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愛を誓うならヤドリギの下で 13
しおりを挟む翌朝、シュカは若干の気まずさを感じながらもルクシウスと一緒に朝日が差し込む小道を歩いていた。
昨夜のことを思い出すと激しい羞恥心に身を焼かれ、転げ回りたい気持ちになってしまう。
顔を上げてはすぐさま視線を逸らす様子からシュカの恥じらいを察したルクシウスは小さく笑うとシュカの手を握った。二人の左手の薬指には銀色の指輪が光っている。
「…ルクシウスさん、大好きです」
「私もシュカが好きだよ」
頬を染めたシュカのほうから指を絡めて手を繋ぎ直すと、ルクシウスはますます笑みを濃くしてシュカの胸をときめかせた。
ルクシウスへの恋心が溢れて止まらない。目を向けるたびに彼を好きになっているのではないかと思いたくなるほどだ。
まだありありと残っている恥ずかしさのせいであまり会話は弾まなかったけれど、図書館の前で別れる間際、ルクシウスは名残惜しそうにシュカの唇を指先で撫でた。その仕草の意味を知っている。
ルクシウスに飛び付きたい衝動を懸命に堪えたシュカは自分からも手を伸ばしてルクシウスの唇を撫でると、「また放課後に」とはにかんだ。
学校の門を潜り、廊下を歩いて教室に入って自分の席に座ったシュカはため息をつく。
「シュカ…具合でも悪いのか?」
今にも机に突っ伏しそうなシュカに声をかけてきたのはアッシュだ。彼は羨ましくなるほど癖のない赤毛を揺らしてシュカの顔を覗き込んでくる。
「ううん、ちょっと考えごと」
「俺で良ければ聞くぞ」
「うん…じゃあ、放課後に」
「わかった」
授業が終わった途端、シュカはアッシュと連れ立って教室を出た。
もうすっかり放課後の定位置になった図書館のエントランス前のベンチに並んで座り、シュカはひと気がないことを何度も確かめてから、話を切り出そうとして口を開いては閉じてを何度も繰り返す。
いくらアッシュが自分とルクシウスの関係を知っているとわかっていても話しにくい内容であることには変わりがない。焦れたアッシュにせっつかれたシュカは、それでもまだ膝の上で指先をもじもじと動かした。
「昨夜はルクシウスさんのところにお泊りさせてもらったんだけど、えっと、その…ルクシウスさんとね…」
「エッチしたのか?」
「ち、違うよっ、未遂だよ!」
思わず言い返してから、からかわれたのだと気付いたシュカは照れ隠しにアッシュに掴みかかる。
笑いながらそれを簡単にいなしたアッシュは、顔を真っ赤にして頬を膨らませるシュカの頭をぐちゃぐちゃに撫で回した。
「悪い悪い。だが、肩の力は抜けただろう?」
「あれ? ほんとだ…」
シュカはきょとんと瞬いてから深呼吸をして頭の中を整える。
口にしづらい話だとわかっているアッシュは今度は急かすことなく黙ったままでいてくれた。
「手で、触ってもらったんだ…」
「前をか?」
「前? …あっ、う、うん…前。と、寝間着の上からだけど、後ろも…」
肌寒いはずなのに頬が熱い。視線をどこに向けていたらいいのかさえわからなくなって、頭の中は軽いパニック状態だ。シュカは膝の上に乗せた手のひらにじんわりと汗をかいているのを感じながら、やや乱れた呼吸を整えることを意識する。
「そ、それでね……まだ続きがあるってことも教えてもらったんだ」
横目で窺うとアッシュは僅かに遠い目をしていた。その頬が赤くなっているのは夕日のせいだけではないかもしれない。
「アッシュ君は、その…最後までしたんだよ、ね?」
「…ああ」
「後ろ、で、だよね?」
「……ああ」
アッシュと同じようにシュカも遠くを見つめる。何となくそうしたい気分になるのは何故だろうか。
鮮やかなオレンジに染まった空を鳥が飛んで行くのが見える。
「僕、ルクシウスさんと…できないかもしれない」
しばしの沈黙のあと、シュカは遠くを見ていた視線を足元に落とした。ゆっくりと夜が迫り出した空気は冷ややかさを増して二人のすぐ傍にまで忍び寄っている。
二人の間に何か問題でも起こったのだろうかとアッシュは表情を強張らせた。
「だってあんなところに、い、入れるって言うんだよ? 無理だよ、入るわけないよ…」
今にも泣きべそをかきそうなシュカを見るアッシュの顔には呆れが浮かんだ。
心配して損したと言いたげなアッシュに気付かず、シュカは子供のように情けない声で無理だと嘆く。
「シュカ、いいか、よーく聞け」
アッシュはシュカの肩に両手をかけて顔を上げさせ、真正面から視線を合わせた。
「確かに初めての時は痛くて死ぬかと思った。だが俺は死んでいないだろう?」
「…うん…」
「ようは慣れだ。そこに異物が入るということに慣れてしまえばいい。シュカ達の場合、本番までには時間がある。その間にシュカが自分で慣らしておけば痛みも最小限で済むはずだ」
「自分、で…っ?」
「わかってる。俺だって自分がとんでもないことを言っているという自覚はある。しかし、だ。経験者として言わせてもらうぞ」
真剣な眼差しで迫るアッシュに、シュカも思わず息を飲む。
