鞄が目に入る。その中には軟膏のガラスの容器を忍ばせたままだ。
「……」
 震えてしまいそうになる手で恐る恐るガラスの容器を掴み、ベッドヘッドの段になっているところに隠すように置く。
 身体を動かすと自分の指で塗り込んだ軟膏の感触を嫌でも意識してしまうのに動かないでいることもできなくて、シュカは花とキャンドルで飾り付けられた寝室を歩き回った。
 うっすらと黄緑がかった白いバラとツヤツヤした赤い野いばらの実、緑の葉が鮮やかな蔓植物と、舞い落ちる雪を思わせるカスミソウを組み合わせた飾りがあちこちに置かれている。クリスマスらしい雰囲気に添ったアレンジの花飾りはシックな色合いの寝室と馴染み、落ち着いた雰囲気を嫌味なく彩っていた。
 ロマンチックな装飾に甘やかなため息が漏れる。今日という特別な日をルクシウスも心待ちにしていてくれたのがわかって、胸の奥から溢れるあたたかい気持ちで全身が満たされていく。
「待たせてすまない」
 思ったよりも早くルクシウスは戻ってきた。
 シュカと同じように寝間着の上にガウンを纏った彼は二つのグラスと小さめのボトルを持っている。サイドテーブルにそれを置いたルクシウスはベッドに座り、シュカにも座るように促した。
「もうすぐ日付が変わるね」
「え、あ…」
 本棚の上の時計は、あと数分で日付が変わる位置にまで針を進めていた。
「約二年間、恋人として過ごしてみてどうだった?」
「そうですね…今思えば、あっという間だったように感じます。笑ったり泣いたり、怒ったり…。でも、ルクシウスさんと過ごす時間はどんな時でもとても幸せでした。こんなに幸せな気持ちになれるんだって不思議になるくらい幸せで…夢じゃ、ないですよね?」
「夢ではないよ。私はここにいる」
 ルクシウスはそう言ってシュカの左手を取り、薬指にキスをした。入浴の際に外した指輪の感触を思い出させるような仕草に胸がときめく。
 甘い微笑を浮かべたルクシウスはサイドテーブルに置いていたグラスのひとつをシュカに持たせ、封を開けたボトルの中身をごく少量だけ注いでくれた。透き通った黄金色でしゅわしゅわと細かな泡が弾ける液体は甘酸っぱい果物の匂いがする。
「改めて…。誕生日おめでとう、シュカ。とうとう成人だね」
 慌てて時計を見ると、ついに日付が変わった。
「ありがとうございます。この瞬間をルクシウスさんと迎えられて、とても嬉しいです」
「まずは乾杯しようか。お酒は初めてだろうから、無理に飲まなくてもいいよ」
「あ、これ…お酒、だったんですね」
「ああ。リンゴを使ったお酒だよ」
 当たり前のようにお酒を出されたことで自分が成人したことをまざまざと痛感したシュカの胸は、ルクシウスが迎えに来てくれた時からずっと高鳴ったままだ。
 グラスを触れ合わせると高く澄んだ音が寝室に響く。
 恐る恐るグラスに口を付けたシュカは舐める程度にリンゴ酒を含んでみた。舌の上で炭酸が弾けて、リンゴの爽やかな酸味と香りと甘みの後に立ち上る独特な香気が喉と鼻の粘膜を刺激する。
 思い切って一口分を飲み込んでみても結果は同じだった。
 おいしいともまずいとも言えない初めての味に戸惑うシュカの顔を見ながら、ルクシウスはグラスの半分ほどまで注いでいたリンゴ酒をあっという間に飲み干してしまう。
「…お酒をおいしいと思えるようになるには、まだまだ時間がかかりそうです」
「初めて飲んだ時は誰でもそう思うよ」
 ルクシウスはお代わりを欲しがらないシュカの手からグラスを奪ってサイドテーブルに置くと、いよいよシュカに向き直る。
 シュカも真摯な眼差しから目を逸らせない。
「君が好きだ」
 強い抱擁に包み込まれて息が詰まった。
 言葉にならない想いが膨れすぎて喉に痞えているみたいだ。
 シュカは言葉にならない感情に唇を震わせたままルクシウスの背中に腕を回した。大好きを何回伝えても足りないくらいルクシウスのことが愛しい。
 ルクシウスと出会えて本当に良かった。彼と共に過ごした日々は何にも代えがたい宝物だ。
 涙で僅かに目を潤ませたシュカは少しだけルクシウスから身体を離してベッドヘッドに手を伸ばした。その手が笑いたくなるほど震えている。
 これからルクシウスとひとつになる。もうひとつの意味で大人になるのだと、シュカは緊張で冷たくなった手でガラスの容器を差し出した。
「こ、これを…使ってくだ、さい…」
 顔を上げられないままルクシウスの手にそれを押し付け、早口でアッシュからもらった経緯を話す。
 この日のために自分で慣らしていたことまで勢いで話してしまってから、これは言わなくても良かった情報なのではと気付いて口を閉ざしたがもう遅かった。
「逆でもいいとさえ思っていたんだが…」
「逆って?」
 シュカは顔を上げて首を傾げる。言葉の意味を図りかねて瞬きをすると、苦笑を浮かべたルクシウスが少しだけシュカに顔を寄せた。
「君が私を抱くほうでも」
「っ!」
 水を払う犬みたいに千切れんばかりに首を横に振ったシュカは、ガラスの容器をルクシウスの手ごと押し返す。
「ルクシウスさんに抱いてほしいですっ!」
 また余計なことを口走ったと自覚する前にシュカはベッドに押し倒されていた。
 顔中にキスが降り、くすぐったさに緩んだ唇を塞がれる。
