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王都編
44 エピローグ
しおりを挟むファッションウィーク明けの王都は、変わらず忙しない。
既に夏季休暇に突入している富裕層が多い。各々の領地や保養地を目指し、旅支度が始まっているのだ。今後じわじわと交通が渋滞して行くだろう。
ティエール内でも休暇を取る社員が出始めていた。
アネットは、その先陣を切った一人だった。
午前。テオフィルの住む官舎を訪ねた後、アパルトマンから持ってきた服やアイテムをクローゼットに収めた。
テオフィルはまだ夏季休暇に入っていない。今日も出勤している。渋滞を嫌がる彼は毎年時期をずらして取得するのだそう。
「――君を故郷に連れて行く」
宣言した彼の声が脳裏を掠めて、アネットは笑みを浮かべた。
父カッセル男爵の詐欺事件が片付き、晴れてテオフィルの婚約者となった。
来年、彼はこの官舎を出て新居に移る。引っ越しのタイミングで結婚する。
――伯爵夫人か。我ながら似合わない。
テオフィルが相手でなければ、全力でお断りするところだ。
彼の婚約者として官舎暮らしの権利を獲得したアネットは、月末までにアパルトマンを解約する。職場から近く、お気に入りの部屋だったので名残り惜しい。
休暇明けからは、官舎から馬車通勤する事になる。
社内では、朝会でアネットの婚約が知らされ、祝福と動揺の声が同時に上がった。
「……あの、デュラックさん。ご結婚されてもここを辞めない、ですよね?」
スタッフの一人が不安げに告げ、他もそれに倣った面持ちでアネットを見た。
アネットは一同に笑み、頷いた。
「勿論、可能な限り続けますよ。でも後継者は育てていきます。皆さん候補者ですので、ご認識の程よろしくお願い致します」
「後継……、あの、売り場担当の私達には荷が勝ち過ぎる気がするのですが」
「私だって何もかも未経験でした。でもティエールのキャリアは皆さんの方が上なんですし、マドモアゼルの取り扱いにさえ慣れてしまえば、それほど――」
「誰の取り扱いですってええ?」と背後から恨めしい声が発し、アネットの両肩は跳ねた。
アデライドは両腕でアネットを羽交い絞めにし「辞めてはならぬー」と可笑しな口調で盛大に喚いた。
「結婚しても退職しても子育てしてもネタ提供だけは辞めてはならーぬ」
「お、落ち着いてください。もしまたマドモアゼルがスランプに陥った際は、真っ先に駆け付けるとお約束しますから」
「絶対だからねー、よろしくねー」
新たなシッターが要る……、とアネットは心底実感した。
正午前、テオフィルが帰宅した。
海軍省から近いので、ランチの為だけに官舎に戻る者は割といるらしい。特に妻子持ちは家族との時間を大切にする。
テオフィルもまた、アネットを放置しなかった。
「ティータイムにも戻る」
「行ったり来たりするのは大変では?」
「毎日は難しくとも可能な限り君と、三度の食事とコーヒーブレイクを共にする」
「まるで新婚ですね」
「一生続くと思う」
「大変です。貴方が」
「大変だと思っていないから大変とは言えん」
「独自の哲学があっていいですね」
ランチ後に職場に戻ったテオフィルは、宣言通り三時前にまた戻って来てアネットを外に連れ出した。
アネットが「折角焦げたスコーンを焼こうと思っていたのに」と告げると、彼はこう返した。
「明日頂くとしよう。だが今日は俺に付き合って欲しい」
そう言った彼がコーヒーブレイク後に案内したのは、ティエールの支店だった。王立美術館と同じ地区にある。
「婚約指輪の受け取りに来た」
「いつの間に」
「来年までの付き合いとなる指輪なので、悪いがこちらで勝手にデザインを決めさせてもらった。君の希望はぜひ結婚指輪で叶えてくれ」
「問題なしです。ティエールにハズレの商品なんてありません」
アネットの薬指に、ダイヤモンドのあしらわれたプラチナリングが嵌められた。
思った通りハズレではない。ダイヤモンドは表ではなく裏に、刻印に寄り添うように埋め込まれていた。アネットはひと目で気に入った。
「これ、難しい技術なんですよ」
「俺もそう聞いたからこれを選んだ」
「ナイスです」
二人の指でお揃いのリングが光る。
「なんか照れますね」と笑ったアネットに、テオフィルは双眸を細めていた。
やけに幸せそうな顔に見え、アネットはちょっと彼を抱き締めたくなった。
その晩。待ちに待った週末をいちゃいちゃと過ごす事となった。詐欺事件の所為で一週間ほど予定が繰り下がっていた。
家政婦の絶品ディナーを堪能し終えたアネットは、ワイングラス片手にデザートのショコラを摘まんでいた。すると食卓越しにテオフィルが目で訴えて来た。
神秘的な紺碧の瞳は陽炎のように揺らいでいた。
それでアネットはショコラを放り、グラスを一気に呷って彼に両手を伸ばした。
「抱っこしてください」
