60 / 65
六十話
しおりを挟む
「松永の旦那の?まあ、元気にしてるのかい?」
右京がかつて暮らしていた小網町の長屋に赴いた三郎は、彼の友人だと名乗って携えた土産物をおかみさん連中に渡した。
「長屋の人に渡して欲しいと頼まれたでの」
喜び懐かしがったおかみさん達。
「相変わらず、松永の旦那は優しいねぇ。それでお家は無事に継ぎなさったかね?」
三郎は頷いてみせた。「滞りなく、な。だが、なかなか嫁を取ろうとせんので、周りも困っておるのだ。長屋にいる時に好きなおなごの話でも聞かなかったかの?」
「旦那に女?知らないねぇ……」一人が首を捻れば、「まるっきり聞いた事が無いよ」と別の女も口を添えた。
「藤の花に関係してるかも知れないのだが……」三郎は食い下がった。
藤の花と聞き、おかみさんの一人があ、と言う顔をする。
「……そういや、藤の花を大事に持っていた事があったっけ……洗濯物を旦那に渡しに行った時にね、部屋の中でじっと見つめてたのさ。『好きな女にでも貰ったかい?』って聞いた覚えが……」
パッと喜色を表した三郎「それだ!誰から貰ったか話したか?」
「あの旦那は人を煙に巻くのが上手いからね」
「いや、何でも良い。言った事を教えてくれ」彼は必死で頼み込む。
「う~…ん」おかみさんは眉を寄せ思い出そうとしている。「……えっと……そうそう、確か花魁道中で日本ーの太夫に貰ったと……でも、まさかねぇ……。ほら、長崎屋さんが襲われた時ぐらいだったからね。長屋に帰らなかったのは。花街に行く様子も無かったし。しばらく家に籠もっていた時もあったぐらい……」
ちょっと美人な女が口を挟んだ「そうだったよね、旦那は白粉臭い事なんて一度も無かったよ。まさか男色か?なんてみんなで笑ったくらいさ」
「あんたは自分になびかないと、みんな男色にしちまうんだろ」
きゃあきゃあ笑い合うおかみさん達に礼を言うと、三郎は長屋を後にした。
殿が漏らした“太夫に貰った”……多分これが真相に違いない。
人は自分の隠している思いを、ふと誰かに言いたくなる物だ。
冗談に紛らせて、つい、本当の事を言ったのだろう……
殿は吉原の太夫に惚れていたのか?
そして、二年前の吉原一の太夫と言えば……
朴念仁の三郎でさえも、名前は知っていた。
白雪太夫……!
ハッと思い出した事があった。
そうだ、内藤外記が懸想し、手に入れる為山城屋と組んで……
そういえば、死んだ伊織があの時、殿が血相変えて飛び出して行ったと……
三郎は頭を抱えてしまった。
時既に遅く、白雪太夫は、どこぞに落籍されたと言う話だったからである。
そんな噂を聞いてから、もうそろそろ一年にはなるだろう。
身請けされたら、行方は分からないし、分かった所で、当然旦那付き。他人の物。
……どうしようも無い。
殿と白雪太夫を繋ぐ藤の花が、どのような意味を持つかは分からないが……
藤棚を見つめる主君のあの顔……
……あれは、まだ太夫を忘れかねているのだろう……
「……平介、殿の幸せは……飛び去ってしもうた……誰ぞの手の中にの……」
彼は肩を落とし、ため息をついた
がっかりして、屋敷に戻った三郎の様子がおかしい事に右近が気づいた。
「……何かあったか?」
意気消沈した三郎は訳を話した。「…藤の花にまつわる女を探しそんなに殿が忘れかねている女なら何とかして屋敷に入れようと思ったが……」
右近も同じように慨嘆する。「相手がよりによって白雪太夫……それも身請けされているとあってはのぅ……」
「……殿の気持ちが変わるのを待つしかあるまいな……」
右近はため息をついた。「……嫁取りや側室の話はまだ先か……」
「ご家老達がさぞかしうるさかろうな……」
二人は顔をみあわせ、相憐れんだ。
案の定、外記に代わった江戸家老が、ガミガミと三郎と右近を叱りつけた。
「先代様の三回忌がもうすぐ来る。殿のお気持ちもこれで、ようやく一段落されよう。さればよいか、お側に、もそっと麗しい侍女でも置け!……全くお主らのようなむさ苦しい男と、婆さんばかりでは……!早よう殿にはお世継ぎを上げて頂けねばならんのに」
かつて、家を継ぐ前の主君が、自嘲して言った『藩主などは所詮種馬よ』の言葉が二人の脳裏を掠めた。
「……怖れながら……そのような事、殿にはまだ申し上げられませぬ」平伏した三郎は家老に言った。
「何だと?」
「殿は以前『藩主は種馬』だと不満を漏らされ申した。先代の殿もそれでお悩みになられ、結局は藩を二分する千代菊丸様の件に繋がったのでござる」
右近も言葉を添えた。「殿は今、目一杯気を張っておられます。そこにお世継ぎ、お世継ぎと新たな重圧をかけたくはございませぬ。ご家老とて、やいのやいの言われてその気になりますか?まして殿は誠実なお方……殿御自身が気に入り、その気にならねば……」気軽に花を摘むような方ではない、と言った。
男としては誠実で申し分ないのだが、彼は、一国の主なのである。
だが、人の性格はそうそう変わらない。
家老は困惑顔。「……うーむ。困ったのぅ……」
