無題のドキュメント

夏目有也

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13. 巨きな生き物

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 その男は、おおきな生き物だった。理不尽な戦闘力を無言のまま饒舌に物語る怪物じみた体躯たいく。重戦車のような筋肉と脂肪の塊。ボクシングやパワーリフティングにのめり込んだ見返りとして、損傷と回復の果てに獲得した肥大しきった筋繊維。人間の胴体なんて呆気なくへし折れてしまいそうな腕。野生動物のように身体を覆う体毛。無造作に伸びた白髭。花が散るような痣と人間の歯型が残る手の甲。瞳は灰色ではなく黒く、身長のせいで自然と根付いてしまったようなその伏し目は、眼下に広がる深淵を覗くようだった。

 応接間として利用している校長室で、女教師はその男、宇佐美周うさみあまねと対峙していた。その男は、一人掛けのソファに窮屈そうにちょこんと座る。珈琲カップが彼の手と比較して小さすぎて、おおまごとでもしているようだった。喜劇に登場する巨人のようで滑稽に見える。
「まず、謝罪してください。あなたのご子息からこの上ない侮辱を受けました。彼の腐った性的な妄想を絵に描き起こして、それを学校中に掲載したんです」と女教師が言う。
「すみませんでした」とその男が言う。
「自慰ですよ、自慰!考えられない。どういう風に育てればそんな発想に行き着くのか。逆にお尋ねしたいです。反面教師になりそうですからね。どういう教育方針なんですか?芸術とうたえば何をしてもいいと、そうお教えになっているんですか?芸術のためならどれほど他人を傷つけてもいいと?芸術のためならどれほど他人を踏みいじってもいいと?どうせそんな教育方針なんでしょう。芸術家っていう生き物は、全く理解に苦しむ。自由を履き違えている。子の罪は親の罪です。すみませんじゃすみませんよ」
「申し訳ございません」
「彼は生臭いから生理かどうか訊いたんですよ。大勢の生徒の前で。生理の度にその言葉を反芻して、もしかしたら臭っているのではないかと考えるようになりました。ありもしない妄想の種を植えつけたんです。洗っても洗っても風呂から上がると、すぐに臭いはじめると感じるようになった。血が出るほど洗いました。いや、生理だから血は出てるんですけど。そういうことじゃなくて、比喩というか。血が滲むほど股間を洗ったという。。。とにかく!悪趣味な精神攻撃を仕掛けてくる」
「申し訳ございません」
「謝ってどうにかなる問題じゃないんです。精神科で薬を貰わなければやっていけないような精神状態になってしまったんです。慰謝料を払ってください。お金がどうこうという問題ではないんです。誠意を見せろって話です」
「慰謝料はお支払いします」
「それから図画工作の授業での自画像についても、描き直させてください」
「・・・」
「まず、謝ってください。確かに謝ってどうにかなる問題じゃないです。それでも謝るのが筋でしょう?常識を疑います。明日までに自画像を描き直させてください」
 その男は、虚ろな眼の視線を深淵から彼女へ投げかける。彼女は本能による反射で身構える。その姿を暫く観察した後、彼は静かでも明瞭な口調で言う。
「自画像の件に関して、私は彼が間違ったことをしているとは考えていません」
「は?ちょっと私の理解力の問題なのかもしれないですが、理解できないのですが」
「私は彼の感性を尊重します」
「めちゃくちゃな色使いで人間かどうかもわからないものを描いて、自画像と呼べますか?」
「彼がそう感じ、そう表したのなら、それを尊重してあげたい」
「・・・すみません。言葉を失ってしまいました。子も子なら、親も親ですね。一家揃いも揃って、芸術家気取りなんだなぁ」
「例えば、ピカソがなぜ評価されたのかをご存知でしょうか?」
「いいえ。知りません。それが何か?」
「アンリ・マティスがなぜ評価されたのかをご存知でしょうか?」
「いいえ。知りません。そもそもだれですか?」
「そうですか」
「いや、むしろ知らなきゃいけないですか?仮に彼の絵画が芸術と呼ばれるものだとして、ふざけた子とどう線引きをすればいいんですか?絶対的な審美眼でも持てと?冗談も程々にしてくれませんか?教師にそこまで求めるのは横暴ですよね?ただあなたが知識でマウントを取りたいから言ってるだけですよね?社会にとって本当に必要なのは調和を保てる人間です。単純なルールに則って稼働するそれら普通の人間が社会の歯車となって、この世界は回っている。芸術家なんてものは、歯車として機能しなかった欠陥部品です。芸術家がいくらいても、歯車は回らないんですよ」
「絶対的な審美眼など幻想です。存在しません。私にもそれが本物かどうかなんてわかりません。マルセル・デュシャンは、アートと非アートの境目を曖昧なものとしました。それが芸術であるか否かなど、愚問なのでしょう。芸術は多様性の受け皿とならなければならない。あなたに絶対的な審美眼を期待しているわけではありません。ただ、少しでも彼の話を聞いてあげて欲しかった。話をすれば、彼の芸術への真摯さが伝わったのではないかと思っています。彼がピカソのような次元の絵画を描いているとは言いません。ただ、一筆一筆に彼の魂が織り込まれている。彼が小さな芸術家としてもがきながらその絵を生んだ姿がありありと眼に浮かぶ。あなたはその絵を破り捨てたそうですね。私はそれをどうしても許すことができない。彼はその紙切れを拾い集めて、家で復元していました。感情を処理することができずに癇癪を起こして、泣き叫んでいました。狂ったように暴れて、抑え込むのに骨が折れました。喘息なのである程度運動を制限しなくてはいけませんが、彼は意外に力が強いんです。『僕が破かれた』と彼は言っていました。私は彼がいずれ、アート界を背負って立つ芸術家になると信じています。偉大すぎた私の父の血を色濃く継承したのは、私ではなく、紛れもなく彼だ。絵心は遺伝する。その後の自慰の絵画については、お詫び申し上げます。大変申し訳ございませんでした。ただ、ひとつ悪いことをしたとしても、すべてが悪くなるわけではないと考えています。自画像の件について、謝罪すべきなのはどちらでしょうか?」