 最初は触れるだけだったキスが次第に熱を篭らせて水音を立てはじめると、シュカは夢中になってそれに応えた。いつもより頭の芯がぼうっとするのは初めて口にしたお酒のせいだろうか。
 舌先を軽く食まれてから解放された口で酸素を取り込みながら、口の中に溢れた唾液を飲み込む。
 ガウンの腰紐が解かれ、寝間着のボタンが一つずつ外されていくのをぼんやりと見ていたシュカの胸に顔を埋めたルクシウスは唇で薄い皮膚を弄り、時折気まぐれに吸い上げた。経験したことのある痛みに、キスマークを付けられているのだとわかる。
「ぅ、や…」
 左の乳首がルクシウスの唇に食べられた。口に含まれたまま舌で転がされて、むず痒さに身を捩ったシュカはルクシウスの頭を両手で抱える。引き剥がしたいのかそうではないのか自分でもわからない。ただ、引き剥がすには力が足りなさすぎる指はルクシウスの髪に埋もれるだけだった。
 仔犬が水を飲むような音が自分の胸の上からすることが恥ずかしくてたまらないし、その音を立てているのがルクシウスだというのが余計に恥ずかしい。
 散々舐められて硬くなった左の乳首から離れたルクシウスが今度は右の乳首へと顔を寄せる。
 見ていられなくて目を閉じたシュカの肩を宥めるように撫でたルクシウスは、柔らかく熟れた果実を啄ばむ鳥のように薄赤い乳首を口に含んだ。
「ひ…ん、っ」
 吸われながら舌で嬲られ、そっと歯を押し付けられる。乳首をそんなふうに扱われるなんて考えたこともなかった。
 強く吸われると少しだけ痛くて、舌で転がされるとくすぐったい。唾液で濡れて硬くなった左の乳首はルクシウスの指先が捏ね回していて、痛みとむず痒さが別の何かになりそうな予感もする。
「そこ、ばっかり…ッ」
 抗議の声を上げたシュカがルクシウスの髪を微かに引っ張る。
 ルクシウスは顔を離して、赤く染まったシュカの頬に微かなキスをしてくれた。そんなことでは誤魔化されないぞと考える頭とは裏腹に、頬はますます赤さを増してしまう。
「どこに触ってほしいか教えてくれるかい?」
「っ…」
「言っただろう。シュカがしてほしいことも、したいことも、全部叶えるって」
 熱っぽい吐息を耳に吹き込まれて肩が跳ねた。
 触ってほしいところならたくさんある。というよりも全身を触っていてほしい。大きな手で外からも中からも染め変えられて、ルクシウスに染み付いたジャスミンの香りが自分にも移るくらい深いところにまで触れてほしい。そうなれるように自分で準備までしたのだから。
「全部…触って…」
 勇気を振り絞って出した声はそれでも小さすぎたけれど、ルクシウスに届くには充分だったようだ。
 彼はブルーグレーの瞳を僅かに瞠り、そして蕩けるように笑ってくれた。
「君の望むままに」
 甘やかすみたいなキスを唇にもらい、泣きそうになるほどの幸福感と一緒にルクシウスの頭を抱き締める。その間に滑り落ちた手がシュカの寝間着のズボンと下着を掻い潜って敏感な場所へと触れた。
 キスと乳首への刺激だけでそうなってしまったのを悟られるのが恥ずかしいのに、ルクシウスの手で包み込まれると、そんなことを考えていられないくらい気持ち良くなってしまう。
「ぁ…あ、…ッ」
「声を出していいんだよ」
「だ、て…恥ずかし…」
「シュカが蕩けていく声を聞きたいんだ」
 芯を持ったそこを手のひらで刺激されながら乳首を口に含まれる。
 シュカはルクシウスによって高められる快楽になす術もなく追いやられ、呆気ないほど簡単に大きな手の中に欲望を吐き出した。
 絶頂の余韻に小さく跳ねる身体を強く抱き締められ、褒めるように頬や額にキスをされる。大きな波が引いても身体は熱いままで、指一本動かすのもだるくて億劫だ。それなのにルクシウスの手が寝間着のズボンを下着ごと脱がそうとしていることに気付いたシュカは驚いた猫みたいに大きく身体を跳ね上げた。
 キスより先のことは薄ぼんやりわかってはいるけれど、やはり素肌を晒すことには強い羞恥心を覚える。
「ルクシウス、さん…っ」
「嫌かい?」
「い、やでは…ない、けど…」
「これがあるとシュカの全部を触ってあげられない」
「……っ」
 これとはもちろん寝間着のことだ。ガウンだって腕に絡んだまま中途半端な状態でくしゃくしゃになっている。
 シュカは顔に血が上ってくるのを感じながら、脱がされないようにとズボンを捕まえていた手から力を抜いた。ルクシウスが良い子だと褒めるみたいに額にキスをしてくれる。何かするたびにキスをしてくれるのは嬉しいが、恥ずかしすぎてとてもじゃないが目を開けていることなんてできない。
 寝間着のズボンと下着が取り払われ、ガウンと上着も腕から抜かれてしまえば、シュカはあられもない裸体を晒す羽目になる。ルクシウスの視線が肌に触れている気がして落ち着かない。貧相な身体だと思われたらどうしよう。
 不安から身体を強張らせたのを寒さのせいだと思ったのか、ルクシウスが毛布を手繰り寄せる。
「寒い?」
「いえ…大丈夫、です」
 薪ストーブのおかげであたためられた寝室は一糸纏わぬ格好でもそれほど寒いとは感じなかったし、むしろ今は恥ずかしさと緊張と、そして期待でいっぱいで寒さなんて感じない。
 ルクシウスがふと思い付いた顔で身体を起こす。
「そうか、私も脱がなければ不公平だね」
