夜人血契

佐治尚実

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第一章

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 間を置かずにショーレムと顔を合わせることになった。文学部の良明が普通に大学生活を送っていれば、経済学部の彼とは会わない。そのはずだった。
 会う頻度が多すぎた。疑問を抱く前に、良明の神経が音を上げる。
 遠ざけようとしても無駄だった。構内の目立たない一角にいても、駅の人混みにいても、ショーレムはまるで天から俯瞰するように、良明をたやすく見つけ出す。

 どうやら彼は、勘の鋭い男なのだろう。

 良明が同じ講義を取る友人と話していたら、突然ショーレムが現れた。肩を抱くように腕を回してきたショーレムが、その友人に笑いかけた。

「お邪魔したかな」
「……えっと」

 良明が言い淀んでいたら、

「早く帰ろうよ」

 と、ショーレムが耳元でささやいてきた。
 良明が無視すると、ショーレムは何度もそれを繰り返す。テーブルの下で手を繋ぐわけでもなく、ただ瞬間的に皮膚をこすれ合わせ、指の骨をコツンと鳴らすだけだ。それでも、身体の奥が嫌なふうに反応した。

 どうか平穏な日常を壊さないでほしい。それだけのことなのに、ショーレムは良明を放っておいてくれない。新しい玩具を見つけたにしては、自分のどこに遊び甲斐を感じたのかさっぱり分からない。



 五月雨の夕方、良明は大学の最寄り駅に向かい、ほこりと汗の混じる改札を通り過ぎようとしていた。すると、背後の気配が濃くなる。

「良明、いま帰り?」

 背後から弾んだ声がして、腕を掴まれた。
 振り返るとショーレムがいて、人混みの外へ引き出される。次の瞬間には、当然のように肩を組んできた。
 体重が、逃げ道を塞ぐみたいにのしかかる。大男で、筋力もある。そうされると困るのが、どうして分からないのだろう。

 良明はあからさまに顔をしかめた。

「そうですけど、ショーレムさんが電車で帰るなんて、初めて知りました」

 学生駐車場の派手なスポーツカーは、何度も見たことがある。車通学の男が、庶民の自分に何用だ。

「良明と一緒に帰ろうかと思ってね」
「お断りします」

 心底嫌で、言下げんかに断った。
 それでもショーレムは、良明が拒絶すればするほど顔色を明るくさせた。人に敵意を向けられるのが新鮮に映ったのか、喉を鳴らして笑う。

「ショーレム、電車が来るよ」

 背後から声が割って入った。
 振り返ると、大嶋朱音おおしまあかねが立っていた。可愛らしい顔立ちの美男で、良明とは高校が同じだ。こちらをにらむ鋭い目に、良明は唐突に羞恥心がこみ上げる。

