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第〇章 刀の巻 プロローグ
0-00 黑竜&私刑者&くそみたいな世界
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「俺は今、何をしているのだろう?」
けたたましい金属音とともに、機体が大きく揺さぶられた瞬間、多くの乗客が同じような思いを抱いただろう。
信じられない光景が目の前に広がった。客室乗務員の身体がふわりと浮き上がり、次の瞬間には天井に激突し、人形のように落下して通路に横倒しになっている。悲鳴が、客席全体を震わせた。
人影と手荷物が重力から解放され、天井に叩きつけ、収納棚を破壊する轟音が響き渡る。飛び散った何かの破片が座席に赤い染みを作り、隣の女の子は悲鳴を押し殺すように両手で頭を抱え込んだ。
騒然とした機械音をかき消すように、機長の声がスピーカーから流れた。「落ち着いてください!緊急事態です。安全ベルトをしっかりと締めてください!」しかし、その声は虚しく、既に手遅れだった。
突如、機内の照明が消え、漆黒の闇が全てを包み込んだ。直後、機体が引き裂かれるような鋭い破裂音が鼓膜を貫いた。機体の破片、乗客の手荷物、そして人々自身が、制御不能な力によって機外へと放り出され、悲鳴は遠い空に吸い込まれていく。
何が起こったのか理解できないまま、ただ体が無重力空間に放り出されたように感じた。激しい衝撃が身体を打ち付け、意識が途絶えた者もいるだろう。機体の断片から投げ出される瞬間を、恐怖で見つめた者もいるかもしれない。ただひたすら下へと落ちていく己を見つめ、心の中で大切な人たちの顔を思い浮かべた者もいたはずだ。
その時、信じがたい光景が彼らの目に飛び込んできた。まるでファンタジー小説から抜け出したような、巨大な黒い影。それは、翼を持つドラゴンのような異形の化け物だった。化け物は大きく口を開き、機体の亀裂から吹き飛ばされた乗務員や乗客たちを、回転する車輪のように次々と呑み込んでいく。その口内に並ぶ牙は、磨き上げられたロングソードのように鋭く、奥は底なしの闇のように見えた。人々は抵抗する間もなく、吸い込まれるように化け物の口の中へと消えていく。
空中で無様に回転する乗務員たちの身体は、強烈な力によってねじ曲がり、一瞬にして四肢が千切れ飛んだ。それでもなお、化け物の貪欲な口は止まることを知らず、次々と人間を捕食していく。乗客たちは断末魔の叫びを上げ、全身を震わせながら、自らがこの異形なるものの餌食となる運命を悟った。まさに、生き地獄が空に広がっているかのようだった。
俺は、迫り来る邪竜の巨大な口に抗おうと、必死にもがいていた。隣で泣き叫ぶ女の子を強く抱きしめながら、次々と化け物の口に吸い込まれ、肉塊と化していく乗客たちを目の当たりにする。まるで泥船に乗っているように、抗う術もなく、自分もまたあの化け物の餌となるのだろうか。そんな絶望的な予感に全身が支配されていた。
しかし、なぜ俺はこんなことをしているのだろうか、という疑問が唐突に頭をよぎった。この極限状態において、他人を気遣う余裕などあるはずがない。生き残るために必死で戦うべきなのに、どうあがいても助からないという冷徹な現実が突きつけられている。
たとえこの化け物に喰われなかったとしても、あの爆発の衝撃と爆風で、俺もろとも全てが塵のように消え去るだろう。
人生をかけて鍛え上げてきた力も、磨き上げてきた技も、今となっては何の役にも立たない。
人の命も、努力も、こんなにも脆く、あっけなく消え去るものなのか。
乾いた笑いがこみ上げてくる。まるで、悪質な冗談だ。
耳を聾する爆発音。そして、目の前に広がるのは、永遠に続くかのような暗闇だけだった。
時間が完全に停止したような感覚の中で、俺は、走馬灯のように過ぎ去る人生の断片をぼんやりと眺めていた。
くそみたいな世界だ。
………………。
そう、くそみたいな世界だ。
三月中旬。
冬の残り滓が排気ガスに溶け、湿った冷気となって都市の底へ沈殿していた。
ネオンの届かない裏路地へ、一人の男は転がり込むように駆け込んだ。喉の奥が焼け、息は裂けた笛のように掠れている。胸郭が上下するたび、肋の浮きがパーカー越しにわかるほどだった。
年齢は二十代後半。
脱色しきった金髪の根元は黒く伸び、安物のワックスで無理やり立たせた髪型は、夜遊び帰りの軽薄さを隠しきれていない。ブランド風のロゴが入ったパーカーに細身のパンツ、履き潰したスニーカー。どこにでもいる、少し気の荒い都会の若者――そのはずだった。
だが今の彼には、そうした外見を支える余裕が欠片もなかった。
「……っ、はぁ……くそ、ふざけんなよ……!」
肺が焼けるたび、悪態が反射的に零れる。男は唾を飲み込み、喉に貼り付いた乾きを剥がすように息を吸った。
「なんなんだよ……なんなんだアレ……!」
男は振り返った。
路地は暗い。ただ暗いだけだ。人影も動きもない。街灯の明滅が遠くの壁を薄く照らし、濡れたアスファルトだけが鈍く光っている。
それでも男は、確認した直後に走り出した。振り返るという行為が、背中を押した。あそこに「見えていない何か」がいる――そう決めた瞬間、男の脚は勝手に前へ出た。
積み上げられたビールケースを蹴り飛ばした。プラスチックが甲高い音を立て、空き缶が弾け、金属音が壁を跳ね回る。ゴミ袋へ肩から突っ込み、中身を撒き散らした。腐敗した野菜と弁当の残骸が靴底で潰れ、甘酸っぱい腐臭が夜気へ滲む。
