彼女は思い出せない

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01 もう一度

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デジレは、のどかな島暮らしを送っていた。
今年で三年目を迎える。
自分自身が幾つを迎えるのかは知らない。
誕生日が分からない。
記憶がない。思い出がない。

デジレはデジレが何者なのか、思い出せない。



時計の針が正午前十分を示し、授業が終わった。

「デジレ先生、さようならあ」

声と共に生徒達が部屋を駆け出ていく。
デジレは「さようなら」と笑みを返して、幼い群れを見送った。

平日の午前中。私塾の真似事をして生計を立てている。主に自然科学を教えているのだけれど、これが意外にも需要があって島の子供達が二十人ほど集まった。
生徒は四歳から十歳までの男子と女子で構成される。それ以上の年齢になると島外の普通学校に通うか、親の仕事に就く。
勉強を教えると言うより勉強する切っ掛けを与えている。何にでも興味を持つように仕向けている、と言う方がより正しい。
不幸中の幸いにして自分以外の事は覚えていたから可能な商売だ。
私塾は、今現在身を寄せている家の同居人の勧めに端を発している。

「――貴女はどこかイイトコのお嬢様だったのでしょう。知っている事は多いのに出来る事が少ないですから」

島に来た当初のデジレは、家事スキルが壊滅的だった。

妙に行儀が良くて、教養もやけに備わっていた。島民達とも難なくコミュニケーションが取れている。
島の公用語は、女帝が統治する巨大な西の島国、通称大ドラゴン帝国語「クイーンズ」だ。
大陸公用語と言って差し支えないほど各地に浸透しているクイーンズだが、「デジレ」という名前からしてこれはデジレの教養の外国語であって、母国語ではないと思われる。
絶対とは言い切れない。推定母国は、大陸でも大国のカテゴリーグループに入る。大国の文化は大陸中に広まる。洒落を利かせた両親が外国人風の名前を付けた可能性が捨て切れない。

いずれにしても自分の呼び名が分かっているのは有難い。
砂浜に漂着していたデジレの第一発見者が名前を訊いたら「デジレ」とうわ言の返答があったらしい。答えた時点では僅かに記憶が残っていたようだ。

大陸の人間である筈のデジレは、西の海の最果てに浮かぶ大ドラゴン帝国領、通称小ドラゴン諸島に流れ着いた。
多分、船から落ちた。大嵐に見舞われて船ごと沈んだのかもしれない。

「――船の沈没は事故にしても、貴女の遭難は事件です」

デジレの第一発見者にして居候先の世話人、アンはきっぱりとこう告げた。

「貴女は誰かに殺されかかったのだと思います。発見時、貴女の首に絞められたような痕跡が残っていました」

殺人未遂が疑われている。そのショックで記憶も消えている。
脅威の正体が分からない。これら危険を鑑みて、デジレは大陸から遠く切り離された諸島でひっそりと暮らしていく事にしたのだ。



今のデジレには思い出がなく、知識がある。
脳は一つなのに可笑しな事だ。
薬師でもあるアンは「逆行性健忘というものでしょう」と推測している。

教室代わりの部屋を掃除した後、デジレは同じ棟にある居間に向かった。
ランチの用意されたテーブルには、既に同居人達の二つの顔が揃っていた。
デジレを見上げてアンが言った。

「デジレ、お仕事お疲れ様です」
「アンこそ、いつもお食事の準備をしてくださり有難うございます。今日のランチも美味しそうですね」
「デジレの推定母国料理、ハーブチキンのピラフを作ってみました」
「故郷の味かどうかはさておき、アンのお料理は全部大好きです」

アンのはす向かいに位置したデジレは、座布団の上で正座の姿勢を正した。
居候として家主の文化に倣う。
食卓を見て瞬く。ピラフの白い皿と共に銀のスプーンが配置されている。
思い出はなくても知識があるデジレは、こっそりと笑みを浮かべた。カトラリーが違う。本来はフォークだし、ピラフをメインメニューにしている点にも違和感を覚える。とはいえ大至急指摘するような事でもない。

同居人達は、ワ人と呼ばれる。極東の列島、ワ皇国から西の果ての諸島へ長距離移住を果たした。ここではデジレと等しく外国出身の移民となる。
アンの名は「杏」と書くらしい。
もう一人の同居人は六歳男児、コウである。アンは彼の事を「ミコ」と呼び、慇懃丁重に接する。かなり身分の高いお子様なのだろう。
コウは、小さな手で器用にスプーンを操って、掬ったピラフを口に入れる。ゆっくり嚙んで嚥下すると、正面のデジレを見た。
切れ長の双眸は光を吸い込むかのごとく、黒い。

「デジレ、ごはんが済んだらまた本を読んでくれる?」

デジレの頬が緩んだ。彼らワ人にとって料理は全て「ごはん」で、米以外にもその言葉を充てる。パンもパスタもごはんで良い。

「ええ、勿論。コウは大陸の童話にすっかり夢中ですね」
「面白いから。昨日読んでもらった、動物の音楽チームが盗賊をやっつけるお話とか展開がめちゃくちゃで好き。僕の国にはない発想だ」
「私は逆にワ皇国のお話が珍しくて楽しいです。オニとかヨーカイとか……」

いつものようにゆったりと、島の時間が流れて行った。



小ドラゴン諸島の遥か東、世界最大の北方大陸に激震が走った。

大陸西側の大国、通称パーヴォ王国で軍事クーデターが勃発。
実質の王であった王太子アレクサンドルが討たれた。

戦闘の末アレクサンドルを葬ったのは第三王子、アシルであった。
クーデターの成功を以てアシルは新王太子となり、国の表舞台に立った。大陸屈指の軍事国家を主導する絶大なパワーを手に入れたのだ。
これでアシルの念願が叶った――訳ではない。クーデターは通過点に過ぎない。
ここからだ。

「俺は必ず手に入れる。そして必ず取り戻す。――デジレ」

失ってしまった彼女を、もう一度。





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