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104号室
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その老人は、なぜか天狗様と呼ばれていた。生前に私の母親がそう彼を呼んでいた。私が大家になる遥か前から104 号室 で一人暮らしをしているが、戦後のごたごたで年齢不詳であるらしい。
生前には管理人だった私の母が、天狗様と何やら話し込むところを見かけることが多かった。天狗様は一貫として徹底した聞き役で、母が俯きながら永延ぼそぼそと何かを喋っていた。天狗様は樹齢百年の木目みたいな皺くちゃな顔をしているが、小柄ながら身体に芯があるように背筋がのびた老人だった。いつも着物を着ていて、袖口から覗く前腕は筋張っている。鼻の高さも特徴的で、ハゲ鷹のような顔の造形だった。
なんでこの木造アパートには、猛禽類みたい風貌の奴ばかりいるんだろうか。若かりし頃にはさぞ恐れられたであろうその眼力と筋の通った鼻で、渾名の由来であろう天狗に見えなくもなかった。
母が天狗様に話している内容を一度だけたまたま耳にしたことがあった。それは日本語ではなかった。かといって、何語かもわからない言葉を母は口にしていた。
母は世界を巡るような旅番組を録画するくらい好きだった。特にハワイに強い憧れがあるようだった。そのくせ飛行機が恐ろしいからと国外に旅行すらしたことがなかった。あの巨大な鉄の塊が飛ぶということが信じられないようだった。なんだったら、結界で封じ込まれているみたいに台東区からも出ることはあまりなかったぐらいだ。言語が堪能なんて話も聞いたことはない。そんな母が、母国語とも英語とも異なる言語を話していたのが奇怪だった。
天狗荘の傍には祠があった。その祠の前に天狗様が車椅子に腰掛け佇んでいた。日向ぼっこをしているのか、はたまた呆けてわけわからず放心しているのかわからなかったが、喘ぎ声の調査のため私はこの老人に声を掛けてみることにした。天狗様はえらく耳が遠そうだった。
「騒音とか聞こえませんか?」私は小さめの声で訊く。
「・・・」
「騒音とか聞こえないですか?」私は耳元で囁いてみる。
「・・・」
「聞こえてますか?」私は耳元で大きめの声で訊く。
「・・・」
「おじいちゃん!聞こえる!!?」私は耳元で叫ぶ。
「煩い!」
「あ、やっぱ騒音はあるのね」
「お前の声が聞こえるから、そんな耳元で声張るなってことだ、戯け」
「ああ、そっちね」
「お前のほうが騒音だ、間抜け。全く馬鹿ばっかでかなわん」
「騒音は聞こえます?喘ぎ声が聞こえるとか」
「それも聞こえる」
「どこから?」
天狗様は手に持った扇を微かに動かし、204 号室を指し示す。
「そうなんですね。204 号室について、何か知っていることないですかね?そういう騒音が出そうな背景とか」
「知らん」
「菓子折りあげるんで、食べかけですけど」
「要らん」
「じゃあ、僕の推理なんですが」
「聞かん」
「お礼は弾みますよ」
暫くの沈黙が鎮座し、蝉の合唱だけが聞こえた。
「・・・よお、わからんが、あれは宗教狂いだの」
「宗教狂い」
その言葉で、私は再び母を思い出す。彼女は善良な人だった。笑顔を絶やすことない人だった。放蕩していた父が事故死して以来、祠でいつもお祈りをしていた。朝昼晩とお供物をして、祠を毎日綺麗に掃除していた。そして、祈り狂い死んだ。
「神様は耳が遠いのかもしれん」そんな母がぽつりとそう言ったことを思い出す。「いいお医者さん知ってるから、教えてあげたいの。それも聞こえんか」
母が通い詰めていた耳鼻科には覚えがあった。その耳鼻科の医者は、愛想だけはいいもののヤブ医者と巷で噂だった。そんな噂を母に教えようとも考えたが、長年通院し何故だか全幅の信頼を寄せている医者の悪評を伝えるのはなんだか心苦しく、結局は何も言わなかった。
