クラムレンリ 嫩葉散雪

現 現世

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20話 look at me

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 体に力が入らない。浮遊感に包まれ、真っ白な空間を揺蕩う。流れるままに、あるかもわからぬ底へとゆっくり沈んでいく。

 景色も何もない。別世界のような場所。けれど凍みる空気の冷たさが、あの冬の延長であることを肌に伝える。

(やっと、死ねるのかな……)

 漠然と、これが「死ぬ」という感覚なのかと思いを巡らせる。

 落ちていくに連れて、肥大化した悪感情が濾過され、澄んでいく。理性を取り戻し、体と心の制御が返ってきた。

 しかし致命的に欠けてしまったものがある。

 魂。生命の本質。

 ラムにはそれが何かわかっていない。ただ、自身の中の何かが失われ、ぽっかり穴が開いてしまった感覚はあった。

 本能的に、やがて命が尽きることを確信する。

 けれど、それでいい。多くの命を奪った。生きていたら、更に命を奪い続けるだろう。ここで散る運命だったのだ。救われてはいけない人間。悪行を為したものは地獄に落ちるなどと言うが、落ちる地獄すらない。

 だから、ラムが死ぬのは正しいことの筈だ。

 辛いことばかりの人生。自ら投げ出そうともした。生きていても怖いものばかりだ。未だ他者からの視線を思い出すだけで怖気立ってしまうくらい。

 それなのに。

 死を目前にして浮かぶのは、ここ半年間で増えた楽しい思い出たち。

 きっかけは、屋上だった。初秋の風が肌を冷やす、茜色の空の下。ラムの気も知らず、滅茶苦茶なことばかりする少年と出会った。ラムのことを気にも留めない、不思議な視線を向けてくる少年。今にして思えば、視線から感じる違和感の正体は、当時のラムには分かりようのない歪なものだった。

