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19 教える
その日の朝。
長らく何か考えている風だったカリンが、遂にクロヴィスに重い口を開いた。
「お船の事とレースの事をもっと勉強しようと思います」
クロヴィスは軽く瞬き、首を傾げた。
「特に必要とは思えんが」
「いいえ。先日のロータスピンクの戦線離脱時、私は何も出来ませんでした」
「よくやったとしか思えんが」
「キクイタダキさんの通訳がなければすぐに手綱を外す判断は出来ませんでした」
「前にも言った通り、キャンセルは滅多に起こらん。本職でも判断には時間を要しただろう。君は何もしくじっていない」
カリンは「いいえ」と首を左右に動かした。
「私は本職であるクロヴィス様の妻です。知らなかったとか動けなかったとか、とても恥ずかしい事だと思うんです」
再度クロヴィスは軽く瞬き、視線を逸らした。
ぼそりと呟く。
「前半だけもう一度……」
カリンは続けた。
「なので教わりに行こうと思います」
クロヴィスは、リクエストを聞き流された事に軽くショックを受けた。いや彼女は聞こえなかったのだろう。風向きに声量を左右される海辺の環境にクロヴィスは邪魔をされ、同時に救われもした。
バカな事を言った。彼女は真面目に話しているのに。
嘆息して彼女を見る。
「その必要はない」
「ですが」
「教わりに行く必要はない、と言ったんだ。俺が教える」
カリンは頻りに瞬き、慌て始めた。
「いえそんな滅相もない。お忙しいクロヴィス様を煩わせるつもりはなく」
「むしろ他の誰かに操船講座だのレーシング講座だのをされる方が気になる。それに君には俺から教えたい。俺が君に伝えたい」
言いながらクロヴィスは内心「……寒い事を言ってないか?」と心配になった。
心配は無用で、カリンの碧い両眼は輝いていた。
「ご迷惑でないなら、どうかお願い致します」
クロヴィスは船縁に並ぶカリンに体を向け、歩み寄った。
「迷惑な筈がない。しかし、君こそ忙しいだろう。家事をしながら翻訳の仕事もこなしている。操船の習熟は特に、外洋に出るつもりならかなりの時間を要するぞ」
クロヴィスが年間チャンピオンとなった今もカリンは「内職」を続けている。クロヴィスとて偶に富裕層の依頼でギグワーカーをやるからお互い様だ。
堅実な彼女は笑った。
「問題ありません。サー・ジョージ・ダッシュウッドから頂く翻訳のお仕事には締め切りがないですし、緊急性も低いので融通が利くんですよ」
「それでも大変な頭脳労働である事に変わりはない」
「平気です」と言って、カリンはクロヴィスの袖を軽く摘まんだ。
子供のように揺らす。
「教えてください」
下から見上げる顔は幼さが残るのに、妙に色気があるようにクロヴィスには感じられた。
「ああ」と頷いたクロヴィスは、徐に彼女の細い肩にそっと掌を載せた。
「俺が全部教えてやる――」
顔に影が差した事で接近を察し、カリンの瞳がとろんと細められる。
朝日を浴びながら唇を合わせるのもいい、と思いつつクロヴィスは彼女の顔を覗き込む姿勢になった。
庭から「くうくう」と声が発し、動きを止める。
桟橋の先を振り向くと、スカイが首を伸ばしてこちらを見ていた。
呑気な顔が「何してるの?」と言っている。ノーズではポンポンことキクイタダキがノミみたく跳ねていた。
「空気を読むの、です」
「くう?」
「子供はあっち行って遊んでなさい、です」
「くう?」
小鳥の誘導に続いてドラゴンの巨体がのたのたと反転していく。
クロヴィスは閉口した後、カリンに目を戻す。
彼女もクロヴィスに目を戻して、笑んだ。
「なんだかすっかり幸せ家族って感じです」
「……今のがか?」
よく分からないが、クロヴィスは気を取り直して彼女と向き合った。
邪魔された分、少し長めに果実のような彼女の唇を堪能した。
日曜日。
サン=モンテーニュ半島の南西に浮かぶ孤島で、女性レーシング・ドライバー限定のレース「ガールズ・カップ」が開催された。
クロヴィスと共にレース会場に入ったカリンは、初めて見るサーキットの雰囲気に圧倒されていた。
「あの大きなスクリーンにレースの様子がリアルタイムで映るんですね?」
「ああ。各チェックポイントにモニター装置と撮影人員が配置されている。だが、今回は島の複雑なアウトラインをひと回りするコースレイアウトで、自然によるブラインドコーナーが多い。撮る方も難儀するだろう」
「そうなんですねえ」
カリンの頬は自然と緩んだ。
会場に入って以来、クロヴィスはいつもより喋っている。先日から始まったホームスクールもとい操船&レーシング講座でも、彼とは頻繁に言葉を交わしている。とはいえ普段クールな彼の長話はやはり貴重で、嬉しいものだった。
ついさっき、管制に従ってスカイはコースの外側に位置する洋上のスタンドに着陸した。スタンドと言っても巨大な船で、VIP専用となっている。
まさか年間チャンピオンのクロヴィスを、一般客と同じ場所で観戦させられないという事で運営側が席を用意してくれた。
実際、有難い対応だった。他の馬と一緒にスカイを陸でパーキングさせられない。レース日の前「当日どこに停めればいい?」と問い合わせたクロヴィスに、担当者は「VIPスタンドには発着ポートがあります」と回答した。
船上のシートに向かう途中、夫婦を招待した張本人が紅いドラゴンと共に待ち構えていた。
「ようこそ、フィヨン様ご夫妻」
レース前にも拘わらず、オデットはリラックスした笑顔を閃かせた。
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