愛を誓うならヤドリギの下で

月居契斗

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愛を誓うならヤドリギの下で 14

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 翌日に収穫祭を控えた週末、シュカは予定通りルクシウスの家に泊まれる嬉しさを隠しきれない様子で帰宅し、着替えを詰めた鞄を持って家を飛び出した。
 なるべく淑やかに見えるように取り繕って図書館に飛び込むと、返却カウンターにいたラランが笑顔を浮かべて手を振ってくれる。彼女に手を振り返したシュカは、テーブルのない小さめの椅子に座って絵本を読んでいるアッシュを見つけて小走りで近付いた。
「アッシュ君、お待たせ」
「思ったよりも早かったな。場所を移動するか?」
「うん。もう少し奥まで行こう」
 明日の収穫祭の影響なのか、まだ閉館時刻には早い時間にもかかわらず館内はシンと静まり返っている。
 館内でもあまりひと気のない奥まった場所にある閲覧席の一角に、シュカはアッシュと共に腰を下ろした。
 試験勉強をするという体裁を取り繕うために開いた教科書とノートには目もくれず、辺りに人がいないことを再度確認した二人は肩を寄せて声を潜める。
「この間渡したアレ、使ってみたか?」
「うん。でもやっぱり入る気がしなくて…」
「そんなに簡単にはいかないさ。時間をかけるしかない」
「そうだよねぇ…」
 アッシュからあの軟膏を譲ってもらってから毎日せっせと試しているものの、なかなか成果は得られずめげてしまいそうになる。
「俺も……最初はうまくできなかった」
「そう、なの?」
「シュカと同じように、俺にも大した知識はなかったからな。だがアイツは俺のことを欲しいと言ってくれて、どういうふうにするのかも調べて教えてくれたし、いつの間にか必要なものは全部アイツが準備してた」
 開いたままの教科書に目を通すふりをするアッシュの耳がじんわりと赤い。
 こんな話をするのはアッシュだって恥ずかしいのに、それでも聞かせてくれる彼の優しさが嬉しくて、シュカは自分もノートに目を落としながら耳を傾けた。
「あの軟膏も、最初に用意したのはアイツなんだ。表向きは肌荒れ用の保湿薬だし、あの見た目なら持っていても変に勘ぐられることもないだろう?」
「うん、部屋に置いてても違和感はなかったよ」
「アイツも、俺が余計な抵抗感を持たないようにと考えてあの軟膏を選んだと言っていた」
「大切にされてるんだね、アッシュ君」
「ああ、俺もそう思う」
 そう言ってアッシュはふわりと唇を綻ばせた。今まで見た中でもとびきり優しい微笑みにシュカでさえどきりとする。
「抱きたいと初めて言われた時には、そんなこと絶対に無理だと思った。実際、初めての時は死ぬほど痛かったしな。だが…まあ、それからいろいろと準備をして、結局は今に至るというわけだ」
「アッシュ君も…毎日、自分でした?」
「…した。あれほど痛いのはもう嫌だったし、準備とは言え触られるのも恥ずかしすぎるからな。と言っても最終的にはアイツに任せた」
「そうなのっ?」
 つい大きな声が出てしまって、シュカは慌てて口を押さえて辺りを見回した。近くの座席に来館者はいないのか、誰かに咎められることもなく静まり返ったままだ。
 シュカはこそこそとアッシュに顔を近付ける。
「ど、どのくらいまで慣らしたの…?」
「…指三本が入るくらいまでは慣らした、と思う」
「さっ…ん、ぼん…」
 二人は気まずげに視線を逸らして口を閉ざした。事情を知り合っている仲ではあるけれど恥ずかしいものは恥ずかしい。
 それでも恥を忍んで話してくれたアッシュが心から自分のことを応援してくれているのだと伝わってきて、シュカは自分へのマッサージをもっとがんばろうと奮起した。
「いろいろ聞かせてくれてありがとう、アッシュ君」
「いや。少しでも役に立てたなら嬉しいよ」
 閉館時刻になるギリギリに姿を現したジークフリートに寄り添うアッシュをエントランスまで見送ったシュカは、ルクシウスの家に泊まるからと家に置いてきたガラスの容器をほんの少しだけ惜しく思った。でもやはり、ルクシウスの家でそんなことはできないと思い直す。
 見た目だけならただの保湿薬だが、もし博識のルクシウスがあの軟膏の別の使い道を知っていたらいたたまれない。
 閉館準備中の定位置になった通用口の椅子に座ったまま、シュカは膝の上の鞄を握り締めて顔を赤くした。指三本が入るまで…と考えるだけで恥ずかしくて爆発しそうになる。ますます顔の赤みを増したシュカはアッシュが言っていたように、そういうことをするための準備をすべてルクシウスに任せたとしても、彼が嫌な顔をすることは絶対にないはずだとも考えた。
 かと言って本当に全部を丸投げすることもできなくて、どうしたものかと頭を抱えたシュカの脳裏に綺麗に笑ったアッシュの顔が甦る。
 恋人から愛されていることをちゃんと知っている顔だった。
「羨ましいなぁ…」
 小さなため息が漏れたところで、シュカは自分の婚約者が帰り支度を整えてこっちに近付いてくるのを見つけた。ストールはマフラーに代わっていて、いよいよ冬の訪れを感じさせる。
「去年の収穫祭が、ついこの間だったような気がするのに」
 全員が揃って館外に出た途端ラランがそう言った。寒がりな彼女は既に真冬用のコートを着込んでいる。
 そこに明日の催し物で使う材料の確認を終えたジアスも合流し、ルクシウスが扉にしっかりと鍵をかけた。
「明日はシュカ君も来るよね?」
「はい。学校の友達と一緒に遊びに来る予定です」
「わかった、あの赤毛の子だよね! あの子も礼儀正しくていい子なんだよ。それに立ち振る舞いがまるで王子様みたいなの!」
「あ…それ何となくわかるかも」
 夢見る少女のようにうっとりと語るラランを見て、シュカは頷いて同意した。
 フォール家の子息として教育されているアッシュの立ち振る舞いはラランが言う通り洗練されている。最初はそのせいで近付きにくかったのだが、話してみるとアッシュは意外なほど気さくで面倒見が良くて友達思いだった。
 作意のある取り巻き達に囲まれているよりも、気兼ねなく話せる友人が一人いてくれるほうがずっと良い。アッシュがそんなふうに言っていたことを思い出す。
 シュカは、彼が自分のことをそんなふうに思っていてくれていることが嬉しくてたまらなかった。
「それにね、あの子を迎えに来るお兄さんいるでしょ? その人がまた美形なんだよ~!」
 シュカはすぐにそれがジークフリートだと気付く。もちろんルクシウスも気付いたようで、彼は意味有りげに微かに笑った。
「そういうのが好みなのかよ、お前」
「あんたよりはずーっと好みよ!」
 なぜか不機嫌そうなジアスが毒づくと、ラランも負けじと眉間にシワを寄せた。
 シュカは少し険悪な雰囲気に怖気付いてルクシウスに視線を向ける。この二人は別に仲が悪くなんてなかったはずなのに、どうしたことだろう。
 ルクシウスは安心させるようにそっとシュカの肩を抱いた。
「ほらほら、二人とも痴話喧嘩はやめなさい。シュカが困っているだろう」
 それを聞いたシュカは驚いて目を丸くし、いつの間にそんな関係に発展したのだろうと二人を交互に見つめてしまう。
「痴話喧嘩じゃないですって、司書長!」
「そうです! シュカ君もそんな、知らなかった…みたいな顔しないで!」
 顔を真っ赤にした二人が慌てて取り繕うのが余計に怪しい。シュカはルクシウスに肩を抱かれたまま二人につられて頬を赤くした。
「別にコイツとはそういうのじゃないから!」
 奇しくも同じ言葉を吐き出した二人は顔を見合わせ、それからまた同じタイミングで顔を逸らした。
 ついシュカは声を上げて笑ってしまう。どことなく初々しさを感じさせる二人の様子が微笑ましい。ジアスもラランも子供に好かれやすいし、そんな二人が結婚したらとても賑やかな家庭になるだろう。
「僕はお似合いだと思いますよ」
