お江戸物語 藤恋歌

らんふぁ

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六十ー話

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「おや、本田様、今日は浮かない顔をしておいでで。どこか具合でも?」


「長崎屋殿、そうではない……」


定例の売り上げの報告に来て、右京の手が空くまで待っているように告げた三郎に長崎屋が、声をかけた。


「まさか、殿様に何か……?」


慌てて三郎は否定した。「いや。そうではない」ふと気がつき「……そうだ。そなたなら……白雪太夫の事は詳しかろう?」


武骨な三郎から、思いがけない名前が出て長崎屋は目を丸くし、思わず笑った「おや、まあ……本田様の口から、まさか白雪太夫の名前を聞くとは思いませなんだ。……ですが太夫は、とうに吉原にはいませんが?」


ぶ然とした三郎は頷いた。「知っておる。」彼は周りを見回すと長崎屋に小さな声で「……この事、誰にも内密にの」


「はい、分かっております」


三郎は少しためらった後、「……その、だな……白雪太夫はどんな太夫だったのだ?某のような無粋者は吉原などトンと縁が無くてな……」ようやく口にした。


「始めにお断りしておきますが、吉原で太夫と呼ばれる者は、ただ客と枕を交わすだけではございません。岡場所などの女郎とは、まるで格が違う事をまずお含みおき下さい」長崎屋は、どこか窘める口調である。


「そ、そうか」


長崎屋は一人頷く。

「……そう、太夫と呼ばれるのは、数多の遊女がいる吉原の中でもほんの一握り。美貌、教養、気性が抜きん出た者だけです。実際その教養は下手な武家のお嬢様よりも優れておりますよ。でなくて何故、大枚をはたいてまで太夫をと望む通人が絶えぬ訳がありましょうや?」


つまりは長崎屋のような客を満足させねばならない、と言う事だ。


この商人は、粋で人柄もよく、胆力も決して武士には負けずとも劣らない。


いや、彼ほどの男は自分の藩どころか他の家中を見回しても、そうはいないのである。


並ぶのは我が殿くらいだと、三郎は密かに感心していた。


「ふーむ……」


そんな三郎の気も知らず、長崎屋はしみじみと述懐する。「白雪太夫は、そのような太夫の中でも一際抜きん出た存在でした。最高位の松の位であり、まさしく吉原一の太夫と申して良いでしょう……あれほどの太夫は、これから先は暫く出て来ますまい」


見れば、三郎が難しい顔になっていた。


「……本田様?一体どうなされたのです?」


「藤の花が……な」三郎はポツンと言った。


意外な返答に、長崎屋は思わず聞き返した。「藤の花?でございますか?」


「普段は花など拘りを見せぬ殿が、藤の花がお好きでの……『好きだ』と仰ったそのお顔が何ともお寂しそうで……」


そう話す三郎の顔も寂しげである。


彼を見つめた長崎屋は、無言で先を促した。


「もしや、藤の花にまつわる好きなおなごが居たのかも知れぬと思っての……」


「それが白雪太夫だと?」


頷いた三郎「……殿は未だに女の1人も侍らせようとせぬ。もしや、殿がお好きな藤の花に誰かを重ねているのかと思い、調べて見たのだ。するとどうも白雪太夫らしくての……だからどんなおなごだったかと知りたくなったのよ。それ程の女なら、殿が忘れかねているのも無理はないの……」


「……」


「……剣友に言われたのだ。藩主は人間として幸せになってはいかんのかと……。某と右近ぐらいは殿の幸せを考えてやる事は出来んのかとな……」


「……」


「普通の町人の娘なら、何とかしてでも殿と添わせて差し上げたかったが、相手が白雪太夫……それも既に身請けされたとなれば……諦めるしかござらん。せめて、幸せに暮らしていると分かれば殿もお心を他の花に向けて下さるかも知れんが。……ははは、某の今出来るのは、お世継ぎお世継ぎと言うご家老から殿のお気持ちを守る事ぐらいかのぅ」


そこへ小姓が長崎屋を呼びに来た。


「お、つまらない話をしてすまぬ。殿のお呼びだ。参ろうか」

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