今度はちゃんと言えた。
希望通りアネットを抱き抱えてテオフィルは寝室に向かった。
ベッドに倒れてしまえば、後は素肌を重ねてもつれ合うだけだった。
「アネット、俺のアネット――」
彼は何度もアネットを呼び、肌を撫でたり舐めたりして忙しなく体を揺すった。
彼の動きに合わせて揺れながら、アネットはふわふわしていた。
熱い体を直に感じていると、この上なく幸せに思える。
二度と失わない。これからも彼と生きていく。
日曜日。
アネットは、テオフィルと共に祖父母宅を訪れた。
所謂、家族へのご挨拶だ。
休日を潰して駆け付けてくれた伯父も祖父母と同じ側のソファーに腰掛けて、アネットとテオフィルと対面している。
先日逮捕された伯父嫁の所業を知った際、彼らは深い溜め息を吐いた。既に他人とはいえ顔見知りの犯行で、被害者がアネットではやるせない。因みに祖父母の銃撃未遂については知らせていない。必要ない。もう忘れていい。
優しい伯父には既に彼女がいる。入籍は近いだろう。
知らぬ間に事件に巻き込まれていた家族三人は、今は揃ってぽけえとしている。テオフィルのオーラは凄まじい。
コレクション開催中の外国の富豪らを思い出して、アネットは苦笑した。
「――改めて、こちらの方はテオフィル・ジュール・ド・ラセーニュ海軍中将閣下です。つい最近ですが伯爵閣下にもなられました」
三人揃ってぽけえは変わらずだ。
テオフィルは祖父母と伯父に、会釈のような静かで小さな礼をした。
「紹介にあった通り海軍に属している。気に入らんと思うが、どうかアネットとの結婚を許して頂きたい」
途端、祖父と伯父は手と首を左右に振った。
「いや、いやいや気に入らんとか有り得んですよ。なあ、父さん」
「ああ、その通りだ。――閣下、陸と海の因縁なんぞ私にはないのです。むしろ先の大戦では海軍さんに大変お世話になっとります。終戦後、まだ火種の残る外地にいの一番に駆け付けてくれた海軍さんらが生き残りの我が小隊を見付け、手当し、無事に帰国させてくれました。給食も美味しくて、久しぶりの故郷の味に泣けた事を今でも覚えています。当時の艦長殿は恩人です。危険も顧みず我らを迎えに来てくだすった。私の英雄は彼です」
テオフィルは軽く瞬き、硬く結んだ唇を微かに緩めた。
「実に有難い事に、我が国は英雄が多い」
祖父母と伯父は、再びぽけえとなった。
何を言ってもテオフィルは決まる。過剰な称賛も謙遜も彼はしなくていい。
アネットはやはり苦笑した。ともあれ縄張り跨ぎとかの問題が無くて良かった。
八月半ば。
テオフィルの夏季休暇に合わせて、アネットは彼の故郷ラセーニュ侯爵領を初めて訪れる事となった。
リバークルーズでの訪問だ。足は無論ブラック&ホワイトのクルーザーで、侯爵領のメカニックチームが納品がてら王都郊外の河川まで持って来てくれた。
侯爵領の船着き場が見えてきた。そこにテオフィルの兄夫妻が待ち構えていた。
クルーザーを認めるや、二人して腕を振り「おおい、おおい」と声を張る。
「ようこそ、侯爵領へ!」
初対面なのに歓迎してくれる二人を見て、アネットは感激した。船縁から身を乗り出して、大きく手を振り返して彼らの挨拶に応える。
その間に船のエンジンが停止し、誘導する短艇からクルーが一人、クルーザーに移乗した。
舵輪をパーキング係に譲ったテオフィルが、はしゃぐアネットの隣に並んだ。腰に腕を回し「落ちるぞ」と咎める。
アネットは彼の手を掴み上げて、自分の腕ごと左右に振った。
船着き場から笑いが生じた。兄夫妻は楽し気に顔を見合わせ「テオを見ろよ。なすがままだ」、「嫁さん、面白い」と口々に言っている。
川辺が船に迫る。テオフィルの兄嫁の胸元の光が、アネットの目に入った。
アネットが選び、テオフィルが贈ったティエールの新作、ダイヤモンドのラペルピンだ。カッコいい薄手のジャケットに装着してくれている。
――彼らが、ここが、テオ様のふるさと。
代々海軍の侯爵家。その長い長い伝統は今現在まで脈々と継承されている。
アネットにとっても特別な家となる。帰省する土地となり、家族となる。
アネットは、パッとテオフィルを振り返った。
彼はいつものように「ん」とアネットを見やる。
訳の分からない高揚感が湧いて、アネットは彼の胴に両腕で抱き付いた。
「私、これからもここに帰ってきます」
「ん? ああ。それは当然だな」
感激ぶりに首を傾げながらもテオフィルはアネットを抱き返した。
楽しい帰省が始まる。
故郷を堪能した後は、南沿岸部のリゾートへ向かう。
二人の始まりの場所へ――。
FIN
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完結ありがとうございます。
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ありがとうございます😊