 心からそう思ってシュカが言うと、二人は言葉に詰まって押し黙った。
「さあ、今日はこのくらいにして帰るとしよう。二人とも、明日はよろしく頼むよ」
「はぁい、わかってます」
「了解っス」
 同じ方角の帰り道でも互いに毒づく様子の二人を見送ったシュカはルクシウスを見上げた。
「ラランさんとジアスさん、いつの間に仲良くなったんですか?」
「私もはっきりと知っているわけではないが、シュカが常に指輪を着けるようになってから二人がよく話をしているのを見かけるようになったと思うよ」
 思わずシュカは自分の指輪に目を落とす。
「そういえばジアスさんに、この指輪をどこで買ったのか聞かれたことがありました…」
「おや、そうだったのか。そうなるとやはり、あの二人は仲が良いのだろうね」
「だとしたら、この指輪が幸せを運んで来てくれたみたいで嬉しいです」
 ルクシウスが贈ってくれた指輪には、自分だけでなく周りまで幸せにしてくれる力があるのかもしれない。そう考えるとふわふわした喜びが込み上げてくる。
「あの宝飾品店の…ロメルマリアさんは、そういう特別な力を持った石の音も聞き分けることができるんでしょうか?」
「いや、彼はあくまでも石を持つ当人との相性を聞き分ける程度だそうだ。むしろ、相性の良い石を身に着けているという自信が、結果として周りにも良い影響を与えているんだと店主のおじいさんが言っていたよ」
「そうか…想いの力は強いんですね。本人だけじゃなくて、周りにも影響を与えるくらい強くなったりもするんだ」
「そう。想いこそが魔術の原点だよ、シュカ」
「魔術の原点?」
「自分が、周りが幸せになるようにと願って生み出されたのが魔術なんだ。原初の魔術は大したことはできなかったと聞いているよ。火を熾すこと、水の在り処を探すこと、あとは失せ物探しとかね。最初は本当に些細なものだったんだ」
「精霊は力を貸してくれなかったんですか?」
「まだそれほど精霊と人間は近しくなかったからね。その間を取り持ったのが…」
「魔女トワンナ!」
「そのとおり」
 シュカは表情を明るくする。
 トワンナが『最初の魔女』と呼ばれているのは、そういう経緯があったからなのだと気付いたシュカは興奮を隠し切れない。
「彼女の存在があったからこそ、今の我々がある。魔術を知っていくと、誰もがそれを痛感することになるよ」
 ルクシウスにもそう思った瞬間があったのだろうか。聞きたい衝動に駆られて顔を上げると、ルクシウスはシュカの考えなどお見通しで小さく笑う。
「清く正しい心を持った魔術師が彼女の本当の名前を呼べば、彼女が現れて力を貸してくれるという言い伝えが今でも残っている。現存している文献に、彼女の再来を示す記述が幾つも残っているんだ」
「ルクシウスさんは会ったことがあるんですか?」
「さあ……どうだろうね」
「教えてくださいっ」
「だが、まずは夕食にしよう。おなかが空いているだろう?」
 意味深に笑って誤魔化したルクシウスに飛び付いたままシュカは開かれた家のドアを潜った。
 家中に明かりが溢れ、暖炉にも火が灯される。おかえりとただいまを唇で直接交換するのがくすぐったくて、シュカは笑みを浮かべた。
 今日の夕食はカボチャのポタージュにチーズとベーコンのパン。皮をカリッと焼いた鶏肉にはオレンジソースが絡まり、デザートに出された栗のケーキにかけられた粉糖はまるで降り積もった雪のようだった。
 すべてを綺麗に食べ終えたシュカは食器を片付けて丁寧に洗う。
 ルクシウスに一緒に暮らそうと言われてから、シュカは少しずつこの家の作法を聞き出してはそのとおりにできるように行動しはじめた。もうただの『お客様』ではないのだと言えば、ルクシウスもそれ以上は何も言わずにシュカの好きにさせてくれた。
 食事の支度とベッドメイクだけは譲ってはくれなかったが、そうしている時の彼は楽しそうで、そこはシュカが妥協した。
「先に風呂に行っておいで」
「はぁい」
 シュカは着替えを持って浴室に向かう。
 こんなギリギリでまであの青いガラスの容器を持ってこれば良かったかと悩みながらも、置いて来てしまったのだから仕方がないと諦めて身体を洗った。新しいものと交換されている石鹸を見るのも何度目だったか覚えていない。
 そんなむずむずとした心地で身体を洗って、湯船で芯まであたたまってから書斎に向かうと、ルクシウスはメガネをかけて書類に向かって何か書き物をしていたが、シュカが来たのを見てメガネを外し、腕の中へとシュカを招き入れた。
「外さなくてもいいのに」
「シュカとの間にあるのがレンズ一枚でさえ煩わしいんだよ」
 ふわふわしたガウン越しに伝わってくるルクシウスの体温に頬を擦り寄せながら言うと、ルクシウスは吐息だけで微かに笑った。
 そんなふうに言われてしまっては黙るしかない。じわりと頬を染めたシュカはルクシウスの胸にさらに頬を押し付ける。
「寝室に行こうか」
「ルクシウスさん、お風呂は?」
「もう少しあとでいいよ」
 書斎を出て寝室に入る。
 もちろん既にベッドメイクは終わっていて、シワひとつないベッドに座らされたシュカはドキドキと胸を高鳴らせた。肩を抱かれると、キスの予感に頬が熱くなる。
 恥じらいに押されるように閉じた瞼の上に触れるだけのキスをされ、鼻筋を辿った唇がシュカの唇にそっと触れた。
「ルクシウスさん…好きです」
 目を閉じたまま囁いて、ルクシウスの肩に指先で縋る。言葉での返事はなかったけれど、直後に唇を塞いだキスはあたたかくて優しかった。
 戯れみたいな触れるだけのキスを繰り返した後、一瞬の間を置いてルクシウスが舌を伸ばしてくる。口を開いてそれを受け入れたシュカの口内を刺激して回る、柔らかい感触に反射的に肩が跳ねた。
 速さを増した鼓動についていけずに息が苦しくなる。唇の隙間から空気を吸い込み、シュカもおずおずと舌を動かした。
 舌が触れ合うたびに濡れた音が立って恥ずかしいのに、離れたくないと思ってしまうくらい気持ちが良い。
 いつの間にかベッドに横たえられたシュカの上から覆い被さるような体勢のルクシウスが一旦口を離す。シュカは足りなくなった酸素を充分に補ってから、ルクシウスの肩に縋った手で彼を引き寄せた。
 もっと欲しい、もっと触れたい。溶けて、交わって、ひとつになってしまいたい。
 そんな思いを込めてシュカは自分から唇を寄せた。
 ガウンの腰紐が解かれて、寝間着の上から身体の線を辿られる。自分の手よりも大きくてあたたかい手のひらに撫でられるのは心地良い。
 離れていった唇が惜しくはあったけれど、先日のあの行為を思い出すと顔どころか全身から火を吹きそうになった。
「このまま先に寝ていなさい」
「…はい」
 シュカの髪を撫でたルクシウスがベッドを降りて風呂へと向かう。
 寝室を出て行く背中を見送ったシュカは一人きりになった途端に両手で顔を覆った。
 ルクシウスに撫でられた肌は小さな火が灯ったように熱くなっている。それを残したままいなくなるなんて酷い。
「でも…」
 まだ準備を整え終わっていないことを思い出すと、ルクシウスが引いてくれて助かったと思う気持ちも微かに浮かび上がった。確実に近付いている『その時』に手間取ってしまわないためにも、時間をかけて万全に準備しなくては。
 考えている間に身体の其処此処に燻っていた熱が少しずつ落ち着いていく。
 すっかり平常に戻ると、シュカはふわりとあくびをした。一人で寝るにはやや広いベッドは、清潔なのにルクシウスの匂いがする。
 ルクシウスが戻ってくるまで起きていたい気持ちと、このままルクシウスの香りに包まれて眠りに落ちることへの誘惑が僅かに鬩ぎ合うものの、勝敗はすぐに決まった。
 さっきよりも大きなあくびをしたシュカは柔らかい毛布に包まり、眠る体勢になって目を閉じる。もちろんルクシウスが横になるためのスペースはちゃんと作っている。直接おやすみなさいを言えないことだけが心残りだが、この静かな温もりに包まれたまま眠るのは魅力的だ。
「ルクシウスさん、おやすみなさい」