とても重要なことを言われるのではないかと否応なく期待が膨らんだ。
「慣れてさえしまえばこっちのものだ!」
何と返していいかわからなかったが、アッシュの勢いに押されたシュカはただただ黙って頷いた。
その後、二人は互いの間に流れる気まずい沈黙に耐え切れずにぽつぽつと会話をしていたが、それもジークフリートが姿を見せたことでお開きとなった。
「また明日な」
「うん。また明日ね」
肩を並べて帰っていく二人を見送るシュカの頭の中では、アッシュから教えられたことが何度も回り続けている。
「自分で慣らす…」
口にしてみるのは簡単だが、実際にはどうすれば良いのだろうか。
寒いはずなのに頬に血が上る。シュカはぶるぶると首を振って頭の中の想像を散らすと、図書館へと足を向けた。ルクシウスの顔を見るのは何となく気まずいけれど会わずにいるなんて考えられない。
返却カウンターにはジアスが座っていた。ちょうど他の来館者の対応をしていた彼はシュカに気付いて軽く手を上げてくれる。
シュカはそんなジアスに向かって小さく頭を下げてから、返却カウンターから垂直の向きで等間隔に並んでいる本棚に目を向けた。ルクシウスは本の整頓をしているのかもしれない。
昨日のことを思い出すと彼の顔を見るのが恥ずかしくて、このままどこかの席に座ってしまおうかとも考えたが、シュカは指輪を左手ごと握り締めると本棚を端から順に覗いて歩く。程なくルクシウスは見つかった。
さっきまでの気まずさなんて一瞬で吹き飛んでしまったシュカはルクシウスの名を呼びながら駆け寄る。
「いらっしゃい、シュカ」
勢い余って胸に飛び込んだシュカをルクシウスは受け止めてくれた。優しく漂うジャスミンの香りに安心する。
人目を気にしてすぐに離れたが、シュカはうっすらと頬を染めたままルクシウスを見上げた。
仕事中の彼はきちんとセットされた髪型も相まって、穏やかで落ち着いた雰囲気を持ったまさに大人という風貌だ。シャツの上にベストを重ねているのもまた憎いくらい似合っている。
そんなルクシウスからされたことを思い出してしまったシュカは頬を真っ赤に染めた。
「シュカ?」
「な、何でもないですっ」
慌てて取り繕ってもルクシウスにはお見通しかもしれない。
ほんのりと微笑を浮かべている彼にちょっとだけ恨みがましい視線を向けつつ、シュカは熱くなってしまった頬に手を当てて冷やした。
「もう少しだけ待っていて」
素直に頷いた頭を撫でられる。
シュカは冷めない頬の熱を持て余しながら席に座り、先に課題を済ませてしまうために鞄を開いた。
進級試験に向けて勉強にも本腰を入れなくてはいけない時期が間近に迫っているのに、今のシュカの頭を悩ませているのはまったく別の問題だ。耳にアッシュの言葉が甦る。
自分で慣らすなんてできるのだろうか。むしろ本当にそんなことに慣れたりできるのか。
いやしかし、アッシュはジークフリートとそういうことをしているはずなのだからと考え込んでしまってペンはちっとも進まない。いつもよりも倍以上の時間をかけて課題を終わらせたシュカは、先ほどの別れ際にアッシュが「いいものを持ってくる」と言い残したことに思いを巡らせる。
いいものとは一体何だろうと散々頭を悩ませたが、結局わからないままだった。
ぼんやりと考えごとに耽っている間に時間は過ぎて閉館時刻が迫る。
シュカは鞄を抱えて、いつもどおり通用口の傍の椅子に座った。あちこちから聞こえる人の足音、本を片付ける音、返却ワゴンが本棚に軽くぶつかる音を聞きながらルクシウスを待つ時間は身体の一部になっているような気がする。
もう二年近くほぼ毎日こうしていれば当たり前かと、くすぐったい気分でシュカは笑った。そして気付く。
ルクシウスとの交際をはじめたばかりの頃は、この椅子に座って彼を待つことにも慣れなくてどことなく気恥ずかしい気持ちになっていたけれど、今ではすっかり違和感はなくなっている。
むしろ、そうするのが当たり前とさえ思っている自分に気が付いて愕然とした。
(慣れるって、こういうことなんだ…)
腹の中にすとんと落ちた考えに希望を見出せた気がした。
アッシュが教えてくれた慣らすという行為は恥ずかしいことに変わりないが、時間をかければ自分にもできるのではないか。ルクシウスだって時間をかけて解すと言っていたし、幸いなことに時間は充分にある。
腹を括ったシュカは何の憂いもなく閉館作業を終えて迎えに来てくれたルクシウスに駆け寄った。
ルクシウスの家までの道を並んで歩きながら、シュカはそわそわと落ち着かない。指輪の嵌まったルクシウスの左手が誘うように揺れているせいだ。
自分から握ってしまおうかと手を伸ばしては怖気付いて引っ込めるのを二回繰り返したところで、ルクシウスが低く喉を鳴らした。
「ほら、手をどうぞ」
「は…はい」
差し出された左手に右手を重ねると、そのままローブのポケットに招き入れられた。途端に手だけではなくて心まであたたかくなる。
ルクシウスを好きになって良かったと思うのがこれで何度目かなんて忘れてしまったけれど、これからも毎日のように彼を好きだと思う瞬間は訪れるのだから気にしないほうが良いかもしれない。