 言う間にもガウンが床に落ち、寝間着も無造作にベッドから追いやられた。緩んだところのない上半身がサイドテーブルのキャンドルの灯りに照らされて陰影を浮かび上がらせる。
 自分と同じ性別の身体だというのに、まったく違う。ルクシウスが男の人だと再確認したシュカはどぎまぎと視線を彷徨わせた。
「触るよ」
「は、い…」
 キャンドルの薄明かりでもわかるくらい濃く付けられたキスマークが浮かぶ胸をルクシウスの指先がなぞる。臍の窪みを微かにくすぐって、そのまま真っ直ぐに下に行くかと思われた指は、急に方向を変えてシュカの腰骨を確かめるように撫でると背後に回った。
 あ、と思った時には奥まった場所にルクシウスの指が触れていた。
 そこはルクシウスを受け入れるために自分で触れた場所だ。塗り付けた軟膏はまだ残っているようで、ぬめる表面を確かめるみたいにルクシウスの指が動く。
「ここを、自分で慣らしてくれたんだね。私のために」
 改めて口に出されると羞恥心で死にそうになるからやめてほしい。そう言いたいのに、軟膏の滑りに手伝われた指先が入り込もうとするのを感じて、悲鳴のような吐息が漏れるだけだ。
「嬉しいよ、シュカ」
「ぁ……」
 心底から嬉しいと思っていてくれているのがわかる声色で囁かれたのと同時に、シュカの中にルクシウスの指が少しだけ入ってきた。緊張感が否応なく高まり息が詰まる。鼓動が大きく跳ね上がって、痛いくらいに強く脈打った。
 すぐに抜けていった指にほっとするものの、落ち着く間もなくまた指先が入り込んでくる。
 それを何回も繰り返して軟膏の滑りが少なくなると、指と粘膜が擦れるたびに痛みが走って肩が強張った。
「さすがに足りないか」
「ごめ、なさい…」
「シュカのせいではないから謝らないで」
 そう言ってルクシウスは、シュカが押し付けた軟膏の容器を開けて指にたっぷりと中身を取った。そんなに大量に使うのかと驚いて目を丸くするシュカを見て、ルクシウスは微かに苦笑する。
「力を抜いて、私に任せて」
 耳元で低く囁かれるとシュカの身体はどろどろに崩れて力が抜けてしまった。腰が砕けるとはこのことだが、そんなことをシュカが知るはずもない。
 軟膏を乗せた指とは反対の手がシュカの膝を抱え、開かせる動きをする。
「ぁ、や…ッ」
「嫌?」
「い、やじゃ、な…」
 閉じようと無意識に力が入る膝に置かれたルクシウスの手があやすように皮膚を撫で、シュカが力を抜くとそっと横に開かれた。
 軟膏を乗せた指が触れると、冷たさに驚いた身体が跳ねる。そのまま表面に塗り付けられて、体温と馴染んだところで細長くて硬い感触がシュカの内側に入ってきた。
「ひ、ぅ…ぅ…」
「息を詰めないで、ゆっくり吸って…吐いて」
「んぅ…は…」
 言われたとおりに深い呼吸を意識して繰り返すと僅かに力が緩んだのか、ルクシウスがまた少し指を進めた。
 痛くはないけれど異物感が強い。当然だ、中に入っているのは自分の指じゃないのだから。
 いつもシュカに優しく触れてくれるルクシウスの指先が、今はシュカの内側に触れている。その事実に心臓が破裂してしまいそうだ。たまらなく恥ずかしくて顔を覆い隠したいのに、何かに掴まっていないと自分を保てなくなりそうで怖い。
 むず痒ささえ覚えるほどゆっくりと抜き差しされる指は、シュカの内側に満遍なく軟膏を塗り付け、狭い入り口を少しずつ解していく。
「痛くはない?」
「だいじょ、ぶ、です…」
「どうしても無理だと思ったら、ちゃんと言うんだよ」
 シュカは頷いて、力を抜くことを心がけた。
 ルクシウスの指が動かされるたび、体温で溶けた軟膏が小さく音を立てている。二人の気配しかない部屋の中でそれは酷く大きく聞こえる気がしてシュカの羞恥心を刺激した。
 つるんと抜けていった指の感触に息を吐いていると、あまり間を空けずに指が戻ってくる。さっきよりも強い圧迫感に襲われて背中が仰け反った。
「ぁ……ッ」
「痛い?」
 言葉にならずに首を振る。
 じれったくなるくらいゆっくりと抜き差しされて、シュカはたまらずにシーツに爪を立てる。痛くはないが、やはり苦しい。なのにその苦しさの向こうに何かが潜んでいる気がする。
 ルクシウスもそれを探しているのか、シュカの中に含ませた指で同じような場所を撫でている。指が体内を往復するたびに背中が反り、自然と突き出した胸にルクシウスが唇を落とした。乳首が食まれ、吸われ、そっと歯を立てていたぶられると、神経が直結しているみたいに下腹部に痺れが走った。
「ン、ぁ…ア…!」
 浮いた腰の下にルクシウスの腕が回され、逃げないように抱き込まれる。その間も乳首と後孔への刺激は止まらない。ひっきりなしに鼓膜を震わせる水音は胸からなのか体内からなのか、それさえわからなくなっていく。
 心臓が耳の近くに移動したのかと思えるほど強い脈拍に目の前が白くなって、ルクシウスの指が入っている場所もぞわぞわして、未知の感覚が怖くて勝手に涙が出た。
「シュカ、私に掴まってごらん」
「っ…」
 シュカは言われるまま腕を伸ばしてルクシウスにしがみ付いた。
 抱き寄せた肌からはジャスミンとルクシウスの匂いがして、いつの間にかさらに増した圧迫感に足りなくなった酸素を求めて口で息をしながら、頭の芯が焼けるような感覚を誤魔化したくて縋り付いた肌に弱々しく歯を立てる。