 部屋の空気に溶かすように告げる。
 ここはたぶんシュカにとって世界で一番平和な空間だ。何者にも害されることはなく、愛しい人の気配と匂いに包み込まれ、まるで繭の中にいる心地になれる。
 早く、ここが『帰る場所』になったら良いのにと思いながら、シュカは仄かな幸福感と共に眠りに就いた。


 翌朝、ルクシウスが出かけてからそこそこの時間が過ぎてようやく目を覚ましたシュカは、家主の不在に気付いてがっくりと肩を落とした。
 寝室はもちろん、廊下も居間も静まり返っている。
「行ってらっしゃいって言えなかった…」
 居間の暖炉には僅かに火が残されていて、シュカが寒くないようにとルクシウスが気を使ってくれたのだとすぐにわかった。
 テーブルの上には紙の包みと書置き、それから鍵が置かれていた。それが何の鍵なのか、シュカは知っている。
「これ、この家の鍵だ…」
 やや古めかしいこの鍵を使ってルクシウスが家のドアを開けるのを、もう何度も見ているのだから間違いない。
 書置きには鍵のこと以外に、紙の包みの中身はシュカの朝食として作ったサンドイッチだということと、寒ければ着るようにと椅子の背にかけているカーディガンについても書かれていた。
 丈の長い模様編みのカーディガンには見覚えがある。去年の収穫祭の日にルクシウスが寒くないようにと貸してくれたものだ。きっとルクシウスもそれを覚えていたのだろう。
 シュカは小さく笑みを零し、それからサンドイッチをしっかりと味わって食べた。
 お茶を飲んだカップを片付けてから着替えを済ませ、ベッド周りも一通り整えてみる。ルクシウスがするほどにまでは綺麗に整えられなかったけれど、やらないよりはマシだと自分を納得させた。
 カーディガンを羽織り、鞄を持ち、ルクシウスが残していってくれた鍵を握り締める。家のドアに外側から鍵をかけて、シュカは足取りも軽く小道を駆けた。
「アッシュ君、お待たせ!」
 アッシュとの待ち合わせは秋色に染められた村の広場だった。
 鮮やかな色で飾り付けられた広場は出店を目当てに集まったたくさんの人で賑わっていたが、そんな中でもアッシュの赤毛は一際目立つ。
 駆け寄るシュカを見つけたアッシュは、落ち着いた色味の私服で大人っぽく見える雰囲気を壊すように年相応の笑みを浮かべた。
「随分と賑やかだな」
「一年で一番大きなお祭りだもん。今年も豊作で良かったねって、みんなで一緒になって喜ぶんだよ」
「そうか、それはいいな」
 去年の収穫祭の日、アッシュは図書館での催し物には顔を出してくれたが他は見なかったのだろうか。そうだとしたら今年こそはもっと収穫祭を楽しんでもらいたい。
 俄然張り切った気分になって、シュカは逸れないようにとアッシュと手を繋いだ。
「シュカ、そのカーディガン、少し大きいんじゃないか?」
「うん。でもこれ、ルクシウスさんのだから」
「ああ…なるほど、牽制のつもりなのか」
 首を傾げるシュカに、アッシュがニヤリと口の端を吊り上げる。
「明らかに大きすぎるサイズのカーディガンを着せて、指輪も着けさせて、シュカは自分のだと主張しているんだろう。独占欲の表れだな、羨ましいことだ」
 茶化す口調のアッシュを睨んでみるものの、頬を真っ赤にしていては迫力なんてない。
 シュカはアッシュに手を引かれるまま広場に立ち並ぶ出店をひとつひとつ覗いて回った。
 秋の収穫物を使った焼き菓子を売る店、置物や人形を売る店、色とりどりの糸で織り上げた布小物を売る店。そんな中アッシュが足を止めたのは手作りのアクセサリーを扱っている店の前だった。
「これは、コリータの実を使ったアクセサリーだよ」
「実? 石じゃないのか?」
「僕もルクシウスさんから教えてもらったんだけど、コリータの実を乾燥させて磨くと、こうやってルビーみたいにツヤツヤになるんだって。ほんと、すごく綺麗だよね」
 アッシュは店先にしゃがみ込んで食い入るように並べられたアクセサリーを見つめている。あまりの熱心さにシュカも隣にしゃがみ込んだ。
「このペンダントが気になるの?」
「…アイツに似合いそうだと思って」
 小さな声で答えたアッシュに、シュカは納得する。コリータの実と菱形のプレートをあしらった革紐のペンダントは確かにジークフリートに似合いそうだ。
 黙り込んでしばらく悩んだアッシュは結局そのペンダントを購入した。
「いいものが見つかって良かったね」
「ああ」
 ペンダントを入れてもらった包みを大事そうに鞄にしまったアッシュの隣でシュカも自分のことのように嬉しくなる。
 それから目に付いた焼き菓子と飲み物を買い込んだ二人は図書館へと向かった。
「うわぁ、もうこんなに人がいる!」
 シュカは思わず声を上げていた。
 エントランス前の開けたスペースに置かれたテーブルを囲んだ人々は楽しそうな表情で何かを作っているが、生憎とシュカ達が入れそうな隙間はない。子供達の歓声があちこちから聞こえてきて、広場以上に賑やかかもしれない。
 席が空くまで待とうと並んで腰を下ろしたのは、いつも二人が放課後に話し込む時に座るベンチだった。
「ちょっと早いかもしれないけど、おやつにしようか」
「そうだな。この様子だとしばらくは空きそうにないしな」
 広場で買ってきたばかりの焼き菓子を取り出してベンチに並べる。
 カボチャのマフィンにクルミを散りばめたクッキー、木いちごのジャムを挟んだ棒状のパイとリンゴのタルト。どれもサイズは小さめで見た目も可愛らしく、ついついあれもこれもと買い込んでしまった。
 シュカはリンゴのタルトを、アッシュは木いちごのパイを手に取って齧り付く。
「おいしい!」
「うん、おいしい」
 タルトは表面に薄切りのリンゴが乗せられているだけでなく中の生地にも細かく刻んだリンゴが混ぜられていて、爽やかな酸味と甘みが口中に広がった。
 シュカが目を輝かせるのと同時にアッシュも表情を綻ばせる。パイ生地に練り込まれたバターの風味とキイチゴのジャムは相性が抜群だった。
「これはいいな…帰りにもう少し買い足すか」
「僕も、もうひとつ買っちゃおうかな」
 膝の上に落ちた欠片を払うと、それを狙った小鳥が恐る恐る近付いてきた。羽根の所々が白く変わっているのは冬支度のためだろうか。シュカとアッシュの足元を忙しなく跳ね回りながら、タルトとパイの欠片を一生懸命つつく姿は可愛らしい。
 小鳥の食事の邪魔をしないように気を付けながら買ってきたお菓子を全部平らげ、飲み物で口の中を流した二人は同時に息を吐いた。
 空に浮かんだ雲はのんびりと流れている。日差しもあたたかくて思わず小さなあくびが漏れた。
「そっちは上手くいっているか?」
「ルクシウスさんとは仲良くしてるよ」
「それはお前を見ていればすぐわかる。そうじゃなくて、その…なんだ、そっちの話だ」
「あ…ああ、えっと、そっち…ね」
 シュカもアッシュも視線を逸らしたまま僅かに頬を赤くする。
「…まだ全然。これでほんとにできるの? って感じ…」
「すぐに慣れるものでもないんだ、焦らなくていい」
「うん、僕もそう思ってるんだけどね」
 わかっていても気持ちが焦ってしまうのはどうしようもない。
 少しばかり気まずい沈黙を打ち消そうと、今度はシュカが口を開いた。
「アッシュ君は、将来は魔術師になるの?」
「ん? ああ、一応はそう考えている。家は身内の誰かが継ぐだろうし、俺は好きにさせてもらうつもりだ。シュカも魔術師になるんだろう?」
「うん、人の役に立つような魔術師になりたいって思ってるよ」
「シュカらしいな」
 幼い頃から魔女トワンナに憧れ続けていることを話すと、アッシュも彼女のことを知っているようで深く頷いた。
 誰もが一度は憧れる稀代の魔術師。人間から精霊になった唯一の存在は今もなお、その名を世界中に轟かせている。
 そんな彼女の名前を呼ぶと助けてくれることがあるらしいと、ルクシウスから聞かされたことを話すとアッシュは素直に驚きを顔に浮かべた。
「現在に生きるすべての魔術師の母と言われるだけはあるな」