あとひと月半で成人を迎えるとは言え年齢の差を埋められない以上、彼から見たら自分は間違いなくいつまで経っても子供のままだ。
しかし昨夜、ルクシウスはシュカに触れてくれた。ただの子供には絶対にしないことをしてくれた。あれよりもさらに先があることも隠さずに教えてくれたし、そうしたいと望んでいることも告げてくれた。
そしてシュカ自身も、そうしてほしいと願った。
以前にも自分がそう望んでいることを告げてはあったが、昨夜はもっと現実味を帯びた欲求だったと思う。実際に快感を与えられたことで、自分の中にある渇望を見せ付けられた気分だ。
「シュカ」
「はい」
「昨夜のことなんだが…」
「あ、謝ったりしないでくださいね? 謝られたら…しちゃいけないことだったのかなって、やっぱり僕としたくなかったのかなって、変なこと考えちゃいそうで…」
先回りして道を塞ぐなんて悪いことをしているかもしれない。それでもこれから先に進むためには今ここでルクシウスに謝られるわけにはいかなかった。
ポケットの中でルクシウスの手を握り締める。
その手を解いたのはルクシウスのほうからだった。
地面に視線を落としたまま歩みを止めたシュカにつられて立ち止まったルクシウスは、ポケットの中で硬直したシュカの指を掻き分けて指と指を絡める繋ぎ方に変えると、空いている右手でシュカの顎を掬い上げた。
「元より謝るつもりなんてなかったよ」
「…え?」
「君に触れたことを少しも後悔してないと言おうと思っていたんだ。初めてのことできっと怖がらせてしまったけれど、私にはああいった欲があるんだと君に伝えようと考えていたんだよ」
「怖くなんてなかったです! ちょっと…かなり恥ずかしかったけど、ルクシウスさんに触ってもらえて、嬉しかったから」
この先のことを考えるとやはり恥ずかしさでいっぱいになってしまうが、それでもルクシウスに触れてもらいたい。
「僕はルクシウスさんと、ひとつになりたい、です」
消え入りそうな声で訴えると、ルクシウスはブルーグレーの瞳を瞠り、そして嬉しそうに微笑んでくれた。抱き寄せられて頬を寄せた胸からは相変わらずシュカを安心させてくれる涼やかなジャスミンの香りがする。
「ありがとう」
安堵している響きが含まれた声に、シュカは何も言わずに頷いた。
抱擁を解いて、代わりに一度だけ唇同士のキスをしてから帰り道を急ぐ。すっかり夜の色だけになった空には星が輝いていたが、シュカもルクシウスも互いのことしか見えていない様子で視線を交わしていた。
帰宅して、お茶を飲んで、食事をして。楽しくて幸せな時間はあっという間に過ぎていく。
書斎のソファに座って甘い会話を楽しんでいたのに、時間が経つにつれて口数を減らしたシュカはとうとう黙り込んでしまった。今日は自分の家に帰らなくてはいけない。これまでだってそうしてきたのに今日だけはなぜか無性に寂しくて、シュカはルクシウスの肩に額を押し付けたまま動けなくなった。
ここが帰る場所だったら良いのにと、そんな詮無いことを考えてますます切なくなる。
「シュカ…そろそろ」
「…はい」
これ以上遅くなったらルクシウスまで怒られてしまう。
渋々顔を上げたシュカは視線だけをしょんぼりと落としたままルクシウスの膝の上から退こうとしたが、その瞬間を狙ったかのような動きでソファに押し倒された。
「すまない。あと、もう少しだけ」
そう言うと、ルクシウスはシュカにキスをした。シュカもそれを素直に受け止め、促される前に自ら口を開いてルクシウスを誘い入れる。
舌が触れ合い、濡れた音を立てている。すぐに足りなくなる酸素を求めて仔犬みたいな音が鼻から漏れるのが恥ずかしい。
息を乱すシュカの唇を解放したルクシウスの唇がシュカの耳の後ろを探ると、幾度も押し当てられる唇の音が直接聞こえて、背中をぞわぞわと痺れが這い上がってくる。ルクシウスの息遣いすらも耳に吹き込まれて変な気分になりそうだ。
そのまま首筋を辿って鎖骨に行き着いたルクシウスの唇は、硬い骨の上の薄い皮膚を柔く食む。
「んッ」
「跡を付けてもいいかい?」
「あ、と…?」
「そう。キスマークというやつだよ」
いつの間にか制服のシャツのボタンは外され、素肌が晒されている。そこに唇を触れさせた体勢で視線だけを向けてくるルクシウスに、シュカの胸はきゅんと高鳴った。
「付けて、ください。ルクシウスさんのものって、しるし…」
手を伸ばしてルクシウスの頭を抱え込むとすぐに小さな痛みが走る。
思わず背中が強張ったが、ルクシウスの手のひらで胸元を撫でられたシュカは再びソファに身を委ねた。二つ、三つと位置を変えた唇が肌を啄ばむ。
「付いたよ」
顔を上げたルクシウスに促されて視線を向けると、小さな赤色の花びらのような跡が肌の上に咲いていた。
「私にも付けるかい?」
「いいんですか…?」
「もちろんだとも」
頷いたルクシウスはシャツのボタンを外して襟を広げ、シュカが吸いやすいように胸元を晒してくれた。身体を起こしたシュカは戸惑いながらも唇を寄せてルクシウスの鎖骨近くに触れる。