「くそ、来るな……来んなって言ってんだろ!!」
命令ではない。懇願だった。
背後を見ない。見た瞬間、何かが確定すると本能が理解している。
遠くでどこかの家の犬が吠え、応じるように別の鳴き声が重なる。屋上から鴉が羽ばたき、空気を裂く音が頭上を横切った。壊れかけた街灯が断続的に瞬き、光と闇が路地を断裁する。
その明滅のたび、距離が縮んでいる気がした。実際に縮んでいるのか、男の耳がそう錯覚しているのか――判断する余裕はない。ただ、背中の皮膚が薄い刃で撫でられるように粟立ち、汗が冷えて首筋へ貼り付いた。
「なんで俺なんだよ……!」
男の足がもつれ、壁へ手をついた。湿ったコンクリートの冷えが掌から腕へ這い上がる。息を吐きながら、唇の端で泡立つ唾を拭った。
「もういいだろ……悪かったって……!」
誰に向けて謝っているのか分かっていない。ただ、生存の条件を必死に探しているだけだった。
逃げて、逃げて、呼吸の回数すら数えられなくなった頃――視界が途切れた。
「……は?」
行き止まり。
雑居ビル同士が押し潰し合うように密着し、逃走経路を完全に封じている。壁の湿り気が、ここが風の逃げ場すらない袋小路だと告げていた。
「嘘だろ……」
男は業務用の鉄扉へ飛びつき、拳を叩きつけた。鈍い金属音が響き、指の骨に痺れが走る。
「開けろ! 誰かいねぇのか!」
反応はない。内部は死んだように静まり返っている。
男はさらに叩き、喉の奥で呻いた。
「警備員くらい置けよクソが!!」
反響した怒鳴り声が自分へ戻り、耳の中で割れた。
振り向くと、非常階段があった。
「……あれだ!」
男は駆け寄りノブを掴んだ。引く。押す。蹴る。金具が鳴り、鉄扉が微動だにしない。
「鍵!? ふざけんなよ!! 何が非常だよ! 全然非常じゃねぇだろ!!」
叫び声が、自分自身に跳ね返る。
逃げ場はない。
そのときだった。
――コツ。
小さな音。
靴底が硬質な地面へ触れたような音が、男の鼓膜を叩いた。
男の呼吸が止まる。
距離も方向も分からない。だが確実に存在する。
――コツ。
もう一度。
音は、近いのか遠いのかすら曖昧だった。耳が距離の計測を拒否している。
男はゆっくり振り返った。
路地入口は闇に沈み、街灯の光すら届かない。
何も見えないのに、“こちらへ来ている”と皮膚が理解していた。
「……やめろ……」
男の膝が震え、背中が壁へ貼り付く。
唇を震わせながら、掠れた息を吐いた。
「来んな……頼むから……」
男は目を凝らす。
暗闇の奥。
そこに――影があるはずなのに、輪郭が定まらない。
人の形に見える瞬間と、そうでない瞬間が交互に現れる。
街灯が一度、強く明滅した。
次の瞬間、音が止んだ。
完全な静止。
男の頭蓋の内側が耳鳴りで満たされ――次の瞬間、背後で湿った呼吸が触れた。
吸う音と吐く音の間隔が噛み合わない。人間の呼吸を真似た何かのようだった。
男の思考が凍りつく。振り向けば終わる。
理由は説明できない。
それでも確信だけがあった。
「……っ……!」
喉から潰れた悲鳴が漏れ、男は反射的に前へ倒れ込んだ。
振り返らない。絶対に見ない。
爪がアスファルトの路面に削れ、血が滲む。膝が擦れて熱を持つ。痛みを感じるより先に、身体は「逃げろ」とだけ命令を出している。
逃げるというより、逃げようとしている動物の動きだった。
「やだ……やだやだやだ……」
声が幼児のように崩れる。
そのとき、視界の端に色が入った。
赤。
男の手が止まる。
目の前。
ほんの一メートル先。小さな靴が揃って立っていた。
赤いエナメル。擦り傷一つない光沢。子ども用のストラップシューズ。サイズは――十代前半、いや、小学生ほど。
ゆっくりと、男の視線が上がる。
だが膝より上へ届く前に、理解が先に追いついた。
「……ぁ……」
男の喉が鳴る。
「……ありえねぇ……」
呼吸が壊れた。
口が勝手に開き、空気だけが出入りする。
「ありえない……ありえないありえないありえない……!」
頭を振る。
視界を否定するように。
「だって……」
言葉が震える。
「死んだだろ……!」
男の唾が飛ぶ。
「俺が……俺がやったんだ……!」
暗い部屋。泣き声。押さえつけた細い腕。動かなくなった身体。
指の感触だけが、今も掌に残っている。
「殺したはずだろォ!!」
絶叫が路地に叩きつけられた瞬間――頭上から、くすり、と笑い声が落ちてきた。
男の身体が硬直する。ゆっくり、ゆっくり視線を上げる。
非常階段。さっき何度引いても開かなかった鉄扉の、その上。
二階部分の踊り場。
暗闇の中に、小さな影が腰掛けていた。
足をぶらぶらと揺らしながら。
赤い靴が、空中で規則正しく揺れる。
顔は影に沈んで見えない。
だが確かに――こちらを見下ろしている。
「……ねぇ」
少女の声。
乾いた夜気に溶けない、不自然なほど澄んだ響き。
「どうして逃げるの?」
男の歯が鳴る。
「わたし、ずっと待ってたのに」
少女の声は乾いた夜気に溶けず、男の耳の内側へ直接滑り込んだ。街灯が瞬き、一瞬だけ折れ曲がった首が露わになる。骨の角度が「あり得ない」と言っているのに、影は平然と揺れている。
次の瞬間、闇が戻る。
同時に背後から声がした。
「――矢板善男君。」
低く、加工された男の声。機械を通した歪みがわずかに混じり、温度だけが不自然に均一だった。
「もう逃げられないよ。」
――人間だ。
矢板の思考がそこへしがみつく。
幽霊ではない。怪異でもない。声帯を持つ、生きた人間。
人間でなければ困る。
震える首を無理やり動かし、矢板は再び非常階段を見上げた。