三郎は再度伏して願った。「ご家老、どうかもう暫し、殿に時間を」
右京がかつて暮らしていた小網町の長屋に赴いた三郎は、彼の友人だと名乗って携えた土産物をおかみさん連中に渡した。
「長屋の人に渡して欲しいと頼まれたでの」
喜び懐かしがったおかみさん達。
「相変わらず、松永の旦那は優しいねぇ。それでお家は無事に継ぎなさったかね?」
三郎は頷いてみせた。「滞りなく、な。だが、なかなか嫁を取ろうとせんので、周りも困っておるのだ。長屋にいる時に好きなおなごの話でも聞かなかったかの?」
「旦那に女?知らないねぇ……」一人が首を捻れば、「まるっきり聞いた事が無いよ」と別の女も口を添えた。
「藤の花に関係してるかも知れないのだが……」三郎は食い下がった。
藤の花と聞き、おかみさんの一人があ、と言う顔をする。
「……そういや、藤の花を大事に持っていた事があったっけ……洗濯物を旦那に渡しに行った時にね、部屋の中でじっと見つめてたのさ。『好きな女にでも貰ったかい?』って聞いた覚えが……」
パッと喜色を表した三郎「それだ!誰から貰ったか話したか?」
「あの旦那は人を煙に巻くのが上手いからね」
「いや、何でも良い。言った事を教えてくれ」彼は必死で頼み込む。
「う~…ん」おかみさんは眉を寄せ思い出そうとしている。「……えっと……そうそう、確か花魁道中で日本ーの太夫に貰ったと……でも、まさかねぇ……。ほら、長崎屋さんが襲われた時ぐらいだったからね。長屋に帰らなかったのは。花街に行く様子も無かったし。しばらく家に籠もっていた時もあったぐらい……」
ちょっと美人な女が口を挟んだ「そうだったよね、旦那は白粉臭い事なんて一度も無かったよ。まさか男色か?なんてみんなで笑ったくらいさ」
「あんたは自分になびかないと、みんな男色にしちまうんだろ」
きゃあきゃあ笑い合うおかみさん達に礼を言うと、三郎は長屋を後にした。
殿が漏らした“太夫に貰った”……多分これが真相に違いない。
人は自分の隠している思いを、ふと誰かに言いたくなる物だ。
冗談に紛らせて、つい、本当の事を言ったのだろう……
殿は吉原の太夫に惚れていたのか?
そして、二年前の吉原一の太夫と言えば……
朴念仁の三郎でさえも、名前は知っていた。
白雪太夫……!
ハッと思い出した事があった。
そうだ、内藤外記が懸想し、手に入れる為山城屋と組んで……
そういえば、死んだ伊織があの時、殿が血相変えて飛び出して行ったと……
三郎は頭を抱えてしまった。
時既に遅く、白雪太夫は、どこぞに落籍されたと言う話だったからである。
そんな噂を聞いてから、もうそろそろ一年にはなるだろう。
身請けされたら、行方は分からないし、分かった所で、当然旦那付き。他人の物。
……どうしようも無い。
殿と白雪太夫を繋ぐ藤の花が、どのような意味を持つかは分からないが……
藤棚を見つめる主君のあの顔……
……あれは、まだ太夫を忘れかねているのだろう……
「……平介、殿の幸せは……飛び去ってしもうた……誰ぞの手の中にの……」
彼は肩を落とし、ため息をついた
がっかりして、屋敷に戻った三郎の様子がおかしい事に右近が気づいた。
「……何かあったか?」
意気消沈した三郎は訳を話した。「…藤の花にまつわる女を探しそんなに殿が忘れかねている女なら何とかして屋敷に入れようと思ったが……」
右近も同じように慨嘆する。「相手がよりによって白雪太夫……それも身請けされているとあってはのぅ……」
「……殿の気持ちが変わるのを待つしかあるまいな……」
右近はため息をついた。「……嫁取りや側室の話はまだ先か……」
「ご家老達がさぞかしうるさかろうな……」
二人は顔をみあわせ、相憐れんだ。
案の定、外記に代わった江戸家老が、ガミガミと三郎と右近を叱りつけた。
「先代様の三回忌がもうすぐ来る。殿のお気持ちもこれで、ようやく一段落されよう。さればよいか、お側に、もそっと麗しい侍女でも置け!……全くお主らのようなむさ苦しい男と、婆さんばかりでは……!早よう殿にはお世継ぎを上げて頂けねばならんのに」
かつて、家を継ぐ前の主君が、自嘲して言った『藩主などは所詮種馬よ』の言葉が二人の脳裏を掠めた。
「……怖れながら……そのような事、殿にはまだ申し上げられませぬ」平伏した三郎は家老に言った。
「何だと?」
「殿は以前『藩主は種馬』だと不満を漏らされ申した。先代の殿もそれでお悩みになられ、結局は藩を二分する千代菊丸様の件に繋がったのでござる」
右近も言葉を添えた。「殿は今、目一杯気を張っておられます。そこにお世継ぎ、お世継ぎと新たな重圧をかけたくはございませぬ。ご家老とて、やいのやいの言われてその気になりますか?まして殿は誠実なお方……殿御自身が気に入り、その気にならねば……」気軽に花を摘むような方ではない、と言った。
男としては誠実で申し分ないのだが、彼は、一国の主なのである。
だが、人の性格はそうそう変わらない。
家老は困惑顔。「……うーむ。困ったのぅ……」
三郎は再度伏して願った。「ご家老、どうかもう暫し、殿に時間を」