思い切って吸ってみたものの音ばかりが目立ってしまい、確認してみてもやはり跡は付いていなかった。
「空気が入らないようにして強めに吸うんだよ」
「ん…」
唇を尖らせて押し付け、一点だけに集中して吸う。やや音は鳴ってしまったが、薄く赤い痕が付いたのを見てシュカはじわじわと頬を赤くした。これと同じものが自分の肌の上にもあると思うと、恥ずかしくて居たたまれない気分になる。
それと同時に湧き上がる感動に胸を高鳴らせたシュカは、ルクシウスが再度帰宅を促すまで、彼の胸に身を委ねていた。
「…残念だが、本当に時間切れだ」
「はい…」
名残惜しさは消せないけれど、これ以上遅い帰宅になれば、お泊りどころか放課後にルクシウスの家に来ることさえ禁止されてしまうかもしれない。
ルクシウスの手で外されたボタンはルクシウスの手で元のとおりに戻された。制服の襟元を飾るリボンタイもきちんと結ばれて整えられる。
「完全な独り占めじゃないけど、ルクシウスさんと一緒に過ごせて嬉しかったです」
「私こそ、素敵な誕生日プレゼントをたくさんもらえて嬉しかったよ」
ルクシウスに抱き付いたシュカは少し背伸びをして彼の頬にキスをした。
いつの間にか欲張りになっていた自分をルクシウスは絶対に否定しないし拒否もしない。シュカの変化を成長だと受け入れてくれる度量の大きさは、他の人にはないルクシウスの一番の魅力だと思う。
お返しのキスを頬に受けながら、シュカはルクシウスが自分を好きになってくれて良かったとしみじみと考えた。
シュカが知る限りの人の中でもルクシウスは誰よりも優しくて、いつも穏やかで心が広くて、魔術師としても大人としても優秀だ。こんなに素敵な人が自分のような年下の子供をどうして好きになったのか、今までは考えると不安になるばかりだった。
なのに今日はそれが昨日までよりも気にならないのは、恋人としてちゃんとルクシウスから好かれていると自覚できたことで自分に対して少し自信を持てたからかもしれない。
外は寒いからとルクシウスが巻いてくれたストールに鼻先を埋めたシュカは思い切って聞いてみた。
「ルクシウスさんは、どうして僕を好きになってくれたんですか?」
防寒用のローブの裾を僅かに揺らしながら、ルクシウスがちらりとシュカに視線を落とす。
たぶんルクシウスのことだからはぐらかしたりはしないだろうが、何と言われるのかまでは想像できずに緊張が走った。
「はじめはね、珍しいくらい素直な子だと思っただけだったよ」
少しだけ歩く速度を落としたルクシウスは前を向き直して話しはじめた。
シュカも暗い道に視線を向けて、夜闇に足を取られないように気にしながらルクシウスの答えの続きを待つ。
「飽きもせず毎日のように図書館に来ては閉館時間までひたすら魔術について書かれている本を読み続けて、随分と勉強熱心だと感心していたんだ。あの立地だし、着ていた制服でラディアス魔術学校の生徒だとはすぐにわかっていたからね」
「あの頃は魔術について少しでもたくさんのことを知っておきたくて夢中だったんです」
「今でも、だろう?」
指摘されて、間違いないとシュカは頷いた。
「シュカに声をかけたのも、歳はかなり離れているが、先輩には違いないからと思ったからかもしれない。そうだ、私が初めて声をかけた時、君は酷く驚いた顔をしていたね」
「だ、だって…声をかけられるなんて思ってなかったから」
シュカもその日のことは覚えている。
ルクシウスから初めて声をかけられたのは、難しい内容の専門書を理解しようと頭を抱えていた時だった。机の上にシュカが見つけられなかった用語集を置きながら、彼は「わからないことがあったら、いつでも聞きにおいで」と言ってくれたのだ。
まさか声をかけられるとは思っていなくて、シュカは零れ落ちてしまいそうなくらいに目をまん丸にして、驚きすぎてお礼も言えないままだった。
そしてその日からルクシウスはシュカを見つければ何かしら声をかけてくれるようになって、おかげでシュカは本を読むことがますます好きになったし、将来は魔術師になりたいと思っていることも、そのために父と同じ学校に通っていることも話した。
引っ込み思案な性格が嘘のように、ルクシウスには興味のあることや好きなことだけでなく、苦手なことや不安に思っていることも正直に伝えられた。
「一生懸命に自分の気持ちを話してくれるシュカに対して、すぐに好感を抱いたよ。もちろん最初は子供に対して抱く感情しかなかったが、いつの間にかシュカが私に向かって笑ってくれることが嬉しくてたまらなくなっていたんだ」
ルクシウスのローブのポケットの中でくっついている手のひらがじんわりと熱くなっていく。
これ以上聞いてしまったら心臓まで熱くなって焼けてしまうんじゃないかと心配になるほどなのに、シュカはルクシウスがあたたかさを滲ませた声で語ってくれる話の続きを聞きたくて仕方がなかった。
「君の笑顔はとても明るくて、見ている私まで幸せな気持ちになれた。こんなふうに笑ってくれる子が傍にいてくれたら毎日が幸福で満たせるんじゃないかと、そう思った時にはもう、君に恋心を抱いていたんだろうね」