……いない。
さっきまで確かに座っていた影が消えている。赤い靴も、折れた首も。
空っぽの踊り場。
「……は……?」
喉が乾いた音を立てる。
「な、なんだよ……」
自分に言い聞かせるように呟く。
気のせいだ。
錯覚だ。
極度の緊張による幻視。
心理的ストレスによる知覚異常。
雑学番組で見たことがある。
気のせい気のせい気のせい気のせい気のせい気のせい――「……幽霊なわけねぇだろ……!」
言葉にした瞬間、わずかに呼吸が戻る。
そうだ。人間なら――殴れる。刺せる。壊せる。
「ふ、ふざけんなよ……おい……」
自分の心臓の鼓動が耳の内側で爆発している。
矢板はよろめきながら立ち上がった。
脚が震え、膝が笑う。
それでも――声のした方向へ振り向く。
そこに黒ずくめの男が立っていた。
日本人の平均より明らかに背が高く、細身。だが線の細さとは裏腹に、重心が異様に安定している。黒いコート。黒い手袋。黒い靴。街灯の明滅を受けても輪郭がぼやけ、まるで光を吸収しているようだった。顔の上半分は影に沈み、表情が読めない。
ただ、確実に――矢板を見ている。
男は一歩も近づかない。逃げ道も塞がない。ただ立っている。そして、淡々と口を開いた。
「女子供をいたぶって、殺して」
抑揚のない声。読み上げるように。
「親の力で凄腕弁護士を雇い、証拠を何度も揉み消し」
矢板の喉が鳴る。
「その経緯を酒の席で武勇伝として語る」
一拍。
「――楽しいか?」
宣告だった。裁判記録でも読むような冷静さ。
「て、てめぇ――!」
矢板は吠えた。
怒号というより、恐怖を押し潰すための音だった。
身体が先に動く。理屈も間合いもない。ただ目の前の存在を“殴れば消える”と信じ込もうとして、拳を振り回した。
大振り。
素人丸出しの軌道。
怒りと焦燥だけを乗せた一撃。
だが――当たらない。
黒ずくめの男は動かなかった。
本当に、一歩も。
ただ片手が上がる。
軽く。
まるで道を歩いていて、飛んできた紙屑を払うような動作で。
その指先が、矢板の手首へ触れた。
押さえた、という感覚すらない。
ほんのわずか、力の向きが変わる。
それだけで――矢板の拳は虚空を切り、自分の体勢だけが大きく崩れた。
まるで自分ひとりで滑って転びかけた道化のように。
「……え?」
理解が追いつかない。
次の瞬間。
男の手が、矢板の顔面へ振り下ろされた。
「ひぃいいい――!!」
反射的に目を閉じる。
来る。
叩かれる。
歯が飛ぶ。
そう確信した。
――来ない。
風だけが頬を撫でた。
寸止め。
脳が「助かった」と誤認した、その瞬間。
パンッ!!
逆側から、完璧な角度の平手打ちが炸裂した。
「がっ――!?」
視界が横へ跳ねる。
痛みが遅れて爆発した。
鼓膜が鳴り、歯が軋み、涙が強制的に滲む。
何が起きたか理解する前に――
再び手が動く。
来る。
今度こそ。
だがまた止まる。
フェイント。
脳が反応した瞬間、パンッ!!
逆方向。
さらにもう一発。
「っ、あ、あ……!」
呼吸が崩れる。
思考が追いつかない。
フェイント。
平手。
フェイント。
平手。
予測した瞬間、裏切られる。
右だと思えば左。
来ないと思えば来る。
リズムが読めない。
いや――読ませる気がない。
パンッ。
パンッ。
パンッ。
三連続。
容赦なく頬が打ち抜かれる。
矢板の膝が折れかける。
それでも黒ずくめの男は力を込めていない。
本気ですらない。
ただ――矢板の“反応”だけを正確に狩っていた。
理解が、遅れて追いつく。
これ。
これを。
自分は。
――やっていた。
泣き叫ぶ相手へ。
逃げ場を奪った後。
恐怖を引き延ばすために。
命乞いを聞くために。
自分が上だと確認するために。
儀式のように。
パンッ!!
「ぎゃっ……!」
頬が焼ける。
頭が揺れる。
涙か汗か鼻水か血か、もう区別がつかない。
視界が滲み、呼吸がしゃくり上がる。
される側になると――
こんなにも。
こんなにも痛い。
こんなにも怖い。
こんなにも――惨めなのか。
矢板の脚が完全に震え始めた。
黒ずくめの男は、変わらず同じ位置に立っている。
息も乱れない。
肩も上下しない。
ただ観察するように見下ろしている。
そこに怒りはない。
憎しみすらない。
あるのは――圧倒的な余裕。
捕食者が、逃げ遅れた獲物の反応を確認する時の静けさだった。
矢板は、自分の頬が膨れ上がっているのを感覚だけで理解した。
熱い。
脈打つ。
口の端から唾液が垂れる。
止められない。
呼吸が幼児のように乱れる。
そして初めて――
自分が“狩られる側”に立っていることを、骨の芯で理解した。
「……っ!」
矢板は反射的に周囲を見回す。足元に転がっていたビール瓶を掴んだ。ガラスが掌の汗で滑り、カチカチと情けない音を立てる。
「おい……」
矢板は瓶を突き出す。
「おら……おい……!」
声が裏返る。
「何なんだよ、てめぇ!!」
唾を飛ばしながら叫ぶ。
「くそが……近づいてみろよ!!」
威嚇のつもりだった。
だが瓶を握る腕は、自分でも分かるほど力が入っていない。
黒ずくめの男は動かない。ただ――わずかに首を傾けた。まるで観察しているかのように。
「お、俺は……!」
矢板は叫んだ。
声が裏返り、唾が喉に絡む。
「無罪だぞ!! 証拠不十分! 不起訴処分だ!!」
言葉を吐き出した瞬間、自分の中で何かが戻る。
そうだ。終わっている話だ。警察も。検察も。裁判所も。全部、終わった。
「……法律的で、な。」
黒ずくめの男が静かに答えた。
肯定でも否定でもない。
ただ事実を確認するように。
