無題のドキュメント

夏目有也

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32. 幽霊くん、襲来

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 幽霊くん、襲来。幽霊くんVS悪魔の子。混ぜるな危険な彼らの、道端での対決。幽霊くんは牛の血塗ちまみれエプロンを身につけている。古惚ふるぼけた焼肉屋の昼の営業が終わった後の空き時間に、いおりをたまたま捜し当てたようだった。
「あ、いた」と幽霊くんが腑抜けた声で言った。
「あんただれ?」と庵も腑抜けた声で言った。
「時間がない」
「だれですか?」
「掃除の時間だ」
「清掃員さんですか?」
「焼肉屋さん」
 戦闘の気配を感知した庵は、左眼の眼帯を外し、外斜視がいしゃしの眼球を晒す。左眼は手術の甲斐あり、飛蚊症ひぶんしょうはあるものの、視力は僅かに回復しつつあった。医者から絶対に安静にして、自傷は固く禁じられていた。

 庵は左側を前に半身となり、左右の拳を目線の高さまで上げ、左利きなのにも関わらずオーソドックススタイルで戦いに備える。
 それは一瞬だった。幽霊くんは瞬発して、庵の懐まで入り込もうとする。それが悪手あくしゅであると気付かぬまま庵は脊髄反射で右の拳を繰り出すが、幽霊くんは重心をもう一段落としてそれをかわす。拳はぶうんという風を殴る低音とともに空を切る。重心の低いタックルであると判断して、庵は拳のガードを下げてタックルを受けようとする。それがフェイクであると察した瞬間には顔面に強い衝撃が走った。幽霊くんの右腕が弧を描くように振り上げられ、その高い打点から遠心力を利用し振り下ろされて庵の左眼に直撃した。それは死角からの強打、変態的な斜度からの変則パンチだった。
 受け身も取れずに後ろに倒れ込んだ庵の左腕に、幽霊くんは間髪入れずに腕挫十字固うでひしぎじゅうじがためを極めようとする。左腕をへし折られると直感する。左の肘関節が逆に伸びきり、ギターの弦が切れるような張り詰めた限界点の寸前で、午後五時を告げる音楽が鳴る。
「あ、営業の時間だ」と幽霊くんが呟く。
 幽霊くんは関節技をゆるゆると解き、腕折りを中断し、そそくさと立ち去る。戦闘力の差は歴然だった。次元が違う強さだった。

 その一撃により庵の左眼球は横に裂けた。眼球の構造が壊れ、角膜が裂傷し、虹彩と水晶体が外部へ露出するほどの眼球破裂だった。医者の手術は徒労に終わり、彼の左眼はそれが運命であるかのようにやっぱり失明した。

  その対決の後、庵は左腕について神経を擦り減らすように考え抜く。そして、自らの左腕がへし折れ、切断されるという自画像の連作を描く。三つの絵画から成る連作で、一枚目は健常な庵、二枚目には左腕をへし折られた庵、三枚目には左腕を切断された庵が描かれている。
 二枚目を描き終えると、庵の左腕の肘関節が燃え上がるように炎症し、どこにぶつけたわけでもないのに痣が浮かび上がった。
 三枚目を描き終えると、まるで本当に切断されてしまったみたいに、左腕を全く動かせなくなってしまった。
 絵画世界にのめり込みすぎて、脳が創造を現実であると錯覚し、肉体をげんに侵す。絵の具を皮膚の裏側から塗られたように痣が浮かぶことで左腕は変色し、神経を根こそぎずぼずぼ抜かれたように左腕は動かなくなった。代償を払うように彼は寝込み、左腕の回復には数週間を要した。