見下ろす瞳があまりにも優しくて、あたたかくて、シュカは胸の奥から湧き上がる切なさに似た愛しさに睫毛を震わせる。
「恋人になれなくても、君の傍にいられるだけでいいと思っていたんだ。歳が離れすぎている上に、男同士だったしね。なのに君は私の告白を気持ち悪がるどころか、受け入れて恋人になってくれた。信じられなくて夢かと思ったくらいだったよ。だから、君のことを精一杯大切にしようと努力した。そしていつか君が私の隣から離れたいと言う日が来ても、笑って見送ろうと真剣に考えていた」
「そんな…っ」
「でも今は、そんなこと考えていないよ」
非難めいた声を上げたシュカの不安を打ち消すほどの強い声が放たれる。
ルクシウスは歩みを止めてシュカを見つめた。風で揺れる下草の漣のような音さえも、今は遠く霞んでいく。
「私は貪欲な人間だと言っただろう? 今でも根底の部分は少しも変わってなんかいないんだ。欲しいと思ったものはどんなことをしてでも手に入れるし、一旦手に入れたものはそう易々と手離したりもしない。人間に対してもそうだよ」
熱の篭った視線に絡め取られて動けなくなったシュカを引き寄せて腕の中に閉じ込めたルクシウスは、夜風で少し冷えた耳に唇が触れるほどの距離で囁いた。
「シュカがどんなに望んだとしても、泣いて嫌がったとしても、どこにも行かせない。君が愛しくてたまらないんだ。だからどうかいつまでも、愚かしいほど君に惹かれている私の傍にいてほしい」
シュカは咄嗟にルクシウスの背中を掻き抱いた。嬉しいと叫ぶ心が震え、熱い感情が涙となって勝手に目尻から零れる。
こんなふうに想ってもらえていたなんて知らなかった。
一年前は彼の気持ちを信じきれなくて責めたことすらあったのに。
強く抱き締めてくれる腕の中で、シュカはルクシウスへの気持ちがさらに大きく膨らむのを感じた。
「傍にいます。ずっと、ずっと、いつまでも僕はルクシウスさんと一緒にいます」
涙と共に溢れた言葉ごと苦しいくらいに抱き締められ、それでももっと隙間なく重なりたいと願う気持ちが止められない。
頬に溢れる涙を拭ったルクシウスの唇が重なって涙の味が口に広がる。
「早く君を私のものにしたい」
直球すぎる言葉にだって、シュカは羞恥よりも喜びを感じた。行為に対する恐れさえも吹き飛ぶくらいにルクシウスが欲しいと心から焦がれる。
自分の誕生日をこんなにも待ち遠しく感じたことなんて一度もなかった。
「誕生日が来たら、全部あげます。僕のことルクシウスさんのものにしてください。その代わり…ルクシウスさんのことも全部、僕にください」
「もちろんだよ。というより、もうとっくに私は君の虜だけれどね」
ルクシウスの言葉に、シュカはほんのりと頬を染めて微笑んだ。
予定よりも少し遅くなってしまった帰宅を母は怒らなかったどころか、お茶だけでもと微笑んでルクシウスを家に招き入れる。即席のお茶会に父も同席することになり、シュカはルクシウスの隣で熱いカフェオレに息を吹きかけた。
「イーサン、仕事のほうは順調かい」
「まあ…おかげさまで」
かつて先輩と後輩だった二人の仲は相変わらずのようだ。
二人の会話はそれ以上盛り上がるはずもなく、話題は数日後に迫った収穫祭のことに切り替わる。
「今年も図書館では何か催し物を?」
「ああ。シュカが当日までの楽しみにしておくと言ったから内容は教えられないが、今年も用意しているよ」
「それは楽しみね、シュカ」
「うん!」
頷きながらも、やはり去年と同じようにお泊りは無理かもしれないと考えて少しだけ落胆するシュカの気持ちを見透かしたかのように、ルクシウスがプラチナブロンドの髪に手を伸ばした。
「準備は滞りなく進んでいるから、いつものように泊まりにおいで」
「いいんですか? 僕が行っても邪魔じゃないですか?」
「邪魔なものか。シュカがいてくれたほうが、私は嬉しいよ」
「じゃあ…いつもどおり、お泊りさせてもらいますね」
シュカは両親の目の前だということも忘れてルクシウスに抱き付いた。
一緒にいられる時間は一秒だって長くあってほしい。ルクシウスもそう思ってくれているのかと思うと、どうしても頬が勝手に緩んでしまう。
イーサンが咳払いをしたことでようやく両親の視線に気付いたシュカはルクシウスから離れ、眉間に薄く縦皺を刻んでいる父に取り繕うように笑いかけた。
「そういえばルクシウスさんも指輪を着けるようになったんですのね」
目敏い母はたぶん早いうちからルクシウスの左手の指輪に気が付いていたのだろう。シュカはルクシウスが何と答えるのか気になって、彼の横顔を盗み見た。
「急ぎで用意したものだからシュカに渡した指輪とデザインが違ってしまったが、結婚指輪はちゃんと揃えるつもりでいるよ」
「えっ!」
つい、シュカは声を上げていた。
宝飾品がそんなに安いものじゃないことくらいシュカだって当然知っている。特注ならなおさらだ。
「あ、あの、この指輪だけでも充分です…」
「私がそうしたいんだ。それとも、シュカは揃いの指輪は嫌かい?」
「嫌じゃないです! でも…」
