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第〇章 刀の巻 プロローグ
0-01 京成本線
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「先月、○○県で発生した女児誘拐殺害事件をめぐり、証拠不十分として無罪判決を受けていた矢板善男元被告(29)(無職)についてです。矢板元被告はその後行方が分からなくなっていましたが、昨日、○○山中で遺体となって発見されました。
警察によりますと、遺体は登山者が発見し、近くからは身元を示す所持品のほか、矢板元被告が書いたとみられる手記が見つかったということです。
捜査関係者によりますと、その手記には、これまで主張していた『冤罪』とは異なり、事件当日の具体的な行動や犯行内容を詳細に記した記述が含まれていたということです。また、父親の関係先を通じて弁護団が動き、証拠の一部が採用されなかった経緯や、関係者への資金提供を示唆する内容も書かれていたとされています。
さらに、手記には『夢に出てくる』『目を閉じるとあの顔が消えない』『金で消せると思ったが消えなかった』など、精神的に追い詰められていた様子もうかがえる記述が複数確認されているということです。
行きつけの飲食店の関係者は取材に対し、『最近は様子がおかしく、街中で少女を見ると立ち止まり震えていた』『夜中に一人で何かに謝っているようだった』と証言しています。
警察は遺体の状況などから自殺の可能性が高いとみていますが、手記の内容を踏まえ、当時の捜査や裁判過程に不正がなかったかどうかについても改めて確認を進める方針です。
この事件をめぐっては、判決内容や証拠の扱いをめぐり議論が続いていました。警察は手記の真偽や資金の流れについても慎重に調べを進めています。」
……まったく、くそみたいな世界だ。
京成本線の車内は、押し合いへし合いの混雑だった。人々はわずかなスペースに身を寄せ合い、成田空港へと急ぐ旅人や、疲労の色を隠せないサラリーマンたちが互いの体温を感じながら立っている。
「二列に並んでの乗車に、ご協力をお願いします。」
床に書かれているにもかかわらず、乗務員が来ない限り、ほぼ完全に無視されている。
季節外れの厚い帽子をかぶった薄汚いおっさんが、スマホでニュースを見ている。それだけならまだいいが、イヤホンも付けず、誰にでも聞こえる音量で傍若無人に放送を流している。
誰だって注意する気にはならない。これが、この国の日常だ。
次の瞬間、車内アナウンスとドアの警告音が重なり、乗客たちは次々と降りていった。
俺も邪魔にならないよう一歩ホームに下がった。
そのとき、五十代ほどのスーツ姿の男が、不機嫌そうに肘で俺の脇腹を突いてきた。彼は乗客が降り終える前に強引に車内へ押し入り、俺は肩をすくめて一歩よけるしかなかった。再び車内に戻ると、ちょうど優先席の近くに立つ形になった。
すると今度は、買い物袋を提げた白髪交じりの女性が、安物のビニール傘で俺の膝を小突きながら言い放った。
「若いの、優先席はお年寄りのためよ。そこ、どきなさい」
見ると、確かに目の前の席が空いていた。どうやら先ほど降りた乗客の席らしい。俺は低く「すみません」と告げて身を引く。彼女は鼻を鳴らして勝ち誇ったように腰を下ろした。
その正面では、二十代と思しきカップルがぴたりと寄り添い、男が女の太ももを撫でながら大声で話している。
「あのオッサン、ムカつくよな。俺だったら一発で倒せるぜ」
「ほんと?すごーい」
「ボクシング習ってるからな!」
──わざと聞かせるような声量だった。さきほど肘で俺を突いたサラリーマンというと、広げた新聞で自分の領域を誇示し、他人を押しのけても平然としている。
……日本に長く住んでいても、つくづく思う。人間なんて、どこへ行っても同じだ。卑屈で、利己的で、口では綺麗事を並べながら、結局は自分のことしか考えない。海の向こう、南の島の故郷の民風と大差ない。こんな些細なこと、いちいち気にしていたら身が持たない。