 ルクシウスが息を詰めたのがわかって薄く目を開けると、彼は見たことのない余裕のない顔でシュカを見下ろしていた。サイドテーブルのキャンドルの灯りに照らされたルクシウスはシュカと視線を合わせて微笑する。
 キャンドルの灯りを閉じ込めたブルーグレーの瞳は星空みたいに綺麗だ。
 愛しさで胸が甘く痛んで、それから身体を駆け巡る熱をどうにかしてほしくて、汗で滑る手で必死にルクシウスに縋る。
「ここが気持ちいいの?」
「う、ぁ…ッ」
 指を動かされると声が漏れ、全身を突き抜ける強い痺れに足の爪先が丸くなる。
「あ、ぁッ、そこ、いや…!」
「嫌? ここはちゃんと私の指を三本も飲み込んでいるのに」
「ほ、んと…っ?」
 自分の指ですら二本しか入れられなかった場所にルクシウスの指が三本も入っているだなんて信じられない。
 それが顔に出ていたのか、ルクシウスはシュカの手を掴んで脚の間へと導いた。体温で溶けた軟膏でぬるぬるしている場所を慎重に探ると、ルクシウスの言うとおり、三本の指がシュカの中に入っている。
「これなら、ルクシウスさんと、ひとつになれますか…?」
 アッシュも指が三本入るようになればできると言っていた。期待を込めて問いかければルクシウスは眉を下げて苦笑する。
「もう少し慣らしてからなら、ね」
 動きを止めていた指が再び動き出すとシュカは息を詰めて背中を反らした。
 曝け出された喉にルクシウスが唇を這わせ、皮膚の表面を舌で撫でて、ひとつ二つと赤い跡を増やす。
 肌を吸われる痛みよりも強く感じる指の質量に押し出されるような声が止まらない。はしたなく脚を開いた体勢も、高くて裏返りそうな声も、指を三本も受け入れている場所も、恥ずかしいところを全部ルクシウスに見られているのにやめてほしいとは思わなかった。
 もう少しでルクシウスとひとつになれる。
 その期待が熱となってシュカの奥底から込み上げ、全身へと広がっていく。
「っ、ルクシウスさ、ぁ…ッ!」
「大丈夫だよ、シュカ。そのまま身を任せて」
「んッ、く、ぅん…!」
 子犬みたいな鼻にかかった声が漏れるのが恥ずかしいのに、ルクシウスの指が押し込まれるとどうしても耐えられない。ゆっくりだった指の動きは次第に速くなって、切れ間なく立つ粘着質な水音が部屋を熱っぽく満たしていく。
 何か考えたくても頭の中で次々に火花が散るみたいに思考は弾けてしまう。
 汗を滲ませたシュカの額を撫でたルクシウスの手は荒い呼吸を繰り返すシュカの唇を掠め、喉から胸へと滑り降りて、硬さを取り戻したシュカ自身を包み込んだ。
「や、ぁあ…!」
 シュカの口から高い悲鳴が溢れ出る。けれどそれは悲痛なものではなく甘く蕩けたはしたない声だった。
 身体が熱くて、今にも指先から溶けてしまいそうだ。内臓を捏ねられているのに少しも嫌悪感はなくて、ただただひたすら熱くて、ルクシウスの手と指で作り変えられていく身体が勝手に跳ねる。
 引き寄せたルクシウスの顔に唇を寄せると最初から深く舌が絡まった。息が苦しい、でもキスはやめたくない。いつもよりも短い間隔で離れる唇の隙間から息を吸い、前と後ろに与えられる確かな快楽にどうしようもなく溺れていく。
 あと一歩で高みへ辿り着けたのに、ルクシウスは突然手の動きを止めてしまった。
「なんで…」
 刺激を取り上げられたシュカの口から非難めいた声が漏れる。そんなシュカの目尻に浮かんだ涙を舌先で掬ったルクシウスは、そのまま目蓋や額にもキスをしてくれた。
 ぬるりと抜けていく指の感触に切ない吐息が漏れる。
「そろそろ、いいかな」
 小さく呟いたルクシウスはシュカの身体を反転させた。
 背中というよりもお尻を向ける体勢にされ、忘れかけていた羞恥心が一気に引き戻される。
「こ、この格好は…」
「嫌かい? このほうがシュカへの負担は少ないらしいが」
「でも…顔、見ていたい、から…」
 ルクシウスはシュカのしてほしいことは全部叶えると言った。だから、こんな我が儘を言っても許してもらえるはずだ。
 縋るように視線を向けると、ルクシウスはギラつく瞳でシュカを見下ろして微かに喉を鳴らした。その姿はまるで腹を空かせた獣で、シュカはアッシュが以前言っていた我慢の利かない犬という喩えをぼんやりと思い出す。
 これから余すところなく彼に食べられてしまうんだと、密かに唾を飲んだシュカは自分から身体を反転させて仰向けになる。
 覆い被さるルクシウスを下から見上げるほうが落ち着く気がするから不思議だ。
 うっすらとオレンジ色がかったキャンドルの光と花の香りに包まれながら見つめ合って、微笑みとキスを交わす。頭の中は恥ずかしさでいっぱいだったけれど、もう少しも怖いとは思わなかった。
 ふとルクシウスが腕を伸ばしてサイドテーブルの引き出しを探る。
「それは?」
「植物性のオイルだよ。人体に害はないから安心して」
 ルクシウスは探り当てた小瓶の中の液体を手のひらに垂らして、揉み込むように手を動かした。蜂蜜に似た黄金色のオイルがルクシウスの指の隙間からシュカの肌へと滴り落ちる。キャンドルの香りに紛れてわからなくなっているだけかもしれないが匂いはほとんどなかった。
 オイルで濡れたルクシウスの手が再びシュカの後ろへと触れてくる。ぬぷ、と音を立てて入り込んでくる感触に吐息が漏れた。
「ん、ぁ…」
「そう、力を抜いて」