その一言で、矢板の背中へ別の理解が刺さる。
――私刑。くそ。そういうことか。
怒りが恐怖の上に覆いかぶさる。ふざけんな。一人やった。二人目だって同じだ。女子供か、大人か、関係ない! 三人でも四人でも――やれる。
矢板は震える手に力を込める。ビール瓶を握り直す。震えを止めるため、指が白くなるほど力を入れる。
「なめてんじゃねぇぞ!」
矢板は吠えながら踏み込んだ。腕を振り上げ、黒い影の頭部めがけて振り下ろす。
当たると確信した瞬間、手応えは――ない。
代わりに肘が止まった。何かを掴んだ感触。いや、掴まれた。次の瞬間、関節が本来曲がるはずの方向へ滑らかに折れた。
自分が組み手に協力したかのように、無理に捻られた感覚はない。脱臼の痛みも来ない。ただ、まるで矢板自身が、その動きを選んだように。
「――え?」
だからこそ理解が追いつかない。導かれるまま軌道が変わり、言葉が漏れた直後、矢板の視界が白く弾けた。
ガンッ。
鈍い衝撃が額で鳴り、ビール瓶が矢板自身の頭に叩きつけられていた。まるで自分で自分を殴ったかのように。
「ぐっ……!?」
矢板は一歩よろめき、足がもつれ、壁に肩をぶつける。頭の奥で鐘が鳴り続ける。
焦点の合わない目で前を見ると、黒い男は一歩も動いていなかった。
同じ位置。同じ姿勢。腕すら上げたことがないように。
だが、何も言わないその沈黙が、矢板へ命令のように刺さる。
――来るなら、本気で来い。
矢板の背中を冷たい汗が流れた。手の震えが止まらない。膝も肩も背骨も細かく震え、歯が噛み合わずカチカチ鳴る。
それでも矢板は自分を励ました。
大丈夫だ……ただの油断。偶然。タイミングが悪かっただけ。
今までだってそうだった。全部、うまく切り抜けてきた。金も。コネも。運も。自分は“やれる側”の人間だ。
「あ、あぁ? なめんなよ……て、てめぇ……!」
呼吸を荒くしながら笑おうとする。矢板はビール瓶を壁へ叩きつけた。
ガシャァンッ――!
ガラスが砕け散り、首の残った鋭い破片が凶器へ変わる。
割れた瓶を握り直し、掌に血が滲んでも離さない。血のぬめりが逆に現実味を増し、矢板の頭のどこかが「やれる」と叫ぶ。
だが同時に、矢板の思考は白濁していた。
理解している。これは違う。あの夜とは違う。
泣き叫ぶだけの相手ではない。
抵抗できない小さな身体でもない。
逃げ場を奪われ、許しを乞う存在でもない。
――対等な相手が目の前にいる。
いや。それ以上だ。反撃される。その可能性が、初めて現実として喉元に突きつけられていた。
矢板の胸の奥が締めつけられる。呼吸が浅くなる。
逃げたい。だが逃げられそうもない。
矢板は喉の奥から声を搾り出した。
「ああああああああああああああッ!!」
叫びは勇気ではない。崩れ落ちる理性を無理やり繋ぎ止めるための悲鳴だった。
矢板は走った。全身の力を振り絞り、割れた瓶を突き出す。ガラスの鋭い欠片が肉へ入る感触を想像し、それを確信に変えようとした。
――当たらなかった。
黒い男の輪郭が、街灯の明滅に合わせてわずかにずれる。避けたのかどうか矢板には判別できない。ただ「そこにいるはずの場所」に刃が届かない。
次の瞬間、矢板の手が固まった。
上腕が相手の脇に挟まれているだけ。力は感じない。締め上げられてもいない。なのに――動かない。
「……っ、な……」
矢板の足裏が地面から離れる。自分の突進の勢いが、そのまま円を描く。腕を支点に世界が回転する。「投げられた」と理解する前に、自分自身の運動量が、そのまま自分へ返ってきた。
ドンッ――!!
胸部へ衝撃。殴られたのではない。男の掌底へぶつかった。
自分の運動量そのものに。
肺から空気が押し出され、矢板の声が潰れる。身体が宙を滑り、次の瞬間、矢板は行き止まりのコンクリート壁へ叩きつけられた。鈍い音が路地へ響く。
「……が……っ!」
視界が跳ねる。光が砕ける。痛みが来る前に、感覚が遅れる。
何が起きたのか。誰にやられたのか。理解が、まったく追いつかない。壁を掴もうとしたが、膝が崩れる。握っていた瓶が指から落ち、乾いた音を立てて転がった。
視界の端で、黒い男がまだ同じ場所に立っているのが見える。一歩も動いていない。自分との距離すら変わっていない。
ただ、そこにいる。
矢板の呼吸が浅くなる。
吸っているのか、吐いているのか分からない。
音が遠ざかる。自分の鼓動だけが、水の底から響くように鈍く反響していた。街灯の明滅が引き延ばされ、光は線となり、滲み、ゆっくりと闇へ溶けていく。
「て、てめぇら……一体……誰だ……」
声にならない声だった。
唾を吐こうとして咳き込み、喉の奥に鉄の味が広がる。温かい液体が舌の裏を伝い、現実だけが不快なほど鮮明だった。
返事はない。
代わりに――
非常階段の上。
赤い靴が、ぶらりと揺れている。
音もなく。
重力すら曖昧な動きで。
……くすり。
笑い声が落ちてきた。
空気を震わせない。 耳から聞こえたのではない。
頭蓋の内側で、直接鳴った。
矢板の視界が崩れる。街灯の光が引き裂かれ、線となり、夜の輪郭そのものが溶解していく。
最後に見えたのは――
黒ずくめの男の輪郭。
そして、その背後で揺れ続ける赤い靴。
本来、同じ場所に存在してはならない二つのものが、何の矛盾もなく同じ夜に立っている光景だった。
「……やりすぎ。いつものことだけど。」
少女の声。
すぐ近くで囁かれた気がしたのに、姿は見えない。
黒ずくめの男は答えない。
沈黙だけが、肯定のようにそこにあった。
……何……言ってんだ……こいつ……ら……。
思考が言葉になる前に崩れ落ちる。
