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回想
10年前のこと
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「化け物が出たんですって」
窓口のお姉さんが愉快そうに笑った。笑い声は病院の白い壁にぶつかり、弾んで響き渡った。
「化け物が出たぁ?」
入院病棟の一階受付で、父が裏返った声で返す。
「清水さん、声が大きいです」
「いや、そっちこそ」
「いいですか、院内はお静かに」
お姉さんは父に面会カードを押しつけるように手渡した。それを慌てて受け取り、父が申し訳なさそうに頭をかいた。
「すみません」
付き添いで来ていた清水良明は、父の動揺した横顔が面白くて、二人の話に聞き耳を立てていた。壁の時計を見たら、あと少しで面会の時間だった。
「良明、そこに座っていなさい」
父が近くにある椅子を指差す。
「はい」
良明は椅子に腰を下ろし、二人の会話に耳を澄ませた。
「で、その化け物ってやつ、どうせ見間違いだろう」
「本当です、昨夜三階でそれを見たって言う子が大騒ぎしてたんですって、それもただの化け物じゃないんです」
父の顔が暗くなった。
三階には一般病床がある。昨年から母が肺を患っていて一般病床の大部屋に入院している。
良明は時計を見上げた。針の動きが遅い気がした。
「なんだよそれ」
父が疑わしそうに言う。
「足音のしない、とてもきれいな男性だって、ハリウッドスターに似たイケメンだって言ってましたよ」
お姉さんは頬に手を当てて目を細める。
「当院は古い建物ですから幽霊が出てもおかしくないんですよ、でもね、そんなにきれいなら私も見たかったな」
お姉さんの声はふわふわとしていた。
「なんだ人間か、ただの侵入者じゃないか」
「だから言ったでしょう、足音がしないの、それも三階の窓から消えたんです」
「運動神経がいいだけだろう」
父は笑い飛ばすように言い切った。
お姉さんは「それならいいんですけどね」と面白くなさそうに話を終える。
良明は話に飽きてしまい、窓の外に視線を移す。タクシーから出てきたおじいちゃんが、入り口の電動ドアを開ける。良明と目が合うと、おじいちゃんは持っていた杖で良明の視線を蹴散らした。良明は反射的に目をそらした。
『人をじろじろと見たらいけません』
と母に言われた言葉が、遅れてよみがえった。胸の奥がちくりと痛む。
おじいちゃんが歩いた床に、桜の花びらが落ちていた。昨日は夜更け過ぎまで雨が降っていたから、桜が散ったのだろう。入り口の向こうに視線を戻したら、視界いっぱいに四月のとてもよく晴れた空が広がっている。
「良明くんは幾つになるの?」
不意にお姉さんが良明に話しかけてくる。良明はお姉さんを見て笑いかけた。
「九歳です、七月で十歳になります」
「そう、お誕生日が楽しみね」
「はい、お母さんを守れるような大人になります」
お姉さんは、良明の返しに満足したのか、目尻の皺を深くした。
時計の針が時刻を告げる。と同時に良明は席から立ち上がった。
「お父さん、時間だよ」
「ああ」
良明は父の代わりに、着替えの入った鞄と差し入れの紙袋を持った。両手のふさがった良明の後ろを父がのろのろと付いてくる。そんな父がじれたっくてしようがない。
こういう時に限ってエレベーターは来ない。
「階段で行く」
良明は我先に駆け出す。
「良明、病院では走るな」
「お父さん、病院では静かにしなくちゃ駄目だって」
父に軽口を叩いて、階段をのぼる。
――三階の窓から消えたって。
お姉さんの話を否定しようにも、勝手に良明の体温は上がり、心臓がうるさいくらいに音を鳴らす。
三階の廊下を駆け足で進んだ。
「お母さん……?」
大部屋の前で、複数の看護師と警察官の姿があった。普段とは違う様子に、良明の手のひらに汗がにじんだ。
良明は彼らの足元から室内をのぞいた。
清潔なシーツに、消毒液が染みついた壁に、ワックスで磨かれた床に、あちらこちらに赤黒い色が付いている。ベッドで眠る人たちは仰向けの状態で、天井に向かって口を大きく開けている。母のいる窓際のベッドを見たら、病室の彼らと同じ体勢をしていた。顔は見えない。