「はぁ…ぁ」
 しばらくゆっくりと前後していた指が抜かれ、別の何かが押し付けられる。
 それは酷く熱くて、硬くて、張り詰めていた。
「シュカの中に入るよ」
 宣言されて、シュカは恐る恐る開けた目をそちらへと向ける。途端、血の気が下がった気がした。
「そっ、そんな大きいの入るわけない…っ」
 宛がわれたルクシウス自身は逞しく、シュカのものとは質量が桁違いだと言っていい。このタイミングで見るべきではなかった。怖気付いて泣き言を漏らすシュカの目には涙さえ浮かぶ。
 軟膏とオイルでべたべたにされたとは言え、未熟な後孔はまだ慎ましく口を閉ざしている。押し付けられた先端はそこをこじ開けようと狙いを定めて脈打っていて、そんなものを入れられたら裂けてしまうんじゃないかと本気で心配になるが、心の奥底では期待も膨らんだ。
 散々指で刺激され続けた場所は今もまだ熱を篭らせ、さらなる刺激とその先の解放を求めているのも確かだった。
 口ごもるシュカを見ていたルクシウスが腰を引こうとする気配を察し、慌てて手を伸ばして引き止める。
「違うんです、怖いとかじゃなくて驚いただけです! お願いだから、このまま僕の中に、来て、ください」
「だが…」
 躊躇うルクシウスにシュカは首を横に振った。
 怖いわけじゃない。他人の性器を目の当たりにしたことはなかったし、ルクシウスの大きさにほんのちょっとびっくりしただけ。ただ、それだけだ。
「ルクシウスさんに抱いてほしいんです」
 世界中の誰よりもルクシウスを一番近くに感じたい。
 その一心でシュカは愛しい人に額を押し付けた。
「怖くなったらすぐに言って」
 押し付けられた先端に力がかかり、少しずつシュカの中に入ってくる。
「ぁ、ぅ、ア…っ!」
 内側から押し出された声が勝手にシュカの口から飛び出した。
 狭く、本能的に閉じようとする場所をじりじりと開かせて進んでくる熱い杭は最早凶器に近い。全身から汗が吹き出して、ルクシウスの肌に縋る手が滑ってしまう。シュカは無意識に爪を立てていた。
 ゆっくりと息を吐いて力を抜こうとするのに、少しでもルクシウスが進んでくると、反射的に締め付けて追い出そうとするかのように激しく蠢く。
「シュカ…っ」
「あぅ…ッ」
 切羽詰った声でルクシウスがシュカの名前を呼んだ。
 眉間にシワを寄せた彼は腰を進める動きを止めて息を整えている。いつも落ち着いていて取り乱したところなんてほとんど見たことがないルクシウスが額に汗を滲ませているのが何だか新鮮で、シュカは大きく胸を上下させながら状況も忘れて見入ってしまった。
 無性にルクシウスが愛しくて泣きたくなる。シュカは手を伸ばして、汗で湿ったルクシウスの肌を撫でた。
「もう、入りました…?」
「…まだ半分ほどかな」
「半分…」
 こんなに苦しいのに、まだ半分。
 無意識に困った顔をしてしまったのか、ルクシウスは身を屈めて、シュカの情けなく下がった眉にキスをしてくれた。
「もう少しだけがんばれそうかい?」
「大丈夫です…僕、がんばります」
 シュカの膝を抱え直したルクシウスが腰を進める動きを再開する。
 ゆっくり、少しずつ。
 むしろ焦らされているのかと思いたくなるくらいに慎重に入り込んでくる硬い感触がシュカの最奥を広げ、たっぷりと時間をかけて隙間なくぴっちりと満たされていく。
「入ったよ、シュカ」
 確かめるために手を伸ばす勇気はなかったが、抱えられた太ももの裏にルクシウスの腰が当たっているのはわかった。一種の感動すら込み上げてくる。
 シュカは潤んだ瞳でルクシウスを見上げ、荒くなった呼吸を微かに震わせた。
「良かった、僕、ちゃんとできたんですね」
「よくがんばってくれたね。ありがとう」
「ぁ…っ」
 労わるような優しいキスが汗を浮かべた額に落ちる。少しルクシウスが身体を動かすだけでも刺激になってしまって、シュカは小さな声を漏らした。恥ずかしくて視線を逸らすと、目を細めたルクシウスがシュカの腰を掴んだ。
「痛くはない?」
「は、はい…苦しいけど、痛みはないです」
「そうか、なら……動いてもいいかな」
「んっ、ルクシウスさんの、好きにして、くださ…ァ…!」
 言い終わらないうちに腰を動かされてシュカは思わず肩を跳ねさせた。もちろんルクシウスが乱暴にしているわけではないのだが、彼を受け入れたそこは過剰なくらい敏感になっていて、息を落ち着かせる暇もない。
 ルクシウスがほんの少し腰を引くだけでもシュカにとっては強い刺激となり、粘膜を直接擦られる未知の感覚に身体は勝手に汗を滲ませて戦慄いた。
「ぁ、ぁ…ッ」
「シュカ、ゆっくり深く息をして」
「っン、ふぅ…」
「君を抱いているのは私だ」
「ルク、シ、ウスさ…」
 軟膏とオイルがいやらしく音を立てている。
 ゆっくりと腰を動かすルクシウスも何かを堪えているように眉間にシワを刻んでいて、けれどシュカは彼が何を堪えているのかわからなくて、それが不安で手を伸ばした。湿った前髪を撫でると、ルクシウスがシュカに視線を向ける。
「ルクシウスさんは、どうですか…? 僕で、ちゃんと、気持ちいい…?」
 口にしてから、シュカは気付く。
 抱きたいと言ってくれたし、今もこうしてその言葉を叶えてくれている彼が今まで実際に性欲を垣間見せたことはなかった。以前キスだけで昂ってしまったシュカを手で慰めてくれたことがあったが、その時だってルクシウスはシュカに見返りを求めなかった。