十年一日のように変わらぬ東京郊外の景色が窓の外を流れる。だがそれは郷愁を誘うどころか、胸の奥に沈んだ苦い記憶を掘り起こすだけだった。
その風景の中に、幼い日の俺を絶望させた父の姿がよぎる。些細なことで激昂し、家族に怒りをぶつけた男。母は震える手で彼をなだめ、俺たちをかばったが、無駄だった。妹を抱いて物陰に隠れても、暴力の拳は容赦なく降り注いだ。ドアを蹴破り、罵声を浴びせ、母をも殴った。あのときの恐怖は、今も心の底に根を張っている。
母の願いで、忌まわしい父の葬儀に渋々参列することになった。忘れたつもりだった男の顔が、電車の揺れとともに蘇る。抑えてきた怒りが、じわじわと内側から膨れ上がってくる。喧噪と過去が絡み合い、黒い塊となって胸を圧迫した。まるで、ここで過去と向き合えと言われているようだった。
「おい、邪魔なんだよ、お前」
耳を突くような声で、思考が断ち切られた。顔を上げると、脂ぎった中年男が仁王立ちしている。満員電車の圧迫感に加え、男の口臭と汗の臭いが鼻を突く。ねっとりとした体臭が車内に滞留していた。
周囲の乗客たちは露骨に顔をしかめていた。皆、この男の存在そのものを不快に思っているのが明らかだった。汚れたスーツに無数のしわ、猫背の体。陰鬱で不潔なその姿が、息苦しい空間の中心に鎮座している。男はたるんだ瞼を持ち上げ、俺を睨みつけた。
「目障りだ。あっち行け」と吐き捨てる。
その言葉とともに、肘がわざとらしく突き刺さる。周囲の誰もが顔をしかめた。
「……失礼。」
俺は怒りを飲み込み、一歩引いた。だが男の存在は、粘着質な不快感となって肌に張り付く。社会の穢れを凝縮したようなその姿に、嫌悪と怒りが渦巻いた。
――こんな豚を男と呼ぶのは、言葉の冒涜だ。
そう思わずにはいられなかった。
周囲の人々も息を潜めている。先ほど俺を肘で突いたサラリーマンも、傘で叩いた婦人も、カップルも、皆一様に黙り込んだ。
豚野郎は満足げに笑い、脂ぎった体を揺らして俺が避けた場所にずかずかと移動する。「ふん」と鼻を鳴らし、中指を立てて見せた。
「何だよ、文句あんのか?お前ら、あいつが悪いんだろ?陰でコソコソ言ってねぇで、正面から言ってみろや!」
堪忍袋の緒が切れそうだった。だが車内は沈黙の海。誰も反論せず、ただ息を殺していた。俺も怒りを押し殺し、ただ耐える。
その時、子どもを連れた親子が、気まずそうに隣の車両へと逃げていった。
もうすぐ、成田空港だ。この不快な空間も、もうすぐ終わる。そう思いながら、意識を別の方向へ逸らそうとした。
――そのとき、視界に一人の女性が入った。
混雑の中でも際立つ、静謐な美しさ。
隙のないシルエットを包む漆黒のスーツは、彼女の完璧なボディラインを際立たせ、その曲線はため息が出るほど美しい。肩にかかる黒いストレートヘアは、大人の女性らしい落ち着いた色香を漂わせている。左目の下にひっそりと佇む小さな黒子は、その美貌に妖艶なアクセントを加えている。豊満とは言えないまでも、均整の取れた胸元から、引き締まったウエストへと続くラインは、理想的なプロポーションを描き出していた。
誰もが振り返るであろう、息をのむほどの美人だった。
だが次の瞬間、信じられない光景を見た。
豚野郎が、脂ぎった手でスマホを構え、下卑た笑みを浮かべながら、彼女のタイトスカートの裾へゆっくりと指を伸ばしていく。その目には欲望しか映っていなかった。
女性の表情は硬直し、身体が強張っているのが見て取れた。混雑で身動きも取れず、自分が狙われていることにようやく気づいたらしい。周囲の乗客も異変を察し、ざわりと空気が揺れたが、誰も動けなかった。恐怖と嫌悪が混じった沈黙が車内を包む。
耐えてきた怒りが、一気に弾けた。
俺は反射的に動いた。