暗闇が下からではなく、内側から満ちてきた。
矢板の意識は、その底の見えない闇へ――音もなく沈んでいった。
けたたましい金属音とともに、機体が大きく揺さぶられた瞬間、多くの乗客が同じような思いを抱いただろう。
信じられない光景が目の前に広がった。客室乗務員の身体がふわりと浮き上がり、次の瞬間には天井に激突し、人形のように落下して通路に横倒しになっている。悲鳴が、客席全体を震わせた。
人影と手荷物が重力から解放され、天井に叩きつけ、収納棚を破壊する轟音が響き渡る。飛び散った何かの破片が座席に赤い染みを作り、隣の女の子は悲鳴を押し殺すように両手で頭を抱え込んだ。
騒然とした機械音をかき消すように、機長の声がスピーカーから流れた。「落ち着いてください!緊急事態です。安全ベルトをしっかりと締めてください!」しかし、その声は虚しく、既に手遅れだった。
突如、機内の照明が消え、漆黒の闇が全てを包み込んだ。直後、機体が引き裂かれるような鋭い破裂音が鼓膜を貫いた。機体の破片、乗客の手荷物、そして人々自身が、制御不能な力によって機外へと放り出され、悲鳴は遠い空に吸い込まれていく。
何が起こったのか理解できないまま、ただ体が無重力空間に放り出されたように感じた。激しい衝撃が身体を打ち付け、意識が途絶えた者もいるだろう。機体の断片から投げ出される瞬間を、恐怖で見つめた者もいるかもしれない。ただひたすら下へと落ちていく己を見つめ、心の中で大切な人たちの顔を思い浮かべた者もいたはずだ。
その時、信じがたい光景が彼らの目に飛び込んできた。まるでファンタジー小説から抜け出したような、巨大な黒い影。それは、翼を持つドラゴンのような異形の化け物だった。化け物は大きく口を開き、機体の亀裂から吹き飛ばされた乗務員や乗客たちを、回転する車輪のように次々と呑み込んでいく。その口内に並ぶ牙は、磨き上げられたロングソードのように鋭く、奥は底なしの闇のように見えた。人々は抵抗する間もなく、吸い込まれるように化け物の口の中へと消えていく。
空中で無様に回転する乗務員たちの身体は、強烈な力によってねじ曲がり、一瞬にして四肢が千切れ飛んだ。それでもなお、化け物の貪欲な口は止まることを知らず、次々と人間を捕食していく。乗客たちは断末魔の叫びを上げ、全身を震わせながら、自らがこの異形なるものの餌食となる運命を悟った。まさに、生き地獄が空に広がっているかのようだった。
俺は、迫り来る邪竜の巨大な口に抗おうと、必死にもがいていた。隣で泣き叫ぶ女の子を強く抱きしめながら、次々と化け物の口に吸い込まれ、肉塊と化していく乗客たちを目の当たりにする。まるで泥船に乗っているように、抗う術もなく、自分もまたあの化け物の餌となるのだろうか。そんな絶望的な予感に全身が支配されていた。
しかし、なぜ俺はこんなことをしているのだろうか、という疑問が唐突に頭をよぎった。この極限状態において、他人を気遣う余裕などあるはずがない。生き残るために必死で戦うべきなのに、どうあがいても助からないという冷徹な現実が突きつけられている。
たとえこの化け物に喰われなかったとしても、あの爆発の衝撃と爆風で、俺もろとも全てが塵のように消え去るだろう。
人生をかけて鍛え上げてきた力も、磨き上げてきた技も、今となっては何の役にも立たない。
人の命も、努力も、こんなにも脆く、あっけなく消え去るものなのか。
乾いた笑いがこみ上げてくる。まるで、悪質な冗談だ。
耳を聾する爆発音。そして、目の前に広がるのは、永遠に続くかのような暗闇だけだった。
時間が完全に停止したような感覚の中で、俺は、走馬灯のように過ぎ去る人生の断片をぼんやりと眺めていた。
くそみたいな世界だ。
………………。
そう、くそみたいな世界だ。
三月中旬。
冬の残り滓が排気ガスに溶け、湿った冷気となって都市の底へ沈殿していた。
ネオンの届かない裏路地へ、一人の男は転がり込むように駆け込んだ。喉の奥が焼け、息は裂けた笛のように掠れている。胸郭が上下するたび、肋の浮きがパーカー越しにわかるほどだった。
年齢は二十代後半。
脱色しきった金髪の根元は黒く伸び、安物のワックスで無理やり立たせた髪型は、夜遊び帰りの軽薄さを隠しきれていない。ブランド風のロゴが入ったパーカーに細身のパンツ、履き潰したスニーカー。どこにでもいる、少し気の荒い都会の若者――そのはずだった。
だが今の彼には、そうした外見を支える余裕が欠片もなかった。
「……っ、はぁ……くそ、ふざけんなよ……!」
肺が焼けるたび、悪態が反射的に零れる。男は唾を飲み込み、喉に貼り付いた乾きを剥がすように息を吸った。
「なんなんだよ……なんなんだアレ……!」
男は振り返った。
路地は暗い。ただ暗いだけだ。人影も動きもない。街灯の明滅が遠くの壁を薄く照らし、濡れたアスファルトだけが鈍く光っている。
それでも男は、確認した直後に走り出した。振り返るという行為が、背中を押した。あそこに「見えていない何か」がいる――そう決めた瞬間、男の脚は勝手に前へ出た。
積み上げられたビールケースを蹴り飛ばした。プラスチックが甲高い音を立て、空き缶が弾け、金属音が壁を跳ね回る。ゴミ袋へ肩から突っ込み、中身を撒き散らした。腐敗した野菜と弁当の残骸が靴底で潰れ、甘酸っぱい腐臭が夜気へ滲む。
「くそ、来るな……来んなって言ってんだろ!!」
命令ではない。懇願だった。
背後を見ない。見た瞬間、何かが確定すると本能が理解している。