 片想いする焼肉屋の乙女は、その名の通り片想いをしていた。彼女は小柄で、たぬきのようにくりくりした愛らしい顔立ちをしていた。その顔から連想する通りの柔和な性格で、外でみんなと遊ぶより、内でひとりで遊ぶほうが好きだった。少女漫画とアニメが大好きで、休日なんかは二次元の世界にどっぷり浸かっていた。胸が小さめなことが目下最大の悩みで、育乳のためにおっぱいマッサージなるものをしているが、効果はいまひとつのようだった。
「腸」と蔑称される地区の古惚けた焼肉屋で働くことに、過保護な彼女の親は猛反対だった。母親は性的なものに拒絶反応を示すような人だった。濡れ場が居間でテレビに映ろうものなら、生き地獄のような雰囲気になった。そんな性分に準じてか、古惚けた焼肉屋で働き始めるまで、父親は厳格な門限を乙女に課していた。そんな家庭環境と彼女自身の性格から、恋人ができたことが一度もなく、恋を妄想するばかりだった。

「腸」という名はその内臓のうねうねのように入り組んだ路地が由来ではなく、その一区画にいる人間どもが「糞」であることを揶揄した名だと父親は声高に主張した。あそこは肥溜めだと断言した。そこは封建時代に食肉処理業者などの生き物の死に関わる不浄な職を生業なりわいとしていた人々が、隔離されて住まう集落だった。穢多えたの被差別部落であり、「腸」はその名残りが色濃くある一区画であるそうだ。それに税金が優遇されているなど、あの地区には逆差別がある。そんなことを父親は夕食の肉を喰らいながら唾を飛ばして熱弁していた。
 戦後のどさくさに紛れ、在日朝鮮人がそんな穢多の被差別部落の一部を不法占拠し、トタンのバラック住宅が密集するようになった。部落民と在日朝鮮人は差別の対象であり、下層社会に生きねばならない者として共存していた。だが、必然的に小競り合いや対立は頻発した。さらに無断土地転売が横行して、東南アジア系外国人や日本人の低所得者層の居住者の急激な増加も伴い、この地区の治安は著しく低下した。暴力沙汰は日常茶飯事であり、その迷路のような地形から性犯罪の温床ともなった。それらの名残りを両親は毛嫌いしていた。
 秘匿された差別主義者である母親は、在日朝鮮人の焼肉屋であることも気に入らないようだった。
 乙女は腸の人間がすべからくクソだという論理に違和感があった。そりゃいるのはいるだろうが、そうではない人もたくさんいるはずだ。主語が大きすぎるように感じる。平和を祈る乙女の心持ちで、半ば親に抗議する目的でその焼肉屋で働き始めた。大学を卒業した頃には、世は寒々しい就職氷河期であり、まともな就職先が決まらなかった彼女は、いずれにせよどこかしらで働かなくてはならなかった。その古惚けた焼肉屋で、思いもよらず恋に落ちた。

 片想い相手のその人は厨房で働いてた。彼は倍速ほどの速度で仕事をこなしていた。仕事が早いことの比喩ではなく、身体能力が高いのか実際に倍速再生で動いているようだった。厨房には彼ひとりしかおらず、皿洗いや仕込みや料理の提供など、常人では到底処理しきれないような正気の沙汰ではない仕事量を毎日のように消化していた。朝早くから夜遅くまで毎日毎日休みなく馬車馬のように働き、古惚けた焼肉屋の二階で寝泊まりをしているようだった。彼は何が楽しくて生きているのかよくわからない人だった。
 彼の左腕には、落書きみたいな刺青が彫られていた。彼の髪は毛量が多くぼさぼさで、実にパターン豊富な寝癖をいつもつけていた。荒々しい日本海の岸に打ち付ける波のような寝癖だなとか、噴火の兆しがあるマグマ湧き上がる火口みたいな寝癖だなとか、その日ごとに壮大な感想を思い浮かべては、ひとりでくすくすと笑って楽しみ、ノートにそのパターンを描き溜めていた。一見して怖そうな見た目に、その寝癖が愛おしくて堪らなかった。
 彼はたまに生傷や痣だらけになった。ただ我慢強いのか、痛みに強いのか、一切それを痛がる様子はないなと彼女は思っていた。
 手の爪が剥がれ、骨っぽい白いものが露出しているにも関わらず、じゃぶじゃぶ食器洗いをしていたときは、勇気を振り絞り彼女が食器洗いを代わることを申し出ようと、彼のすぐそばまで近寄った。彼が彼女に気づき、何かを言うのを待っている。だが、難発と連発を伴う吃音症きつおんしょうである彼女は、簡単な言葉すら口から出てこない。声が拒絶されるみたいに、言葉が喉奥で詰まってしまう。言葉の難発により、逃げたくなるような居た堪れない空気になる。就活の集団面接でのあの地獄の沈黙を思い出す。
「代わるってこと?」と彼が言うと、「だ、だ、だ、だって、痛そうだからなのだす、です」と詰まっただけ妙ちくりんになった口調と文章で言ってしまった。恥ずかしさのあまり、全速力でその場から逃げたいと考えていると、彼が「ああ、これか。忘れてた」と骨っぽい白いものが露出している泡まみれの指を眺めた。食器洗いでこんなに痛々しい怪我なんて忘れるわけないのに、強がる彼がとても可愛かった。

 彼に喋りかけるときはいつも緊張してしまう。前髪が変になってないかを無性に確認したくなる。どうやって笑顔をつくるのかすっかり忘れてしまう。赤面症だから顔が赤くなってないか気になる。声が上擦らないか心配になる。どういう声を出したらいいのかわからなくなる。そもそも普段どんな声だったか思い出せなくなる。どもらないといいと願う。仕舞いには、呼吸がぎこちなくなる。そうやってめぐるめく不安とのせめぎ合いのせいで、喋るときはちっとも楽しくないけど、お風呂の湯船なんかでおっぱいマッサージをしながらその会話を振り返ると、ふわふわとしたできたての綿飴みたいな温かみを胸の辺りに感じる。それでいて、あのときこう言っていればとか、このときああやっとけばとか、ひとりで大反省会を開催して、ふわふわとした胸の温かみがぎゅっと圧縮するように潰れて、硬くて熱い砂糖の塊になる。逃げたいほどに恥ずかしいのに、狂おしいほど傍にいたい。巨乳でさえあれば、男はイチコロでこんな悩みとは無縁になると信じて、育乳に一層性が出る。

 彼女は黒歴史確定の詩を恥ずかしげもなく書いたりしていた。この想いを伝えたいのに、意気地がなくて伝えられそうにないから、ポエマーとなるしか選択肢がない。
「あゝ、わたしなんてどうなってしまってもいい。この身が滅んでも、この魂が抜かれても、あなたのためなら一向に構わない。その代わり、どうか神様、彼を救ってあげてください」
 片想いする焼肉屋の乙女は、営業終了後に「腸」の外に出る。「腸」の出口、俗称「肛門」から覗くと、街灯に照らされて舞台上の踊り子のように踊る全裸のふとった女がいた。肌寒さなど知らないみたいに、肉と肉の境に汗を溜めて、合わせる音もないまま踊り狂う。その踊りに発情する迷彩服を着込んだ中年男が、照明のあたらない場所で観客としている。警棒を勃起したペニスに見立てしごくような卑猥な動きをする。
「君が好きだ!」と中年男が言う。「どこかへ逃避行しよう!」
 肥った女はそれを無視して傀儡のように踊る。

 幽霊くんと庵の道端での対決から、一ヶ月が経過しようとしていた。幽霊くんはその大声の告白を耳にしながら、二階へと上がる。四畳半に入ると、畳には土が散乱して、根こそぎ抜かれたガジュマルが横たわっていた。人間の脚のように見えるガジュマルのその股のところに、女性器を暗喩するような切り込みが入れられている。幽霊くんの性的不能を愚弄するような庵の報復だった。
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