「そうだよね。僕も教えてもらった時にはものすごく驚いたもん。でも、いつも見守ってくれてるみたいで嬉しくなるね」
「ああ、そうだな」
 いつか自分もトワンナに会える日が来るのだろうか。
 それぞれの未来に思いを馳せているとルクシウスが近付いてきた。動き回って暑くなったのか、シャツの上にはベストだけで上着はない。
「二人とも、テーブルが空いたからおいで」
 シュカとアッシュは跳ねるようにベンチから離れて、ルクシウスが案内してくれたテーブルに向かった。
「今年はリース作りなんですね」
「そう。クリスマスに向けて企画してみたんだ」
 テーブルの上に用意された飾りの種類の豊富さにシュカは目を輝かせた。
 松ぼっくり、クルミの殻、形も様々なドングリや小枝、スターアニスやシナモンスティックなどのスパイス類、キラキラと光る星の形のビーズや小さなベル、リボンだけでも数種類あって目移りしてしまう。テーブルごとに揃えられている材料は少しずつ違うらしく、子供達は全部のテーブルからいろんな材料を集めて回っているようだ。
 簡単に作り方の説明を受けてから、シュカとアッシュは思い思いの材料に手を伸ばした。
「どんなふうにしようか迷っちゃうね」
「そうだな」
 楽しげに笑う二人を見つめていたルクシウスは別のテーブルから声をかけられてしまい、シュカの頭を撫でてから離れていった。
 彼の左手で指輪が小さく光っている。遠目でもそれを見つけたシュカは耐え切れずに頬を緩ませ、自分も似たようなところがあるのだろうと隣のアッシュに苦笑を浮かべさせた。
「できた!」
 小一時間ほどでリースは完成した。
 ラメをまぶした小さな松ぼっくりとクルミの殻を中心に、その横を挟むようにシナモンスティックとドングリを置き、上のほうには星型のビーズを貼り付けた。秋の森をイメージして作ったリースの出来栄えはなかなかだと自画自賛する。
 アッシュも少し遅れて作り終えたばかりのリースをシュカに見せてくれた。スターアニスとシナモンスティック、それから細い小枝を一箇所にまとめて置いて、そこからリース全体に細い金のリボンを巻き付けてある。
「アッシュ君のリース、おしゃれだね! まるで月みたいだ」
「ありがとう。シュカのリースは素朴であたたかみがあって、シュカらしくてとてもいいな」
 他の人に場所を譲った二人は落ち着いて座れる場所を探して図書館の敷地内を散策する。木々の合間から図書館の建物が僅かに見えるところまで離れると人影はなく、木の葉が落ちる音ばかりが目立つようになった。むしろラディアス魔術学校の校舎のほうが近くに見える。
 雨曝しになって塗装が僅かに剥げたベンチを見つけて腰かけた二人は、まだ夕暮れの気配のない空を見上げた。
「楽しいね」
「ああ、そうだな」
 アッシュの赤毛を秋風が緩やかに揺らす。
「…アイツと、こんな関係になれると思ってなかった」
 ふとアッシュが呟いた。
 彼が着けている左手の指輪に嵌め込まれた、それぞれに違った色を持つ三つの赤石。火の精霊の力を一番強く纏うジークフリートから贈られた婚約指輪は、アッシュにとってお守りの意味も強いのだろう。
「シュカとルクシウスさんのおかげだ」
「ううん、ルクシウスさんはともかく、僕は何もしてないよ」
 シュカは小さく首を横に振り、アッシュの手の中にあるリースを見つめて目を細めた。
「夜の女神様が願いを叶えてくれたんじゃないかな」
「? 夜の女神?」
「これもルクシウスさんが教えてくれたことなんだけどね」
 そう前置きをして、シュカは以前ルクシウスが教えてくれた言い伝えを話した。
 月に願うと夜の女神がその願いを叶えてくれるなんて子供染みた物語もルクシウスが話してくれたから信じられるし、その話を知る前に、シュカは月に向かってアッシュの恋が上手くいくようにとお願いしていたことも付け加える。
 真剣な面持ちでその話を聞いていたアッシュは自分が作ったリースに目を落とした。金のリボンを巻き付けたリースは、シュカが言ったとおり月のようだ。
「……シュカ、良ければこのリースをもらってくれないか」
「えっ、でもアッシュ君がせっかく作ったのに」
「いいんだ。シュカが俺のために祈ってくれたことが嬉しいから、今度はお前の願いが叶うように俺が祈る。これは、その証だ」
 少し迷ったものの、シュカはアッシュが差し出したリースを受け取った。
「じゃあ、その代わりにアッシュ君は僕が作ったリースをもらってくれる? 僕達の友情の証に」
「わかった。受け取ろう」
 シュカはアッシュのリースを、アッシュはシュカのリースを受け取り、宝物のように大切に紙袋にしまった。
 二人は妙に照れくさい気分で肩を震わせる。
「笑ったらおなかすいてきちゃった」
「昼食よりも先におやつにしてしまったからな。今から遅めの昼食を探しに行くか?」
「うん! じゃあもう一度、広場まで行こう」
 連れ立って歩く足取りは軽く、騒がしい広場まではあっという間だった。
 お菓子以外の食べ物を扱う店は、広場の中心辺りにまとめて配置されているようで特に人手が多い。シュカとアッシュは人ごみを掻き分けて食べ物を買い、広場の隅の芝生へと避難した。
「昼に来た時よりも人が増えてるな」
「うん…。抜け出すのが大変だったね」
 ぎゅうぎゅうと押されながら買ったのは、この日のために広場に設置された石釜で焼き上げたパンとミートグラタンだ。
 人ごみには辟易するが、手に入れた料理はまだどちらもあたたかく、特にミートグラタンからはふわふわと湯気が立ち上っているし、上にかけられたチーズはこんがりと色付いて食欲をそそる。
 早速フォークを手にしてグラタンを掬い、火傷しないように吹いて冷ましてから頬張った。
「…おいしいっ!」
「やはり、できたては格別だな」
 たっぷりの挽き肉と野菜の旨みが溶け込んだミートソースはシンプルなパンとよく合う。パンもミートグラタンもあっという間に食べ終えて空腹を満たした二人は、芝生の上に満足げに足を投げ出した。
「図書館の催しはあとどのくらいで終わるんだ?」
「えっと…あの二時間くらいかな。そこから片付けをするから帰りは夜になっちゃうけど、いつもの閉館時間とあんまり変わらないくらいには終われると思う」
「そうか、なら俺もそのくらいまでアイツを待つとするか」
「試験問題を作るのって大変そうだね」
「詳しくは聞いていないが、簡単すぎても難しすぎてもいけないから、かなり気を使うらしい」
「そっか…そうだよね。うん、難しすぎるのは困るなぁ」
 シュカがそう言うと、アッシュが小さく声を上げて笑う。
「そうは言うが、成績は良いじゃないか」
「だって必死に勉強してるもん。ルクシウスさんやアッシュ君に教えてもらってるのに、悪い点なんて取れないよ」
「真面目だな、シュカは」
 二人は冬休み前の期末試験を思って同時にため息をついた。年明けの進級試験だって考えるだけで頭が痛い。
 それにシュカには試験よりも気にかかることがあるのだから気持ちの余裕もなくなる。
「ちゃんとできるかなぁ…」
「それは試験のことか? それとも」
「両方」
 シュカの答えにアッシュは苦笑した。
「あまり気負うなよ」
「うん…」
「試験勉強でもそっちの話でも、俺がわかることはちゃんと答えるから」
「ありがとう、アッシュ君」
 たっぷりと話し込んでいる内に気付けば空はオレンジ色になっていた。
 もう一度だけ人ごみの中に戻り、気に入ったお菓子を買い足してから、シュカはアッシュと一緒に一旦家へと戻る。買ってきたお菓子を両親にお土産だと手渡し、アッシュが作ったリースを自分の部屋に置いて、すぐさま玄関へ引き返した。
 鮮やかさを減らした道を照らすのは、脇に建つ家の玄関先に置かれたランプに入れられた明かりだ。少しずつ夕闇に染まっていく道は幻想的に浮かび上がり、収穫祭の終わりを寂しそうに告げている。
「アッシュ君、今日は一緒にいてくれてありがとう」
「礼を言うのは俺のほうだ。シュカがいてくれたから、今日はとても楽しかった」