 ショーレムの取り巻きも、遠巻きに様子をうかがっていた。相手が良明だと知ると、底の知れない笑みを貼りつけたまま寄ってくる。

「ショーレム、早く行こうぜ」
「ブランドのパーティーに遅れるよ」

 パーティー。聞き慣れない単語に、良明は目をしばたたいた。

「パーティーだって。馬鹿みたいだろう」

 ショーレムは友人に聞こえないよう、良明の耳元でささやく。吐息がくすぐったくて、とっさに耳をふさいだ。人波の音に紛れて、「可愛い」と言ったのが聞こえた気がした。

「表参道のカフェで予約もしてあるんだぜ」
「インスタに上げないと」

 彼らは揶揄に気づかないまま、なおもショーレムの気を引こうとする。

「俺、行かないって言ったはずだよね」

 ショーレムは笑みを消さずに言った。

「招待状のコードは送ってある。俺のことは放っておいて、カフェも楽しめばいい。俺は良明に用があるから、失礼するよ」

 ショーレムが彼らをあしらう。

「そんなやつにショーレムが?」

 大嶋が吐き捨てる。

「ありえない」

 爆笑が起きた。

 ショーレムの表情が、すっと険しくなる。

「良明を侮辱するな」

 彼らをにらみ付けたショーレムは、全身で怒りを示した。
 良明の肩が、びくりと揺れた。

「大きな声を出して、ごめんね」

 そう言って、彼は一度だけ良明を見た。肩を抱く力が、ふっと抜けた。

「いえ……」

 良明はショーレムの横顔を見た。どこで気に入られたのか知らない。それでも絆されそうになる。――あのとき誰も、母を守ってくれなかった。だから余計に、横顔が眩しい。

「ごめんって、先に行ってるから」

 彼らは蜘蛛の子を散らす勢いで、改札に吸い込まれていった。

 良明は、自分とショーレムの周りに人だかりができていたことを知る。人の注目を浴びるのが苦手な良明は、鞄を持つ手に力がこもった。

 視線を地面に落としていたら、ショーレムが良明の手を引いて駅を出た。そのまま大学の方へ引っ張られ、気づけば駐車スペースで黒の車に乗せられていた。車内の革の匂いに、良明はめまいがする。逃げ道の気配がない。
 大人しく助手席でシートベルトを締めたら、エンジンをかけたショーレムに頭を撫でられた。その手つきがあまりに優しかったから、不覚にも目尻が熱くなる。
 ショーレムは馬のエンブレムがはめ込まれたハンドルを握り、車を静かに滑らせて車道に出した。

 高速に乗ってから、良明は異変を感じた。

「どこに向かっているんですか」

 ショーレムの運転はうまい。それなのに良明は不安からシートベルトを握っていた。

「良明の家だよ」

 どうして自分の自宅を知っているのだ。どうして自分のように目立たない男に構うのか。どこから聞いたらいいのか考えるだけで、頭の回線がごちゃごちゃとする。
 良明は言葉を探して、喉の奥がつかえた。それでも、ショーレム相手にいつまでも臆するのは駄目な気がして、シートベルトから手を離した。

「ストーカーなんですか」

 良明は直球で尋ねた。
 するとショーレムは大きく口を開けてアハハと高笑いした。肩を揺らし、喉を鳴らす。良明の反応をおもしろがっているのだろう。
 その笑い声は静まりかえる車中を飛び、澄み切った響きだけが残った。

 今日最後の太陽が、長いまつげに縁どられた目に反射する。良明は、彼の横顔から目を離せなかった。

「そう見られてもしようがないか」

 ショーレムはサイドウィンドウを下げて肘をかけた。次に思い出したように、引きつった笑い声が空気とともに吹き抜けていく。

「笑うなんてひどいです」

 良明はからからに枯れた喉を振り絞る。
 不気味なことにショーレムの機嫌が急上昇した。もっとオブラートに包めば良かった。彼を喜ばせてどうするのだ。

「悪い、そんなふうに声を落とさないでよ。もうふざけないから」

 ショーレムは前を見ながら小さく頭を下げ、良明の頭を撫でた。彼の横顔は、大切にしているはずのプライドを捨てたあとの観念と愛おしさが入り混じった顔をしていた。良明には、そう見えた。

「ふざけていたんですか」

 良明は感情の赴くままに口を開く。この人に売り言葉に買い言葉で虚勢を張っても疲れるだけなのに、つい息を吐くように掴みかかってしまう。

「半分はそうかも知れないけれど、残りは違うよ」
「残りって」

 高速を流しながらショーレムは言った。

「三月の終わりにね、俺の父が良明のお父様に仕事でお世話になったんだ。そのとき俺も手伝いで同席していてさ。父親同士の会話で、君の家の場所を耳にした」

 だそうで、その縁もあって声をかけたらしい。けれど、たとえ親が仕事で繋がっていても、その息子に興味を持つだろうか。

「そうなんですか、父がお世話になっています」

 父の仕事のためを思い、良明は形だけ頭を下げた。

「こちらこそ」

 ショーレムも軽く会釈した。
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