 でも、不謹慎かもしれないけど、デイタが怪物で良かったと思う。そのおかげで、彼の傍にいることを居心地良いと思えたから。

 積極的に関わろうとはしなかったけれど、いきなり台風のように現れて、ラムの鬱屈とした気持ちを吹き飛ばしてくれる。

 さんざん振り回す癖に、ふと気づいたように距離感を窺って。不器用だけど、ラムのことを考えてくれる。

 最後にはボロボロになりながら必死に手を伸ばしてくれた。

 ちょっと憎たらしいけど、かっこいいところもあって。

 無邪気に笑うデイタが、好きだった。



 同じ場所で、真っ直ぐで優しい先輩にも出会えた。出会いの所為か、怒りっぽい人だと思っていたけど、違った。偶々悪戯好きの少年が近くに居ただけ。

 人知れず誰かの為に自分の身を危険に晒して戦う、尊敬できる人だった。

 何度か図書室で話す内に、抜けたところもある人だと知った。嘘をつくのが下手で、すぐ顔に出る。ついつい、揶揄いすぎて怒らせそうになったのは、少しだけ悪いと思ってる。

「困っていることはないか」と会う度に聞かれた。心配してくれて嬉しいが、全然さりげ無さを装えていなくて。そんなところも微笑ましかった。

 感情を隠し切れない表情から誠実さが見えて、眩しかった。ラムには無くなってしまったものだから。

 いつも冷静な人だと思っていたけど、ラムのために熱くなってくれた。強くぶつけられた感情が、言葉が心に残ってる。



 絵本の中から出てきたような少女に出会った。出会い方としては悪い部類だった。気になっている男子と手を繋いでいたのだから。

 逃げ出そうとしたら捕まって、初対面なのに二人きりにされた。最初は少し気まずかったけど、共通点があったからか馴染むのにそう時間はかからなかった。

 特殊な力を持って生まれたこと。

 同じ人を好きになったこと。

 なんであの時、会ったばかりの相手に胸の内を語れたのか。今でも不思議だった。アリスの作る柔らかな空気が引き出してくれたのかもしれない。

 おかげで、自分の気持ちと向き合うことができた。

 アリスにとっては面白くないはずなのに、ラムの気持ちを尊重してくれて。

「力になる」とまで言ってくれた。

 その言葉を使って、嫌なことをさせてしまったけど。どこまでも純真なアリスのことだ。今頃泣いているかもしれない。申し訳なさで一杯だ。

 何も持っていないなんて、見てもらえてないなんて嘘だと、気づかせてくれた。



 友達ができた。



 恋をした。



「死にたく、ないなぁ……」

 世界が滲んだ。揺れる視界。熱くなった喉を震わせて絞り出した声は、白んだ息と共に誰に届くこともなく真っ白な空間へ溶けていく。

 そう、思っていた。

「ラム!」

 だからすぐに反応できなかった。

 聞こえる筈のない声。

 殺してしまったのだと、もう会えないのだと。

 生きていたとしても、こんなところまで来るなんて、考えてもいなかった。

 手を振り払った。気持ちを裏切った。傷つけた。

 いい加減、愛想を尽かされてる。見限らない方が、どうかしてる。

 なのに、なんで。

(君は変わらずに、手を伸ばしてくれるの?)

 デイタは腕を切り飛ばされて尚、残る左手をラムへ伸ばしていた。

「デイタ……」

 少年の名を零し、控えめに手を伸ばした。ラムから天使は消えたけれど未だ自分を信じられず、また振り払ってしまうのではないかと恐る恐る。

 互いの手が重なる。

 今度こそ、掴んだ。怯えるラムの手とは対照的に、デイタの手は揺るがない。決して離さぬよう、ラムが少し痛がってしまうくらい強く握った。

 デイタはラムを引き寄せ、背に手を回した。ラムはお姫様抱っこが好きだったようだが、片腕ではそれも出来ない。背中だけを支える中途半端な抱き方だった。

 ラムから顔を逸らし、俯く頬を涙が伝う。

「もっと早く気づけなくて、ごめん」

 静かに泣いていた。ちゃんと顔を見ないと、泣いているのが分からないくらい。

「話したくないんじゃなくて」

 デイタは天使に触れ、ラムの人生を部分的に追体験した。ラムがどんな思いで生きてきたのか。両親の顔色を窺う中で、自分の考えを口に出さなくなってしまったのも。自分を出す時間よりも他者を演じる時間が増え、自分を介して誰を見ているのか曖昧な視線が苦手になったのも。

「怖かったんだって、わからなくてさ……」

 全部、怖かったから。

 恐怖という感情を抱いたことのないデイタ。考えても気づけなかった。けれど「気づけなかった」で済ませたくない。足りなかった。もっと考えていれば。欠けてしまったラムの魂を目にして、後悔が募る。