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
【完結】ふたつ星、輝いて 〜あやし兄弟と町娘の江戸捕物抄〜
上杉
歴史・時代
■歴史小説大賞奨励賞受賞しました!■
おりんは江戸のとある武家屋敷で下女として働く14歳の少女。ある日、突然屋敷で母の急死を告げられ、自分が花街へ売られることを知った彼女はその場から逃げだした。
母は殺されたのかもしれない――そんな絶望のどん底にいたおりんに声をかけたのは、奉行所で同心として働く有島惣次郎だった。
今も刺客の手が迫る彼女を守るため、彼の屋敷で住み込みで働くことが決まる。そこで彼の兄――有島清之進とともに生活を始めるのだが、病弱という噂とはかけ離れた腕っぷしのよさに、おりんは驚きを隠せない。
そうしてともに生活しながら少しづつ心を開いていった――その矢先のことだった。
母の命を奪った犯人が発覚すると同時に、何故か兄清之進に凶刃が迫り――。
とある秘密を抱えた兄弟と町娘おりんの紡ぐ江戸捕物抄です!お楽しみください!
※フィクションです。
※周辺の歴史事件などは、史実を踏んでいます。
皆さまご評価頂きありがとうございました。大変嬉しいです!
今後も精進してまいります!
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
無用庵隠居清左衛門
蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。
第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。
松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。
幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。
この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。
そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。
清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。
俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。
清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。
ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。
清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、
無視したのであった。
そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。
「おぬし、本当にそれで良いのだな」
「拙者、一向に構いません」
「分かった。好きにするがよい」
こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。
花嫁
一ノ瀬亮太郎
歴史・時代
征之進は小さい頃から市松人形が欲しかった。しかし大身旗本の嫡男が女の子のように人形遊びをするなど許されるはずもない。他人からも自分からもそんな気持を隠すように征之進は武芸に励み、今では道場の師範代を務めるまでになっていた。そんな征之進に結婚話が持ち込まれる。
石榴(ざくろ)の月~愛され求められ奪われて~
めぐみ
歴史・時代
お民は江戸は町外れ徳平店(とくべいだな)に夫源治と二人暮らし。
源治はお民より年下で、お民は再婚である。前の亭主との間には一人息子がいたが、川に落ちて夭折してしまった。その後、どれだけ望んでも、子どもは授からなかった。
長屋暮らしは慎ましいものだが、お民は夫に愛されて、女としても満ち足りた日々を過ごしている。
そんなある日、徳平店が近々、取り壊されるという話が持ちあがる。徳平店の土地をもっているのは大身旗本の石澤嘉門(いしざわかもん)だ。その嘉門、実はお民をふとしたことから見初め、お民を期間限定の側室として差し出すなら、長屋取り壊しの話も考え直しても良いという。
明らかにお民を手に入れんがための策略、しかし、お民は長屋に住む皆のことを考えて、殿様の取引に応じるのだった。
〝行くな!〟と懸命に止める夫に哀しく微笑み、〝約束の1年が過ぎたから、きっとお前さんの元に帰ってくるよ〟と残して―。
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
屈辱と愛情
守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる