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14. 蠅と庵
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自傷癖を拗らせた。10歳の庵は完全に、会話を拒否してしまった。食事を拒否してしまった。水分を拒否してしまった。それは、死ぬことを選択しているというわけでもなく、ただ生きることを拒否しているようだった。
あらゆる検査がなされ、あらゆる治療法が試され、あらゆる精神科医が白旗を上げた。あらゆることを拒否した彼は、死と真正面から対峙していた。解決の糸口を見出せないまま、数日が経過した。少々強引に食べ物を口に含ませても吐き出してしまった。そのため、腕や手の甲などの細い血管に針を刺し、製剤を注入する点滴で、栄養を補給していた。ただ、監視をしていないと彼はその点滴を外してしまうようになった。大人たちの焦燥はゆるやかに募り、やがて限界点まで到達する。命が危険に晒されていた。
ある精神科医が父に強制摂食を提案した。統合失調症、幻覚、拒食症等の摂食障害により、経口での栄養補給が困難である場合、実行される事例があるとのことだった。例として、1911年の英国にて女性解放運動者が、女性参政権のためのハンガー・ストライキを行った際に、刑務所で強制摂食が実施されたことがあるなどと力説した。強制摂食の概要に、父は親として拒絶の色を示した。
衰弱しきった庵は、過去に彼自身が描いたミレイの「オフィーリア」の模写を眺めていた。贋作として鑑定士を騙せそうなほど、この上なく精緻なレプリカだった。この模写を描いていた数ヶ月前の彼のことを私は思い出す。彼は絵画を理解するために、シェイクスピアの戯曲「ハムレット」を読み込み、ラファエル前派について調べ上げ、オフィーリアのモデルとなったエリザベス・シダルについての資料を漁り、絵画に描写されているパンジーとケシについて植物図鑑で学んでいた。
「パンジーとケシの花言葉はなんでしょう?」と誇らしげに出題してきたときの彼の顔が思い浮かぶ。
「知らないよ」と私は答えた。
「パンジーは叶わぬ恋で、ケシは死だって」
あらゆることを拒否した彼は、オフィーリアの模写を眺める。眺めるというより、その絵画の方向にただ目を開いているというほうが適切な表現だと思えた。
彼は車椅子と一体となってしまい、養分を吸いとられているみたいに身体は弛緩していた。点滴に生かされていた。
まばたきを忘れた眼球に、一匹の蠅がとまった。蠅は彼の灰色がかった瞳を徘徊する。蠅の脚裏に密集するヘラ状接着性剛毛により、眼球の表皮と蠅が密着する。この剛毛の接着により、蝿は様々なモノの表面上を垂直にも逆さまにも歩くことができる。その毛を引っ付けたり引き剥がしたりしながら、眼球の上を歩く。死体のそれを歩くように。
彼はそれでもまばたきをすることなく、蠅でできた視界を遮る黒い点そのものを、あるいは黒い点越しに絵画を凝視している。
父はそんな蠅と庵を見て、精神科医が提案した強制摂食を許可した。
まだ未発達な庵の四肢は拘束され、自由が剥奪された。全身白の使用人が五人がかりでそれぞれ、頭、左腕、右腕、左脚、右脚を押さえ込み、彼は身じろぎさえ許されなかった。その中に義眼の使用人もいて、彼は左腕を抑えていた。
フォアグラのためにガバージュされて病気の肝臓を持ったガチョウのように、パイプを通して流動食を強制的に口から胃に押し込まれていた。食べ物を拒否した胃は痙攣し、流動食は逆流し、口から胃液の混じった酸っぱい吐瀉物が溢れる。彼の喉奥からはごぼごぼと粘性のある流動食に溺れるような、人間からは聞いたことがない音が鳴っていた。
全身麻酔で意識が飛ぶみたいに、彼の灰色の瞳はすとんと上へと落ち、白目を剥く。
この強制摂食が一日に三回の頻度で、四週間続けられた。彼を救うための行為が、虐待のようにしか見えなかった。
父は疲弊の色を滲ませながら、それらの強制摂食に立ち会っていた。泣くでもなく、ただその場にいた。どうして私たちにはこんな状況で泣いてくれる母親がいないのだろうかと、私はそんなどうしようもないことを考えていた。
11歳の私は、強制摂食の際に漏れる喉で溺れるごぼごぼという音を、日常で頻繁に幻聴した。耳の奥のかたつむりのような蝸牛を、胃液の混じった酸っぱい流動食が詰まりそうになりながらごぼごぼと流れる感覚に強襲される。