 ラムが目を瞠る。ずっと何かに怯えていた。意識したことは無くとも、心の底で誰かに気づいて欲しいと願っていた。デイタの思いで、凍り付いた心の防壁が解けていく。

 両手でデイタの頬を包み、くいっと動かして目を合わせた。

 柄にもなく涙を湛える目縁に苦笑する。

「泣いたり、するんだ」

 笑顔の多いデイタ。その涙がラムの為に流れていると思うと、泣き顔さえ愛しくて堪らない。

「泣いてない」

 見え透いた強がり。

 ラムは思わず笑ってしまう。けれどその笑顔も、ぎこちなくて。

「ねえ」

「なに」

「好き」

 あまりにも自然に紡がれた淡い心の内。初めて芽生えた赤い感情。声を出すのに勇気は要らなかった。溢れる気持ちを、抑えなかっただけ。

 デイタが目をぱちぱちさせる。かと思えば、再び目を逸らした。申し訳なそうに口を開く。

「……そういうの、ムズくてまだわかんない」

 拒絶にも聞こえる言葉。けれど一部の感情が欠落したデイタにとっては、言葉通りの意味しか持たない。

「知ってるよ」

 ラムがぐいっとデイタの視線を戻し、見つめる。隙あらば逃げようとする視線を、逃がさないように。

「じゃあ、教えてあげる」

 囁いたラムに、他者を演じて身に着けた艶やかさは無い。年相応の少女のように初々しく頬を染める。

 デイタを引き寄せ、目を瞑って少し顔を傾ける。

 そして。

 ──そっと、二人の唇が重なった。

 首に腕を回す。離れないように、途切れてしまわないように。

 息をするのも忘れて、柔らかな感触を確かめた。

 冷えた体。体温が心地よくて、そのまま溶けてしまいそう。

 自然と抱き寄せる体に力が入り、触れている唇を更に押し付けた。

 暫くそうして、ほんの少しだけ顔を離す。瞳に映る自分が見えてしまうくらい、近い距離。ラムの潤んだ瞳が、デイタの視線をひとりじめした。

「もっと私のこと、見て?」

 誰からも見られたくないと願い続けた。

 醜い自分を探られているのか、ラムを通して別の誰かを見ているのか。何もわからなくて、視線が怖かった。

 けれどデイタに出会って、いつしか正反対な祈りをするようになって。

 そんな祈りの名を、『恋』と呼ぶのだと教えてくれた。

 だから今度はラムが教えたい。

 デイタはぽかん、としていた。ラムがデイタに向ける感情と、自身の内側で巡る感覚を処理しきれずに。

 ちょっと間抜けな顔も愛おしい。ラムはデイタの頬に手を添え、親指で撫でる。

「なん……」

 何か言いかけたデイタの口に、もう一度唇を触れさせた。

 雲も見えなくなった空間に、雪が降り始める。

 寒いから。言い訳するようにラムが身を寄せた。互いの体温、心音まで自分の体のよう。心が溶け合い、相手の思いすら自分のものだと錯覚してしまう。初めての感覚。二人でその正体を探りあった。

 そんな時間も、長くは続かない。

 デイタは腕の中に感じる温もりが薄まっていくのを感じ取った。そっと唇を離し、ラムを見る。

 体が薄っすらと透けている。魂の灯が消えかかっていた。

 残された時間は僅か。儚い玉響の命。

「あのさ」

 デイタが呟く。短い時間の中で一番伝えたいことを考え、最適な言葉を探す。

「ん?」

 ラムは唇の感触を名残り惜しみながらも続く言葉を待った。

「ラムが伝えてくれてるのが、『好き』って気持ちなら」

「うん」

 半年間の思い出が、ラムの姿が浮かぶ。

 デイタはこの世界枝に帰ってきてから友達と呼べる相手が殆どいなかった。それもその筈。奇天烈な行動ばかり取るデイタはクラスメイトから距離を取られてしまった。遊び相手は追いかけ回してくるヒヅキくらい。

 そんな中、一緒に焼き肉を食べてくれて、連れまわしても付き合ってくれたラム。口では嫌だと言っていても、本気じゃないのが分かったから。見かけたらつい嬉しくなって、声を掛けた。

 ラムといる時間は、楽しかった。

 思い出と、ラムから貰った感情が混ざり合う。

 初めて芽生えた感情。なんて呼ぶのか、正解は知らないけど、きっと。

「俺もラムのこと、好きだ」

 目がなくなるくらいの笑顔。

 思いが涙となって、ラムの頬を伝う。溢れる感情をどうにかしたくて、デイタの胸に顔を埋めた。

「私いま、幸せだ……」

 幸福の中で体を震わせた。赤ん坊のように感情を隠さず泣きじゃくる。

 そうして。

 すっかり透明に近づき今にも消え入りそうなラムが、顔を上げた。

「私のこと、忘れないでね?」

 冗談めかして微笑む。なんてずるい女なんだろうと自分に呆れながら。

「忘れるわけないじゃん……ずっと、見てるから」

 別れは笑顔で迎えたいと思っているのに、消えゆくラムを肌で感じて、堪え切れなかった。

 ラムはデイタの頬に両手を添えて、目を合わせる。視線がラムを捉えていることを確認して、ニコッと今までにない笑顔を見せた。

「ありがとうね、デイタ。大好き!」

 ラムの頬に不香の花が舞い降りる。確かにあった体温が花弁を溶かし、一片の雪と共に、ラムは姿を消した。

「ありがとう、ラム……」

 声はもう届かない。

 体に残るラムの温もりも、やがて冬にさらわれるだろう。

 ラムに貰ったかけがえのない感情さえ、力を解放した代償として消えてしまう。

 なら。

 また考えて考えて。積み重ねていくしかない。感情を理解していった先で、「忘れてないよ」と伝えられるように。心の中のラムを、見つめられるように。

 双眸を閉じたデイタ。

 涙を置いて、その体が落ちていった。
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