 薄っすらと感じていた物足りなさはそれだったのだと、ようやく気付けたシュカはルクシウスの頬に何度も手を滑らせる。
「いつも僕ばっかり、だったから…ルクシウスさんにも、気持ち良く、なってほしいです」
「大丈夫だよ、シュカ。心配しなくていい」
「ほんと、ですか?」
「本当だとも。シュカの中は熱くて、蕩けているのにきつくて、とても気持ちが良いよ」
 熱を孕んで掠れた低い声で囁かれて、耳から全身に例えようのない痺れが広がっていく。
 それはルクシウスを包み込んでいる場所も同様で、そこはますますルクシウスを喜ばそうと収縮を繰り返し、ルクシウスはもちろんシュカも熱い息を吐き出した。
「嬉しい…僕の中に、ルクシウスさんが、いる」
 シュカは自分の中で熱く脈打っているルクシウスを腹の上からそっと撫でた。
 文字どおり子供にするように愛でられるばかりだった自分が、今はこうして大人としてルクシウスに触れられて、他の誰にも許すはずのない場所でルクシウスと繋がって体温を分け合っている。
 気付けば涙が溢れて肌の上を零れ落ちていた。それを拭ってくれるルクシウスの手のひらが優しくて余計に涙は止まらない。大きく脚を広げた体勢や太いものを突き立てられた場所は苦しいけれど、ルクシウスに対する愛しさはそれらを容易く凌駕する。
「もっと、ください。僕の全部をあげるから、ルクシウスさんを全部、ください」
「ああ…もちろんだよ、シュカ。私のすべては君のものだ」
「っ、ぁ、ひ…ッ」
 さっきまでよりも大きく腰を引かれ、押し戻される動きに翻弄される。粘膜がめちゃくちゃに捏ねられて頭が真っ白になりそうだ。引いては戻る熱い杭に満遍なく擦り上げられるたび、繋がった場所から迸る苦痛を伴わない刺激にシュカの口からは高い悲鳴が溢れた。
 アッシュは死ぬほど痛いと言っていたのに、痛みをほとんど感じていない自分はどこかおかしいのかもしれない。
「んん…ぅ、あ、そこ…っ」
「ここ?」
 浅く深く繰り返し擦られている合間にルクシウスの切っ先がある一点を掠めると、勝手に身体が跳ね上がった。
 走り抜ける強い痺れにたまらずシュカは頭を振る。それは誤魔化しようもないくらいにはっきりとした快感だった。目の奥で火花が散る。
 シュカは目を見開いて焦点の定まらない視線を必死にルクシウスに向ける。骨太の肩に縋り付いていた手はいつの間にかシーツの上に落ちていて、その手にルクシウスが手のひらを重ねて握ってくれた。
 嬉しいけれど、これで微塵も逃げられなくなった。それをシュカはすぐに痛感する。
「ああっ、ゃ、あ…ッ!」
 さっきまでよりも大きく腰を揺らされ、気持ちいいと感じてしまう場所を丹念に撫で上げられた。
 途端にぞわぞわと背筋を駆け上る悦楽の波がシュカの頭の芯を真っ白にして、ルクシウスが与えてくれる快感だけで全身がいっぱいになる。髪の毛の先にまで電流が走るような心地だった。気持ち良すぎてどうにかなってしまいそうで、ほんの少しだけ怖い。
 汗を滲ませ、眉間に僅かに力を入れて大人の男の顔をしたルクシウスは、シュカを見下ろしたまま何度も腰を使う。奥まで押し込まれると隙間なく密着した肌が小さく音を立てた。
「ああ、シュカ…君が好きだよ」
「ル、クシ、ウ、さ…ッ」
「もう少しだから」
「んッ、ひ、ぃあ…あぁ!」
 少しずつルクシウスの動きが速まっていく。
 ルクシウスが用意してくれていたオイルのおかげで、滑りと湿り気を保ったままの後孔は突かれるたびにきゅうきゅうとルクシウスを絞り上げ、シュカにも強い快楽を齎した。
 今まで何度かルクシウスの手で前を触ってもらったことはあったけれど、その時よりも遥かに強い快感が止め処なく押し寄せてシュカを高みへと追いやる。抗いようもなく追い詰められたそこから落ちてしまったらどうなるのかわからなくて、怖くてやめてほしいのに、口から溢れるのは甘く蕩けてもっとと欲しがる声だけだ。
 重なったままのルクシウスの手を握る。今のシュカが縋れるものは、もうそれしかない。
 恐ろしいほどの快楽を与えているのはルクシウスなのに、ルクシウスに任せていれば大丈夫だという奇妙な安心感もある。
 不意にルクシウスの片手が外れて、二人の腹の間で震えているシュカ自身をそっと握り込んだ。
「ひゃ、あ…ッ!」
「一緒に、ね」
「ァ、んっ…!」
 自分の内側の敏感な場所を狙って突き上げられたまま、前も一緒に手のひらで擦られた。同時に与えられる快感はあまりにも強すぎて、背中が仰け反り、自然と突き出した胸にはルクシウスの唇が這う。
 乳首が吸われ、歯と唇で優しく食まれ、シュカの口からは声にならない悲鳴が溢れ出た。
 気持ち良くておかしくなる。うわ言のように何度も訴えるのに、ルクシウスはすべての動きを緩めてくれず、むしろさらに刺激が強くなるように動きを速めた。
「だ、ダメ…僕、おか、しくな、る…!」
「いいよ、私も一緒におかしくなってしまいそうだからッ」
 息を乱したルクシウスがシュカ自身の先端に親指の腹を押し付け、強めに擦る。それが最後の引き金だった。