「揃いの指輪で君が私のものだと見せ付けたいんだよ。だから、ね?」
「は、はい…」
結局押し切られる形で頷いたシュカは、早く大人になってルクシウスに少しでも何かを返せるようりなりたいと切に願った。庇護され、与えられるばかりの子供なんて嫌だ。ルクシウスに追いつくには相当の努力が必要だとわかっていてもシュカの決意は揺らがなかった。
それからしばらくしてお茶会はお開きとなり、シュカは玄関先までルクシウスを見送った。気を利かせた母が父を引き止めてくれたおかげで見送りはシュカ一人だけだ。
離れたくない気持ちを必死に押し殺して笑顔を浮かべる。
「また明日、図書館で待っているよ」
「はい。必ず行きます」
「おやすみ、シュカ。いい夢を」
「おやすみなさい。ルクシウスさんも、いい夢を」
軽く抱き寄せられて額にそっと口付けられると、このまま離れたくないと思う気持ちがますます膨らんでしまった。明日になればまた会えるし、ルクシウスを早く帰してあげなくてはと思うのに、今日ここで離れ離れになるのがつらい。
「君が卒業したら一緒に暮らそうか」
ルクシウスは驚いて顔を上げたシュカを見つめて優しく微笑んでいた。ドキドキと鼓動が少しずつ速くなっていく。
「シュカと離れたくないと思ってしまってね」
「ぼ、僕もです…っ。それにルクシウスさんと一緒に暮らせたらいいなって、前から思ってました」
「同じ考えで良かった」
安堵の息を漏らすルクシウスを見上げて、シュカは小さく笑い声を上げた。
「ルクシウスさんってすごいですね。時々、僕の考えてることが全部わかってるんじゃないかって思っちゃうことがあります」
「そういう魔術もあるにはあるが、シュカのことはそんなものに頼らなくてもわかるようになりたいと思っているからね」
「じゃあ、僕もルクシウスさんの考えてることがわかるようになれますか?」
「ああ、そんなのは簡単だよ。私はいつだって君のことばかり考えているんだから」
ルクシウスがあまりにも真剣にそう言うものだから、シュカはじわじわと頬に上ってくる熱を止められない。
「…これ以上ここにいたら、本当に君を浚ってしまいそうだ」
抱擁が解かれると夜風がことさら身に沁みる。
最後に触れるだけのキスを頬に贈り合ってから、シュカは闇に溶けてしまいそうな濃い色のローブの後ろ姿をいつまでも見送った。
無意識に左手を握り締める。ルクシウスは全身で示してくれる愛情に、自分はちゃんと応えられているだろうか。明日学校に行ったら、またアッシュに相談に乗ってもらおうと思いながら、シュカは家の中へと戻った。
***
「アッシュ君はジークフリート先生に愛情表現ってしてる?」
「…大したことは、していないと、思う」
歯切れの悪いアッシュの頬はうっすらと赤く染まる。確かに彼の性格を考えても愛情表現を積極的にするとは考えにくい。
「そっちはシュカのほうが得意分野じゃないか」
「僕?」
「ああ。いつもルクシウスさんに抱き付いたり、甘えたりしているだろう」
「いつもって言われるほどはしてないよ」
「してる」
きっぱりと断言されてシュカは押し黙った。そう言い切られてしまうほどベタベタしているつもりはなかったが、もしそうだとしてもルクシウスが拒む様子はないから気にしなくていいのだろうと結論付ける。
「そうだ、シュカ。昨日話したものを持ってきた」
「ああ、『いいもの』って言ってたやつ?」
頷いたアッシュが鞄から取り出してシュカに押し付けたのは、やや平たい形状のガラス製の容器だった。中身が詰まっているからか手に乗せるとどっしりと重い。
濃い青色のガラスの容器は薬草の成分が変質しないよう日光を遮るための特別なもので、形こそ違っているが父の仕事部屋に並んでいるのを見たことがある。ややくすんだ金色の蓋を開けると、中身はほんのりとしたピンク色が愛らしい印象のクリーム状の何かで、どことなく植物っぽい甘い香りがした。
「これ、なぁに?」
「肌荒れ用の軟膏だ。本来は、な。それをやるから、慣らすのに使うといい」
「あ…ありがとう。……アッシュ君も使ったの?」
「ああ……まあ」
視線を逸らしたアッシュの耳が僅かに赤い。
シュカは辺りを見回してからアッシュとの距離を詰めた。
「ねえ…好きな人とするのって、やっぱり気持ちいい? 最初は痛いって言っていたけど、そのうち痛くなくなるの? どのくらいすれば慣れる? 僕にもちゃんとできるかな?」
矢継ぎ早の質問攻めに耐え切れなくなったのか、さらに顔を赤くしたアッシュは手を伸ばしてシュカの頭を抱え込んだ。
「ルクシウスさんに任せておけば何とかなる」
「どうして言い切れるの? ねえアッシュ君、誤魔化さないで教えてよ」
「俺だって恥ずかしいんだ、これ以上言わせるな!」
声を上げてじゃれ合う二人を通りがかりの来館者が不思議そうな顔で見ていく。
それに気付いてベンチに座り直したシュカとアッシュは互いの顔を見合わせ、同時に吹き出した。一頻り笑って目尻に浮かんだ涙を拭う。
「そこまで心配しなくても、たぶん何とかなる。どうしても不安なら、俺じゃなくてルクシウスさんに相談したほうがいい」
