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10 レース後
ボートハウスの門前で、クロヴィスがカリンを振り返る。
彼はカリンの片腕を軽く掴むと、頬に唇を落とした。
唇からかなり近かった。
「行ってくる」
のぼせかけたカリンは、すっと離れた彼の顔を目で追い、平静を装って笑んだ。
「お気を付けて」
クロヴィスは頷き、踵を返した。キャンバス生地のリュックサックを背負った背中が軽いフットワークで遠ざかる。荷物の中身は着替えにタオルに、クールバッグ入りのサンドイッチケース。カリンの手製ランチだ。
オータムレース後、クロヴィスは毎日のように湖畔のトレーニングセンターに通っている。通勤もトレーニングなので馬車は使わない。
次のレースに向けての準備は既に始まっている。来週にはウィンターレース予選が行われる。
予選免除のクロヴィスは、他ドライバーより休息とトレーニングに時間が取れる。
――彼のコンディションは問題ないわ。
素人でも、生活を共にしているカリンには分かる。
今の彼は良い感じで、すぐにでもレースが出来るだろう。
今週の始め、初めて外出時のキスを貰った。それはこめかみを掠めるような、遠慮しかないキスで、カリンは結婚式を思い出した。
「それはないでしょう」の思いで、帰宅した彼にやや押し付け気味のキスを彼の頬の下にお見舞いした。彼は瞬きつつも「分かった」と納得する顔になった。
翌朝の外出時、彼はカリンの頬骨のあたりにやや押し当てるキスを返した。その力加減が互いに数日続いた。
昨日の帰宅時、カリンは背伸びをしたつま先がふらついた拍子に、うっかりぶつけるようなキスを彼の顎に見舞ってしまった。
彼は面食らい、ぼそりと呟いた。
「特攻だな」
「すみません……」
そのお返しがさっきの唇からニアピンのキスだった。
門扉を閉めて庭に足を戻しながら、カリンは苦笑を浮かべた。
――結構根に持つわよね。
そして頑固でもある。
新婚夫婦生活も四ヶ月目になると言うのに、彼は未だカリンと寝室を共有しない。
星座を見た晩、「どちらでお休みになりますか?」と訊ねてみたら、彼は相変わらず「ソファーベッド」と答えた。
「陸(おか)に家を買うまで子作りは――」
口が滑ったようで、彼はハッとして片掌で口を覆った。
「いや、勝手な話をした。撤回する」
「どうぞ続けてください。クロヴィス様のお考えを知りたいです」
「……俺は、いずれは君との子供を持ちたい」
「はい」
「……だが現状では大変過ぎる、君が」
「筏の上で子育てをしてる島の家族の記事を読んだ事があります」
「……妊娠から出産までが長かろう。船は緊急に弱い。初産になる君に無駄な苦労はさせたくない。何より俺が安心出来ん」
カリンは笑んだ。
「それがクロヴィス様のご意思なら、私に否やはありません」
単純に、彼が色々と頭を悩ませてくれていた事が嬉しかった。
「でも」と首を捻った。
「一緒に寝るだけなら構わないのでは?」
安心出来ないなら作らなければいい。
クロヴィスは項垂れた。
「生殺しは辛い」
カリンは「あら、世の中には避妊具というものが――」と言いかけて止めた。
誘っているようで、はしたない。結局「クロヴィス様のよろしいようにされてください」と返して話を終えた。
でも毎日キスをしていて、思う。
――はしたなくても誘った方が親切だったかしら?
「生殺し」と言っていたし、生真面目な彼は案外その方が助かったかも。
「いやいや」と想念にブレーキがかかった。
――はしたない妻はイヤよね。
自分をコントロール出来ている人は、他者に振り回される事を嫌うと聞く。
「やめておこう」と結論付けたところで、カリンはドラゴンの巨体を前にした。
庭の主然と、青空色のボディが芝生にでえんと寝そべっている。ぐうたらして「やる気出ない」とアピールしている。
人間で言う五月病に似たもので、全シーズンレースをやり切った若いドラゴンに見られる症状らしい。慣れる事で飽きてしまう。
あまり深刻なものではないとされ、土地や季節、ドライバー等、何かの変化であっさり解消する事が多い。それ故ドライバーは新たなドラゴンと組んだり、成績の近い者同士でスワップしたりすると言う。
クロヴィスは、今のところコンビ解消は視野に入れていない。時間が解決した例もある為、様子見している。
カリンとしても、クロヴィスにはスカイとのコンビを続けてもらいたい。
今キツいのはスカイだ。
「毎日眠そう」
地面に伏せられた顔の傍らに座って、カリンはスカイの目の下を撫でる。
「くう」と寝言っぽい返事をして、スカイは瞼を細めた。
コンビ解消クライシスだ。どうにかやる気を取り戻して欲しいけれど、当人の問題は外野にはどうにもならない。
何か打てる手はないだろうか。
考えていると、ふっとスカイの顎が地面から浮き上がった。空を横切る海鳥を目で追ったスカイは、対象が視界から失せると地面に顎を戻す。
このドラゴンが、小動物に関心がある事は知っていた。全てのドラゴンがそうとは限らないだろう。人間でも好みは各々違う。
カリンは周囲を見回す。偶に、野生のウサギとかリスとかハリネズミとかが庭を通過する。今は見当たらない。
それらはスカイの留守を狙って来る。
訓練された軍馬や軍用犬を除き、鳥獣はドラゴンとの遭遇を避ける。さっきの鳥はかなりの高度で飛んでいたし、近所を散歩する飼い犬も飼い猫も、ドラゴン在宅中はボートハウス前を通りたがらないと聞く。
両者を引き会わせるのは難しい。
「小さいひと達が遊びに来てくれると嬉しいのにね?」
スカイは「くう」と喉で唸った。ちょっと切ない鳴き声だった。
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