豚野郎の手首に向かって腕を伸ばし、反応する隙すら与えぬ速度で、骨ごと砕く勢いで掴み上げる。手首の関節が軋む感触が掌に伝わる。豚野郎の顔が驚愕で歪んだ。
「――何してる?お前」
低く、地の底から響くような声が車内に落ちた。一瞬で、周囲の空気が凍りついた。
その直後、アナウンスが流れる。
「まもなく、成田空港第2ターミナル、右側の扉が開きます。」
乗客たちの視線が一点に集まる。女性は硬直したまま後ずさり、震える手でスカートの裾を押さえる。恐怖で声が出ない。だが怯えた瞳が、助けを求めてこちらを捉えていた。
豚野郎は汗を飛ばしながら必死に弁解を呟き、俺の腕を振り払おうともがいた。
「言葉が通じないのか?今、自分が何をしていたのか理解しているのか?」
俺は掴む力をさらに強めた。手首の骨が悲鳴を上げる音がした。
「い、痛てててて!離せ!」
男は鞄を振り回し、荒い息を吐きながら殴りかかってきた。
遅い。
俺は身体を半歩後ろへ引いて拳を空振りさせ、混雑した車内を一瞬だけ見渡した。頭上には吊り革、左右には人の肩と荷物。ここで派手に投げれば、巻き添えになるのは関係のない一般客だ。
――なら、前に飛ばすしかない。
ステップで豚野郎の死角へ回り込み、左肘をねじ込むようにその顔面を、開きかけたドアのほうへと押し込む。頭蓋と金属がぶつかり合う鈍い感触が、肘から肩へと伝わった。
「ぐぉっ……!」
男の巨体がよろめき、上体が前に折れる。その横で非常ボタンが目に入った。俺は迷わず指を伸ばし、赤いボタンを叩き込む。甲高い警報が鳴り響き、周囲の乗客がどよめいた。
扉が開くと同時に、豚野郎の背中に肩を当てる。八極拳の「鷂子穿林(ようしせんりん)」――森を突き抜ける鷹のように、一直線に押し出す動きだ。足裏で床を蹴り、体重ごとぶつける。
「ぶへっ……!」
くぐもった声とともに、巨体がホーム側へと押し飛ばされる。ホームにいた人々が悲鳴を上げて一斉に後ずさった。
「てめぇ!殺す気か、このクソがぁ!」
豚野郎が怒号を上げ、血走った目で突進してきた。顎から涎を垂らし、両腕を振り回しながら距離を詰めてくる。
一歩、踏み込む。
足元を払うと、重心を失った巨体が宙を泳いだ。
同時に、指を鉤爪のように曲げ、喉元を掴む。
気道を潰せる位置――その一歩手前で制御したまま、背後のコンクリート床へ叩き落とした。
鈍い音が、ホームに響く。
一拍遅れて、空気が裂けた。
「きゃっ!」「何あれ!?」「駅員呼んで!」
男女入り混じった悲鳴が連鎖し、ヒールの足音がタタタと逃げていく。スマホを落とす乾いた音、遠巻きに息を呑む気配。ホーム全体がざわりと波打った。
床に転がった豚野郎は、背中を強打したまま白目を剥きかけている。脂肪がクッション代わりになったのか、首は折れていない。元々大概な面構えが、痛みでさらに崩れ、口の端から唾が垂れた。
「……ちく……しょう……」
喉を押さえながらゲホゲホと咳き込み、それでも腕を突っ張って立ち上がろうとする。学習能力ゼロか。
させるか。
ゴキブリは踏み潰すのが一番衛生的だ。股間へ、その勢いで踏み下ろす。
靴底に柔らかい感触が潰れ、骨と肉が押し潰される嫌な手応えが返ってきた。
「ぶぎゃあああああっ!」
断末魔じみた叫びが、駅構内に反響した。
蛍光灯がかすかに震え、電光掲示板の文字が静かに流れ続けている。
車内とホームの全員が凍りついた。女性は蒼白な顔で震えながら俺を見上げていた。強く噛み締めた唇がわずかに震え、握りしめた拳には白く血が引いている。肩で浅い呼吸を繰り返しながら、恐怖と安堵の入り混じった瞳で、ただじっとこちらを見ていた。
痙攣して意識を失った男のスマホを拾い上げ、画面を覗く。
並んでいるのは、無数の盗撮画像。下着、スカートの奥――胃の底が、嫌な具合に捩れた。
革靴を持ち上げる。
もう少しだけ、痛みを刻んでやるか。一生、忘れられない程度には。
「何があったんですか!?」
駅員たちの声が飛び、数人が駆け寄って来た。
……ちっ。