遠くでどこかの家の犬が吠え、応じるように別の鳴き声が重なる。屋上から鴉が羽ばたき、空気を裂く音が頭上を横切った。壊れかけた街灯が断続的に瞬き、光と闇が路地を断裁する。
その明滅のたび、距離が縮んでいる気がした。実際に縮んでいるのか、男の耳がそう錯覚しているのか――判断する余裕はない。ただ、背中の皮膚が薄い刃で撫でられるように粟立ち、汗が冷えて首筋へ貼り付いた。
「なんで俺なんだよ……!」
男の足がもつれ、壁へ手をついた。湿ったコンクリートの冷えが掌から腕へ這い上がる。息を吐きながら、唇の端で泡立つ唾を拭った。
「もういいだろ……悪かったって……!」
誰に向けて謝っているのか分かっていない。ただ、生存の条件を必死に探しているだけだった。
逃げて、逃げて、呼吸の回数すら数えられなくなった頃――視界が途切れた。
「……は?」
行き止まり。
雑居ビル同士が押し潰し合うように密着し、逃走経路を完全に封じている。壁の湿り気が、ここが風の逃げ場すらない袋小路だと告げていた。
「嘘だろ……」
男は業務用の鉄扉へ飛びつき、拳を叩きつけた。鈍い金属音が響き、指の骨に痺れが走る。
「開けろ! 誰かいねぇのか!」
反応はない。内部は死んだように静まり返っている。
男はさらに叩き、喉の奥で呻いた。
「警備員くらい置けよクソが!!」
反響した怒鳴り声が自分へ戻り、耳の中で割れた。
振り向くと、非常階段があった。
「……あれだ!」
男は駆け寄りノブを掴んだ。引く。押す。蹴る。金具が鳴り、鉄扉が微動だにしない。
「鍵!? ふざけんなよ!! 何が非常だよ! 全然非常じゃねぇだろ!!」
叫び声が、自分自身に跳ね返る。
逃げ場はない。
そのときだった。
――コツ。
小さな音。
靴底が硬質な地面へ触れたような音が、男の鼓膜を叩いた。
男の呼吸が止まる。
距離も方向も分からない。だが確実に存在する。
――コツ。
もう一度。
音は、近いのか遠いのかすら曖昧だった。耳が距離の計測を拒否している。
男はゆっくり振り返った。
路地入口は闇に沈み、街灯の光すら届かない。
何も見えないのに、“こちらへ来ている”と皮膚が理解していた。
「……やめろ……」
男の膝が震え、背中が壁へ貼り付く。
唇を震わせながら、掠れた息を吐いた。
「来んな……頼むから……」
男は目を凝らす。
暗闇の奥。
そこに――影があるはずなのに、輪郭が定まらない。
人の形に見える瞬間と、そうでない瞬間が交互に現れる。
街灯が一度、強く明滅した。
次の瞬間、音が止んだ。
完全な静止。
男の頭蓋の内側が耳鳴りで満たされ――次の瞬間、背後で湿った呼吸が触れた。
吸う音と吐く音の間隔が噛み合わない。人間の呼吸を真似た何かのようだった。
男の思考が凍りつく。振り向けば終わる。
理由は説明できない。
それでも確信だけがあった。
「……っ……!」
喉から潰れた悲鳴が漏れ、男は反射的に前へ倒れ込んだ。
振り返らない。絶対に見ない。
爪がアスファルトの路面に削れ、血が滲む。膝が擦れて熱を持つ。痛みを感じるより先に、身体は「逃げろ」とだけ命令を出している。
逃げるというより、逃げようとしている動物の動きだった。
「やだ……やだやだやだ……」
声が幼児のように崩れる。
そのとき、視界の端に色が入った。
赤。
男の手が止まる。
目の前。
ほんの一メートル先。小さな靴が揃って立っていた。
赤いエナメル。擦り傷一つない光沢。子ども用のストラップシューズ。サイズは――十代前半、いや、小学生ほど。
ゆっくりと、男の視線が上がる。
だが膝より上へ届く前に、理解が先に追いついた。
「……ぁ……」
男の喉が鳴る。
「……ありえねぇ……」
呼吸が壊れた。
口が勝手に開き、空気だけが出入りする。
「ありえない……ありえないありえないありえない……!」
頭を振る。
視界を否定するように。
「だって……」
言葉が震える。
「死んだだろ……!」
男の唾が飛ぶ。
「俺が……俺がやったんだ……!」
暗い部屋。泣き声。押さえつけた細い腕。動かなくなった身体。
指の感触だけが、今も掌に残っている。
「殺したはずだろォ!!」
絶叫が路地に叩きつけられた瞬間――頭上から、くすり、と笑い声が落ちてきた。
男の身体が硬直する。ゆっくり、ゆっくり視線を上げる。
非常階段。さっき何度引いても開かなかった鉄扉の、その上。
二階部分の踊り場。
暗闇の中に、小さな影が腰掛けていた。
足をぶらぶらと揺らしながら。
赤い靴が、空中で規則正しく揺れる。
顔は影に沈んで見えない。
だが確かに――こちらを見下ろしている。
「……ねぇ」
少女の声。
乾いた夜気に溶けない、不自然なほど澄んだ響き。
「どうして逃げるの?」
男の歯が鳴る。
「わたし、ずっと待ってたのに」
少女の声は乾いた夜気に溶けず、男の耳の内側へ直接滑り込んだ。街灯が瞬き、一瞬だけ折れ曲がった首が露わになる。骨の角度が「あり得ない」と言っているのに、影は平然と揺れている。
次の瞬間、闇が戻る。
同時に背後から声がした。
「――矢板善男君。」
低く、加工された男の声。機械を通した歪みがわずかに混じり、温度だけが不自然に均一だった。
「もう逃げられないよ。」
――人間だ。
矢板の思考がそこへしがみつく。
幽霊ではない。怪異でもない。声帯を持つ、生きた人間。
人間でなければ困る。
震える首を無理やり動かし、矢板は再び非常階段を見上げた。
……いない。
さっきまで確かに座っていた影が消えている。赤い靴も、折れた首も。
空っぽの踊り場。
「……は……?」
喉が乾いた音を立てる。
「な、なんだよ……」
自分に言い聞かせるように呟く。
気のせいだ。
錯覚だ。
