恋人は壁の向こうで歪んだ空を見ていた

みずの こゆき

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プロローグ

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 今の僕の状況をどんなに事細かに説明しても、多分あなたは……いや、誰も理解できない。
 錆びついた鐘の音に追い立てられるように生徒たちが僕の前を通っていく。自転車を押して歩行に合わせる友人。先日のテストについて語り合う男子。昨日最終回を迎えたドラマの俳優トークに華を咲かせる女子。グラウンドには静けさだけが鎮座する。
 今のこの状況を聞くならば僕が学校にいることは火を見るよりも明らかだ。
 あぁ、そういえば自己紹介をしていなかった。
 僕は沙羅敦久だ。……いや、だった。
 「だった」とはどういうことかって?そのままの意味さ。僕はもう死んだ存在。名前なんてあってないようなものだ。
 じゃあ幽霊なのかって?失敬な。僕はまだ死んでない。死んだのは僕の存在だ。
 端的に言う。僕は……壁になった。
 四階建ての校舎の一階。僕はそこにいる。
 ほら、やっぱり首を傾げた。だから言っただろう誰も理解できないと。
 こら、高木。高校生にもなって僕を蹴るんじゃない。
 ……えっと、何の話だ?……あ、そうそう僕が壁であるという話だ。だからといって「つくも神」の類ではない。ヒトだ。ホモサピエンス。
 僕はこの学校の数学教師だった。
 幼いころから数字というものに何かしらを感じていた。数とはとても面白いもので終わりがない。数字について考えているときというのは即ち宇宙の一点になっているといっても過言ではない。僕らは数という媒体のもとに宇宙とつながっているのだ。
 日本語で言うなら不可説不可説転だろうか。日常生活では絶対に使わない単位だ(まぁ兆や京すら使わないのだから当然といえば当然だが)と思う。英語圏だったらグーゴルプレックスなど。ちなみにこれは十のグーゴル乗、つまるところ十の十の百乗乗だったりする。
 まぁ、これだけでもわかるように僕はいわゆる「数字オタク」というものだった。特に「確率」の分野には目がなく、危うく生徒の前でもこのオタク性を示してしまうところだった。
 数字に萌えるというどうしようもない性格は簡単には受け入れてもらえるものではなかった。だけど一人だけ。たった一人だけ、理解を示してくれる人がいた。同じ高校の国語科教師であり、僕の最初で最後の恋人。山本千崎。面白くもない僕の話を、ただじっと聞いていてくれた。
 そういえばあなたは知っているだろうか。物体と物体が通り抜ける確率―例えばあなたが今目の前にある机を叩いたとしてその手が机を(壊さずに)通り抜ける確率―を。もちろん気の遠くなるような数字だ、それは誰だって想像ができるだろう。
 実際には一京の一京分の一。
 さあ今までの話から推測できるだろうが僕がそんな数字を見てただ眺めているだけのはずがなく。放課後、生徒が完全に帰ってから教室で何かに取り憑かれたように(たぶん「数字」に取り憑かれたのだろうが)実験を繰り返していた。
 もちろん千崎は僕のことを応援してくれていた。
 そして早二年。
「敦久くん頑張るね」
 ドンッと鈍い音を立てる張本人に話しかける。
「なんでも積み重ねだよ」
「すごいなぁ……」
 別にすごくもなんともない。僕はただ(いろんな意味で)壁にぶつかっているだけ。どちらかといえばすごいのは千崎の方だと思う。こんな変人な恋人に愛想をつかさずにいるのだから。
「さすがにもうそろそろ凹んでるんじゃない?」
「それは僕?それとも壁?」
「もちろん壁のほうだよ」
「大丈夫、加減はしてる」
 あの日もいつもの調子で挑戦を続けていた。
「でもほんとすごいよ。二十五にもなって……あ、いい意味でね」
「悪かったね、二十五にもなって」
「だからいい意味だってばぁ」
 はいはい、と聞き流す。次が最後の挑戦。
「いけー!かっ飛ばせー!」
「そういうチャレンジじゃないから」
「あれ?そうだっけ?」
 どうやら千崎はこの挑戦の趣旨を覚えていないらしい。
 別に学校を壊してしまうつもりは毛頭ない。
 ただ通り抜けたいだけである。
「やり方に問題があるんじゃない?」
「いや、原子とか分子とか、そういう世界の話だからやり方どうこうでどうにかなるものじゃないと思う」
「ふ~ん……」
 少し体を離して、上半身を反らしてぶつかっていく。
 さっきのように鈍い音はしなかった。
 急に目の前が真っ暗になった。
 視界が回復した時、教室と千崎の姿が見えたので失敗したと思った。
 だけど。
「え、いなくなった⁉」
 千崎が慌て始めた。
 目の前の壁に恋人が消えた。
 それが千崎が目の当たりにした真実。
 何を言ってるんだ、僕はここにいる
 そう言おうと思ったが、声は出ない。
 千崎は壁の向こう側へと僕を探しに行った。僕はそれを目で追い、その異質さに気が付いた。
 視線を変えただけで。その場から動いていないはずなのに、裏に回った千崎が見える。
 自分で言うのもなんだがさすがは数学科、冷静に分析をはじめそして一つの仮説へと行きつく。
 僕は壁と同化してしまった。
 そうすると全てに説明がついてしまう。
 僕が見えなくなった千崎は警察に行方不明と届け出たがもちろん『壁に消えた』という戯言を聞いてくれるはずもなかった。
 そしてその年に千崎は異動となり、僕は一人になってしまった。
 それから十年の歳月が過ぎ。
 僕は壁としての基本的なスキルを習得していた。
 学校内ならばどこへでも移動ができるらしい。授業中の教室も、眠っている校長先生も、スク水に着替える発展途上のJKも……いやいや何でもない。忘れてほしい。また少しだけなら壁を揺らすことができ、変な怪談ができあがってしまった。まぁそれはそれで楽しく、夜中に肝試しに来る生徒たちを怖がらせるのは快感だった。だけど……。
 だけど、時々恋しくなってしまう時がある。
 それが「人間」の体なのか、千崎なのかはわからないが、何かが足りない気がするのだ。
 この十年(栄養も取らずになぜ生きているのかは不明だ)満たされたことなんて一度もなかった。
 そんな中。
 千崎がここに帰ってきた。
 僕は知った僕が恋しかったのは千崎だったと。だって、もし人間の体が戻ってもこんなに高揚感を覚えることはなかっただろうから。
 放課後。
 彼女はあの教室にやってきた。
 僕が消えてしまったあの場所に。
「ねぇ、敦久」
 今はもういない恋人に語りかける。
「あなたのせいだからね。どこの学校に行ったって私……全然楽しくなかったんだから。心から楽しいって思えなかったんだから……ばか」
 すねた子供のように唇を尖らせる。
 35とは思えない華奢な容姿は、不思議とそのしぐさに馴染んでいた。
 つい僕は壁を揺らしてしまう。
「敦久っ……⁉」
 ビクッと体を震わせる。怖がらせてしまっただろうか。
 だが千崎はしゃがみこんで僕に体を預けてきた。
「敦久……。あなたはどんな十年だったの?私にも聞かせてよ。あなたの物語を……」
 あぁ、聞かせてあげるよ
 この十年。君のいなかった十年。
 何があったのか……。
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