最後に母について天狗様に聞いてみた。
「あれは善人だった」そう天狗様は答えた。
生前には管理人だった私の母が、天狗様と何やら話し込むところを見かけることが多かった。天狗様は一貫として徹底した聞き役で、母が俯きながら永延ぼそぼそと何かを喋っていた。天狗様は樹齢百年の木目みたいな皺くちゃな顔をしているが、小柄ながら身体に芯があるように背筋がのびた老人だった。いつも着物を着ていて、袖口から覗く前腕は筋張っている。鼻の高さも特徴的で、ハゲ鷹のような顔の造形だった。
なんでこの木造アパートには、猛禽類みたい風貌の奴ばかりいるんだろうか。若かりし頃にはさぞ恐れられたであろうその眼力と筋の通った鼻で、渾名の由来であろう天狗に見えなくもなかった。
母が天狗様に話している内容を一度だけたまたま耳にしたことがあった。それは日本語ではなかった。かといって、何語かもわからない言葉を母は口にしていた。
母は世界を巡るような旅番組を録画するくらい好きだった。特にハワイに強い憧れがあるようだった。そのくせ飛行機が恐ろしいからと国外に旅行すらしたことがなかった。あの巨大な鉄の塊が飛ぶということが信じられないようだった。なんだったら、結界で封じ込まれているみたいに台東区からも出ることはあまりなかったぐらいだ。言語が堪能なんて話も聞いたことはない。そんな母が、母国語とも英語とも異なる言語を話していたのが奇怪だった。
天狗荘の傍には祠があった。その祠の前に天狗様が車椅子に腰掛け佇んでいた。日向ぼっこをしているのか、はたまた呆けてわけわからず放心しているのかわからなかったが、喘ぎ声の調査のため私はこの老人に声を掛けてみることにした。天狗様はえらく耳が遠そうだった。
「騒音とか聞こえませんか?」私は小さめの声で訊く。
「・・・」
「騒音とか聞こえないですか?」私は耳元で囁いてみる。
「・・・」
「聞こえてますか?」私は耳元で大きめの声で訊く。
「・・・」
「おじいちゃん!聞こえる!!?」私は耳元で叫ぶ。
「煩い!」
「あ、やっぱ騒音はあるのね」
「お前の声が聞こえるから、そんな耳元で声張るなってことだ、戯け」
「ああ、そっちね」
「お前のほうが騒音だ、間抜け。全く馬鹿ばっかでかなわん」
「騒音は聞こえます?喘ぎ声が聞こえるとか」
「それも聞こえる」
「どこから?」
天狗様は手に持った扇を微かに動かし、204 号室を指し示す。
「そうなんですね。204 号室について、何か知っていることないですかね?そういう騒音が出そうな背景とか」
「知らん」
「菓子折りあげるんで、食べかけですけど」
「要らん」
「じゃあ、僕の推理なんですが」
「聞かん」
「お礼は弾みますよ」
暫くの沈黙が鎮座し、蝉の合唱だけが聞こえた。
「・・・よお、わからんが、あれは宗教狂いだの」
「宗教狂い」
その言葉で、私は再び母を思い出す。彼女は善良な人だった。笑顔を絶やすことない人だった。放蕩していた父が事故死して以来、祠でいつもお祈りをしていた。朝昼晩とお供物をして、祠を毎日綺麗に掃除していた。そして、祈り狂い死んだ。
「神様は耳が遠いのかもしれん」そんな母がぽつりとそう言ったことを思い出す。「いいお医者さん知ってるから、教えてあげたいの。それも聞こえんか」
母が通い詰めていた耳鼻科には覚えがあった。その耳鼻科の医者は、愛想だけはいいもののヤブ医者と巷で噂だった。そんな噂を母に教えようとも考えたが、長年通院し何故だか全幅の信頼を寄せている医者の悪評を伝えるのはなんだか心苦しく、結局は何も言わなかった。
最後に母について天狗様に聞いてみた。
「あれは善人だった」そう天狗様は答えた。
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