 身体の奥から噴き出した衝動が全身に伝播し、シュカは脚の爪先までをぴんと強張らせた。ルクシウスを根元まで飲み込んだ場所も同じように力が入り、食い千切るほどの強い締め付けで彼に解放を促す。
「く…っ」
「あ、ぁ…!」
 自分の中に何かが注ぎ込まれる感触にぶるぶると腰を引き攣らせながら、シュカもルクシウスの手の中に弱々しく白濁を吐き出した。
 全身を汗で濡らしてぐったりと身を横たえるシュカの頬に甘ったるいキスが降る。これまでに経験したことのない倦怠感に重たい目蓋を何とか開いて、間近にあるルクシウスの瞳を見つめた。部屋のあちこちで火を灯されたままのキャンドルの光を受けた瞳はやはり星空のようだ。
「大丈夫かい?」
「は、ぃ…」
「がんばってくれてありがとう、シュカ」
 息も絶え絶えに頷いて見せると、ルクシウスは目に星空を浮かべたままシュカの唇にキスをした。
 満ち足りた気持ちというのはこういうことを言うのだろう。どちらもが同じことを考えながら戯れのようなキスを繰り返した。
 呼吸が落ち着いてくると、疲労からかとろりと目蓋の重さが強くなる。ルクシウスとくっ付いたまま眠ってしまいたい。そんな欲求に素直に従ってしまおうと目を閉じかけると、中からルクシウスが抜けていく感触に思わず鼻にかかった声が漏れた。
 恥ずかしくて咄嗟に口を押さえたが、ルクシウスには聞こえてしまったはずだ。その証拠に、彼は床に落としていたガウンを素肌の上に着ながらシュカを見下ろして僅かに口の端を吊り上げる。
 大きな手に汗の湿り気を残した髪を撫でられたと思ったら、その手はシュカの身体の下に潜り込んでベッドの上に座るように抱き上げられた。いそいそとシュカにもガウンを着せてくれるルクシウスの様子はどこか楽しそうで、されるがままガウンの腰紐も結んでもらう。
「ルクシウスさん、何を…?」
「身体を洗わないといけないからね。風呂まで連れて行くよ」
「い、いえっ、自分で歩けま…ぁ、っ」
「ほら、危ない」
 ベッドから降りようとしたものの、腰に力が入らずに転びそうになったシュカをすかさずルクシウスが抱き止める。柔らかいガウンの生地越しにもわかる体格に、さっきまでの熱を思い出してシュカの頬に赤みが差した。
「今日は私が全部するから」
「お、お願いします…」
 ルクシウスがあまりにも嬉しそうな顔をするものだから、シュカは彼の腕に抱き上げられても暴れたりせずに寝室から連れ出された。
 シュカはルクシウスの腕の中でふわりと笑い、溢れ出る愛しさに従って恋人の頬にキスをする。
「君が可愛すぎてどうにかなってしまいそうだ」
 連れ込まれた浴室でルクシウスが出したものをルクシウス本人に掻き出されるという、とんでもない後始末をされて疲労困憊になって寝室に戻ったシュカは、今度こそ眠気に身を任せてしまおうとルクシウスに擦り寄った。
 プラチナブロンドの毛先で遊ぶルクシウスの指の感触と体温と鼓動を、ぼんやりと感じながら目を閉じる。
「…ルクシウスさん」
「ん?」
 髪を掻き分けて頭皮に唇を押し当てられるのがくすぐったくて、でもやめてほしくなくて、そのまま身を任せながらルクシウスの名前を呼ぶ。すぐに返事をしてくれる声がたまらなく好きだと思った。
 指一本動かすのも億劫なほど眠いのに、もう少しだけルクシウスを感じていたいとも思う。
「ルクシウスさんのことを、好きになって良かった、です」
 眠気でとろとろとした声になってしまったがちゃんと伝わっただろうか。
 そう思ったけれど、きっと大丈夫だとも思えた。ルクシウスの手が、大切な宝物に触れる時みたいに優しく頬を撫でてくれたからだ。
 満足したシュカはするりと眠りの隙間に落ちていく。
 これからも、この腕の中で優しい夢を見たい。明日も明後日も、これからも続いていく幾つもの日々を一日も絶やすことなく。
 すぐに穏やかな寝息を立てはじめたシュカの頬を撫でていたルクシウスも、シュカに身を寄せて毛布を被り直す。
「私こそ、君を好きになって良かったよ、シュカ。人間らしい心を取り戻させてくれて、ありがとう」
 灯していたキャンドルはすべて吹き消したけれど、ジャスミンの香りはまだ部屋中に残っている。
 まるでシュカと自分がひとつに解け合ったような錯覚に苦笑を漏らしながらも、潤いを滲ませた目を閉じたルクシウスは腕の中の温もりを抱き締めた。






「シュカ、起きて。見せたいものがあるんだ」
「ん、ぅ…」
 肩を揺すられて目を覚ましたシュカは、カーテンの隙間から差し込む白い朝日に目をしょぼつかせる。
 身を起こそうとして、腰に違和感を覚えて無意識に手で擦った。痛いわけではないが摩擦の名残で熱と若干の違和感を持っている気がする。
「少し外に出るよ」
「外…?」
 何か特別なことでもあったのか、少し興奮している様子のルクシウスは寝間着姿のシュカにガウンと上着を着せ、さらに毛布で丸ごと包み込んだ。
 隙間なく何重にも包まれているものの、一歩外へ出ると早朝の冴えた空気が頬をちくちくと刺激する。ルクシウスが吐き出す息も真っ白だ。
 朝日で輝く雪が寝惚けた目には眩しすぎる。
「シュカ、あの木を見てごらん」
「木?」
 ルクシウスの視線を辿って見上げた木の枝に、降り積もった雪で真っ白に染められた世界には際立って鮮やかな萌木が一本。
 特徴のある分かれ方をした枝の先端では、長細い葉が両手を広げて光を求めている。
