8 / 10
104号室 (2)
しおりを挟む
天から肉塊が降ってきた。天狗様はそう思ったに違いない。瓦礫に紛れて巨漢はうつ伏せで倒れている。キチガイ女と天狗様の姿は見えない。天狗様が下敷きになってしまっていたとすれば、ペラペラにぺしゃんこになってしまったことだろう。
「あわわわわ」と 102 号室に住むこの春上京したばかりの女子大生が、204 号室の玄関先で言う。現実であわわわわ言う人を初めて見た。
「二人刺されました。救急車と警察呼んで」と私は雑巾でも振り絞るように言う。
「え?うそ」と女子大生は言い、私を見てから少女を見る。「あなた刺されたのに平気なの!?」
「まあ、落ち着きなさい。刺されたのは私じゃない。下のおデブさんよ」と少女が落ち着き払って言う。この少女はきっと人生を何周かしているのだろう。
どうやら私だけではなく、少女にも見えていたらしい。錆びた包丁が巨漢の腹に刺さるのを。
うつ伏せで倒れ込んだことから、刃は奥へとめり込んでいるだろう。それを裏付けるように、彼の腹の下には血溜まりができつつあった。
上京したての女子大生はパニックを体現するようにドタバタと自室に戻り、固定電話機から警察に連絡をしてくれている。
「もしもし!警察ですか!?床が抜けたんです!あ、間違えた。天井が抜けたんです!あ、いや、えーと。二階から見たら天井が抜けて、一階から見たら床が抜けたんです!ちがーう!逆だ!二階から見ると床が抜けて、一階から見ると天井が抜けました!あと、二人刺されてるみたいです!優しそうなおデブの人と、ムッツリスケベな小デブの人です!」といった具合に無駄の多い通報を済ませる。
もし生き延びられたら、ダイエットでも始めてみようかと思う。それから女の子と喋るときは、視線に気をつけようとも思う。
女子大生は白くて清潔なタオルを手に 204 号室に戻り、私の患部にあててくれた。暑さと緊張からか、彼女の腋や背、胸元が色濃くなっていた。きっとこの視線を気をつけるべきなのだろう。
「彼は息子さんですか?」と貞操帯を付けた少年のほうを向き、女子大生はぽつりと呟く。臭いが強いから呼吸を止めているのか、少し鼻にかかった声だった。
「そうよ。彼とは同級生だったの」と愛らしいフランス人形のような少女はもっとあからさまに顔を顰めて指で鼻を摘みながら答える。
「彼は旦那さんなのでしょうか?」と声帯を抜かれたであろう男のほうを向き、女子大生がぽつりと呟く。
男の目は限界まで見開かれ、口は半開きで端から涎を垂らし、気が触れてしまっているのは明らかだった。この男が旦那という発想は全くなかった。一緒に暮らしていたのが、何かしらのきっかけで押し入れに監禁されるようになった。監禁という時点で私の常識では測りきれないが、ないことはないかもしれない。
階下から物音がする。人影が蠢く。その影は細い。真っ先に立ち上がったのは、キチガイ女だった。右の肘は関節が逆に曲がっているが、痛そうな素振りも見せていない。
大きな穴からゆっくりと階上を見上げる。少女を見て、女子大生を見て、私を見る。少し動いただけではち切れてしまうような張り詰めた空気が流れる。
見誤っていた。この女を肉体的な弱者と勘違いしていた。いざとなれば、どうにかなると思っていた。こいつは捕食者なのだろう。四肢がちぎれても這いながら襲ってきそうな生命力を感じる。
キチガイ女は錆だらけの包丁を拾い上げ、104 号室から出ようとする。階上の獲物三人を殺そうとしているのかもしれない。パニックに陥る雌鹿、肝の据わった子猫、手負いの雄豚。勝てない気がする。ひょっとすると、肝の据わった子猫が一番頼りになるかもしれない。
「待てい」と階下から聞こえた。瓦礫が少し動き、埃が舞う。その埃から顔を出したのは、天狗様だった。
「あわわわわ」と 102 号室に住むこの春上京したばかりの女子大生が、204 号室の玄関先で言う。現実であわわわわ言う人を初めて見た。
「二人刺されました。救急車と警察呼んで」と私は雑巾でも振り絞るように言う。
「え?うそ」と女子大生は言い、私を見てから少女を見る。「あなた刺されたのに平気なの!?」
「まあ、落ち着きなさい。刺されたのは私じゃない。下のおデブさんよ」と少女が落ち着き払って言う。この少女はきっと人生を何周かしているのだろう。
どうやら私だけではなく、少女にも見えていたらしい。錆びた包丁が巨漢の腹に刺さるのを。
うつ伏せで倒れ込んだことから、刃は奥へとめり込んでいるだろう。それを裏付けるように、彼の腹の下には血溜まりができつつあった。
上京したての女子大生はパニックを体現するようにドタバタと自室に戻り、固定電話機から警察に連絡をしてくれている。
「もしもし!警察ですか!?床が抜けたんです!あ、間違えた。天井が抜けたんです!あ、いや、えーと。二階から見たら天井が抜けて、一階から見たら床が抜けたんです!ちがーう!逆だ!二階から見ると床が抜けて、一階から見ると天井が抜けました!あと、二人刺されてるみたいです!優しそうなおデブの人と、ムッツリスケベな小デブの人です!」といった具合に無駄の多い通報を済ませる。