その不快な感覚を取り除こうと耳の奥をほじくった綿棒に、べっとりと血がついていた。強制摂食の記憶は朧げであるにも関わらず、なぜかそのべっとりと血のついた綿棒の赤は鮮やかに記憶していた。
あらゆる検査がなされ、あらゆる治療法が試され、あらゆる精神科医が白旗を上げた。あらゆることを拒否した彼は、死と真正面から対峙していた。解決の糸口を見出せないまま、数日が経過した。少々強引に食べ物を口に含ませても吐き出してしまった。そのため、腕や手の甲などの細い血管に針を刺し、製剤を注入する点滴で、栄養を補給していた。ただ、監視をしていないと彼はその点滴を外してしまうようになった。大人たちの焦燥はゆるやかに募り、やがて限界点まで到達する。命が危険に晒されていた。
ある精神科医が父に強制摂食を提案した。統合失調症、幻覚、拒食症等の摂食障害により、経口での栄養補給が困難である場合、実行される事例があるとのことだった。例として、1911年の英国にて女性解放運動者が、女性参政権のためのハンガー・ストライキを行った際に、刑務所で強制摂食が実施されたことがあるなどと力説した。強制摂食の概要に、父は親として拒絶の色を示した。
衰弱しきった庵は、過去に彼自身が描いたミレイの「オフィーリア」の模写を眺めていた。贋作として鑑定士を騙せそうなほど、この上なく精緻なレプリカだった。この模写を描いていた数ヶ月前の彼のことを私は思い出す。彼は絵画を理解するために、シェイクスピアの戯曲「ハムレット」を読み込み、ラファエル前派について調べ上げ、オフィーリアのモデルとなったエリザベス・シダルについての資料を漁り、絵画に描写されているパンジーとケシについて植物図鑑で学んでいた。
「パンジーとケシの花言葉はなんでしょう?」と誇らしげに出題してきたときの彼の顔が思い浮かぶ。
「知らないよ」と私は答えた。
「パンジーは叶わぬ恋で、ケシは死だって」
あらゆることを拒否した彼は、オフィーリアの模写を眺める。眺めるというより、その絵画の方向にただ目を開いているというほうが適切な表現だと思えた。
彼は車椅子と一体となってしまい、養分を吸いとられているみたいに身体は弛緩していた。点滴に生かされていた。
まばたきを忘れた眼球に、一匹の蠅がとまった。蠅は彼の灰色がかった瞳を徘徊する。蠅の脚裏に密集するヘラ状接着性剛毛により、眼球の表皮と蠅が密着する。この剛毛の接着により、蝿は様々なモノの表面上を垂直にも逆さまにも歩くことができる。その毛を引っ付けたり引き剥がしたりしながら、眼球の上を歩く。死体のそれを歩くように。
彼はそれでもまばたきをすることなく、蠅でできた視界を遮る黒い点そのものを、あるいは黒い点越しに絵画を凝視している。
父はそんな蠅と庵を見て、精神科医が提案した強制摂食を許可した。
まだ未発達な庵の四肢は拘束され、自由が剥奪された。全身白の使用人が五人がかりでそれぞれ、頭、左腕、右腕、左脚、右脚を押さえ込み、彼は身じろぎさえ許されなかった。その中に義眼の使用人もいて、彼は左腕を抑えていた。
フォアグラのためにガバージュされて病気の肝臓を持ったガチョウのように、パイプを通して流動食を強制的に口から胃に押し込まれていた。食べ物を拒否した胃は痙攣し、流動食は逆流し、口から胃液の混じった酸っぱい吐瀉物が溢れる。彼の喉奥からはごぼごぼと粘性のある流動食に溺れるような、人間からは聞いたことがない音が鳴っていた。
全身麻酔で意識が飛ぶみたいに、彼の灰色の瞳はすとんと上へと落ち、白目を剥く。
この強制摂食が一日に三回の頻度で、四週間続けられた。彼を救うための行為が、虐待のようにしか見えなかった。
父は疲弊の色を滲ませながら、それらの強制摂食に立ち会っていた。泣くでもなく、ただその場にいた。どうして私たちにはこんな状況で泣いてくれる母親がいないのだろうかと、私はそんなどうしようもないことを考えていた。
11歳の私は、強制摂食の際に漏れる喉で溺れるごぼごぼという音を、日常で頻繁に幻聴した。耳の奥のかたつむりのような蝸牛を、胃液の混じった酸っぱい流動食が詰まりそうになりながらごぼごぼと流れる感覚に強襲される。
その不快な感覚を取り除こうと耳の奥をほじくった綿棒に、べっとりと血がついていた。強制摂食の記憶は朧げであるにも関わらず、なぜかそのべっとりと血のついた綿棒の赤は鮮やかに記憶していた。
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