極度の緊張による幻視。
心理的ストレスによる知覚異常。
雑学番組で見たことがある。
気のせい気のせい気のせい気のせい気のせい気のせい――「……幽霊なわけねぇだろ……!」
言葉にした瞬間、わずかに呼吸が戻る。
そうだ。人間なら――殴れる。刺せる。壊せる。
「ふ、ふざけんなよ……おい……」
自分の心臓の鼓動が耳の内側で爆発している。
矢板はよろめきながら立ち上がった。
脚が震え、膝が笑う。
それでも――声のした方向へ振り向く。
そこに黒ずくめの男が立っていた。
日本人の平均より明らかに背が高く、細身。だが線の細さとは裏腹に、重心が異様に安定している。黒いコート。黒い手袋。黒い靴。街灯の明滅を受けても輪郭がぼやけ、まるで光を吸収しているようだった。顔の上半分は影に沈み、表情が読めない。
ただ、確実に――矢板を見ている。
男は一歩も近づかない。逃げ道も塞がない。ただ立っている。そして、淡々と口を開いた。
「女子供をいたぶって、殺して」
抑揚のない声。読み上げるように。
「親の力で凄腕弁護士を雇い、証拠を何度も揉み消し」
矢板の喉が鳴る。
「その経緯を酒の席で武勇伝として語る」
一拍。
「――楽しいか?」
宣告だった。裁判記録でも読むような冷静さ。
「て、てめぇ――!」
矢板は吠えた。
怒号というより、恐怖を押し潰すための音だった。
身体が先に動く。理屈も間合いもない。ただ目の前の存在を“殴れば消える”と信じ込もうとして、拳を振り回した。
大振り。
素人丸出しの軌道。
怒りと焦燥だけを乗せた一撃。
だが――当たらない。
黒ずくめの男は動かなかった。
本当に、一歩も。
ただ片手が上がる。
軽く。
まるで道を歩いていて、飛んできた紙屑を払うような動作で。
その指先が、矢板の手首へ触れた。
押さえた、という感覚すらない。
ほんのわずか、力の向きが変わる。
それだけで――矢板の拳は虚空を切り、自分の体勢だけが大きく崩れた。
まるで自分ひとりで滑って転びかけた道化のように。
「……え?」
理解が追いつかない。
次の瞬間。
男の手が、矢板の顔面へ振り下ろされた。
「ひぃいいい――!!」
反射的に目を閉じる。
来る。
叩かれる。
歯が飛ぶ。
そう確信した。
――来ない。
風だけが頬を撫でた。
寸止め。
脳が「助かった」と誤認した、その瞬間。
パンッ!!
逆側から、完璧な角度の平手打ちが炸裂した。
「がっ――!?」
視界が横へ跳ねる。
痛みが遅れて爆発した。
鼓膜が鳴り、歯が軋み、涙が強制的に滲む。
何が起きたか理解する前に――
再び手が動く。
来る。
今度こそ。
だがまた止まる。
フェイント。
脳が反応した瞬間、パンッ!!
逆方向。
さらにもう一発。
「っ、あ、あ……!」
呼吸が崩れる。
思考が追いつかない。
フェイント。
平手。
フェイント。
平手。
予測した瞬間、裏切られる。
右だと思えば左。
来ないと思えば来る。
リズムが読めない。
いや――読ませる気がない。
パンッ。
パンッ。
パンッ。
三連続。
容赦なく頬が打ち抜かれる。
矢板の膝が折れかける。
それでも黒ずくめの男は力を込めていない。
本気ですらない。
ただ――矢板の“反応”だけを正確に狩っていた。
理解が、遅れて追いつく。
これ。
これを。
自分は。
――やっていた。
泣き叫ぶ相手へ。
逃げ場を奪った後。
恐怖を引き延ばすために。
命乞いを聞くために。
自分が上だと確認するために。
儀式のように。
パンッ!!
「ぎゃっ……!」
頬が焼ける。
頭が揺れる。
涙か汗か鼻水か血か、もう区別がつかない。
視界が滲み、呼吸がしゃくり上がる。
される側になると――
こんなにも。
こんなにも痛い。
こんなにも怖い。
こんなにも――惨めなのか。
矢板の脚が完全に震え始めた。
黒ずくめの男は、変わらず同じ位置に立っている。
息も乱れない。
肩も上下しない。
ただ観察するように見下ろしている。
そこに怒りはない。
憎しみすらない。
あるのは――圧倒的な余裕。
捕食者が、逃げ遅れた獲物の反応を確認する時の静けさだった。
矢板は、自分の頬が膨れ上がっているのを感覚だけで理解した。
熱い。
脈打つ。
口の端から唾液が垂れる。
止められない。
呼吸が幼児のように乱れる。
そして初めて――
自分が“狩られる側”に立っていることを、骨の芯で理解した。
「……っ!」
矢板は反射的に周囲を見回す。足元に転がっていたビール瓶を掴んだ。ガラスが掌の汗で滑り、カチカチと情けない音を立てる。
「おい……」
矢板は瓶を突き出す。
「おら……おい……!」
声が裏返る。
「何なんだよ、てめぇ!!」
唾を飛ばしながら叫ぶ。
「くそが……近づいてみろよ!!」
威嚇のつもりだった。
だが瓶を握る腕は、自分でも分かるほど力が入っていない。
黒ずくめの男は動かない。ただ――わずかに首を傾けた。まるで観察しているかのように。
「お、俺は……!」
矢板は叫んだ。
声が裏返り、唾が喉に絡む。
「無罪だぞ!! 証拠不十分! 不起訴処分だ!!」
言葉を吐き出した瞬間、自分の中で何かが戻る。
そうだ。終わっている話だ。警察も。検察も。裁判所も。全部、終わった。
「……法律的で、な。」
黒ずくめの男が静かに答えた。
肯定でも否定でもない。
ただ事実を確認するように。
その一言で、矢板の背中へ別の理解が刺さる。
――私刑。くそ。そういうことか。
怒りが恐怖の上に覆いかぶさる。ふざけんな。一人やった。二人目だって同じだ。女子供か、大人か、関係ない! 三人でも四人でも――やれる。