 少し肌寒く感じる風に肩を撫でられながらも、アッシュと友達になれて良かったと思う心はあたたかい。なのに、シュカの頭には、少し先のことが浮かんで消えなかった。
「…アッシュ君は卒業したら家に戻っちゃうの?」
「ん…そう、だな。一旦は戻るかもしれないが…。いや、どうせなら卒業する前に、この近くで家を見つけてしまうのもいいかもしれないな」
「い、家?」
「そうすればアイツは教師を続けられるし、俺もシュカと離れずに済む」
「そうだけど…家を、買うの?」
「ああ。もちろん実際に買うとなると、まず父上に頼むことにはなるが、魔術師として働けるようになったら、その稼ぎから返していこうと思う」
 現実的な将来の道筋を考えているアッシュに感心する一方で、シュカは自分の抱いているものが夢物語だと痛感させられる。
 人の役に立つ魔術師とは一体どんな魔術師だろう。
「アッシュ君ってすごいね。もうそんなにしっかり考えてるんだもん…」
「すごいものか。これは幼い頃から父上に、一人でも生きていけるようにと言われて育った結果だよ」
 その考え方はフォール家の代々の家訓であり、どうしてもやりたいことを見つけたら嫡男だろうと家を飛び出してしまうのだそうだ。
 現にアッシュの一番上の兄も行く行くは家を継ぐつもりでいるらしいが、今は家を出て職人の元で技術を学んでいるとのこと。こんな緩さは名家として珍しいのではないだろうか。
「俺がラディアス魔術学校に入学したのも、魔術師を生業にすればどこででも生きていけると考えたからだ。魔術師になれなくても、魔術の知識はいろいろと役立つしな。アイツとの婚約関係を続けられないと諦めてしまってもいたから、余計に父上の教えに従うのが正しいと思うようになっていた」
 そういった経緯でアッシュはこの村に来たのかと思うと、僅かな切なさがシュカの胸を締め付けた。
 しかしアッシュはほんのりと眉を下げたシュカを見つめて晴れやかに笑う。
「でも今は違うだろう?」
 シュカの頭をやや乱暴に撫で回したアッシュは「急がないと暗くなるぞ」とシュカの手を引っ張った。
 昼間はあんなに賑やかだった図書館はいつもの静けさを取り戻していて、並んでいたテーブルもどこかに片付けられている。
 収穫祭の飾り付けが残ったエントランスから館内に入ると、司書達が総出で閉館準備に追われていた。忙しそうに動き回る彼らの邪魔にならないように、二人は館内に入ってすぐのソファベンチに座る。
 エントランスの飾りを外すのは臨時休館になる明日に持ち越すのだろうか。そんなことを考えていたシュカに、本を積んだワゴンを押して通りがかったルクシウスが気付いて近寄ってきた。
「構ってあげられなくてすまないね、シュカ。もう少しで終わるからここで待っていて。アッシュ君はジークフリートが迎えに来るのかな?」
「はい。もし閉館時刻に間に合わなくても、学校なら隣ですから、俺のほうからアイツを迎えに行きます」
 ルクシウスは微笑を浮かべて頷くとシュカの頭を撫でてから作業に戻っていった。
 シュカは撫でてもらった場所を手で押さえ、我慢できない笑みで頬を緩める。
「やはり俺は、愛情表現についてはシュカのほうが上手だと思う」
「え、何、突然。こないだの続き?」
「ああ。どうしたらシュカ達みたいに自然にベタベタできるんだ?」
「ベタベタなんてしてないってば。でも、うーん…僕はルクシウスさんを見るとくっ付きたいなって考えちゃって、勝手に身体が動くんだよね。あ、仕事中とか邪魔になりそうな時はなるべくやらないようにしてるけど」
 時々、図書館にいる間でもついルクシウスに抱き付いてしまっていることはあるが、それはこの際黙っておく。
 シュカの答えを聞いたアッシュは考え込むように眉間に皺を寄せた。
「呼吸をするように構い合っているお前達を見ていると、呆れを通り越して感心する」
「えー、何それ…」
「俺もアイツもシュカ達みたいに自分から甘えられるタイプではないし、正直な気持ちを言えば、羨ましい」
「僕はアッシュ君が羨ましいよ。学校でも堂々としてて、指輪のことをからかわれても動じないし、ジークフリート先生が女の子達にちやほやされてるのを見てるのに落ち着いてるし。もしルクシウスさんがそんなふうになってたら、僕だったら落ち着いてなんていられないもん」
「落ち着いてる…か。これでも内心では嫉妬してるんだがな」
苦笑を浮かべるアッシュを見て、シュカは思わず目を丸くした。
「嫉妬してるのっ? いや、うん、しちゃいけないとかじゃないけど、そういうふうには見えなかったから」
「本当はアイツに近付く女生徒を引き剥がしてやりたいと思っていたりもするんだが、顔に出すのが恥ずかしくて我慢をしているだけだ」
「我慢しなくてもいいんじゃない? ジークフリート先生と婚約してるのは事実なんだし」
「そうだが…恥ずかしいものは恥ずかしいんだ。俺はそんなことをするようには見えないだろう?」
「見えなかったとしても、したいならしちゃえばいいんだよ。嫌だなって気持ちを我慢し続けてぎくしゃくしちゃうよりも、嫉妬してるって素直に言ったほうが先生も喜んでくれると思う。だってジークフリート先生、アッシュ君のことがとっても好きなんだから」
 力強く言い切ると、アッシュの頬にじわじわと赤みが浮き上がる。それから手元に視線を落として指先をゆらゆらと動かした。
「変だと、思われないだろうか」
「好きな人に他の人が近付くのを見て嫌だなって思うのは普通のことだもん。変なんかじゃないよ」
「そう、だな……今日、帰ったら…言ってみる」
「うん! がんばってね、アッシュ君!」
 閉館時刻になり、ルクシウスがシュカを迎えに来ても、まだジークフリートは姿を現さなかった。
 アッシュは一人で学校へ向かうと言ったが、すっかり日が暮れた外はかなり暗く、例え学校と図書館が隣接していても危険がないわけではない。
 ルクシウスは年上の顔付きでアッシュをそう言って諭し、三人で学校へ向かうことにした。夜の校舎は明かりが消えているが、校舎の裏手にある寮は逆に明かりで満ちているのだろう。
 ふと、校門が見えたところでアッシュが何かに気付いて駆け出した。
「ジークフリート!」
 突然背中に飛び付かれて驚きを隠しきれないジークフリートは、しがみ付いているのが愛しい婚約者だと知ると、乏しい表情をそれでも僅かに緩めた。
「アッシュ、迎えに行くのが遅れてすまなかった」
「ああ、遅すぎだ。だから待ちきれなくてこっちから迎えに来た」
「そうか」
 アッシュをぎゅうぎゅうと抱き締めたジークフリートが、ようやくルクシウスとシュカに気付いて目を瞬かせる。
「いたのか」
「ここまでアッシュ君に付き添っていたんだよ。隣とは言え、夜道は危ないからね」
「そうか、気遣いに感謝する」
「どういたしまして」
 自分を抱き締めたまま離さないジークフリートの腕から抜け出したアッシュは、ほんのりと頬を染めたままシュカに声をかける。
「馬車は学校の裏手で待たせてるんだが、乗っていくか?」
「ううん。僕はルクシウスさんと歩いて帰るから、アッシュ君もこのままジークフリート先生と帰りなよ」
「わかった。ルクシウスさんがいるから大丈夫だとは思うが、気を付けてな」
「うん、ありがとう。また明日ね」
 学校の敷地を突っ切って馬車が待っている場所まで行くのだと言うアッシュとジークフリートに手を振ったシュカは、ルクシウスを振り返って笑みを浮かべた。あの二人が仲睦まじくしている姿を見られるようになって本当に良かった。
 同じことを考えたのか、ルクシウスも穏やかに口元を緩めている。
 吹き抜けた夜風の冷たさを自覚した肩が小さく震え、そんなシュカの首にルクシウスが自然な手付きでマフラーを巻いてくれた。これからもっと本格的に寒さが深まると思うとげんなりしてしまうが、寒さを言い訳にしてルクシウスにくっ付けるのも冬の特権だ。
「今日は楽しかったかい?」
「はい! 一日中楽しくて、時間があっという間に過ぎちゃいました」