「…ヤドリギ…!」
「そうだよ。私もさっき起きるまで気付かなかったんだ」
 起こしてしまったことを謝られたシュカは首を振った。
 以前ルクシウスが話してくれた優しい精霊を表したような柔らかな緑色の枝葉を広げたヤドリギは、真冬の寒さにも負けずに色鮮やかなままだ。
 これを見せたくて部屋から連れ出したのかと、シュカはルクシウスに微笑みを向ける。
「知ってますか、ルクシウスさん。ヤドリギの下でキスをした恋人は永遠に幸せになれるって言い伝えがあるんですよ」
「ああ、そう言えば…ヤドリギも似たようなことを言っていたっけ」
 ルクシウスの脳裏には永遠を願う恋人達の味方だと晴れ晴れしく笑った精霊の顔が甦る。
 シュカはもそもそと毛布の中から手を出して、遠い目をしたルクシウスの頬に触れた。
「ルクシウスさん…あの、ぼ、僕と…」
 寒いはずなのに指先が熱くなっていく。頬もきっと赤くなっているはずだ。乾いて掠れそうになる声を、唾を飲んで潤す。
「僕と、ヤドリギの下でキスをしてくれませんか…?」
「おやおや、私の台詞をとられてしまったね」
 そんなことを言いながらもルクシウスは優しく目を細めて頷くと、音を立てて雪を踏み締めながらヤドリギが生えた枝の下まで歩みを進めた。
 辺りには祝福するような鳥の声も風の音もなく、凛とした朝の空気と雪の色だけの静謐な雰囲気に満たされている。
 けれど今の二人にはそれだけで充分だった。
 ルクシウスの瞳がいつも以上に優しい光を湛えていることが彼から愛されている証のように思えて、シュカの目には涙が勝手に滲んでしまう。
 懸命に笑顔を作るいじらしい恋人を見つめ、ルクシウスも目を細めた。
「愛しているよ、シュカ。生涯、私には君だけだ」
「僕も愛しています。ルクシウスさんのことだけを、ずっと、ずーっと」
 心を交わらせるように見つめ合った二人は、世界で一番幸せなキスをして、ヤドリギの下で愛を誓った。



      *END*
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みんなの感想(1件)

キノウ
2022.08.01 キノウ

シュカの純真無垢で素直なトコろが可愛いすぎ😊そんなシュカに、時に煽られながらも両親との約束を守り通したルクシウルさんは素敵でした。二人の会話や行動はどれも初々しくキュンときましたが、一番よかったのが、キスがしたくなったら唇の代わりに指で触れる❗️もう、悶えました😆ウブなシュカにはその仕草でも顔が赤くなるのが可愛いすぎ😆
ルクシウルさんとヤドリギの精霊の話があってのタイトルにつながってるは素敵でした。
アッシュとジークフリートも無事うまくいき、アッシュとシュカが話す恋バナ⁈は微笑ましかったです。
上手く書けないですが、シュカとルクシウルさんの会話や行動が読んでて、気持ちが暖かくなりました。とても素敵な作品でした。
ありがとうございました😊

解除

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ある日おっさん辺境伯ゲオハルトは美貌の第三王子リヒトにぺろりと食べられてしまいました。 しかも貴族たちに濡れ場を聞かれてしまい…… ところが権力者による性的搾取かと思われた出来事には実はもう少し深いわけが…… だって第三王子には前世の記憶があったから! といった感じの話です。おっさんがグチョグチョにされていても許してくださる方どうぞ。 濡れ場回にはタイトルに※をいれています おっさん企画を知ってから自分なりのおっさん受けってどんな形かなって考えていて生まれた話です。 この作品はムーンライトノベルズでも公開しています。

白金の花嫁は将軍の希望の花

葉咲透織
BL
義妹の身代わりでボルカノ王国に嫁ぐことになったレイナール。女好きのボルカノ王は、男である彼を受け入れず、そのまま若き将軍・ジョシュアに下げ渡す。彼の屋敷で過ごすうちに、ジョシュアに惹かれていくレイナールには、ある秘密があった。 ※個人ブログにも投稿済みです。

【完結】社畜の俺が一途な犬系イケメン大学生に告白された話

日向汐
BL
「好きです」 「…手離せよ」 「いやだ、」 じっと見つめてくる眼力に気圧される。 ただでさえ16時間勤務の後なんだ。勘弁してくれ──。 ・:* ✧.---------・:* ✧.---------˚✧₊.:・: 純真天然イケメン大学生(21)× 気怠げ社畜お兄さん(26) 閉店間際のスーパーでの出会いから始まる、 一途でほんわか甘いラブストーリー🥐☕️💕 ・:* ✧.---------・:* ✧.---------˚✧₊.:・: 📚 **全5話/9月20日(土)完結!** ✨ 短期でサクッと読める完結作です♡ ぜひぜひ ゆるりとお楽しみください☻* ・───────────・ 🧸更新のお知らせや、2人の“舞台裏”の小話🫧 ❥❥❥ https://x.com/ushio_hinata_2?s=21 ・───────────・ 応援していただけると励みになります💪( ¨̮ 💪) なにとぞ、よしなに♡ ・───────────・

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