矢板は震える手に力を込める。ビール瓶を握り直す。震えを止めるため、指が白くなるほど力を入れる。
「なめてんじゃねぇぞ!」
矢板は吠えながら踏み込んだ。腕を振り上げ、黒い影の頭部めがけて振り下ろす。
当たると確信した瞬間、手応えは――ない。
代わりに肘が止まった。何かを掴んだ感触。いや、掴まれた。次の瞬間、関節が本来曲がるはずの方向へ滑らかに折れた。
自分が組み手に協力したかのように、無理に捻られた感覚はない。脱臼の痛みも来ない。ただ、まるで矢板自身が、その動きを選んだように。
「――え?」
だからこそ理解が追いつかない。導かれるまま軌道が変わり、言葉が漏れた直後、矢板の視界が白く弾けた。
ガンッ。
鈍い衝撃が額で鳴り、ビール瓶が矢板自身の頭に叩きつけられていた。まるで自分で自分を殴ったかのように。
「ぐっ……!?」
矢板は一歩よろめき、足がもつれ、壁に肩をぶつける。頭の奥で鐘が鳴り続ける。
焦点の合わない目で前を見ると、黒い男は一歩も動いていなかった。
同じ位置。同じ姿勢。腕すら上げたことがないように。
だが、何も言わないその沈黙が、矢板へ命令のように刺さる。
――来るなら、本気で来い。
矢板の背中を冷たい汗が流れた。手の震えが止まらない。膝も肩も背骨も細かく震え、歯が噛み合わずカチカチ鳴る。
それでも矢板は自分を励ました。
大丈夫だ……ただの油断。偶然。タイミングが悪かっただけ。
今までだってそうだった。全部、うまく切り抜けてきた。金も。コネも。運も。自分は“やれる側”の人間だ。
「あ、あぁ? なめんなよ……て、てめぇ……!」
呼吸を荒くしながら笑おうとする。矢板はビール瓶を壁へ叩きつけた。
ガシャァンッ――!
ガラスが砕け散り、首の残った鋭い破片が凶器へ変わる。
割れた瓶を握り直し、掌に血が滲んでも離さない。血のぬめりが逆に現実味を増し、矢板の頭のどこかが「やれる」と叫ぶ。
だが同時に、矢板の思考は白濁していた。
理解している。これは違う。あの夜とは違う。
泣き叫ぶだけの相手ではない。
抵抗できない小さな身体でもない。
逃げ場を奪われ、許しを乞う存在でもない。
――対等な相手が目の前にいる。
いや。それ以上だ。反撃される。その可能性が、初めて現実として喉元に突きつけられていた。
矢板の胸の奥が締めつけられる。呼吸が浅くなる。
逃げたい。だが逃げられそうもない。
矢板は喉の奥から声を搾り出した。
「ああああああああああああああッ!!」
叫びは勇気ではない。崩れ落ちる理性を無理やり繋ぎ止めるための悲鳴だった。
矢板は走った。全身の力を振り絞り、割れた瓶を突き出す。ガラスの鋭い欠片が肉へ入る感触を想像し、それを確信に変えようとした。
――当たらなかった。
黒い男の輪郭が、街灯の明滅に合わせてわずかにずれる。避けたのかどうか矢板には判別できない。ただ「そこにいるはずの場所」に刃が届かない。
次の瞬間、矢板の手が固まった。
上腕が相手の脇に挟まれているだけ。力は感じない。締め上げられてもいない。なのに――動かない。
「……っ、な……」
矢板の足裏が地面から離れる。自分の突進の勢いが、そのまま円を描く。腕を支点に世界が回転する。「投げられた」と理解する前に、自分自身の運動量が、そのまま自分へ返ってきた。
ドンッ――!!
胸部へ衝撃。殴られたのではない。男の掌底へぶつかった。
自分の運動量そのものに。
肺から空気が押し出され、矢板の声が潰れる。身体が宙を滑り、次の瞬間、矢板は行き止まりのコンクリート壁へ叩きつけられた。鈍い音が路地へ響く。
「……が……っ!」
視界が跳ねる。光が砕ける。痛みが来る前に、感覚が遅れる。
何が起きたのか。誰にやられたのか。理解が、まったく追いつかない。壁を掴もうとしたが、膝が崩れる。握っていた瓶が指から落ち、乾いた音を立てて転がった。
視界の端で、黒い男がまだ同じ場所に立っているのが見える。一歩も動いていない。自分との距離すら変わっていない。
ただ、そこにいる。
矢板の呼吸が浅くなる。
吸っているのか、吐いているのか分からない。
音が遠ざかる。自分の鼓動だけが、水の底から響くように鈍く反響していた。街灯の明滅が引き延ばされ、光は線となり、滲み、ゆっくりと闇へ溶けていく。
「て、てめぇら……一体……誰だ……」
声にならない声だった。
唾を吐こうとして咳き込み、喉の奥に鉄の味が広がる。温かい液体が舌の裏を伝い、現実だけが不快なほど鮮明だった。
返事はない。
代わりに――
非常階段の上。
赤い靴が、ぶらりと揺れている。
音もなく。
重力すら曖昧な動きで。
……くすり。
笑い声が落ちてきた。
空気を震わせない。 耳から聞こえたのではない。
頭蓋の内側で、直接鳴った。
矢板の視界が崩れる。街灯の光が引き裂かれ、線となり、夜の輪郭そのものが溶解していく。
最後に見えたのは――
黒ずくめの男の輪郭。
そして、その背後で揺れ続ける赤い靴。
本来、同じ場所に存在してはならない二つのものが、何の矛盾もなく同じ夜に立っている光景だった。
「……やりすぎ。いつものことだけど。」
少女の声。
すぐ近くで囁かれた気がしたのに、姿は見えない。
黒ずくめの男は答えない。
沈黙だけが、肯定のようにそこにあった。
……何……言ってんだ……こいつ……ら……。
思考が言葉になる前に崩れ落ちる。
暗闇が下からではなく、内側から満ちてきた。
矢板の意識は、その底の見えない闇へ――音もなく沈んでいった。
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