「この男だ。盗撮の現行犯。早く拘束しろ」
スマホを突き出し、豚野郎を引き渡す。
視線を巡らすと、さっき俺を押した男も、傘で叩いた女も、カップルも、誰一人として目を合わせなかった。
俺は何も言わず、ざわめきを背にして、その場を離れた。
警察によりますと、遺体は登山者が発見し、近くからは身元を示す所持品のほか、矢板元被告が書いたとみられる手記が見つかったということです。
捜査関係者によりますと、その手記には、これまで主張していた『冤罪』とは異なり、事件当日の具体的な行動や犯行内容を詳細に記した記述が含まれていたということです。また、父親の関係先を通じて弁護団が動き、証拠の一部が採用されなかった経緯や、関係者への資金提供を示唆する内容も書かれていたとされています。
さらに、手記には『夢に出てくる』『目を閉じるとあの顔が消えない』『金で消せると思ったが消えなかった』など、精神的に追い詰められていた様子もうかがえる記述が複数確認されているということです。
行きつけの飲食店の関係者は取材に対し、『最近は様子がおかしく、街中で少女を見ると立ち止まり震えていた』『夜中に一人で何かに謝っているようだった』と証言しています。
警察は遺体の状況などから自殺の可能性が高いとみていますが、手記の内容を踏まえ、当時の捜査や裁判過程に不正がなかったかどうかについても改めて確認を進める方針です。
この事件をめぐっては、判決内容や証拠の扱いをめぐり議論が続いていました。警察は手記の真偽や資金の流れについても慎重に調べを進めています。」
……まったく、くそみたいな世界だ。
京成本線の車内は、押し合いへし合いの混雑だった。人々はわずかなスペースに身を寄せ合い、成田空港へと急ぐ旅人や、疲労の色を隠せないサラリーマンたちが互いの体温を感じながら立っている。
「二列に並んでの乗車に、ご協力をお願いします。」
床に書かれているにもかかわらず、乗務員が来ない限り、ほぼ完全に無視されている。
季節外れの厚い帽子をかぶった薄汚いおっさんが、スマホでニュースを見ている。それだけならまだいいが、イヤホンも付けず、誰にでも聞こえる音量で傍若無人に放送を流している。
誰だって注意する気にはならない。これが、この国の日常だ。
次の瞬間、車内アナウンスとドアの警告音が重なり、乗客たちは次々と降りていった。
俺も邪魔にならないよう一歩ホームに下がった。
そのとき、五十代ほどのスーツ姿の男が、不機嫌そうに肘で俺の脇腹を突いてきた。彼は乗客が降り終える前に強引に車内へ押し入り、俺は肩をすくめて一歩よけるしかなかった。再び車内に戻ると、ちょうど優先席の近くに立つ形になった。
すると今度は、買い物袋を提げた白髪交じりの女性が、安物のビニール傘で俺の膝を小突きながら言い放った。
「若いの、優先席はお年寄りのためよ。そこ、どきなさい」
見ると、確かに目の前の席が空いていた。どうやら先ほど降りた乗客の席らしい。俺は低く「すみません」と告げて身を引く。彼女は鼻を鳴らして勝ち誇ったように腰を下ろした。
その正面では、二十代と思しきカップルがぴたりと寄り添い、男が女の太ももを撫でながら大声で話している。
「あのオッサン、ムカつくよな。俺だったら一発で倒せるぜ」
「ほんと?すごーい」
「ボクシング習ってるからな!」
──わざと聞かせるような声量だった。さきほど肘で俺を突いたサラリーマンというと、広げた新聞で自分の領域を誇示し、他人を押しのけても平然としている。
……日本に長く住んでいても、つくづく思う。人間なんて、どこへ行っても同じだ。卑屈で、利己的で、口では綺麗事を並べながら、結局は自分のことしか考えない。海の向こう、南の島の故郷の民風と大差ない。こんな些細なこと、いちいち気にしていたら身が持たない。
十年一日のように変わらぬ東京郊外の景色が窓の外を流れる。だがそれは郷愁を誘うどころか、胸の奥に沈んだ苦い記憶を掘り起こすだけだった。