「う、うん…」
大人びた表情を浮かべたアッシュはシュカの髪を掻き混ぜた。
「上手くいくといいな」
心から応援してくれていることが伝わってくるようなアッシュの声色にむずむずとした心地になる。
そんな気持ちを抱えたまま、シュカは仕事を終えたルクシウスと一緒に日の暮れた帰り道を歩いていた。
「何かいいことでもあった?」
「え、どうしてですか?」
「今日はずっと機嫌が良さそうにしているから」
「アッシュ君と仲良くなれて良かったなって改めて考えてたから、そのせいかも…」
シュカは無意識に緩んでいたらしい頬を隠すように手で覆った。
思えばアッシュとの付き合いも一年になる。はじめは近付き難いとさえ思っていた彼とあんな話をするようになるなんて一年前は考えていなかったと、シュカは鞄の奥にしまってあるガラスの容器を思い出しながらまた笑った。
表向きはただの傷薬だが、そういう用途で譲ってもらったなんてルクシウスに知られるわけにはいかない。
そう思えば思うほど鞄が気になってしまい、ミルクティーを飲む間も落ち着かないシュカは鞄にチラチラと何度も視線を向ける。
「シュカ」
「は、はいっ」
「私には言えないような隠し事かい?」
「ち、違いますっ。疚しいことじゃなくて…ちょっと、恥ずかしいことなだけです」
シュカは尻すぼみに言い訳をして視線を落とした。
ルクシウスを不安にさせたいわけではないけれど、この場で打ち明けるには羞恥心が邪魔をする。困りきったシュカは顔を上げてブルーグレーの瞳をおずおずと見つめた。
「クリスマスになったら、ちゃんと話します。それまで待っててもらえませんか?」
そう言ってみたが、今すぐに教えてほしいとルクシウスに言われたら自分はきっと話してしまうだろうとも考えた。
やがてルクシウスは表情を和らげるとカップをそっとテーブルに戻した。
「わかった。クリスマスまで待つよ」
「ごめんなさい、ルクシウスさん」
「そこは、ごめんじゃなくて、ありがとうだろう?」
「…はいっ。ありがとうございます」
気まずい雰囲気を感じずに済んだことで肩を撫で下ろしたシュカは、ルクシウスが用意してくれた夕食を心行くまで味わった。弱火でじっくりと焼き上げた白身魚のムニエルは特に絶品だった。
場所を書斎に移してからもシュカは機嫌良く課題に向き合うことができた。
進級試験が視野に入る時期になってきたせいで授業中も気が抜けないが、わからないところは教師やアッシュに聞いたりして何とか乗り切っているし、それに何より恋人であるルクシウスは教師よりも豊富な知識を持っている。
だからと言って楽をして課題をこなすつもりはない。教科書を捲り、参考書の文字列を辿り、シュカはせっせとノートにペンを走らせる。
「収穫祭の日はアッシュ君と遊びに行きますね」
ノートの余白を埋めながら言うと、書類と向き合っていたルクシウスが僅かに顔を上げた。シュカも顔を上げて彼と目を合わせる。
「おや、ジークフリートは?」
「ジークフリート先生は試験問題を作らなくちゃいけないから、収穫祭の日は一日中学校にいるみたいです。そのせいで、この頃ちょっと機嫌が悪いんだってアッシュ君が言ってました」
「それは気の毒に…」
しみじみと言うルクシウスにシュカは小さく笑ってしまった。
試験まではまだ二ヶ月もあるのに、アッシュと同じ屋敷で暮らしているジークフリートは教師としての公正さを守るため試験問題を作る作業をすべて校内で済ませるつもりらしく、今から奮闘しているのだそうだ。
さらに試験期間中は学校の敷地内にある教師専用の寮で寝泊りしなければいけないようで、そのせいもあってジークフリートの機嫌はやや下向きに突き進んでいる。
今は期末試験の問題作りに頭を悩ませ、さらに冬休みは進級試験の問題作りで時間を奪われるなんて、アッシュを構い倒したいという己の欲望に忠実なジークフリートには耐え難い苦行なのだろう。
それをちゃんと理解しているアッシュはジークフリートを待つため、閉館時刻の間際までシュカと一緒にベンチで過ごすようになった。
「図書館には放課後すぐに来てたんです。でもエントランスのベンチで話すのがすっかり日課になっちゃって」
「人に聞かれたくない話もあるだろうが、それが原因で風邪を引いてしまったらジークフリートにも心配をかけてしまうし、なるべく館内で過ごすようにね」
「わかりました。ルクシウスさんにも心配かけたくないし、明日からはちゃんと館内で過ごします」
「いい子だ」
子供を褒めるような言葉とは裏腹に、ルクシウスは指先でシュカの顎を掬うと唇を寄せる。思わずきつく目を瞑ったシュカの鼻先に柔らかい感触が触れた。
「シュカ、力を抜いて」
「ぁ…」
引き結んだ唇から力を抜くと、重なり合った部分の僅かな隙間からぬるついた感触が入り込んだ。それが器用に口内で動いて背中がぞわぞわと痺れるような刺激を与えてくれることを、もうシュカの身体はしっかりと覚えている。
シュカは腕を上げてルクシウスに抱き付き、自分からもほんの少しだけ舌を伸ばしてみた。鼓膜にまで直接伝わるような水音が恥ずかしいのに、与えられるキスが気持ち良くて離れがたい。