 機嫌良く笑ったシュカは、そうだったと思い出してポケットからルクシウスの家の鍵を取り出した。アッシュと一緒に図書館に行った時に渡そうと思っていたのに、収穫祭が楽しすぎてすっかり忘れてしまっていた。
 ルクシウスは優しく口元を緩めてシュカの手から鍵を受け取る。
「ルクシウスさん、朝ごはんを用意しておいてくれてありがとうございました、とてもおいしかったです。それと、今朝はお見送りできなくてごめんなさい」
「どういたしまして。見送りのことは気にしなくていいよ。気持ち良さそうに眠っていたし、シュカの寝顔がとても可愛らしくて、起こしてしまうのがもったいなかったんだ」
 寝顔を見られたことなんて今までに何度もあったことなのに、改めて言葉にされると恥ずかしい。
「合鍵を作っておけば良かったと思ったよ。そうすれば、私がいない時にもシュカが家に入って、私の帰りを待っていられるからね」
「…勝手に入ってもいいんですか?」
「もちろんだよ。シュカが卒業したら一緒に暮らそうと言っただろう? その練習だと思えばいいさ」
 シュカは込み上げる喜びを抱き付くことで表現した。
 飛び上がりそうなほどに嬉しい気持ちを言葉にできないのがもどかしい。けれどきっとルクシウスはそんなシュカの気持ちを汲み取ってくれる。
「今までもずっと思ってたし、今もそうだけど…僕、ルクシウスさんのことが大好きです」
 何度口にしたって足りない。口にしないと破裂してしまうかもしれないとさえ思えるほど、枯れることを知らない泉のように、ルクシウスへの恋心が次々に湧いてくる。
 小道の奥から聞こえる虫の音も、夜空を彩る月と星さえも霞んでしまうくらいシュカはルクシウスに夢中だ。
 シュカは顔を上げてルクシウスを見つめ、背伸びをして愛しい人の頬に唇を押し付ける。子供っぽいキスだが気持ちは篭っているはずだ。その証拠にルクシウスは嬉しそうに笑っている。
「私もシュカが好きだよ。君に同じように好いてもらえているのが夢じゃないかと思うくらい嬉しくて、飛び跳ねてしまいそうだ」
「じゃあ僕も一緒に飛び跳ねなくちゃ」
 野ウサギみたいに跳ね回るルクシウスを想像したシュカは肩を震わせて笑った。嬉しくて飛び跳ねるだなんて子供っぽい行動はルクシウスには似合わないのに、そうしたくなってしまうほど嬉しいと思ってくれる彼が可愛くて愛しい。
 シュカは笑いに肩を揺らしたままルクシウスに抱き付いて、ローブに染み付いたジャスミンの香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
 この人を好きになるために生まれてきたのではないかと思うくらいに毎日が幸せで満ちているのが嬉しくて、シュカは感極まって勝手に滲む涙を必死に隠した。
「昨日と同じものですまないね」
「いいえ、疲れてるのに用意させちゃってごめんなさい」
 ポタージュの鍋を火にかけながらお茶の用意までしてくれる手際の良さには感心するが、仕事を終えて帰ってきたばかりのルクシウスをキッチンに立たせるのは気が引ける。
 しかし今のところ火を使うのをルクシウスが譲ってくれる気配はなく、シュカは食器の用意を手伝った。キッチン周りのことだって少しは覚えているつもりだが、まだまだルクシウスの中ではシュカはお客様のままなのかもしれない。
 パンはカゴごとテーブルの上に乗せてしまえばいいと言われてそれに従い、次はオーブンに入れられている鶏肉の様子を見る。
 昨日はオレンジソースだったが、今日は何だろう。こんがりと焼けはじめている鶏肉は塩とハーブを散らすだけでも充分おいしそうだ。
「シュカ、お茶を飲んであたたまるといい」
「ありがとうございます」
 ふわふわと湯気が立ち上るカップを受け取り、椅子に座って口を付ける。
 甘くて涼やかなジャスミンの香りが吐き出した息にも混ざっていて、まるで身体の内側からルクシウスに染められているようだと思ってしまったシュカは一人で顔を赤くした。
「お茶が熱すぎたのかい?」
「いっ、いえ! 大丈夫です!」
 声をかけられて頬の赤みを増したシュカは慌てて取り繕うが、ルクシウスは引かなかった。顔を赤くして口をもごもごさせているシュカが火傷をしたのではないかと心配したルクシウスは、コンロから離れてシュカの前に膝をつく。
 口を開けて見せるようにと言われて、とうとうシュカは降参した。
「火傷はしてません、ただ…お茶がジャスミンの香りがするから、身体の中からもルクシウスさんの匂いがするんだって考えちゃって、それで…」
 しどろもどろの説明でも理解したルクシウスは立ち上がるとシュカを抱き締めた。
 抱き締めるばかりで何も言わない彼に戸惑ったシュカは、腕を伸ばしてルクシウスの背中をポンポンと叩く。
 少しして顔を上げたルクシウスは深いため息をつきながらシュカの髪を撫で回した。
「私の理性を試すようなことを言わないでくれ、クリスマスまで我慢ができなくなってしまいそうだ」
「? ……ぁ…」
 ルクシウスの言葉を理解したシュカの頬にはさっきよりも多くの血が集まる。火が点いたみたいに熱い頬を手のひらで挟むが熱は一向に下がらない。
 夕食の支度を再開したルクシウスの背中に視線を送り、けれど今しがたの会話を思い出して余計に頬の熱は増すばかりだ。
 でも、とシュカは思う。
 クリスマスになったら――自分が成人を迎える日が来たら、さっきの発言は現実になる。身体の内側からルクシウスに染められて、彼のものになる。
 考えただけでドクドクと鼓動が速まる胸は痛みすら覚えるのに、嫌だなんて思わなかった。未知の行為は確かに怖いけれど、ルクシウスに抱いてもらうのは嫌じゃない。
 先日の夜、ルクシウスの手で高められて欲望を吐き出した時の頭の芯まで蕩けそうなくらいの快楽は今もまだシュカの記憶に生々しく張り付いている。ルクシウスに抱かれるのは、あれ以上に気持ち良いのかもしれない。
 そう考えただけで、受け入れる準備の整っていないはずの身体がじんわりと熱を持ち、シュカは誤魔化すようにミルクティーのカップを口に押し付けた。
 今日が泊まりの予定でなくて良かった。
 そうでなかったらクリスマスまで待つと言ったルクシウスの気持ちを考えず、自分から抱いてほしいと言い出してしまっていたかもしれない。そんなはしたないことを言ってルクシウスに嫌われたらどうしよう。
 ぐるぐると頭の中を回る不安をミルクティーと一緒に飲み込んだシュカは、複雑な気持ちのまま空にしたカップをシンクに置き、もう一度オーブンを覗き込んだ。
「ちょうど良い具合に焼けてますね」
「こちらも、もうすぐできるよ」
 ごくごく普通のことを言いながらも、まだ頬が赤いのではないかと心配になるし、ルクシウスの傍に立つだけで心臓が速まってしまうのも恥ずかしい。
 シュカはいそいそとテーブルにカトラリーを並べ、コンロの近くにポタージュ用の皿を置いた。何かしていないと恥ずかしさで叫び出してしまいそうだった。
「シュカが手伝ってくれたおかげで早く準備ができた」
「いえ、そんなに大したことはしてないです」
 ルクシウスに何を言われても頬が熱くなってしまう。彼を意識しすぎていたたまれない。
 それでも一口ポタージュを啜ったところでシュカの天秤は食欲に傾いた。
「昨日も思ったけど、このポタージュ、とてもおいしいです」
「気に入ってくれて良かった」
「初めておうちに呼んでもらった時からずっと思ってたんですけど、ルクシウスさんって料理が上手ですよね」
「一人暮らししていた時期もあったし料理自体は不慣れではなかったが、シュカに少しでもおいしいと思ってもらいたくて密かに練習したんだよ」
 ルクシウスの少し照れた表情に、シュカの胸はきゅんと音を立てた。シュカ自身もルクシウスのためにクッキー作りの練習をしたことがあるから、おいしいと思ってもらいたいという気持ちはよくわかる。
「何を練習したんですか?」
「シチューだよ。本当はもっとシュカが喜びそうなものを作りたかったんだが、何が好きなのかわからなくて、シチューなら外れはないだろうと思ってそうしたんだ」
