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53 公爵令嬢
洋上にボートを漂わせたまま、カリンはブルーのペンでノートを取る。
「奇岩の形状を頭に叩き込んでおけば行ける、かな?」
言うのは簡単だけれど、意図された人工物と違って規則性のない自然の造形を記憶するのは至難だ。百パーセント把握しているのは地元ダイバーくらいだろう。
それで閃いた。
「教えてもらえたり?」
ルール上、人に訊くのは違反に当たらない。
カリンは一人で納得しつつ、コースの続きにボートを進めた。
コースの後半は、最後から二つ前のブイから一つ前のブイまでがバックストレートとなっている。各ドライバーが出し得る限りの最高速を発揮出来る、全開区間だ。
障害になるものは、今の海原には見当たらない。
「でもレース当日の明日は、王室専用船と観客のスタンドとオフィシャルの船もいる筈よね」
今ほど見晴らしは良くない。ごちゃごちゃするから距離感が変わるだろう。
明日は、カリンもVIPスタンドの置かれた船に乗り込むよう言われている。
常のレースであればサーキットの外側に置かれるスタンドが、このレースではど真ん中に来る。臨場感が凄い、とホテルの女性スタッフから聞いた。
「――年に一度の島民達の贅沢な楽しみですよ」
無料で特等席に座ってレース観戦が出来る。確かに贅沢だ。
最後のブイに着いた時、後ろからブラックカラーの船が近付いてきた。
「ごきげんよう」と声を掛けられて、カリンは相手を振り返った。
「ごきげんよう……」
返してみたものの、見知らぬ女性なので名前は出てこない。
カリンの困惑を読み取った彼女は気さくに笑み、唸るエンジンを止めた。会釈のようにして、白い麦わら帽子の鍔を軽く押さえる。
「ヴィクトワールと申します」
カリンはぎょっとした。彼女の名前に憶えがあった。
海外領土の総督にして公爵の一人娘、そして王弟の又従妹――つまり王族だ。
「お初にお目にかかります、ヴィクトワール様。わたくしは――」
「存じていますとも。フィヨン大佐夫人の、カリンですね。遠路遥々ようこそ」
「お気遣い、恐れ入ります」
「それほど畏まらなくてよろしいのですよ。こんな田舎ですもの」
そういう訳にはいかない。
頬のこわばりが解けないカリンに、ヴィクトワールは苦笑した。
「こちらにいる間だけでも、お友達になってくださると嬉しいです。なにせ年の近い女性に乏しくて。こんな田舎ですもの」
同じ文言を繰り返したヴィクトワールに、カリンは力なく笑んで見せた。
「私で良ければ」
頷いたカリンに、ヴィクトワールは笑顔を輝かせた。
今年で二十三歳と聞いていたのに、無邪気さと相俟って幼く見えた。
ビーチに戻ったクロヴィスは、砂の上に胡坐を掻いて座り込んでいた。
頭に叩き込んだコースレイアウトを諳んじている。傍らでスカイが砂に転がって遊んでいる。呑気でいい。
チャネルで繋がればクロヴィスの記憶を共有出来るから、自分が頑張って覚える必要はないのだ。うっかり岩に激突しても平気なので緊張感もない。ただで済まないのはいつだって生身を晒しているドライバーだ。
レギュレーションにより、甲冑や装甲を纏ってのドライブは認められていない。許される保護アイテムはヘルメットのみ。それとて必須ではない。
生身であればあるほどいい。不正し難くなる上、ドライバーの危険度が増す。
危険が増すほど、レースは盛り上がる。
――国が平和な証拠だな。
レースでしかスリルを味わえない。
今回、立ち上がりの奇岩一帯は手を焼きそうだ。海中は海上以上に道が狭く、岩陰の明暗差も性質が悪い。
――前半はダイブを控えるか。
安全に空中戦で勝負する。ポールポジションのアドヴァンテージに物を言わせ、下位をブロックする。
――あまり好きではないな。
安全と言うのは、どうしても工夫がない。
漣の音を掻き分けて「クロヴィス様あー」と呼び声が発した。
カリンが戻って来た。見知らぬ女性を伴っている。
遠目の方が返って高貴な面影が際立ち、その正体を察せられた。
――王族か。
クロヴィスは立ち上がり、彼女達のもとへ足を向けた。
カリンとクロヴィスは、ホテルのレストランでランチを取った。
同席するヴィクトワールの話はとても有意義で、参考になった。それもその筈、植物学のドクターである彼女は、島の自然環境を知り尽くしていた。
そして親切でありながらも、依怙贔屓はしなかった。
「――レースの時間帯は洋上の風向きが変わります。ですが、これは島在住の者なら誰もが知っている事です。レーシング・ドライバーの皆さんに公開している情報でもあります」
カリンは思わず気の抜けた笑みを浮かべた。この席はチャンピオン待遇の情報提供の場ではないって事だ。無論、公平は望むところなのだけれど。
食後、レストランの前で再びカリンとクロヴィスは別れた。
彼はドライバーズ・ミーティングに出る為、ホテル上階の会議場へと向かった。
その間、カリンは地元ダイバーを訪ねる気でいた。
それを知るや、ヴィクトワールはニッと笑んで見せた。
「熟練ダイバーならここにいますよ?」
「さすがにヴィクトワール様に探りを入れるのは……」
「閃いたアイディアを独占する事は、不公平とは違いますでしょう?」
カリンに、彼女の意見を否定する理由はなかった。
「よろしくお願いします」
一礼した拍子に、腕に引っ掛けたかごバッグが大きく傾く。
中で昼寝中の小鳥がころりと転がったのが、手応えで分かった。
「…………」
無言の訴えに対して、カリンは内心に詫びた。
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