 その巨大な生き物は、台詞の終わりを告げるように再び伏し目になる。
「彼が真摯に芸術に向き合っているという証拠は?証拠を出してください。さあ、証拠を提示してください!」と女教師がヒステリックに言う。
「証拠と言われても、そんなの出せるようなものでもないでしょう」
「証拠がないんじゃ話になりません。会話してわかれと?嘘ついてたらどうするんですか?
どう見分けるんですか?あなたの子供はキチガイですよ!会話なんて成り立つはずがない!赤がないからと猫の血で絵を描くような悪魔の子ですよ!気づきませんか?生命を冒涜しているんですよ。あの猫も彼が動物虐待したんじゃないかしら?きっとそう。そうに違いない。猟奇殺人犯は幼少期に動物虐待をしていることが多いそうですよ。気をつけてくださいね。教え子から殺人犯が出たら末代までの恥なんで。ああ、なんておぞましい。虫酸が走る!私は被害者なんですよ?それに誰かが彼を虐待してますよね?殴られたような痣がありました。家庭環境に問題があるのでは?母親もいないようですしね。愛を受けていないからあんな欠陥のある子どもが育つんです。それとも、あなたが虐待しているんじゃないですか?」
 重みのある沈黙が、ゆっくりと訪れ、ゆっくりと去る。
「あれは自傷です」とその男は言った。
「自傷・・・。はぁ、それがなにか?」
「彼がなぜ顔を赤と白、それからほんの少しの灰色でぐちょぐちょに塗り潰したのか」
「知るかよ。おい、精神障害者ども。狂ってんのか?」
「骨は白く、肉は赤い。普通を強制しないでください」
「私は美術を教えていました。芸術ではない。図画工作は初等教育における美術であると認識しています。美術と芸術には違いがあり、そのため・・・」
「私はここに言葉遊びをしにきたわけではない」
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