お江戸物語 藤恋歌

らんふぁ

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五十九話

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……又、藤の花が咲く頃がやって来た。


屋敷の藤棚に垂れ下がり、芳香を放つ薄紫の花房…。


執務中の右京は伸びをすると廊下に出て、その甘い香りを鼻孔に吸い込んだ。


この二年あまり、彼の身辺は激変し、神経を張りつめる日々が続いている。


周りの者が気を使い、女を勧めたが、三回忌前なのを盾にして、まだ一輪の花も側には居ない。


白い面影が未だに忘れられないのだ。


特に藤の花が咲く今の季節は……。


風の便りに白雪太夫が落籍され、吉原を後にしたと耳にした。


右京は未練がましい己を嘲笑う。


早、兄の三回忌もそろそろだ。


もう言い訳は通るまい。


だが……。


右京を呼びに来た三郎は彼の寂しく、人恋しげな横顔にハッと胸を突かれた。


「……殿」


右京はその声に我に返った。「お、三郎か。許せ。少しサボっておったわ」


「……いえ」


右京は兄の前藩主が亡くなると、ひたすら、藩の立て直しに勤めて来た。


三郎や右近は、やはり右京様はご立派だと感激していたが、ある時、剣友の平介が言った事が妙に頭に引っかかっていた。




平助はフンと鼻を鳴らした。

「三郎、右近、お主らは本当に単純で良いの」


三郎はその言い草にムッとする。「……どういう意味だ?」


「右京様にとっては、どうかと言う事よ。あの方に取っては、自由に空を飛ぶ鷹が翼を手折られ、狭い籠に閉じ込められたような物だ。俺も右京様に帰藩を迫った手前、あまり偉そうには言えんがな。鳥山右京と言う1人の人間としては、捨てる物の方が多いのかも知れんぞ」


「一国一城の主だぞ」三郎は抗議をする。


「普通ならな。だが右京様は藩主の座など屁とも思っておられんわ。あの方にとっては何の価値も無い」身も蓋もない平介の意見に右近は顔をしかめた。「……また酷い言いようだの、平介」


「右京様が藩に戻ったのは、お主らが下記らに始末され無駄死にさせては、と思われたのと民百姓の為……決してご自分の為ではない。出来れば、一生藩などとは無縁でいたかったろう……。一度は養子に出された時に完全に切れていたのだ」


「しかし…!」


話を遮ろうとした三郎に向かい平介は、やや声を荒げた。「分かっておるわ。お主の言いたい事など。だが、俺はあえて言いたい。右京様が人間としての幸せを求めてはいかんのか?お主らが必要なのは、右京様が嘆いた通り、結局はつつがなく藩を治め跡継を作る主だけなのか?」




……こうして右京の横顔を見ると平介の言う通りに、キリキリと張りつめたその顔は少しも幸せそうに見えない。


確かに平介の言葉は胸に堪えた。


「せめてお主らぐらいは、右京様個人の幸せを考えて差し上げろ。義務だけで人間がずっと耐えられると思うのか?」


三郎は藤の花を見つめる右京に「美しゅう咲き誇っておりますな……殿は藤がお好きでしたか……」そっと尋ねる。


「……一番好きだ。行くぞ、三郎。余を呼びに来たのであろう?」


「はっ!」


三郎は右京に従いながら、後ろを振り返る。


藤の花か……


どちらかと言えば、庭にどんな花が咲こうが、どうでも良い殿が藤には何故か思い入れを見せている……


あの表情には何かある……


ハッと武骨な彼の頭にも閃いた。


……女?


忘れられない女がいるのだろうか……


藤の花が殿とその女を繋ぐ何かなのか?


彼は思い切って探って見る事にした。


今の殿には女の影は全くないので、それは藩主になる前の事に間違いない……


まずは、暮らしていた長屋から、だな………


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