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夢の終わりの始まり
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鷲麗華の部屋は、いつも午後になると、まるで時間が止まったように静まり返る。厚いカーテンが外の光をやわらかく遮断し、部屋の空気は一定の温度と湿度を保っていた。壁に掛けられた時計の針だけが、かすかな音を立てて進んでいる。
ベッドの上に横たわった麗華は、薄いブランケットに包まれ、目を閉じた。大学の講義を終えたばかりの午後。彼女にとってこの時間は、現実と空想の境界が曖昧になる、大切な「休息」の時間だった。
その枕元には、純明の絵本が丁寧に積み重ねられている。五年前のままの姿で。
「……純明ちゃん」
小さく名前を呼ぶと、意識がふっと沈んでいった。
最初に見た夢は、曇天の大学の廊下だった。見慣れたはずの構内が、どこかぼんやりと歪んでいる。周囲の学生たちの顔には目がなく、白い仮面のような空白が貼り付いていた。
その中心に――純明がいた。
「ねえ、やめて……やめてよ……!」
純明は教室の隅に追い込まれ、数人の男子学生に囲まれている。彼らの声はまるでラジオの雑音のように歪んでおり、言葉が判別できない。だが、彼らが何をしているのかは明白だった。純明のノートを破り捨て、床に叩きつけ、嘲笑する。
麗華は、廊下の奥からその光景を見ていた。胸の奥に熱が広がる――怒りでも悲しみでもない、もっと乾いた、氷のような感情。
「純明ちゃん……」
呟いた瞬間、夢は切り替わった。
次の夢も大学。違う日、違う教室。だが展開は同じだった。純明はいじめられていた。授業中に机の中にゴミを詰め込まれ、教科書を隠され、何をしても周囲は無関心だった。
麗華は夢の中で、ただ見ているだけではなかった。
彼女は音もなく加害者の背後に立つと、手にしていたハサミを開き、何の躊躇もなく、そのひとりの足に突き立てた。
「……っ!?」
男の口が開かれるが、音は出ない。周囲の仮面の学生たちは、誰ひとり動かない。血が床に広がっていくが、それすら絵の具のように平坦で現実味がなかった。
麗華の顔には、何の感情も浮かんでいなかった。
「純明ちゃんをいじめる人は、いなくなればいいの」
淡々と呟くと、彼女は次の標的に向かった。
その夜、麗華は何度も夢を見た。いじめは形を変えて繰り返され、そのたびに彼女は静かに「対処」した。最初はハサミ、次は階段から突き落とし、さらに次は理科室の薬品。どの夢の中でも、麗華の手際は驚くほど冷静で、淡々としていた。
目を覚ますと、いつもと同じ静寂が部屋を包んでいた。
「夢……だったのね」
自分に言い聞かせるように呟いた。
だが、次の夜も、その次の夜も、夢は続いた。純明が苦しみ、麗華が復讐する。まるで台本が決まっているかのように、繰り返される。
そして――ある夜、麗華が夢の中で最後の加害者を追い詰めたとき。
暗い廊下の突き当たりで、男はうずくまって泣き叫んでいた。
「ごめん、ごめんなさい! もうしない、もう純明には……!」
「遅いのよ」
麗華は無表情で言い放ち、足元に転がっていた重い鉄パイプを拾い上げた。
一撃。二撃。音はなく、血も飛び散らない。ただ、仮面がひび割れ、壁が暗く染まっていくだけ。
それを見届けた瞬間、夢は唐突に終わった。
翌朝。
大学のキャンパスは、いつも通りざわついていた。
しかし、掲示板の前で群がる学生たちの間に、妙な緊張感が漂っている。
「ねえ、聞いた? 三年の男子、階段から落ちて大怪我したんだって」
「しかも、昨日の夜……」
「救急車が来て、大騒ぎだったらしいよ」
断片的な噂が、風に乗って流れてくる。
麗華は、少し離れたベンチに腰かけ、カバンからノートを取り出した。
まるで、何も聞こえていないかのように。
純明が隣に腰を下ろし、にっこりと微笑む。
「お姉ちゃん、昨日の夢……もう終わったんだね」
「ええ。純明ちゃんは、もういじめられない」
麗華は穏やかな声で答えた。
その瞳には、曖昧な境界線が浮かんでいた。夢と現実。そのどちらにも、彼女は確信を持って立っている。
それ以来、麗華はあの夢を一度も見なくなった。