「じゃあ大当たりだったってことですね」
「ああ、そうだね」
 シチューは幼い頃からシュカの好物だ。特にジャガイモが多めに入っているのがいい。
 そう言うとルクシウスは微笑んで「なら、今度作る時にはジャガイモを多めに入れようか」と言ってくれた。
 たったそれだけのことなのに涙が出そうになるくらい幸せで胸が詰まる。こんな瞬間をこの一年間に何度も繰り返してきた。そしてこれからもきっと、泣きたくなるほどの幸せを何度も積み重ねていくのだろう。
 夕食を食べ終えたシュカは二人分の食器を洗うためにキッチンに立ち、ルクシウスはそんなシュカの後ろ姿を椅子に座って眺めていた。
 ルクシウスの視線が背中をくすぐっているみたいで落ち着かない。それでも何とか食器を洗い終えて水切りカゴに並べ、濡れた手をタオルで拭いて振り返ろうとしたところで後ろからルクシウスに抱き締められた。
「ルクシウスさん? どうかしたんですか?」
「いや…洗い物をするシュカが可愛くてね。ああそうだ、エプロンを用意しようか。何色がいいだろう…シュカには何でも似合いそうだ」
 楽しそうな声が耳の後ろから聞こえてくる。きっと近いうちにエプロンが用意されているはずだ。
「ルクシウスさんの好きな色がいいです」
 首だけで振り返ってそう言うと、ルクシウスは微笑してシュカの唇にキスをしてくれた。
 そういえば今日は起きた時間もバラバラだったせいであまりキスをしていなかったと思い出して、シュカは身体ごと振り返ってルクシウスにキスをねだる。甘やかすようなキスが鼻先を掠め、それから唇が重なった。
 やがて入り込んできた舌の感触に痺れた背中が仰け反り、シンクに腰を押し付ける体勢になる。食器を洗っていた時とは違う水音が響いているのがいつも二人で食事をしている場所だと思うと、羞恥心で心臓がおかしくなりそうだ。
「ん…っ」
 舌先を軽く噛まれてゾクゾクと肩が震える。口内で舌が動くたびに全身から力が抜けてしまって、ルクシウスの腕が背中を抱いて支えてくれなかったらしゃがみ込んでいたかもしれない。
 深いキスから解放されたシュカは肩で息をして必死に酸素を取り込んだ。
「送っていくよ」
 抱き寄せられ、宥めるように背中を擦られる。
 しばらくして小さく頷いて答えたシュカの息が落ち着くと、ルクシウスは甲斐甲斐しくシュカにカーディガンを着せてくれた。丁寧にマフラーまで巻いてくれる彼に何となく笑いが込み上げてくる。
「ここまでされると、子供扱いされてるのかなって思っちゃいますよ」
「子供扱いではないよ。シュカのことは、いつだって大切な恋人として扱っているつもりだ」
 きっぱりと言い切られたシュカの頬にはゆっくりと血が上った。黙り込んで俯いたシュカの額に触れるだけのキスが降る。
 ルクシウスのことが好きだ。身体の隅から絶え間なく湧いてくるみたいにドキドキが治まらず、シュカは耳まで真っ赤に染め上げる。
「あ…」
 その時ふと、シュカの視界にあるものが映り込んだ。
 緩められた襟から僅かに見えていたのは、数日前にシュカがルクシウスに付けたキスマークだった。それはもうほとんど消えかけていて、近付いてよく見なければわからないくらいにまで薄らいでいる。
 シュカが無意識に手を伸ばしたことでそれに気付いたルクシウスは、うっすらと笑みを深くし、首元を探る指先を握り締めた。
「もう一度付けておくかい?」
「いいん、ですか…?」
「シュカがしたいなら、いいよ」
「…したい、です」
 ボタンを外して、さらに広げられたシャツの襟に顔を埋めて、ルクシウスの肌に唇を押し付けた。教えてもらったとおりに口を尖らせ、空気が入らないよう一点だけに集中して吸う。
 口を離すと、初めて付けたものよりも濃いキスマークがルクシウスの肌に咲いていた。
「うまくできたと思います」
 どうだと言わんばかりにルクシウスを見上げたシュカは、巻いてもらったマフラーを取ってシャツのボタンを外し、おずおずと襟を開いた。
「僕にも、付けてください…」
 こんなことをねだるなんてはしたなかっただろうかと、不安で手が震える。
 その不安を掻き消すように、ルクシウスはシュカの胸元に顔を埋めた。小さな痛みが走って反射的に肩が跳ねるが、シュカはルクシウスの頭を抱えて痛みに耐える。
 宥めるつもりなのか、ルクシウスが這わせた手のひらが乳首を掠めた瞬間、走り抜けた何とも言えない感覚がさっきよりも大きくシュカの肩を跳ねさせた。
 上目遣いでシュカを見上げるルクシウスと視線が絡む。肌を吸われながら見つめられるなんて恥ずかしいが、それ以上に刺激を受けて硬くなってしまった乳首が恥ずかしくて死にそうになる。
「く、くすぐったいから、触っちゃ嫌です…」
 くすぐったいだけではなかったけれど、それを素直に口にするほうがもっと恥ずかしい。
 ルクシウスは、さらにもうひとつシュカの肌にキスマークを残してから顔を離した。
 シンクに背中をくっつけたまましゃがみ込みそうになったシュカの腕を引っ張って椅子に座らせたルクシウスが手際良く服を戻してくれる。
 身体が熱い。特に下腹部がむずついてしまって、シュカは膝を擦り合わせてそこを隠した。ボタンを留めながらも見つめてくるルクシウスのブルーグレーの瞳は熱っぽくて、もっと触れてほしい、ルクシウスの好きにしてほしいと言ってしまいたくなる。
 暗い帰り道を並んで歩く間も二人の間に会話らしい会話はなく、どことなく気まずい空気が漂っていた。それでも繋いでくれた手のあたたかさがシュカの心を勇気付ける。
「ルクシウスさん…」
「ん?」
「僕…その…はしたなくて、ごめんなさい」
「どこが?」
 心底わからないと言いたげな顔をするルクシウスに、シュカもきょとんと瞬きをする。
「だ、だって…いっぱいキスしてほしいとか、今日だってキスマーク付けたりだとか…」
 本当はもっとたくさん触ってほしかったし、前のようにむずむずする場所を触ってほしいとまで考えてしまった。シュカ自身はそれがはしたないと思っているのだが、ルクシウスは違うのか。
「恋人からそういうふうに求められたら、男としては嬉しいだけだよ」
「そう、なんですか?」
「シュカは、私が君にキスをしたり触れたりすることをはしたないと思うかい?」
「思いません。ルクシウスさんに触れてもらえるのは嬉しいから。…あ」
 好きだから触れたい、ただそれだけだったのだと気付いたシュカは眉を下げて笑ってしまった。こんな単純なことがどうしてわからなかったのだろう。
 でも仕方ない。全部が初めてなのだから。
 告白されたのも、付き合うのも、唇同士のキスも、切なくて泣いたのも、指輪を贈られたのも、こんなに人を好きになったのも、全部ルクシウスが初めてだ。
 これからの人生のすべてを共に分かち合いたいと思える人は、ルクシウスが最初で最後。そんな確信がシュカの中で大きく膨らんでいく。不安なんて全部掻き消えて、いっそ清々しい気分だ。
 ここが外だとか、暗いけれど誰かがいるかもしれないとわかっていてもルクシウスとキスをしたくてたまらなくなって、シュカは繋いだルクシウスの手を引っ張る。夜道を照らす蒼白い月光の中、濃さを増したブルーグレーの瞳がシュカを見つめた。
「君にキスをしたいんだが、いいかな」
「っ、僕も、同じことを考えてました」
 立ち止まって、見つめ合って、ルクシウスが少し屈むのを待ちながら目を閉じる。深くはできなかったけれど、それでも充分に心が満たされるキスだった。
「また明日」
「はい、また明日。おやすみなさい、ルクシウスさん」
「おやすみ、シュカ」
 借りていたマフラーをルクシウスにかけるふりをして背伸びをしたシュカは、掠めるように恋人の頬にキスをした。驚いた顔のルクシウスについつい笑いが込み上げてしまう。
「ルクシウスさんって可愛いですね」
「私にそんなことを言うのは君だけだよ」
「僕だけでなくちゃ嫌です」
 今までは言いにくかった独占欲だって、ルクシウスはちゃんと受け止めてくれる。そう確信しているとおり、彼は笑みを浮かべて頷いた。