その風景の中に、幼い日の俺を絶望させた父の姿がよぎる。些細なことで激昂し、家族に怒りをぶつけた男。母は震える手で彼をなだめ、俺たちをかばったが、無駄だった。妹を抱いて物陰に隠れても、暴力の拳は容赦なく降り注いだ。ドアを蹴破り、罵声を浴びせ、母をも殴った。あのときの恐怖は、今も心の底に根を張っている。
母の願いで、忌まわしい父の葬儀に渋々参列することになった。忘れたつもりだった男の顔が、電車の揺れとともに蘇る。抑えてきた怒りが、じわじわと内側から膨れ上がってくる。喧噪と過去が絡み合い、黒い塊となって胸を圧迫した。まるで、ここで過去と向き合えと言われているようだった。
「おい、邪魔なんだよ、お前」
耳を突くような声で、思考が断ち切られた。顔を上げると、脂ぎった中年男が仁王立ちしている。満員電車の圧迫感に加え、男の口臭と汗の臭いが鼻を突く。ねっとりとした体臭が車内に滞留していた。
周囲の乗客たちは露骨に顔をしかめていた。皆、この男の存在そのものを不快に思っているのが明らかだった。汚れたスーツに無数のしわ、猫背の体。陰鬱で不潔なその姿が、息苦しい空間の中心に鎮座している。男はたるんだ瞼を持ち上げ、俺を睨みつけた。
「目障りだ。あっち行け」と吐き捨てる。
その言葉とともに、肘がわざとらしく突き刺さる。周囲の誰もが顔をしかめた。
「……失礼。」
俺は怒りを飲み込み、一歩引いた。だが男の存在は、粘着質な不快感となって肌に張り付く。社会の穢れを凝縮したようなその姿に、嫌悪と怒りが渦巻いた。
――こんな豚を男と呼ぶのは、言葉の冒涜だ。
そう思わずにはいられなかった。
周囲の人々も息を潜めている。先ほど俺を肘で突いたサラリーマンも、傘で叩いた婦人も、カップルも、皆一様に黙り込んだ。
豚野郎は満足げに笑い、脂ぎった体を揺らして俺が避けた場所にずかずかと移動する。「ふん」と鼻を鳴らし、中指を立てて見せた。
「何だよ、文句あんのか?お前ら、あいつが悪いんだろ?陰でコソコソ言ってねぇで、正面から言ってみろや!」
堪忍袋の緒が切れそうだった。だが車内は沈黙の海。誰も反論せず、ただ息を殺していた。俺も怒りを押し殺し、ただ耐える。
その時、子どもを連れた親子が、気まずそうに隣の車両へと逃げていった。
もうすぐ、成田空港だ。この不快な空間も、もうすぐ終わる。そう思いながら、意識を別の方向へ逸らそうとした。
――そのとき、視界に一人の女性が入った。
混雑の中でも際立つ、静謐な美しさ。
隙のないシルエットを包む漆黒のスーツは、彼女の完璧なボディラインを際立たせ、その曲線はため息が出るほど美しい。肩にかかる黒いストレートヘアは、大人の女性らしい落ち着いた色香を漂わせている。左目の下にひっそりと佇む小さな黒子は、その美貌に妖艶なアクセントを加えている。豊満とは言えないまでも、均整の取れた胸元から、引き締まったウエストへと続くラインは、理想的なプロポーションを描き出していた。
誰もが振り返るであろう、息をのむほどの美人だった。
だが次の瞬間、信じられない光景を見た。
豚野郎が、脂ぎった手でスマホを構え、下卑た笑みを浮かべながら、彼女のタイトスカートの裾へゆっくりと指を伸ばしていく。その目には欲望しか映っていなかった。
女性の表情は硬直し、身体が強張っているのが見て取れた。混雑で身動きも取れず、自分が狙われていることにようやく気づいたらしい。周囲の乗客も異変を察し、ざわりと空気が揺れたが、誰も動けなかった。恐怖と嫌悪が混じった沈黙が車内を包む。
耐えてきた怒りが、一気に弾けた。
俺は反射的に動いた。
豚野郎の手首に向かって腕を伸ばし、反応する隙すら与えぬ速度で、骨ごと砕く勢いで掴み上げる。手首の関節が軋む感触が掌に伝わる。豚野郎の顔が驚愕で歪んだ。
「――何してる?お前」
低く、地の底から響くような声が車内に落ちた。一瞬で、周囲の空気が凍りついた。
その直後、アナウンスが流れる。
「まもなく、成田空港第2ターミナル、右側の扉が開きます。」