大人たちの悲鳴と足音が飛び交う。
良明が病室に顔を出したら必ず菓子をくれるおばあちゃんが、クロスワードに夢中なおじいちゃんが、花束を持っていくと代わりに生けてくれるお兄さんが変わり果てた姿をしていた。
膝が震えた。恐怖に持っていかれそうだ。
大人達の長い足の間から、恐る恐る顔を突き出す。だが遅れてやってきた父に抱きかかえられたせいで、母の顔を見られない。
「お母さんは? ねぇ」
良明はもう一度繰り返した。
「お父さん、お母さんは?」
父は口を閉ざしたまま良明を抱き締めた。ただ顔を真っ赤にして泣き崩れるだけだ。良明の小さな体が軋むほどに父の抱擁は強かった。
母と再会できた。その姿は遺灰というもので、良明はこれが母だと言われても信じられなかった。
それでも葬儀の場で、
「お母さんは、血を抜かれていた」
と、父が感情の見えない声で言うものだから、良明は火葬場で泣き叫んだ。自分の泣き声が頭に響く。心臓がうるさい。皮膚の下で血液が騒ぐ。
「病気だったの? 血がなくなる病気?」
父は一拍だけ黙り、目を伏せた。
「その話はするな、今はたくさん泣きなさい、お前はそれで忘れるんだ」
父は良明の頭をくしゃくしゃとさせた。
泣き止んでも悲しみは晴れない。そうと分かってはいても、母の異常な死に方に取り憑かれるようになった。
血がない。ならば、吸血鬼だ。
――子供みたいな結論に、むしろ救われた。
これは夢だ、と言い聞かせないと壊れそうだった。
日がたっても前を向けない。事あるごとに母の不在を嘆くくせに、腹は空くし眠くなってくる。
母は天国に行ったのだろうか。そうだったら父と自分が救われる。そうだといいな。
七月の朝、玄関に薔薇が一輪だけ置かれていた。棘は抜かれている。淡い花弁の先だけ、黒く濡れている。
鼻を近づけると、甘い匂いに混じって鉄の味がした。血が指に触れた。それは嫌悪よりも先に、胸を甘くしびれさせた。
背後で、小さく布が擦れる音がした。振り返ると、そこには誰もいない。
その日は良明の十歳の誕生日だった。
窓口のお姉さんが愉快そうに笑った。笑い声は病院の白い壁にぶつかり、弾んで響き渡った。
「化け物が出たぁ?」
入院病棟の一階受付で、父が裏返った声で返す。
「清水さん、声が大きいです」
「いや、そっちこそ」
「いいですか、院内はお静かに」
お姉さんは父に面会カードを押しつけるように手渡した。それを慌てて受け取り、父が申し訳なさそうに頭をかいた。
「すみません」
付き添いで来ていた清水良明は、父の動揺した横顔が面白くて、二人の話に聞き耳を立てていた。壁の時計を見たら、あと少しで面会の時間だった。
「良明、そこに座っていなさい」
父が近くにある椅子を指差す。
「はい」
良明は椅子に腰を下ろし、二人の会話に耳を澄ませた。
「で、その化け物ってやつ、どうせ見間違いだろう」
「本当です、昨夜三階でそれを見たって言う子が大騒ぎしてたんですって、それもただの化け物じゃないんです」
父の顔が暗くなった。
三階には一般病床がある。昨年から母が肺を患っていて一般病床の大部屋に入院している。
良明は時計を見上げた。針の動きが遅い気がした。
「なんだよそれ」
父が疑わしそうに言う。
「足音のしない、とてもきれいな男性だって、ハリウッドスターに似たイケメンだって言ってましたよ」
お姉さんは頬に手を当てて目を細める。
「当院は古い建物ですから幽霊が出てもおかしくないんですよ、でもね、そんなにきれいなら私も見たかったな」
お姉さんの声はふわふわとしていた。
「なんだ人間か、ただの侵入者じゃないか」
「だから言ったでしょう、足音がしないの、それも三階の窓から消えたんです」
「運動神経がいいだけだろう」
父は笑い飛ばすように言い切った。
お姉さんは「それならいいんですけどね」と面白くなさそうに話を終える。
良明は話に飽きてしまい、窓の外に視線を移す。タクシーから出てきたおじいちゃんが、入り口の電動ドアを開ける。良明と目が合うと、おじいちゃんは持っていた杖で良明の視線を蹴散らした。良明は反射的に目をそらした。
『人をじろじろと見たらいけません』
と母に言われた言葉が、遅れてよみがえった。胸の奥がちくりと痛む。
おじいちゃんが歩いた床に、桜の花びらが落ちていた。昨日は夜更け過ぎまで雨が降っていたから、桜が散ったのだろう。入り口の向こうに視線を戻したら、視界いっぱいに四月のとてもよく晴れた空が広がっている。
「良明くんは幾つになるの?」
不意にお姉さんが良明に話しかけてくる。良明はお姉さんを見て笑いかけた。
「九歳です、七月で十歳になります」
「そう、お誕生日が楽しみね」
「はい、お母さんを守れるような大人になります」
お姉さんは、良明の返しに満足したのか、目尻の皺を深くした。
時計の針が時刻を告げる。と同時に良明は席から立ち上がった。
「お父さん、時間だよ」
「ああ」
良明は父の代わりに、着替えの入った鞄と差し入れの紙袋を持った。両手のふさがった良明の後ろを父がのろのろと付いてくる。そんな父がじれたっくてしようがない。
こういう時に限ってエレベーターは来ない。
「階段で行く」
良明は我先に駆け出す。
「良明、病院では走るな」
「お父さん、病院では静かにしなくちゃ駄目だって」
父に軽口を叩いて、階段をのぼる。
――三階の窓から消えたって。
お姉さんの話を否定しようにも、勝手に良明の体温は上がり、心臓がうるさいくらいに音を鳴らす。
三階の廊下を駆け足で進んだ。
「お母さん……?」
大部屋の前で、複数の看護師と警察官の姿があった。普段とは違う様子に、良明の手のひらに汗がにじんだ。
良明は彼らの足元から室内をのぞいた。
清潔なシーツに、消毒液が染みついた壁に、ワックスで磨かれた床に、あちらこちらに赤黒い色が付いている。ベッドで眠る人たちは仰向けの状態で、天井に向かって口を大きく開けている。母のいる窓際のベッドを見たら、病室の彼らと同じ体勢をしていた。顔は見えない。
大人たちの悲鳴と足音が飛び交う。
良明が病室に顔を出したら必ず菓子をくれるおばあちゃんが、クロスワードに夢中なおじいちゃんが、花束を持っていくと代わりに生けてくれるお兄さんが変わり果てた姿をしていた。
膝が震えた。恐怖に持っていかれそうだ。
大人達の長い足の間から、恐る恐る顔を突き出す。だが遅れてやってきた父に抱きかかえられたせいで、母の顔を見られない。
「お母さんは? ねぇ」
良明はもう一度繰り返した。
「お父さん、お母さんは?」
父は口を閉ざしたまま良明を抱き締めた。ただ顔を真っ赤にして泣き崩れるだけだ。良明の小さな体が軋むほどに父の抱擁は強かった。
母と再会できた。その姿は遺灰というもので、良明はこれが母だと言われても信じられなかった。
それでも葬儀の場で、
「お母さんは、血を抜かれていた」
と、父が感情の見えない声で言うものだから、良明は火葬場で泣き叫んだ。自分の泣き声が頭に響く。心臓がうるさい。皮膚の下で血液が騒ぐ。
「病気だったの? 血がなくなる病気?」
父は一拍だけ黙り、目を伏せた。
「その話はするな、今はたくさん泣きなさい、お前はそれで忘れるんだ」
父は良明の頭をくしゃくしゃとさせた。
泣き止んでも悲しみは晴れない。そうと分かってはいても、母の異常な死に方に取り憑かれるようになった。
血がない。ならば、吸血鬼だ。
――子供みたいな結論に、むしろ救われた。
これは夢だ、と言い聞かせないと壊れそうだった。
日がたっても前を向けない。事あるごとに母の不在を嘆くくせに、腹は空くし眠くなってくる。
母は天国に行ったのだろうか。そうだったら父と自分が救われる。そうだといいな。
七月の朝、玄関に薔薇が一輪だけ置かれていた。棘は抜かれている。淡い花弁の先だけ、黒く濡れている。
鼻を近づけると、甘い匂いに混じって鉄の味がした。血が指に触れた。それは嫌悪よりも先に、胸を甘くしびれさせた。
背後で、小さく布が擦れる音がした。振り返ると、そこには誰もいない。
その日は良明の十歳の誕生日だった。
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