息が苦しくなってきたタイミングで微かに顎を引いて空気を吸い込み、そしてもう一度シュカはルクシウスを求めた。
身体が内側から熱くなって、心臓が大きく音を立てている。しかしその熱が形になる前にルクシウスはシュカを解放した。唾液で濡れた唇を拭われながらもシュカはぼんやりとしてしまう。
「名残惜しいが、そろそろ君を帰さないとね」
シュカは小さく頷き、でもせめてもう一度だけとルクシウスの頬に唇を寄せた。
丸い月が夜道を並んで歩く二人を見下ろす。夜の女神は今日もどこかで誰かの願いに耳を傾けているのかもしれない。
ルクシウスから夜の女神の話を教えられてから、シュカは図書館でその話が書かれている本を探してみた。見つけたのは子供向けの絵本だった。
艶やかな黒い髪に青紫のドレスを着た美しい夜の女神は、空に夜闇のベールをかけて人々を焼き苦しめる太陽の光と熱を遮り、疲れた人々を眠りへと誘って癒してくれる。
夜空をゆっくりと駆ける月は夜の女神が人々の願い事を覗き込むための水鏡のようなもので、世界中の人々の願いを聞くために光が当たる場所が変わるから満ち欠けをしているように見えるのだと、その本には書いてあった。
なら今夜の丸い月は、この地域の人々の願いを聞くためなのだろう。
シュカはルクシウスの手を彼のローブのポケットの中でそっと握り締める。
(ルクシウスさんと…世界で一番大好きなこの人と、これからもずっと幸せに生きていけますように)
そんな願いを心の中で祈ったシュカはルクシウスの腕に寄り添った。
あっという間に着いてしまったシュカの家の前で「また明日」と囁き合う。離れるのは寂しいけれど、昨日ルクシウスが一緒に暮らそうと言ってくれたことを思い出すだけで前向きになれる気がした。
勝手に緩む頬のまま家に入り、自室に鞄を置いたところでシュカは思い出した。
鞄の奥を探って、アッシュから手渡されたガラスの容器をそっと取って机の上に置く。これを使って慣らすのだと考えると頬が勝手に赤らんでしまい、じたばたとのた打ち回りたいほど恥ずかしくて居たたまれない気分になった。
「シュカ、早くお風呂に入っちゃいなさいね」
「っ、はぁい!」
母の声に肩を跳ねさせたシュカは僅かに逡巡した後、寝間着の合間にガラスの容器を突っ込んだ。
髪と身体を洗ってから、おずおずとガラスの容器の蓋を開ける。妖艶でありながら青みを含んだ花の香りは何となくそういう行為を連想させてシュカの緊張を否応なく高めた。
冷えたクリームはシュカの指先の体温で簡単に溶け、とろとろと指を伝って手のひらに溜まる。花の香りが僅かに強くなった気がした。
シュカは意を決し、それを自分の尻に塗り付ける。
「変な感じ…」
そんなところに自分で触れるという常にない行動のせいか違和感しか感じないし、クリームのおかげで滑りは良くなったが、そこに何かが入るようになるとも思えない。意識して指先でつついてみたが、くすぐったいだけで爪の先端すら入りそうになかった。
シュカはめげそうになる気持ちを首を振って追い払い、クリームの感触がなくなるまでそこをマッサージするように撫で続けた。
「今日は随分と長風呂だったのね」
「う、うん。考え事してたら遅くなっちゃった」
どぎまぎしながら答えると、母は特に不審にも思わなかったようでそれ以上は何も言わなかった。
部屋に戻り、タオルで包むように隠し持ってきたガラスの容器を机に乗せる。隠し場所に困ったシュカは本棚の隅に隙間を作ってそこに置いた。
ここなら少し見ただけでは目立たないし、もし見つかっても肌荒れ用の軟膏だと言い訳すれば大丈夫なはずだ。本来はそういうものだとアッシュも言っていたのだから。
それでも両親に隠し事をするのは心苦しくて、緊張と罪悪感で挙動不審になってしまいそうだった。まだ胸元に残っているルクシウスが付けてくれたキスマークだって気付かれてしまっていないかドキドキしているのに。
シュカはベッドに転がって腰に手を伸ばした。そこよりもさらに奥の部分に意識を向けるとまだ違和感が残っているような気がする。爪の先すらも入らないほど硬く閉じていた場所で本当にルクシウスを受け入れられるのかと不安はどんどん膨らんでしまう。
だからこそ時間をかけて慣らすしかないのだろうとも思い直したシュカは悩ましく息を吐いた。
クリスマスまでに少しでも慣れておかないとルクシウスとひとつになれない。そんなのは嫌だ。あと二ヶ月の間でどこまでやれるかわからないがやるしかない。
決意も新たに身体を起こしたシュカは寝支度を整え、髪をしっかりと乾かしてから夜の女神に祈りを捧げる。それは願いを叶えてもらうためではなく、口にしないと溢れてしまいそうになるルクシウスへの気持ちを宥めるための行為になっていた。
ルクシウスを好きになって良かったと涙さえ浮かびそうになる。
月は優しく腕を伸ばすように蒼白い光を地上に注ぎ、静かに祈るシュカのことを見つめていた。
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