乗客たちの視線が一点に集まる。女性は硬直したまま後ずさり、震える手でスカートの裾を押さえる。恐怖で声が出ない。だが怯えた瞳が、助けを求めてこちらを捉えていた。
豚野郎は汗を飛ばしながら必死に弁解を呟き、俺の腕を振り払おうともがいた。
「言葉が通じないのか?今、自分が何をしていたのか理解しているのか?」
俺は掴む力をさらに強めた。手首の骨が悲鳴を上げる音がした。
「い、痛てててて!離せ!」
男は鞄を振り回し、荒い息を吐きながら殴りかかってきた。
遅い。
俺は身体を半歩後ろへ引いて拳を空振りさせ、混雑した車内を一瞬だけ見渡した。頭上には吊り革、左右には人の肩と荷物。ここで派手に投げれば、巻き添えになるのは関係のない一般客だ。
――なら、前に飛ばすしかない。
ステップで豚野郎の死角へ回り込み、左肘をねじ込むようにその顔面を、開きかけたドアのほうへと押し込む。頭蓋と金属がぶつかり合う鈍い感触が、肘から肩へと伝わった。
「ぐぉっ……!」
男の巨体がよろめき、上体が前に折れる。その横で非常ボタンが目に入った。俺は迷わず指を伸ばし、赤いボタンを叩き込む。甲高い警報が鳴り響き、周囲の乗客がどよめいた。
扉が開くと同時に、豚野郎の背中に肩を当てる。八極拳の「鷂子穿林(ようしせんりん)」――森を突き抜ける鷹のように、一直線に押し出す動きだ。足裏で床を蹴り、体重ごとぶつける。
「ぶへっ……!」
くぐもった声とともに、巨体がホーム側へと押し飛ばされる。ホームにいた人々が悲鳴を上げて一斉に後ずさった。
「てめぇ!殺す気か、このクソがぁ!」
豚野郎が怒号を上げ、血走った目で突進してきた。顎から涎を垂らし、両腕を振り回しながら距離を詰めてくる。
一歩、踏み込む。
足元を払うと、重心を失った巨体が宙を泳いだ。
同時に、指を鉤爪のように曲げ、喉元を掴む。
気道を潰せる位置――その一歩手前で制御したまま、背後のコンクリート床へ叩き落とした。
鈍い音が、ホームに響く。
一拍遅れて、空気が裂けた。
「きゃっ!」「何あれ!?」「駅員呼んで!」
男女入り混じった悲鳴が連鎖し、ヒールの足音がタタタと逃げていく。スマホを落とす乾いた音、遠巻きに息を呑む気配。ホーム全体がざわりと波打った。
床に転がった豚野郎は、背中を強打したまま白目を剥きかけている。脂肪がクッション代わりになったのか、首は折れていない。元々大概な面構えが、痛みでさらに崩れ、口の端から唾が垂れた。
「……ちく……しょう……」
喉を押さえながらゲホゲホと咳き込み、それでも腕を突っ張って立ち上がろうとする。学習能力ゼロか。
させるか。
ゴキブリは踏み潰すのが一番衛生的だ。股間へ、その勢いで踏み下ろす。
靴底に柔らかい感触が潰れ、骨と肉が押し潰される嫌な手応えが返ってきた。
「ぶぎゃあああああっ!」
断末魔じみた叫びが、駅構内に反響した。
蛍光灯がかすかに震え、電光掲示板の文字が静かに流れ続けている。
車内とホームの全員が凍りついた。女性は蒼白な顔で震えながら俺を見上げていた。強く噛み締めた唇がわずかに震え、握りしめた拳には白く血が引いている。肩で浅い呼吸を繰り返しながら、恐怖と安堵の入り混じった瞳で、ただじっとこちらを見ていた。
痙攣して意識を失った男のスマホを拾い上げ、画面を覗く。
並んでいるのは、無数の盗撮画像。下着、スカートの奥――胃の底が、嫌な具合に捩れた。
革靴を持ち上げる。
もう少しだけ、痛みを刻んでやるか。一生、忘れられない程度には。
「何があったんですか!?」
駅員たちの声が飛び、数人が駆け寄って来た。
……ちっ。
「この男だ。盗撮の現行犯。早く拘束しろ」
スマホを突き出し、豚野郎を引き渡す。
視線を巡らすと、さっき俺を押した男も、傘で叩いた女も、カップルも、誰一人として目を合わせなかった。
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