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事故物件
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昼下がりの駅前は、秋の乾いた空気で満ちていた。ビルの谷間から射し込む陽光が、まるで舞台照明のように舗道を照らしている。
鷲麗華は、小さな不動産屋の前で立ち止まった。隣には純明がいて、彼は新しいゲームを思い出したかのような顔で、興味津々に看板を覗き込んでいる。
「ねぇ、お姉ちゃん。今日、雅子さんの引っ越し先、見に行くんだよね?」
「そうよ、純明ちゃん。雅子が授業で来られないから、代わりに内見しておいてほしいって頼まれたの。私、こういうの嫌いじゃないのよね。お部屋を見て、その空気を感じるの」
麗華は、胸の前でスマホを軽く握った。雅子から送られてきた物件情報が画面に表示されている。
駅から徒歩五分、築十五年、ワンルームの賃貸マンション。家賃は学生にも優しい設定だ。だが、ひとつだけ妙な点があった。
備考欄の最後に、**「告知事項あり」**という短い文字。
「ねえ、お姉ちゃん。この“告知事項”って、なぁに?」
「……さあ、何かしらね。多分、大したことじゃないわ」
そう答えながらも、麗華はほんの一瞬、眉をひそめた。
「告知事項あり」──事故物件によく使われる表現だ。誰かが亡くなった、あるいはトラブルがあった。そういう“現実”の影が潜んでいることを、彼女は知っていた。
不動産屋に入り、担当の男性に案内されて物件へ向かう。
昼の陽射しの中を歩いているのに、なぜか空気は少し湿って重い。
純明は、そんなことは気にも留めず、ぴょんぴょんと段差を飛び越えながら楽しそうに先を歩いていた。
「お姉ちゃん、早く早く!」
「はいはい、純明ちゃん。そんなに急がなくても、お部屋は逃げないわ」
マンションは外観こそ古びていたが、清掃は行き届いており、ぱっと見には何の変哲もない建物だった。
エントランスを抜け、エレベーターに乗る。鏡張りの壁に、麗華と純明が並んで映る。
……不動産屋の男性は、鏡の中の麗華だけに視線を向けていた。
「この部屋は、学生さんにも人気なんですよ。お一人なら十分な広さですし」
「ええ、そうですね。私と純明ちゃんにはぴったりです」
「えっ……?」
男性が一瞬、言葉を飲み込んだ。
麗華はその様子に気づかず、微笑んだまま扉が開くのを待っていた。
部屋に入ると、空気は少しひんやりしていた。
南向きで日当たりは悪くないが、どこか妙に静まり返っている。
外の車の音や鳥の声が、急に遠くなったような感じがした。
「わあ……広いね、お姉ちゃん!」
純明が部屋の真ん中をくるくると回り始めた。麗華は靴を脱ぎ、ゆっくりと床を踏みしめる。
床は古いフローリングで、奥の隅にはうっすらとしたシミがあった。丸い形をしていて、何かをこぼしたようにも見える。
「ここ、いいね。落ち着くよ」
純明の声が、やけに優しく部屋の中に響いた。
麗華は、不動産屋の説明を聞き流しながら、窓際に立った。
外の景色は、ごく普通の住宅街。なのに、胸の奥に小さなざわめきが残る。
まるで──この部屋が、自分たちを迎え入れてくれているような感覚。
「ここ、純明ちゃん、好き?」
「うん! なんかね……ここ、すごく静かで、僕たちにぴったりな気がするよ」
「そう……私も、そう思うわ」
麗華の声は、少しだけ甘やかだった。
担当の男性は、間取り図を広げながら説明を続ける。
「ちなみに……こちらの部屋は、ちょっと特殊でして。三年前に──」
男性が言いかけた瞬間、麗華はくるりと振り返った。
「大丈夫です。そういうの、気にしませんから」
笑顔だったが、その目は真っ直ぐに彼の言葉を遮っていた。
男性は困惑したように一瞬黙り、咳払いをして別の説明に切り替えた。
内見が終わり、マンションを出たのは午後三時を少し回った頃だった。
麗華はスマホを取り出し、雅子に電話をかけた。
「雅子? うん、今見てきた。……ええ、とっても静かで、日当たりもいいの。純明ちゃんも、気に入ったって」
『……純明くん?一緒なの?』
「ええ、純明ちゃんよ。ね、純明ちゃん?」
麗華は、隣に立つ弟に微笑みかけた。純明は満足そうにうなずいた。
その仕草は、あまりにも自然で、まるでそこに本当にいるかのようだった。
帰り道、夕陽がビルの間から差し込む中、麗華はふと呟いた。
「ねえ、純明ちゃん。……あの部屋、いいかもしれないわね」
「うん。あそこなら、お姉ちゃんと僕、ずっと一緒にいられる気がする」
麗華は、目を細めた。
事故物件──そう呼ばれる部屋には、何かしらの「記憶」が残っているという。
けれど麗華にとっては、そんなことは問題ではない。
むしろ、彼女はそこに**別の意味での“静寂”と“居場所”**を感じ取っていた。