もし生き延びられたら、ダイエットでも始めてみようかと思う。それから女の子と喋るときは、視線に気をつけようとも思う。
女子大生は白くて清潔なタオルを手に 204 号室に戻り、私の患部にあててくれた。暑さと緊張からか、彼女の腋や背、胸元が色濃くなっていた。きっとこの視線を気をつけるべきなのだろう。
「彼は息子さんですか?」と貞操帯を付けた少年のほうを向き、女子大生はぽつりと呟く。臭いが強いから呼吸を止めているのか、少し鼻にかかった声だった。
「そうよ。彼とは同級生だったの」と愛らしいフランス人形のような少女はもっとあからさまに顔を顰めて指で鼻を摘みながら答える。
「彼は旦那さんなのでしょうか?」と声帯を抜かれたであろう男のほうを向き、女子大生がぽつりと呟く。
男の目は限界まで見開かれ、口は半開きで端から涎を垂らし、気が触れてしまっているのは明らかだった。この男が旦那という発想は全くなかった。一緒に暮らしていたのが、何かしらのきっかけで押し入れに監禁されるようになった。監禁という時点で私の常識では測りきれないが、ないことはないかもしれない。
階下から物音がする。人影が蠢く。その影は細い。真っ先に立ち上がったのは、キチガイ女だった。右の肘は関節が逆に曲がっているが、痛そうな素振りも見せていない。
大きな穴からゆっくりと階上を見上げる。少女を見て、女子大生を見て、私を見る。少し動いただけではち切れてしまうような張り詰めた空気が流れる。
見誤っていた。この女を肉体的な弱者と勘違いしていた。いざとなれば、どうにかなると思っていた。こいつは捕食者なのだろう。四肢がちぎれても這いながら襲ってきそうな生命力を感じる。
キチガイ女は錆だらけの包丁を拾い上げ、104 号室から出ようとする。階上の獲物三人を殺そうとしているのかもしれない。パニックに陥る雌鹿、肝の据わった子猫、手負いの雄豚。勝てない気がする。ひょっとすると、肝の据わった子猫が一番頼りになるかもしれない。
「待てい」と階下から聞こえた。瓦礫が少し動き、埃が舞う。その埃から顔を出したのは、天狗様だった。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
意味が分かると怖い話(解説付き)
彦彦炎
ホラー
一見普通のよくある話ですが、矛盾に気づけばゾッとするはずです
読みながら話に潜む違和感を探してみてください
最後に解説も載せていますので、是非読んでみてください
実話も混ざっております
それなりに怖い話。
只野誠
ホラー
これは創作です。
実際に起きた出来事はございません。創作です。事実ではございません。創作です創作です創作です。
本当に、実際に起きた話ではございません。
なので、安心して読むことができます。
オムニバス形式なので、どの章から読んでも問題ありません。
不定期に章を追加していきます。
2025/12/29:『ふるいゆうじん』の章を追加。2026/1/5の朝4時頃より公開開始予定。
2025/12/28:『ふゆやすみ』の章を追加。2026/1/4の朝4時頃より公開開始予定。
2025/12/27:『ことしのえと』の章を追加。2026/1/3の朝8時頃より公開開始予定。
2025/12/26:『はつゆめ』の章を追加。2026/1/2の朝8時頃より公開開始予定。
2025/12/25:『がんじつのおおあめ』の章を追加。2026/1/1の朝4時頃より公開開始予定。
2025/12/24:『おおみそか』の章を追加。2025/12/31の朝4時頃より公開開始予定。
2025/12/23:『みこし』の章を追加。2025/12/30の朝4時頃より公開開始予定。
※こちらの作品は、小説家になろう、カクヨム、アルファポリスで同時に掲載しています。
【1分読書】意味が分かると怖いおとぎばなし
響ぴあの
ホラー
【1分読書】
意味が分かるとこわいおとぎ話。
意外な事実や知らなかった裏話。
浦島太郎は神になった。桃太郎の闇。本当に怖いかちかち山。かぐや姫は宇宙人。白雪姫の王子の誤算。舌切りすずめは三角関係の話。早く人間になりたい人魚姫。本当は怖い眠り姫、シンデレラ、さるかに合戦、はなさかじいさん、犬の呪いなどなど面白い雑学と創作短編をお楽しみください。
どこから読んでも大丈夫です。1話完結ショートショート。
(ほぼ)1分で読める怖い話
涼宮さん
ホラー
ほぼ1分で読める怖い話!
【ホラー・ミステリーでTOP10入りありがとうございます!】
1分で読めないのもあるけどね
主人公はそれぞれ別という設定です
フィクションの話やノンフィクションの話も…。
サクサク読めて楽しい!(矛盾してる)
⚠︎この物語で出てくる場所は実在する場所とは全く関係御座いません
⚠︎他の人の作品と酷似している場合はお知らせください
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる