夜人血契

佐治尚実

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第一章

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 大学二年生の四月。食堂棟二階のカフェテリアで、良明は次の講義までの空き時間を潰していた。午後の店内は空き始め、窓際の席にいるのは自分くらいだ。

 四月は、母が亡くなった月だった。十九になっても、胸の底はよどんで浮上できずにいる。

 なんとなく構内を見下ろす。重い雲の切れ目から光が差し、下では色とりどりの学生が行き交っていた。強い雨風のあと、道は散った桜で薄くくすみ、開け放たれた窓からは濡れた匂いが運ばれてくる。浅く吸い込んだのに、匂いが妙に残った。

 窓ガラスに映る自分の顔へ視線が戻る。白い肌のせいで幼く見える。唇だけが血を落としたみたいに赤かった。――それが、亡き母を思わせるから嫌いじゃない。

 読みかけの小説を片手に、冷めたコーヒーを口にする。酸味が舌に残った、その瞬間だった。

 誰かが、当然のように良明のテーブルに腰を下ろした。
 良明の肩がびくりと跳ね、反射的に顔を上げる。

「渋い選書だね」

 良明は目の前の男を見て、息を飲んだ。ショーレム・ヴィルケ・ヘーゲル。構内では有名な、あの男が、いま自分のテーブルにいる。

「この日焼けとかび臭さ……古本かな」

 ショーレムは頬杖をつき、良明の手元をのぞき込む。金髪の前髪が揺れた。黒いシャツの襟元は今日もきちんと閉じられている。ブラックデニムに包まれた長い足が、テーブルからはみ出していた。

 息が詰まるほど美しい。透き通るほどの青白い肌に、凜々しい眉と男らしい骨格が目に入る。
 視線が、口元に落ちる。薄い唇だけが艶めき、目を逸らしたいのに逸らせない。切れ長の二重の目は、まばたきひとつで危うさをこぼした。百八十五センチのがっしりとした体格が、その危うさを逃げ場のないものにしている。

「君、清水良明くんだよね」

 突然、自分の名を呼ばれ、良明は数回まばたきをした。喉が粘りつく。

「はい、失礼ですけど、あなたは」

 知らないふりをした。

「俺はショーレム。フルネームは長いから、またあとで」

 淡々と言って、彼は手を差し出した。握手を求める仕草は紳士的なのに、断れない圧がある。
 良明が手を出すと、握り返された手のひらがぞくりとするほど冷たかった。血が引く、という言葉がそのまま当てはまる温度だった。

「よろしく」

 ショーレムはそれだけ言って、手を離した。

 ――春のカフェテリアで、なぜこんなに冷たい。

 ひんやりとした感触が皮膚の奥に残り、良明は指を握り込む。

「はぁ、どうも」

 視線を落としたいのに、落とせない。ショーレムがここに座っているだけで、周囲の音が遠のく気がした。


 一年目のとき、共通教養科目の授業でショーレムを何度ともなく見掛けていた。美しい男女を侍らせて、よく笑う男だ。彼のグループは大学の頂点にいて、人を小馬鹿にする集まりでもある。下界人の良明は、リーダー格の彼に嫌悪感を抱いていた。
 ショーレムは一年中黒い服を着ている。夏でも日傘と長袖らしい。そのせいか、大学では陰で「暗黒王子」と呼ばれている。
 それでも、集団に紛れていても彼だけは無視できなかった。印象は悪いままだ。――なのに、見掛ければ目が勝手に追ってしまう。美しさだけは否定できない。


 テーブルの下でショーレムの革靴だろう硬いつま先が、良明のスニーカーを小突いた。

「その主人公はサディストだ。あんまり読み込むと堕落するよ」

 ショーレムのかすれた低い声に、良明は言い返そうとした。

 それなのに、伏せた目元を見た途端、何を言えばいいのか分からなくなる。胸がいっぱいになった。

「……」
「どこまで読んだの」

 良明は手元に視線を戻し、人差し指でページ番号を指さす。

「いいシーンじゃないか。悪い、読書の邪魔をしたね」

 いつも通りショーレムはふんぞり返っている。それでも良明は、目の前の彼にどこか紳士的な印象を抱いた。言葉遣いや態度から、容貌に見合う品格を見て取れてしまう。

「確かに猥雑な内容だけれど、そこには退廃的な美学があります」

 本を閉じて答えたら、ショーレムが口を閉ざした。
 音もない静寂が訪れる。周りの椅子を引き摺る音も、咀嚼音も、笑い声も、遠い。
 ショーレムの気配が近くなった気がして、良明は恐る恐る視線を上げた。彼がこちらを凝視しながら顔を近づけてくる。いま自分だけが、彼の浅い呼吸を至近距離で感じている。
 良明の唇がわななく。
 美しい顔立ちや濃い色の瞳、薄い唇の動きにすら目を奪われた。人をじろじろと見たら駄目なのに、こんなにも引き付けられるのは初めてだった。
 わざと窓の外に視線をそらす。不意に頬を撫でられた。

「なっ、なに」

 ショーレムの手を払った。

「君は自分の魅力に気が付いていない」

 ショーレムの目力があまりに強いから、散った桜のことや、ほこり臭い雨のことなんかに注意を向けている場合ではなかった。

「なにを言ってるんですか」

 このまま黙っていたら食われると思い、わざと声を強めた。
 ショーレムはうれしそうに口角をきゅっと上げた。

「さあ、口説いてるんだよ」
 良明のコーヒーカップに唇を当て、ショーレムは不敵な笑みを浮かべた。

 さっき握った手の冷えが、いまになって指の骨まで戻ってきた。

 一瞬、ショーレムの黒い瞳が赤く発光したように見える。
 その拍子に、ドクンと心臓が跳ねた。頭の中で、白い火花が散った。
 言葉ひとつで心を動かされたのを、鮮やかに感じる。慣れない感情だ。ショーレムに惹かれ始めていることも、鼓動が激しく鳴り始めていることも、すべてが不安になってくる。

 それからどうやって一日を過ごしたのか、よく思い出せない。

 帰り道、濡れた桜の絨毯を踏みしめた靴のつま先が汚れていた。桜のせいではない。ショーレムの革靴が付けた跡だった。まるで動物のマーキングみたいだ、と寒気がしたことだけは覚えていた。
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