風が吹き抜ける駅前の通りで、麗華と純明は並んで歩いた。
まるで、未来の新しい生活を夢見る姉弟のように──。
鷲麗華は、小さな不動産屋の前で立ち止まった。隣には純明がいて、彼は新しいゲームを思い出したかのような顔で、興味津々に看板を覗き込んでいる。
「ねぇ、お姉ちゃん。今日、雅子さんの引っ越し先、見に行くんだよね?」
「そうよ、純明ちゃん。雅子が授業で来られないから、代わりに内見しておいてほしいって頼まれたの。私、こういうの嫌いじゃないのよね。お部屋を見て、その空気を感じるの」
麗華は、胸の前でスマホを軽く握った。雅子から送られてきた物件情報が画面に表示されている。
駅から徒歩五分、築十五年、ワンルームの賃貸マンション。家賃は学生にも優しい設定だ。だが、ひとつだけ妙な点があった。
備考欄の最後に、**「告知事項あり」**という短い文字。
「ねえ、お姉ちゃん。この“告知事項”って、なぁに?」
「……さあ、何かしらね。多分、大したことじゃないわ」
そう答えながらも、麗華はほんの一瞬、眉をひそめた。
「告知事項あり」──事故物件によく使われる表現だ。誰かが亡くなった、あるいはトラブルがあった。そういう“現実”の影が潜んでいることを、彼女は知っていた。
不動産屋に入り、担当の男性に案内されて物件へ向かう。
昼の陽射しの中を歩いているのに、なぜか空気は少し湿って重い。
純明は、そんなことは気にも留めず、ぴょんぴょんと段差を飛び越えながら楽しそうに先を歩いていた。
「お姉ちゃん、早く早く!」
「はいはい、純明ちゃん。そんなに急がなくても、お部屋は逃げないわ」
マンションは外観こそ古びていたが、清掃は行き届いており、ぱっと見には何の変哲もない建物だった。
エントランスを抜け、エレベーターに乗る。鏡張りの壁に、麗華と純明が並んで映る。
……不動産屋の男性は、鏡の中の麗華だけに視線を向けていた。
「この部屋は、学生さんにも人気なんですよ。お一人なら十分な広さですし」
「ええ、そうですね。私と純明ちゃんにはぴったりです」
「えっ……?」
男性が一瞬、言葉を飲み込んだ。
麗華はその様子に気づかず、微笑んだまま扉が開くのを待っていた。
部屋に入ると、空気は少しひんやりしていた。
南向きで日当たりは悪くないが、どこか妙に静まり返っている。
外の車の音や鳥の声が、急に遠くなったような感じがした。
「わあ……広いね、お姉ちゃん!」
純明が部屋の真ん中をくるくると回り始めた。麗華は靴を脱ぎ、ゆっくりと床を踏みしめる。
床は古いフローリングで、奥の隅にはうっすらとしたシミがあった。丸い形をしていて、何かをこぼしたようにも見える。
「ここ、いいね。落ち着くよ」
純明の声が、やけに優しく部屋の中に響いた。
麗華は、不動産屋の説明を聞き流しながら、窓際に立った。
外の景色は、ごく普通の住宅街。なのに、胸の奥に小さなざわめきが残る。
まるで──この部屋が、自分たちを迎え入れてくれているような感覚。
「ここ、純明ちゃん、好き?」
「うん! なんかね……ここ、すごく静かで、僕たちにぴったりな気がするよ」
「そう……私も、そう思うわ」
麗華の声は、少しだけ甘やかだった。
担当の男性は、間取り図を広げながら説明を続ける。
「ちなみに……こちらの部屋は、ちょっと特殊でして。三年前に──」
男性が言いかけた瞬間、麗華はくるりと振り返った。
「大丈夫です。そういうの、気にしませんから」
笑顔だったが、その目は真っ直ぐに彼の言葉を遮っていた。
男性は困惑したように一瞬黙り、咳払いをして別の説明に切り替えた。
内見が終わり、マンションを出たのは午後三時を少し回った頃だった。
麗華はスマホを取り出し、雅子に電話をかけた。
「雅子? うん、今見てきた。……ええ、とっても静かで、日当たりもいいの。純明ちゃんも、気に入ったって」
『……純明くん?一緒なの?』
「ええ、純明ちゃんよ。ね、純明ちゃん?」
麗華は、隣に立つ弟に微笑みかけた。純明は満足そうにうなずいた。
その仕草は、あまりにも自然で、まるでそこに本当にいるかのようだった。
帰り道、夕陽がビルの間から差し込む中、麗華はふと呟いた。
「ねえ、純明ちゃん。……あの部屋、いいかもしれないわね」
「うん。あそこなら、お姉ちゃんと僕、ずっと一緒にいられる気がする」
麗華は、目を細めた。
事故物件──そう呼ばれる部屋には、何かしらの「記憶」が残っているという。
けれど麗華にとっては、そんなことは問題ではない。
むしろ、彼女はそこに**別の意味での“静寂”と“居場所”**を感じ取っていた。
風が吹き抜ける駅前の通りで、麗華と純明は並んで歩いた。
まるで、未来の新しい生活を夢見る姉弟のように──。
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