 帰っていく後ろ姿を見えなくなるまで見つめてから家に入り、シュカは両親にただいまと告げる。
「おかえりなさい、シュカ。寒かったでしょ、お風呂に入っちゃいなさい」
「ありがとう」
 テキパキと食器を片付ける母の向こう側で、珍しく父がシンクに立っていた。洗い物をしている手付きはどこか危なっかしい。
「最近、急に手伝ってくれるようになったのよ」
「そうなの?」
「シュカがルクシウスさんのところで夕食を済ませるようになったから、寂しいんじゃないかしら」
 言われてみれば、ルクシウスと付き合いはじめてから両親と一緒に夕食を食べる回数は激減していた。
 遅くまで仕事をすることが多い父を無理に起こすことはなく朝食は母と二人で済ますことが多いし、昼は学校で食べる。最後に家族全員で食卓を囲んだのがいつだったか、すぐには思い出せない。
「気にしなくてもいいのよ、シュカ。好きな人ができたら家族よりもそっちが優先になってしまうのは、私も同じだったもの」
「お母さん…」
「ルクシウスさんがシュカのことを大切にしてくれる人で良かったわ」
 母の笑みに涙が滲みそうになる。
 息子が同性の恋人を作ったなんて普通だったら簡単には受け入れてもらえないことを、母は何の抵抗もなく受け入れてくれた。それどころか応援するように気遣ってくれて、たぶんいろいろなことに目を瞑ってくれてもいるのだろう。
 シュカは腕を伸ばして母に抱き付いた。
「僕のお母さんになってくれてありがとう」
「あらあら、まあ、急にどうしたの」
「ううん、何でもない。でも今、どうしても言っておきたかったんだ」
 同じように涙ぐんだ母と親愛の抱擁を交わしてから、シュカは着替えを持って浴室へと向かった。
 手早く洗った身体を湯船であたためて解した後、部屋から隠し持ってきた青いガラス瓶の蓋を開ける。花と草と木の皮を混ぜたような独特な甘い香りがふわりと立ち上って湯気に混ざり、柔らかく溶けて浴室に広がった。
 軟膏を掬った指を軽く握り込んだまま腰を辿って位置を探る。
「っ…」
 指先の熱を吸って蕩けた軟膏を自分の手で塗り付けるという行為に気まずさと恥ずかしさが膨らむが、これもすべてルクシウスとの関係を深めるためだと思って我慢した。
 身体から力を抜くことを意識して深呼吸をする。軟膏を纏った指先で何度もそこを撫でて馴染んだところで思い切って指先を立ててみると、抵抗はあったものの、指はぬるりとシュカの中に入った。むず痒さのような違和感と異物感しかない。
 意図せず力が入った途端、いとも容易く指は追い出されてしまった。
 第一関節までが入った程度でも違和感は酷く、こんなことで本当にルクシウスとそういう行為ができるのかと改めて疑問が湧く。だがアッシュとジークフリートはなんて考えて、ますます困惑してしまった。
 シュカは念の為にもう一度だけ指先をそこに含ませ、今度は押し出されないように指に少し力を入れてその状態を維持する。
 それほど強い痛みはない。ただ、やはりくすぐったいようなむず痒いような感覚だけがある。アッシュが言っていたとおり、指三本が奥まで入るようにならないと快感は得られないのかもしれない。
 僅かに落ち込んだ気分になりながらも、シュカは本番で気持ち良くなれなくても、せめて痛くてできないと言わないようになれたらそれでいいと思うことにした。
 充分慣らしても痛いとアッシュは言っていたし、こんな狭いところに入れるのだから痛むのは当たり前だ。とは言え、ルクシウスの気分が萎えてしまう展開には絶対にしたくない。少しくらい痛くてもいいからルクシウスと繋がりたいと思う気持ちのほうが勝って、シュカは自分の中にほんの僅かだけ入り込んだ指先を動かした。
 自分の指で自分の内側をくすぐっているという事実を考えないように意識を逸らしながら、ゆっくりと指を引き抜き、完全に抜けてしまう寸前に押し戻す。
「ふ…ぅ」
 あまり長く風呂にいると怪しまれるかもしれない。シュカは肌に付いた軟膏を流してから湯船に浸かり、肌の表面だけをあたため直して風呂から出た。
 居間にもキッチンにも両親の姿はなかった。二人揃って父の仕事部屋にいるのかもしれない。
 見咎められるとまずいものを持っているシュカは急いで部屋へと駆け込んだ。アッシュからもらったリースはどこに飾ろうかと考えながら本棚の隅にガラスの容器を置いて、代わりにルクシウスからもらった指輪を手に取った。
 深い色のサファイアが遠い星のように小さく輝いている。
「こんなにも好きになれる人に出会えて良かった」
 シュカは指輪にそっと唇を押し当てて、机の上に戻した。
 学校にいる間も着けていられるようになったのも本当に嬉しくて、ルクシウスを傍に感じられる気がして、以前よりも少しだけ自分に自信を持てるようになった気がする。ルクシウスと出会えたから世界がよりいっそう鮮やかに光り輝いたのだと確信できるくらい、毎日が幸せで満たされている。
 夜の女神にも感謝をして、シュカはベッドに潜り込んだ。昼間アッシュと一緒にたっぷりはしゃいだせいですぐに目蓋が重くなる。
 明日からは試験勉強に頭を悩ませる日々がはじまるが、だからと言って悲観的にはならなかった。やれるだけのことをやる。たったそれだけのこと。
 試験の先にあるシュカにとって一番大きな難関でさえ、ルクシウスとなら乗り越えられる。
 何の疑いもなくそう思って口元を緩ませたシュカは穏やかに寝息を立てはじめた。

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「辰巳会の次期跡取りは、俺の息子――辰巳悠真や」 大阪を拠点とする巨大極道組織・辰巳会。その跡取りとして名を告げられたのは、一見するとただの天然ボンボンにしか見えない、超絶美貌の若き御曹司だった。 しかも、現役大学生である。 「え、あの子で大丈夫なんか……?」 幹部たちの不安をよそに、悠真は「ふわふわ天然」な言動を繰り返しながらも、確実に辰巳会を掌握していく。 ――誰もが気づかないうちに。 専属護衛として選ばれたのは、寡黙な武闘派No.1・久我陣。 「命に代えても、お守りします」 そう誓った陣だったが、悠真の"ただの跡取り"とは思えない鋭さに次第に気づき始める。 そして辰巳会の跡目争いが激化する中、敵対組織・六波羅会が悠真の命を狙い、抗争の火種が燻り始める―― 「僕、舐められるの得意やねん」 敵の思惑をすべて見透かし、逆に追い詰める悠真の冷徹な手腕。 その圧倒的な"跡取り"としての覚醒を、誰よりも近くで見届けた陣は、次第に自分の心が揺れ動くのを感じていた。 それは忠誠か、それとも―― そして、悠真自身もまた「陣の存在が自分にとって何なのか」を考え始める。 「僕、陣さんおらんと困る。それって、好きってことちゃう?」 最強の天然跡取り × 一途な忠誠心を貫く武闘派護衛。 極道の世界で交差する、戦いと策謀、そして"特別"な感情。 これは、跡取りが"覚醒"し、そして"恋を知る"物語。

過去のやらかしと野営飯

琉斗六
BL
◎あらすじ かつて「指導官ランスロット」は、冒険者見習いだった少年に言った。 「一級になったら、また一緒に冒険しような」 ──その約束を、九年後に本当に果たしに来るやつがいるとは思わなかった。 美形・高スペック・最強格の一級冒険者ユーリイは、かつて教えを受けたランスに執着し、今や完全に「推しのために人生を捧げるモード」突入済み。 それなのに、肝心のランスは四十目前のとほほおっさん。 昔より体力も腰もガタガタで、今は新人指導や野営飯を作る生活に満足していたのに──。 「討伐依頼? サポート指名? 俺、三級なんだが??」 寝床、飯、パンツ、ついでに心まで脱がされる、 執着わんこ攻め × おっさん受けの野営BLファンタジー! ◎その他 この物語は、複数のサイトに投稿されています。

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