ただ、ニュースの片隅で、階段から転落した男子学生が意識不明の重体だと報じられても――彼女は知らない顔をして、いつものように大学へ向かうだけだった。
午後三時の静寂が戻ってくる。
麗華と純明、二人きりの完璧な世界の中へ。
ベッドの上に横たわった麗華は、薄いブランケットに包まれ、目を閉じた。大学の講義を終えたばかりの午後。彼女にとってこの時間は、現実と空想の境界が曖昧になる、大切な「休息」の時間だった。
その枕元には、純明の絵本が丁寧に積み重ねられている。五年前のままの姿で。
「……純明ちゃん」
小さく名前を呼ぶと、意識がふっと沈んでいった。
最初に見た夢は、曇天の大学の廊下だった。見慣れたはずの構内が、どこかぼんやりと歪んでいる。周囲の学生たちの顔には目がなく、白い仮面のような空白が貼り付いていた。
その中心に――純明がいた。
「ねえ、やめて……やめてよ……!」
純明は教室の隅に追い込まれ、数人の男子学生に囲まれている。彼らの声はまるでラジオの雑音のように歪んでおり、言葉が判別できない。だが、彼らが何をしているのかは明白だった。純明のノートを破り捨て、床に叩きつけ、嘲笑する。
麗華は、廊下の奥からその光景を見ていた。胸の奥に熱が広がる――怒りでも悲しみでもない、もっと乾いた、氷のような感情。
「純明ちゃん……」
呟いた瞬間、夢は切り替わった。
次の夢も大学。違う日、違う教室。だが展開は同じだった。純明はいじめられていた。授業中に机の中にゴミを詰め込まれ、教科書を隠され、何をしても周囲は無関心だった。
麗華は夢の中で、ただ見ているだけではなかった。
彼女は音もなく加害者の背後に立つと、手にしていたハサミを開き、何の躊躇もなく、そのひとりの足に突き立てた。
「……っ!?」
男の口が開かれるが、音は出ない。周囲の仮面の学生たちは、誰ひとり動かない。血が床に広がっていくが、それすら絵の具のように平坦で現実味がなかった。
麗華の顔には、何の感情も浮かんでいなかった。
「純明ちゃんをいじめる人は、いなくなればいいの」
淡々と呟くと、彼女は次の標的に向かった。
その夜、麗華は何度も夢を見た。いじめは形を変えて繰り返され、そのたびに彼女は静かに「対処」した。最初はハサミ、次は階段から突き落とし、さらに次は理科室の薬品。どの夢の中でも、麗華の手際は驚くほど冷静で、淡々としていた。
目を覚ますと、いつもと同じ静寂が部屋を包んでいた。
「夢……だったのね」
自分に言い聞かせるように呟いた。
だが、次の夜も、その次の夜も、夢は続いた。純明が苦しみ、麗華が復讐する。まるで台本が決まっているかのように、繰り返される。
そして――ある夜、麗華が夢の中で最後の加害者を追い詰めたとき。
暗い廊下の突き当たりで、男はうずくまって泣き叫んでいた。
「ごめん、ごめんなさい! もうしない、もう純明には……!」
「遅いのよ」
麗華は無表情で言い放ち、足元に転がっていた重い鉄パイプを拾い上げた。
一撃。二撃。音はなく、血も飛び散らない。ただ、仮面がひび割れ、壁が暗く染まっていくだけ。
それを見届けた瞬間、夢は唐突に終わった。
翌朝。
大学のキャンパスは、いつも通りざわついていた。
しかし、掲示板の前で群がる学生たちの間に、妙な緊張感が漂っている。
「ねえ、聞いた? 三年の男子、階段から落ちて大怪我したんだって」
「しかも、昨日の夜……」
「救急車が来て、大騒ぎだったらしいよ」
断片的な噂が、風に乗って流れてくる。
麗華は、少し離れたベンチに腰かけ、カバンからノートを取り出した。
まるで、何も聞こえていないかのように。
純明が隣に腰を下ろし、にっこりと微笑む。
「お姉ちゃん、昨日の夢……もう終わったんだね」
「ええ。純明ちゃんは、もういじめられない」
麗華は穏やかな声で答えた。
その瞳には、曖昧な境界線が浮かんでいた。夢と現実。そのどちらにも、彼女は確信を持って立っている。
それ以来、麗華はあの夢を一度も見なくなった。
ただ、ニュースの片隅で、階段から転落した男子学生が意識不明の重体だと報じられても――彼女は知らない顔をして、いつものように大学へ向かうだけだった。
午後三時の静寂が戻ってくる。
麗華と純明、二人きりの完璧な世界の中へ。
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